「ゴーストライター事件」の当事者・佐村河内守が謝罪会見を行った。会見のTV報道をみていて、“いつか見た光景”を思い出した。1995年、あの地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教幹部・上祐史裕らの会見風景だった。饒舌でありながら空疎な言語空間、責任逃れ、噛みあわない言説、芝居がかった身振り手振り、あたかも真実を語るかのような「資料」の提示・・・。マスメディアが巨大化した虚像の主役と、虚像を偶像化したメディア関係者という脇役が共作する会見舞台。TV映像を見ていると、メディア業界という業界は、まったく反省をしない従業者で構成されているそれなのだなとつくづく感じた次第だ。
オウム真理教及び麻原彰晃は、このたびの佐村河内とよく似た存在だった。前者は当時、「本物の教団・教祖」として、後者は「現代のベートーベン」としてマスメディアによって虚像化された。メディアはその本質を知っていた。知りながら真実を報道しなかった。どころか、称賛した。メディア報道にお墨付けを与えたのは、オウム真理教の場合は宗教学者(その代表が中沢新一)及び知識人、佐村河内の場合は「音楽評論家」と呼ばれる人々だった。メディアはその本質にアプローチする努力を怠り、TV媒体ならば視聴率が上がる存在として、雑誌媒体ならば販売部数が伸びる存在として――彼らを利用した。
虚像というものは、いつかその化けの皮が剥がれるものだ。実像が露見すると、メディアは手のひらを反して攻撃の対象とする。自分たちが太らせた豚をこんどは違う調理方法で料理し始める。麻原彰晃(オウム真理教)、佐村河内守、さらに亀田ファミリーを加えてもいい。いや、もっとも大きな存在は安全神話報道で3.11まで治外法権化された原発だろう。
佐村河内の騒動において筆者が注視しているのは、佐村河内が音楽業界で「活躍」しだした当時から、彼は耳が聞こえているという類のものだ。一部報道では、音楽業界関係者をはじめ、周囲の者にはそのことは常識だったという。雑誌の「AERA」は佐村河内に取材をしながら、そのあやしさに気づき掲載をやめたという。
筆者をはじめこの事件に関心を示す人の多くは、ことの真偽を検証する能力がない。だから、佐村河内をよく知る周囲の者に、ことの真偽について、正直に証言してもらいたい。管見の限り、そのことを実名で告発したのは、「ゴースト新垣」ただ一人。新垣の告発が真実かどうかを判定する方法は、複数の実名の告発で十分だろう。
報道によると佐村河内の刑事での立件については、手帳の不正取得は時効の壁に阻まれ困難だというし、詐欺罪も難しいらしい。ということは、彼を裁く方法は、民事による賠償と、佐村河内の嘘を白日の下に晒すという以外に手段がない。
筆者は佐村河内がゴーストライターを使って作曲をしていた、という行為については関心がない。以前の拙コラムで書いた通り、筆者は今回の事件が起きるまで、佐村河内という「作曲家」も知らなかったし、その「作品」も聞いたことがなかった。もちろん、彼を称賛した公共放送の番組も見ていない。
事件後、怒りを覚えたのは、彼が広島や3.11という未曽有の人類的不幸を金儲けの出汁に使ったこと。そして、彼が障害者を装っていたことの二点だ。これはどうしても許しがたいし、罪深い。
加えて許しがたいのが、佐村河内のあやしさを知りながら、彼を称賛し偶像化したマスメディアという存在だ。佐村河内が謝罪会見を開いたのなら、佐村河内を称賛したメディアはすべて謝罪会見をすべきだろう。それができなければ、自らの検証番組を制作・オンエアーもしくは特集記事として出版し、再発防止を誓うべきではないか。
麻原彰晃、亀田ファミリー、原発、佐村河内守・・・悪がメディアによって善と化し、告発者によって悪に戻りメディアが叩く。いや原発については叩くことすら忘却した。こんな愚かな過ちを日本のメディアは何度繰り返すつもりなのだろうか。