2017年12月27日水曜日

ますます闇が深まる日馬富士暴行事件

今回の事件について、整理しておこう。

日馬富士暴行事件の問題点を10項目に整理する

  1. 相撲界から暴力が一掃されないのは、この業界が相撲部屋という封建遺制を残しているからであり、親方―兄弟子―弟弟子・・・という上下関係を維持した家父長的家制度を残存させているためであること
  2. 家父長制に貫徹する秩序体系は儒教であって、儒教では近代的法制度よりも、親子関係のような自然的上下関係に規定された倫理的関係が優先されること
  3. その結果として、親の躾、親方の指導等における上から下への「教育」においては、近代法体系では排除される暴力が容認されること
  4. 日本的儒教秩序が維持されている相撲部屋に外国人であるモンゴル人が入門したとき、彼らは日本社会に適応するよりも、相撲部屋の秩序に適応することを余儀なくされたこと、その結果、モンゴル人力士は日本人力士よりも純粋培養的に儒教倫理を身に着けてしまっていること
  5. 今回の暴行事件に限らず、相撲協会は公益法人であるにもかかわらず、事件、問題を公にすることを躊躇し、協会内部で問題解決を図ろうとする傾向が強いこと
  6. 相撲協会の「危機管理委員会」はあくまでも協会内部の組織であって、協会に不利になるような情報を隠蔽しがちなこと
  7. 被害者である貴ノ岩の親方である貴乃花は、相撲をスポーツとしてとらえずに、相撲を国体思想に融合させる、極右思想の持主であること。彼はスポーツとイデオロギーを一体化させるナチズムに近い考え方の持ち主であること
  8. 大相撲は近代スポーツではなく、相撲一座の興行であって、勝負には互助、忖度等(一概に「八百長」ともいえない)があり、スター力士をつくって相撲一座の人気を維持する側面があること
  9. 相撲に神事の側面を認めるが、それはあくまでも民俗における神事のステージであって、相撲協会が一つの神に仕える神事を代行する役割を太古から担っているとは、歴史的、民俗学的、宗教学的に根拠がないこと
  10. 江戸期に成立した相撲興行は見世物的要素が強く、相撲取りはアウトサイダーであったこと。相撲が「日本の伝統」と認識されるようになったのは明治維新以降であり、日本帝国主義の補完的イデオロギーである復古的ナショナリズム浸透の役割を担ったこと
相撲協会Vs.貴乃花親方という対立構造は問題を見誤る

筆者は今回の暴行事件について、相撲協会Vs.貴乃花親方という対立構造でとらえるのは問題を見誤ると考える。つまり、どちらかが正義であるともいえないと。

貴乃花親方が暴行事件を公にして相撲協会の暴力体質を暴き、相撲協会を近代化する正義の味方だともいえない。もちろん、隠蔽体質が強く、公益法人の要件を備えていない日本相撲協会の公益財団法人認定は取り消されるべきだとも考える。


メディアは数字を稼げばいいのか

問題はそれだけではない。今回の暴行事件を必要以上に歪めたのは、テレビのワイドショー、スポーツ新聞、週刊誌だと思われる。彼らは、自ら進んで相撲協会サイド、貴乃花サイド双方が仕掛ける情報戦の道具となり下がり、リークを繰り返し、闇を深めた。彼らはそのことにより、視聴率、売上を稼いだ。事業者なのだから稼ぐことは当たり前だと開き直るのかもしれないが、数字を稼ぐためならば何をしてもいいわけではない。メーカーならば製品の品質を保証する義務があるように、情報を商品にするテレビ、新聞、週刊誌には、彼らが提供する情報の品質を保証する義務がある。

リーク情報にとびついて、それを書きなぐるのが仕事なのかといいたい。メディアに必要だったのは、まずもって、相撲界に暴力が根絶されない理由を問うことだった。相撲協会、相撲部屋、親方、力士の実態が明らかにならなければ、今回の問題の本質には迫れないはずだ。

本質に迫れない日本のメディア業

大相撲には表に出てこない側面がある。チケット問題、八百長問題、協会内権力闘争が内在したまま、今回、暴力体質が表面化した。相撲界の問題が表面化したとき、世間は一時的に疑義を向けるが、メディアの追及は常に中途半端であり、問題の根っこには迫らない。

また、前出のとおり、今回被害者側である貴乃花親方が極右思想の持主であり、弟子にその思想を注入しているという悪しき情報も副産物として表面化した。思想・信条並びに信仰は自由なのだから、だれが何を信じようと構わないという見方もあろう。しかし、いま現在の相撲界における部屋制度(のなかの親方と弟子という閉鎖的関係)において、弟子に思想・信条並びに信仰の自由が保障されるとは考えにくい。貴乃花親方に聞くべきは、「(協会の)聴取に応じるか否か」ではなく、彼が自らの思想を弟子に「強要しているか否か」ではないのだろうか。