2014年3月31日月曜日

桜(ソメイヨシノ)満開




@Yanaka

桜満開

桜(ソメイヨシノ)が満開だ。

谷中霊園

2014年3月30日日曜日

ネコケツ

ハムスターの後ろ姿を撮影した写真集=ハムケツが話題だ。

うちの猫で撮ってみた。

2014年3月28日金曜日

3月末の桜

(1)長明寺(谷中)

枝垂桜
(2)本行寺(西日暮里)
枝垂桜

同上
(3)全生庵(谷中)
ソメイヨシノ

同上

2014年3月16日日曜日

Cafe Gallery 幻

千駄木の路地裏奥にそのカフェはある。

カウンターに並んだ不思議な酒類

カフェオレをいただく

商品棚

同上

奇抜な商品数々

照明はシャンデリア


奇妙な小物たち
 
同上
@Sendagi

野依良治は理研理事長を辞任せよ

万能細胞と言われる「STAP(スタップ)細胞」の論文に対する疑惑をめぐり、理化学研究所の調査委員会は14日、中間報告をした。同報告に係る記者会見に出席した理研幹部は、野依良治理事長、川合真紀理事(研究担当)、米倉実理事(コンプライアンス担当)、竹市雅俊・発生・再生科学総合研究センター長、石井俊輔・研究論文の疑義に関する調査委員会委員長。

理研中間報告記者会見に違和感

この会見をTV映像で眺めていて違和感を覚えたのは筆者だけだろうか。壇上に上がった理研幹部たちに当事者意識が感じられないのだ。今回の疑惑はおそらく不祥事だろう。企業であれば、社員が不祥事を起こし世間を騒がせたのだ。医療に係る案件であるだけに、その実現に期待をした患者さんも多かったのではないか。科学に対する信頼を損ねたという指摘はその通りだと思う。

であるならば、理事長以下幹部たちは、不祥事を起こしてしまった自らが統括する組織=理研の管理体制・甘さ、不備、管理能力不足等、いわゆるガバナンスの欠如を反省すべきではないのか。しかるに壇上の幹部たちは、他人事のようなのだ。理事長も冒頭では謝罪をしたものの、会見が進むうちにこの案件の当事者(小保方晴子)だけに責任があるかのような発言を繰り返す。挙句は、小保方氏を“未熟な研究者”と一刀両断する始末だ。

そうであるのならば、そのような未熟者をユニットリーダーに据え、しかもその未熟者が行った研究結果を理研内部で検証もせず世に出した責任はどこにあるのか。小保方が勝手にやって勝手に発表したとでも言うつもりか。組織のトップである野依良治理事長以下、会見に臨んだ理研幹部にあるのではないのか。この中間報告で欠落しているのは、理研という組織の未熟さの検証ではないのか。そのことを欠落したまま最終報告書を作成し発表したとしても、世間に対しては説得力をもたない。理研理事長はノーベル賞受賞者だというから頭はいいのだろうが、組織を統括する能力や問題解決能力はない。あるのは権威を背景とした自己保身だけだ。野依良治は理事長を辞任すべきだ。

なぜ、理研では研究者倫理が遵守されなかったのか

会見を仕切った幹部の態度もいかがわしい。そもそもコンプライアンスというのは、組織が法令を順守するという意味だ。今回の案件は理研という組織が法令とはいえないが、少なくとも研究者としての倫理を著しく逸脱した行為の結果だろう。だからまずもって反省すべきは、自らが担当する理研のコンプライアンスのあり方、その不備、甘さだろう。中間報告という限界はあっても、自らの担当業務の怠慢を棚に上げて、あたかも第三者委員会のような態度で中間報告を行うその精神構造が理解できない。今回の案件が決着した時点で、コンプライアンス担当責任者以下、幹部も職を辞すのが妥当だ。

最終報告作成においては野依以下、理研幹部をヒアリングせよ

理研がなぜ、「STAP(スタップ)細胞」の論文の発表を急いだのか。その背景をこそ明らかにしなければならない。中間報告ではその検証の方向性が、小保方の論文の疑惑解明に偏っている。それはそれで仕方がない。まず疑惑の真相を検証することが先だろう。それが明らかになった時点で、検証の方向は理研の組織のあり方、理研(の職員=研究者)がなぜ、このような未熟な研究発表を行ってしまったのか――に向かわなければならない。

今度は、野依良治理事長以下、壇上に上がった、川合真紀理事(研究担当)、米倉実理事(コンプライアンス担当)、竹市雅俊・発生・再生科学総合研究センター長、石井俊輔・研究論文の疑義に関する調査委員会委員長がヒアリングの対象となる。 (文中敬称略)

2014年3月11日火曜日

We remember 3.11.

