著者(ニルス・ウッデンベリ)がどのような人物なのか、筆者は全く知識を持っていない。カバー折り返しにある著者略歴及び本文によると、医師免許を持ち、心理学と生命観における実践的研究の教鞭を執っている、スウエーデン人の大学教授とのこと。本書から、著者(ウッデンベリ)が自然科学のみならず、文学・歴史等に関しても深い教養をもった人物であることがうかがえる。
日本においても猫好きの知識人、文化人は数多い。夏目漱石、内田百閒、吉本隆明を浅学な筆者でも挙げることができる。本書では西欧のそれとして、T・S・エリオット、ジャン・コクトー、ドリス・レッシング(ノーベル文学賞受賞者)が紹介されているが、ほかにも多くの猫好き知識人、文化人がいるに違いない。
猫好きは知識人に限られるわけではない。筆者のような凡人にも猫は愛されていて、かくいう筆者も猫を2匹飼っている。だから、著者(ウッデンベリ)の猫に対する思いや描写については共感できる部分も多い一方、これはちょっと思い込みが強すぎるのではという部分もある。
猫は突然、家にやってくる
猫に関する著者(ウッデンベリ)と筆者の具体的な違いの一つは、飼っている環境である。前者は北欧の都会の真ん中に居を構えているとはいえ、あたりは自然に恵まれ、その中で放し飼い状態のようだ。広大な庭を舞台として、野ネズミを捕ったり野鳥を追いかけたり、木に登ったりしたあと、ねぐらと餌と飼い主のぬくもりを求めて家に帰ってくる。まったくもって、自由奔放な暮らしぶりだ。一方の筆者の猫たちは東京・下町のたいして広くないマンション暮らし。筆者の猫たちは家の外に出たことがない。
二番目は猫との出会いの仕方である。前者の場合は、猫が突然やってきて、“私(猫)、あなたに飼われることに決めました”とでもいうように、庭にある小屋で暮らし始めたという。寒い北欧の冬を迎え、著者(ウッデンベリ)は猫を家に入れ、キティと名付け、食事を与え・・・と、だんだんと猫と抜き差しならぬ関係を築いていく。大雑把にいえば、本書は猫に篭絡された知識人の思いの数々ということになる。
わが家の猫 |
筆者の場合は、家内が突然、どこからか子猫1匹を家に持ち込んだのだ。カフカ流に記せば、“ある日、帰宅すると家の中に猫がいた”。2匹目も同様に、1匹目の猫の登場から数日後に私のもとにやってきたのである。同様に記せば、“1匹目の猫がやってきてから数日後、ご婦人2人が1匹の猫を連れて家にやってきて、私に猫面接試験を受けさせ、2人が「OK」を出した結果、2匹目の猫との同居が決まった”といった次第。これらの「猫事件」は2011年のことだから、筆者の猫歴ははや5年目にならんとしている。
「猫は飼わない」はずが猫好きに
共通点もある。著者(ウッデンベリ)も筆者も猫を飼う気がなかったこと。前出のとおり、著者(ウッデンベリ)と筆者の猫との出会いは全く異なるのだが、猫を飼うきっかけは、偶然というか他動的だった。著者(ウッデンベリ)も筆者も猫に限らず、(動物を飼うことは)「責任を伴う」し、「旅行に行けなくなる」し、「死んだらペットロス」に陥るから絶対に飼わない、と決めていた。それだけではない。著者(ウッデンベリ)も筆者も幼年期は動物好きで犬やいろいろな小動物を飼った経験をもっていること。それが、少年期から思春期にかけて、“動物はもう一切飼わない”と決心したこと。
猫と人間との関係の歴史
さて、前出のとおり、猫に対する考え方や思いに関しては、著者(ウッデンベリ)と筆者の間に違いもあれば、同意するところもある。猫の神秘性、愛らしさ、不思議さ等については本書にてゆっくり味わっていただければよい。ただ本書の中で、筆者が著者(ウッデンベリ)の「猫論」にもっとも敬服した点があり、ぜひとも紹介したい。それは猫と人間の関係に係る考察である。著者(ウッデンベリ)によると、一般に猫が人間に愛される存在となったのは、西欧においては現代になってからだという。著者(ウッデンベリ)が主張する猫と人間の関係の歴史について以下に概略を示そう。
