2018年4月27日金曜日

『昭和維新試論』

●橋川文三〔著〕 ●講談社学術文庫  ●972円(キンドル版)

宣伝文にはこうある――“本書は忌まわしい日本ファシズムへとつながった〈昭和維新〉思想の起源を、明治の国家主義が帝国主義へと転じた時代の不安と疎外感のなかに見出す。いまや忘れられた渥美勝をはじめとして、高山樗牛、石川啄木、北一輝らの系譜をたどり、悲哀にみちた「維新者」の肖像を描く、著者、最後の書。(講談社学術文庫)”

本書最終章「国家社会主義」の終わり方のあまりの唐突さに、著者(橋川文三/1922-1983)の書き続けたかったはずの強い意志の反転をみた。

日本人は〔革命〕ではなく〔維新〕に共鳴する

〈昭和維新〉とは、一般に「1930年代(昭和戦前期)の日本で起こった国家革新の標語である(Wikipedia)」と考えられている。それは流動的かつ情況的ムーブメントでありスローガンである。インシデントとして挙げれば、「五・一五事件」(1932、昭7)「二・二六事件」(1936、昭11年)となろうが、両事件が示すように、〈昭和維新〉が成就されたものなのか、されなかったものなのかについては明確でない。

日本では、閉塞的情況の打開の動きを「〇〇維新」とするのが常である。革命と同義のようだが、日本人は「維新」の方に親和性を覚える者が多い。そのことは日本人の明治維新に対する郷愁であり崇拝の念であり、国家・人心の一新は、明治維新のようであってほしいという願望の現れである。

新しいテロリスト像の出現

本書は朝日平吾について触れることから始まる(「序にかえて」)。朝日は当時の金融資本家で、東大安田講堂の寄贈者として知られる安田善次郎を暗殺(1921、大10)したテロリストであるのだが、彼を「大正デモクラシー」の陰画的表現と評し、朝日平吾の人物像に当時の右翼、左翼、アナーキズムへ奔った青年たちと共通する、感傷的な不幸者の印象を認める。それは明治維新直後に起こった士族反対派が抱いたテロリズムの心情とは異なっていた。朝日の心象は、「不可解」と遺書に記して(1903、明36)華厳の滝に飛び込んだ藤村操と共通するものだともいう。本書によれば、“〈昭和維新〉というのは、そうした人間的幸福の探求上にあらわれた思想上の一変種であった”ということになる(テロ・自殺が人間的幸福の探求なのかどうかについては疑義を挟む者もいるかもしれないが)。

このことの情況的説明は次のとおりとなろう。明治維新(1868)からおよそ30年間の日本が近代国家としての第一段階を歩んだ時代――牧歌的近代国家建設期だとするならば、日清(1894、明27)・日露(1904、明37)という2つの大戦を経験した後の日本は、第二段階――帝国主義国家への移行とその完成に向けた時代に該当するということだ。〈昭和維新〉は、その変容を契機として産み落とされ、いくつかの屈曲を経て成長した、(思想・運動の)妖怪といえる。

明治20年代から始まった維新国家の変容

本書は〈昭和維新〉の思想を論評するにとどまらず、そこに至るまでの日本のさまざま思想的潮流を明らかにする。前出の、「神政維新」「桃太郎主義」を唱えた渥美勝(1877-1928)――彼はその粗末な身なりと風貌と思想性から、第一次世界大戦後のワイマール(ドイツ)に出現した、インフレ聖者を彷彿とさせる。高山樗牛、石川啄木からは、明治青年の疎外感、不安感がうかがえる。

そうした明治後期から大正初期の日本人に対して日本国が発出したのが「戊辰証書」(1908、明41)であり、後の「癸亥詔書」(1924、大13)である。これらは日本人のあるべき姿を国が示したものであると同時に、当時の日本人は国が望む人物像から逸脱し、制御不能な様態を呈していたことを逆証する。では、当時の日本人はどんな価値観を持っていたのだろうか。

日清日露大戦後の日本の若者は、国家主義から個人主義、本能主義、官能主義に傾倒する者が少なくなかった。その結果として、宗教的神秘主義への傾斜も認められたというが、いかに成功すべきかの立身出世の世俗主義も世を覆っていたという。

当時、帝国主義国家を目指す日本政府から見れば、このように著しく後ろ向きの風潮は好ましくなく、早急に糺すべき対象であった。そのようなとき、日本国が思想的・道徳的な核として据えるのが日本化された儒教思想であることは覚えておいていい。そしてその場合、維新は弁証法的な革命としてではなく、神代への復古を目指した改革運動として現れる。明治維新がその祖型であり理想とされる。もちろん、それは天皇を頂点とし、日本化された儒教思想によって下位に位置づけられた従順な臣民という構造をもち、同時に野蛮な尊王攘夷と淡麗な日本的美意識で飾られたものとなる。

