寺山修司は日本の戦後、昭和の高度成長期において、映像、演劇(戯曲)、写真、文学(俳句・短歌・詩・散文)、競馬評論・作詞等のサブカルチャーに至る各分野を越え、多岐にわたって活躍した天才であった。しかしながら筆者は、当時の寺山の通俗性が性に合わず、彼の作品を実際のところ見たり読んだりしなかった。ただ唯一の例外が短歌で、寺山の短歌集は何度も読み返したものだった。寺山の短歌を初めて知ったのは、学生時代、吉本隆明の『言語にとって美とは何か』に引用された、
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
の一首からであった。難解極まる同書にあって、この引用短歌だけは奇妙に記憶に残り、その後、沖積舎版の『寺山修司全歌集』を読むに至った経緯がある。ところで、このような経験は筆者だけにとどまらず、“『言語にとって美とは何か』は理解できず頭の中には何も残っていないけれど、寺山の短歌だけは覚えているよ”と語る同年配者が複数存在することを後年知った。同書の著者・吉本隆明の本意ではないかもしれないけれど、寺山の短歌こそが、言語にとって美だったのである。
さて、寺山修司のよき理解者でない筆者は、寺山の創作活動の出発点は短歌であり、短歌創作の限界を感じた寺山が、以降、戯曲、映像、散文…へと創作の土俵を変えたと理解していたものだった。ところが、ついこの間、没後30年(1983年5月4日没)の命日近くの新聞記事から、寺山の俳句作品の存在を知った次第である。
寺山の俳句創作活動は、15歳から18歳までの3年間だった(『手稿』) という。本書は、その間の句集(▽草の昼食、▽幼年時代、▽左手の古典、▽鬼火の人、▽望郷書店、▽だまし絵、▽狼少年、▽憑依、▽少年探偵団)を集成したもの。本題は「少年探偵団」の中のもの。この年代は青春期しかも青春前期にあたり、人はみな多感である。寺山の場合、この時期の俳句創作に彼の生涯にわたるテーマを凝縮させていたようにも思える。
生涯にわたるテーマとは何かと言えば、一つは家族、とりわけ父及び母への思いであろう。そして父母への思いと連携して、「母」への屈折した感情と「母」が代理する生まれ故郷にまつわる土俗的、民俗的、土着的世界への関心がすでにその時期に向けられていたことがうかがえる。母への鬱屈とした思いを託した句は数多い。
暗室より水の音する母の情事
母恋し鍛冶屋にあかき鉄仮面
母とわが髪からみあう秋の櫛
この思いは、後年、カルメン・マキが歌って大ヒットとなった歌謡曲「時には母のない子のように」へと引き継がれている。
時には母の ない子のように
だまって海を みつめていたい
時には母の ない子のように
ひとりで旅に 出てみたい
だけど心は すぐかわる
母のない子に なったなら
だれにも愛を 話せない
そして、弘前警察署勤務から徴兵されセレベス島で病戦死した「父」への尊敬と思慕の思いである。
父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し
癌すすむ父や銅版画の寺院
父と呼びたき番人が住む林檎園
やはり「父」は、後年、フォーククルセダーズが歌った和製フォークソング「戦争は知らない」の歌詞となって引き継がれている。
戦争の日を何も知らない
だけど私に父はいない
父を想えばああ荒野に
赤い夕陽が夕陽が沈む
いくさで死んだ悲しい父さん
私はあなたの娘です
二十年後のこの故郷で
明日お嫁にお嫁に行くの
見ていて下さいはるかな父さん
いわし雲とぶ空の下
いくさ知らずに二十才になって
嫁いで母に母になるの
いわし雲とぶ空の下
いくさ知らずに二十才になって
嫁いで母に母になるの
だが、「父」は、病戦死した父への思慕とは方向性を異にして、「父」が代理するグローバルなものへの関心に変質したようだ。寺山の場合、それは“モダニズム”と“異界”に分岐している。
ランボーを五行とびこす恋猫や
春の鳩鉄路にはずむレーニン祭
次の頁に冬来たりなばダンテ閉ず
モダニズムはそのとおりであるが、“異界”という表現には注釈・説明が必要だろう。それを端的に言えば、ヨーロッパの中世のイメージのような、西欧の暗部に潜む非合理的・悪魔的・黒魔術的な傾向への憧憬である。モダンの基層にある闇世界を寺山はすでにこの時期、その内部に抱え込んでいたのかもしれない。
犬の屍を犬がはこびてクリスマス
酢を舐める神父毛深し蟹料理
秋は神学ピアノのかげに人さらい
もちろん、青春期にありがちな、まっすぐな純粋な言葉の選択もある。それもまた寺山の生涯にわたる傾向の一つだった。
ラグビーの頬傷ほてる海見ては