- 猫はアフリカのどこかを原産地として誕生し、自然の中で小動物等を捕獲して生きていた時代
- 人間の自然界への進出に伴い、猫の餌となっていた小動物は減少。その代り、人間が暮らす場所の周辺に鼠等の小動物が増加。猫は人間が貯蔵する穀物に集まる小動物を目当てに、人間界と接触を深めた(人間も猫が害獣を駆逐する益獣と認識する=猫の半分家畜化・半分野生猫化)時代
猫は野生及び半家畜状態で生きてきた時代が圧倒的に長かったのである。
西欧社会では18世紀まで猫は危険視され、「勤勉」な犬が尊重されていた
このような時代を経て、現代、世界中で猫が人間の身近な存在となったのだが、それまでの西欧では、猫は危険視される存在だったという。動物学者のカール・フォン・リンネ(1707-1778)すら「猫とベッドで寝ると人間は必ず病気になる」と評したというし、1800年代においても、「猫は鼠を捕る以外は害獣」だと動物学者のスヴェン・ニルソンは記したそうだ。そのニルソンは、「家猫によって、数匹の子羊が殺された」「ゆりかごで寝ていた赤ん坊が猫に殺された」「猫が老人を襲って大怪我を負わせた」という「事例」を紹介しているという。
この時代(1800年代)、動物の行動に道徳的意味をもたせたわけである。人間界にもっとも身近な生物は犬と猫である。犬は狩猟、牧畜、警護、愛玩・・・と、人間に無限に奉仕する。ところが猫は鼠を駆除するが、それ以外はマイペースである。勤勉な犬が尊重され、怠惰な猫は嫌われた。犬の忠実さ、人間のすべての要求に従う性格が評価されたわけだ。
20世紀初頭、自由と反抗のシンボルとして「猫派」が台頭
しかし1900年代初頭、猫に対する認識に大転換がおとずれる。著者(ウッデンベリ)はジャン・コクトー(1889-1963)がいったとされる「犬より猫の方が好きなのは警察猫というものがないからにすぎない」という言説を引用し、自由で社会的地位に無関心で反逆をよしとするインテリ層に、猫はじょじょに支持されるようになった、と説明する。
現代日本においても、自由で束縛を嫌う猫は、集団に対する帰属意識が強く人間に忠実な犬に比して、その手の人間に強く支持されている。いわゆる「猫派」と「犬派」の対立である。社会的に成功した人の多くは、勤勉(そう)に人間に尽くす犬を尊重する。そのような人は、自分に忠実な犬の行動に対して、自分に服従して仕事をこなす部下の姿を重ね合わせているかもしれない。絶対的に信頼できる犬こそが最善の友(ペット)なのだ。
一方、社会的帰属意識が薄く、自由で反抗的で孤独を好む人々にとっては、猫の勝手かつ気儘な性格や、単独行動を好み、怠惰を旨とするその姿に自分を重ね合わせようとする。猫のように生きたいと。それが「猫派」の心情である。
けっきょく猫についてはわからないことだらけ
なるほど、目から鱗である。著者(ウッデンベリ)が展開する、猫が人類に愛される理由の解説は説得力が高い。このような解説に共感される人も少なくないだろう。しかし、猫が愛される理由は、その手の人間が多数派とはいわないながらも市民権を得たことによるのだろうか。猫と人間が接触したころから、人間は猫の愛らしさ、率直さ、両義的で不思議な魅力にとりつかれたのではないだろうか。それが猫の対人間に対する戦略だったのか、生来の性格なのかはわからない。猫について理論的に説明することは不可能なのだから。猫はなにもしゃべらないのだから。著者(ウッデンベリ)もそのことを強調する。その点を含め、読後の感想としては、著者(ウッデンベリ)に同志的共感を覚えずにはいられない。2人とも、猫にいとも簡単に篭絡された人間であることだけは確かであり、そこがかけがいのない共通項であり、多くの猫派の自覚だからである。