〈昭和維新〉の推進母体=国本社の創設

日本は第一次世界大戦(1914、大3)を境として、深刻な閉塞状態に陥る。ロシア革命(1917、大6)、関東大震災(1923.9、大12)、虎ノ門事件(摂政暗殺未遂事件/1923.12)等により社会は騒然となり、共産主義(日本共産党結党/1922、大11)、社会主義、無政府主義が台頭する。

そのような情況下、〈昭和維新〉は民間、官界、学界、政界を巻き込んだ最強のムーブメントへと成長していく。その萌芽は、「老壮会」、「猶存社」を経て結成された国本社(創始者は平沼騏一郎)の誕生(1924、大13)であろう。同会の構成員は軍人19名(陸軍10、海軍9)、官僚(司法関係8、内務6、外務3、大蔵2)等と多岐にわたり、同社が目指したのは政治と道徳の一体化であった。それは前出の日本的儒教と日本的美意識が融合した民族主義の哲学にほかならない。同会は前身の猶存社に北一輝が参加するに至り、〈昭和維新〉遂行の強力な思想性を獲得する。

北一輝の思想

北一輝は今日、彼を教祖的指導者として担ぎ上げ、「二・二六事件」等を起こした陸軍皇統派のイデオローグとして否定的評価を受けているが(実際に統制派により処刑された)、本書(14章:北一輝の天皇論)において、北と皇統派の思想的差異が明確に整理されているので、この章はぜひとも読んでいただきたい。

北の天皇論は、明治憲法の正統的解釈とされてきた天皇と国民の関係――主権者天皇の統治対象としての国民という関係(=天皇の国民)を転倒し、天皇を民族社会の有機的統合と発展を代表する「国家の一分子」としてとらえ(=国民の天皇)、国民は天皇とともに国家の最高機関を形成すると考えるものであった。

その特徴は次の通り。
  • 天皇論としては、明治期の伝統的な国家論の全面的否定の上に組み立てられていること
  • 天皇存在の根拠を何らかの古い伝統的信条もしくは「迷信」の援用に頼ることなく、基本的には西欧近代の国家哲学にもとづいて弁証しようとしたこと
  • 国民論としていえば、それを「臣民」としてではなく、近代的な意味での「ネーション」と同じものとしてとらえようとした。

北一輝を誤読・単純化した皇統派

一方、陸軍青年将校・士官学校生らは北一輝の思想について、天皇を頂点とし、その下に臣民を直接的に配置することが必要だというふうに単純に理解した。「一君万民」である。皇統派は、社会の諸悪の根源は、天皇と国民(臣民)の中間に巣食う政治家、官僚の悪政であると。それゆえ、自分たち(皇統派)が中間に位置する政治家・官僚を暴力的に一掃すれば、(明治維新がなしえたような)天皇の善政に復古すると考えたのだ。皇統派の維新を目指した一連の蹶起を〈昭和維新〉とするならば、それは頓挫した。

しかしその終息にあたったのは軍部の反対勢力、すなわち、皇統派と対立していた統制派であった。〈昭和維新〉は陸軍内部の主導権争いとして始まり、皇統派の排除により、新たな生命を与えられ延命した。その延命は、日本を悲劇へと導くものとなった。〈昭和維新〉の第二幕である。

統制派が推進した総力戦体制

皇統派を鎮圧したのは統制派とよばれる陸軍幹部、上層部であった。では統制派とはどのような勢力なのだろうか。のちに日本を破滅的危機に導いた統制派について、現在の日本人は多くを知っていない。

本書によれば、統制派とは「高度な総力戦に備えて軍の統制を制度と人事によって強化し、その組織的圧力によって国家全体を高度の国防国家に止揚しようとするもの」だという。統制派のイデオローグは永田鉄山(陸軍中佐)。永田が唱える高度な総力戦とは、欧州を主戦場とした第一次世界大戦が国家と国家の総力をあげた戦争であったとの認識から出発した国家観である。戦争とは、軍事はもとより、経済・物流・思想・文化・メディア・・・といった国家の総力が激突する戦いだという認識である。こうした認識は間違ったものではない。第一次世界大戦後の欧米の帝国主義諸国は、戦争をそのように認識していたのだから。

そして統制派が軍部のみならず、政治の実権を握った時、日本は総力戦体制を整え、国防から無謀無策の侵略戦争への道を進んだ。そのとき国民を統治したイデオロギーは、統制派が鎮圧した皇統派のスローガン、「一君万民」であったことはいうまでもない。国民は天皇の赤子として、天皇のための戦争で死ぬことが名誉とされた。〈昭和維新〉は1945年(昭20)、およそ320万人の戦死者を出して終わった。