3.11から3年が経った。

早い。

メディアはその特集を集中的に流している。

TV映像でみるかぎり、2014年3月11日の被災地の風景は、

筆者が訪れた2011年7月、2012年2月と基本的に変わらないようにみえる。

復興は遅れているのだ。

被災地の復興ばかりではない。

原発事故も依然として終息のめどがたっていない。

にもかかわらず、日本人の関心は「東京オリンピック」であったり、

「アベノミックス」であったりと、原発事故や被災地復興とかけ離れている。

「復興は遅く、忘却は早い」という被災者の言葉が重い。

石巻(2012/02/04)




2014年3月9日日曜日

麻原彰晃、亀田家、原発、佐村河内守

 「ゴーストライター事件」の当事者・佐村河内守が謝罪会見を行った。会見のTV報道をみていて、“いつか見た光景”を思い出した。1995年、あの地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教幹部・上祐史裕らの会見風景だった。饒舌でありながら空疎な言語空間、責任逃れ、噛みあわない言説、芝居がかった身振り手振り、あたかも真実を語るかのような「資料」の提示・・・。マスメディアが巨大化した虚像の主役と、虚像を偶像化したメディア関係者という脇役が共作する会見舞台。TV映像を見ていると、メディア業界という業界は、まったく反省をしない従業者で構成されているそれなのだなとつくづく感じた次第だ。

オウム真理教及び麻原彰晃は、このたびの佐村河内とよく似た存在だった。前者は当時、「本物の教団・教祖」として、後者は「現代のベートーベン」としてマスメディアによって虚像化された。メディアはその本質を知っていた。知りながら真実を報道しなかった。どころか、称賛した。メディア報道にお墨付けを与えたのは、オウム真理教の場合は宗教学者(その代表が中沢新一)及び知識人、佐村河内の場合は「音楽評論家」と呼ばれる人々だった。メディアはその本質にアプローチする努力を怠り、TV媒体ならば視聴率が上がる存在として、雑誌媒体ならば販売部数が伸びる存在として――彼らを利用した。

虚像というものは、いつかその化けの皮が剥がれるものだ。実像が露見すると、メディアは手のひらを反して攻撃の対象とする。自分たちが太らせた豚をこんどは違う調理方法で料理し始める。麻原彰晃(オウム真理教)、佐村河内守、さらに亀田ファミリーを加えてもいい。いや、もっとも大きな存在は安全神話報道で3.11まで治外法権化された原発だろう。

佐村河内の騒動において筆者が注視しているのは、佐村河内が音楽業界で「活躍」しだした当時から、彼は耳が聞こえているという類のものだ。一部報道では、音楽業界関係者をはじめ、周囲の者にはそのことは常識だったという。雑誌の「AERA」は佐村河内に取材をしながら、そのあやしさに気づき掲載をやめたという。

筆者をはじめこの事件に関心を示す人の多くは、ことの真偽を検証する能力がない。だから、佐村河内をよく知る周囲の者に、ことの真偽について、正直に証言してもらいたい。管見の限り、そのことを実名で告発したのは、「ゴースト新垣」ただ一人。新垣の告発が真実かどうかを判定する方法は、複数の実名の告発で十分だろう。

報道によると佐村河内の刑事での立件については、手帳の不正取得は時効の壁に阻まれ困難だというし、詐欺罪も難しいらしい。ということは、彼を裁く方法は、民事による賠償と、佐村河内の嘘を白日の下に晒すという以外に手段がない。

筆者は佐村河内がゴーストライターを使って作曲をしていた、という行為については関心がない。以前の拙コラムで書いた通り、筆者は今回の事件が起きるまで、佐村河内という「作曲家」も知らなかったし、その「作品」も聞いたことがなかった。もちろん、彼を称賛した公共放送の番組も見ていない。

事件後、怒りを覚えたのは、彼が広島や3.11という未曽有の人類的不幸を金儲けの出汁に使ったこと。そして、彼が障害者を装っていたことの二点だ。これはどうしても許しがたいし、罪深い。

加えて許しがたいのが、佐村河内のあやしさを知りながら、彼を称賛し偶像化したマスメディアという存在だ。佐村河内が謝罪会見を開いたのなら、佐村河内を称賛したメディアはすべて謝罪会見をすべきだろう。それができなければ、自らの検証番組を制作・オンエアーもしくは特集記事として出版し、再発防止を誓うべきではないか。

麻原彰晃、亀田ファミリー、原発、佐村河内守・・・悪がメディアによって善と化し、告発者によって悪に戻りメディアが叩く。いや原発については叩くことすら忘却した。こんな愚かな過ちを日本のメディアは何度繰り返すつもりなのだろうか。

2014年3月2日日曜日

3月の猫

一日遅れたけれど、猫たちの体重測定記録。

Zazie=4.6㎏(+200g)、

Nico=6.5㎏(+700g)。

Nicoが太ったわ。

見た目、デブには見えないんだけど・・・