2016年1月24日日曜日

『フランシス子へ』

●吉本隆明〔著〕 ●講談社 ●1200円+税

日本の思想史に燦然と輝く巨星・吉本隆明(1924-2012)。その死の3カ月前、吉本の最愛の猫フランシス子が死んだ。「僕よりはるかに長生きすると思っていた猫が、僕より先に逝ってしまった」(P3)。フランシス子という名前は吉本の次女・ばなながつけた。一時ばななに引取られたのだが、馴染まず、吉本のもとに戻ってきたという。

この猫とはあの世でもいっしょだなという気持ちになった

吉本が愛したフランシス子への慈しみの感情が溢れんばかり語られている。少しだけ紹介しておこう。

平凡きわまる平凡猫だっていえば、それが当りまえだっていう気がします。
(略)
だけど、僕とは相性がよかった。
(略)ぼんやり猫だったけど、そのぼんやり加減が僕とはウマがあった。(P10-11)
猫というのは本当に不思議なもんです。
猫にしかない、独特の魅力があるんです。
それはなにかっていったら、(略)自分の「うつし」がそこにあるっていうあの感じ・・・(P20)
死ぬ前の3日間くらいは僕の枕元であごのところや腕のところを枕にして、かたときも離れませんでした。
(略)
・・・この猫とはあの世でもいっしょだなという気持ちになった。・・・きっと僕があの世に行っても、僕のそばを離れないで、浜辺なんかでいっしょにあそんでいるんだろうなあって。(P22-23)

猫好きの者ならば、じゅうぶん了解できる思いである。とりわけ、“この猫とはあの世でもいっしょだなという気持ちになった”という言葉はいい。筆者も猫を飼っているけれど、あの世まで一緒だとは思ったことがない。

猫が自分の「うつし」とは?

フランシス子は、「毛が薄くて、触るとあばら骨の感じがわかるみたいな、痩せた印象」(P9)の猫だったらしい。前出の「うつし」というのは外見ではなく内面的なものをいうのだろうけれど、吉本本人が「(フランシス子の)痩せた体も、面長な顔も、自分とそっくりだという気がしないでもない」(P16)と外見が似ていることを認めている。

筆者は吉本と面識はないが、二度、見たことがある。最初は学生時代、某大学の大講堂で、吉本の講演会の聴講者の一人としてであった。そのときは演壇との距離が相当あったので、表情すらよくわからなかった。けれど、遠目ながらもずいぶんと痩せていて小さな人だなという印象をもった。

2度目は20年位前、暗黒舞踏家・土方巽(1928-1986)が開設したアスベスト館(2003年に閉館)のリニューアルオープンのイベントだった。吉本は中上健二と対談をした。筆者は取材の仕事だった。質問の時間もなく、黙って二人の語りを聴くだけだったのだけれど、そのときはずいぶんと至近距離で吉本を見ることができた。吉本は土方巽を評して、“土方は胎児の身体の縮み具合や、日本の農民の湾曲した脚や腰を舞踏にとりこんでいて、それは西欧近代が求めた機能的で美しい理想の身体と対極をなす”というようなことを発言したように記憶している。吉本の印象は最初のときと変わらず、やはり、痩せて小さな人だなと思った。

この吉本の「痩せている」という印象は、谷川雁が著した『庶民・吉本隆明』のなかの一節、「蝶ネクタイなど逆立ちしてもうまくない貧乏性の世代があるものだ。その貧乏な世代の貧乏神が吉本だ・・(こっち=谷川雁は)なんとかして馬小屋のかたすみで絢爛たる交響曲でも聞いてみようと苦心しているのに、妙に節くれだったやつが門口にあらわれて、棟つづきの隣家のことをわめいたり、おまえらのやっていることは幻想だとぶつくさいったりする」であるとか、「彼(吉本隆明)の文章たるや陰気で皮くさくて骨っぽくて・・・」といった辛辣な表現の影響かもしれない。とまれ、吉本の外見からは「痩せた、骨ばった」という印象が拭いきれない。

とにかく吉本は猫を愛したようだ。猫といえば直観的で、「理屈どおりいかないんですよ、猫は」(P15)といいながら・・・

夢の中のような、詩うような語り口

本書は、▽本題のとおりの愛猫フランシス子について、▽同志、村上一郎への思いから始まる戦中派論、▽ホトトギスをめぐる実在の確認の困難性について、▽親鸞について――のパートに区分される。しかし、本書ではそれらがとりとめのない吉本の語りの調子で流れていく。その流れは雑然としたものであって、もちろん論理的関連はない。

というのは、本書はもともと『十五歳の寺子屋 ひとり』という4人の男の子女の子が吉本隆明の話を聞くという出版社の企画のなかで実現したものだからだという(P120/「吉本さんへ あとがきにかえて」瀧晴巳)。あとがきを書いた瀧晴巳は、吉本の語りを本にまとめたライターである。

15歳の少年少女に村上一郎の自害の話はきついとは思うものの、そのとりとめのなさ、雑然とした流れが晩年の吉本の姿を再現するような臨場感を読む側に伝える。本書末に吉本の長女・ハルノ宵子が「瀧さんの文章は、あの頃の父の夢の中のような、詩うような語り口がよく再現されている」と評している。むべなるかな。