2018年4月26日木曜日

JAKE BUGG Solo Acoustic Tour

JAKE BUGGのコンサートに招待され、恵比寿のリキッドルームに行ってきた。

ギター一本のソロコンサートなので、彼の曲をじっくり聞けたかな。

アフターショーでは知人のジャックのおかげで、ジェイク直筆サイン入りCDをプレゼントしてもらった。




後ろで写真撮影しているのがジャック

ライブ終了直後のジェイク

ジェイクが目の前でサインしてくれたCD

2018年4月23日月曜日

サルデスカ(スペイン・バスク料理)

娘のちょっと早めの誕生日会。

鶯谷(東京・台東)のサルデスカにて開催。

日本では珍しいスペインバスク料理のお店です。










2018年4月11日水曜日

非常識な監督交代 JFA、ハリル日本代表監督を解任

 日本サッカー協会(JFA)が9日、都内のJFAハウスで会見を開き、田嶋幸三会長がバヒド・ハリルホジッチ(以下、「ハリル」と略記)監督の解任と、西野朗技術委員長を新監督とする人事を発表した。解任理由は、ハリルと代表選手とのコミュニケーション不足、摩擦などだという。ウクライナ戦の後、監督と選手の状況が悪化し、解任の決定打になったという。



ハリルの方針は日本代表に定着せず

今回のハリル解任劇を端的にいいあらわせば、〝JFAが一部選手の私利と企業利益の追求に屈した、悲しくも非常識な「惨劇」であった”といえる。それはサッカーというスポーツとは乖離した茶番ともいえる。このことの詳細を以下に示す。

筆者は直前の拙Blogにおいて、「ハリルの4年間の仕事は失敗」と書いた。アジア予選を突破したという実績がありながら、なぜ、失敗なのか。その回答は、先のベルギー遠征の2試合(3月23日マリ戦・3月27日ウクライナ戦)を見れば自明なこと。相手はアフリカ地区、欧州地区におけるW杯予選敗退国。ハリル率いる日本代表は、その2チームに対して、サッカー全般で劣っていた。ハリルのチームづくりは4年間、空転していたことは明らかだった。

日本のメディアに巣食う「反ハリル」の代弁者たち

ハリルの「縦に速い攻撃」が日本人には合わないとか、「パスを回せ」とかのメディアの騒音は一貫して日本のサッカーメディアの内側に存在し続けていた。サッカー評論家(元代表選手)、フリーライターがその発信元。彼らは明らかに、反ハリル勢力の代弁者であり、その筋の者、その筋のポチである。彼らは、ハリル解任に尽力した代表の一部の選手及びJFA、電通(アディダスを筆頭とする日本代表のスポンサー各社及びテレビ局の代理人)の意図を汲んだ発言者である。

ハリルの解任理由は、選手と監督の戦術面のディスコミュニケーションだというが、筆者にはそう思えない。監督と選手の関係は緊張に満ちたもの。監督の好みが選手起用を左右することは珍しくない。力がありながら、招集されない選手もいる。それが、代表サッカーである。監督の方針によって、W杯で招集されない選手、リーグ戦で試合に出られない選手・・・を数えたらきりがない。

商業的利益が優先するW杯メンバー

田島幸三JFA会長が解任理由として、監督と選手の関係が「こじれている」という意味の発言をしていたが、この発言は解任理由の核心を象徴しているように思える。つまり、解任がチーム強化やW杯ベスト16入りを果たすためといった、純粋スポーツ的見地でなされたわけではないということ。解任の真の理由は、ハリルの選考によって、W杯メンバーから外れる選手と、彼らとスポンサー契約をしている者が共同して、ハリルを追い出したという意味に聞こえる。かれらの利益を確保するために仕組んだ、反ハリル・クーデターだと考えるとわかりやすい。

「パスサッカー」は2010年を頂点に退潮傾向に

筆者は、ハリルの方針は間違っていないと確信している。前出の「サッカー評論家」が主張するパスサッカー、ポゼッションサッカーは、2010年W杯南アフリカ大会(スペインが優勝)をピークとして後退し、いま現在、モダンサッカーの主流はフィジカル重視、単純化していえば、「縦に速い攻撃」が世界標準になっている。その土台となるのが、「デュアル」である。

ハリルはその流れを日本代表に定着しようと、およそ4年間、指導を続けてきたが、残念ながら、モノにならなかった。前出の「ハリルの失敗」という意味は、指導理念は正しかったにもかかわらず、その実践がかなわなかったということである。ベルギー遠征の2試合、ハリルの苦悩がTV画面から伝わってきていたではないか。彼は本番直前まで自分の戦術に合致した選手を見つけようとテストをくりかえし、そのたびごとに勝利に結びつけることができなかった。「勝利ナシ」とシンクロして、「ハリル解任」の声がチーム内外で沸騰し、ついにウクライナ戦の敗戦で「ハリルの砦」は決壊した。

だが皮肉なことに、解任の引き金となったベルギー遠征において、中島、柴崎という2選手を見出したことは、ハリルにとって少しの光明ではなかったか。その矢先の解任なのだから、彼の心中が穏やかであるはずがない。

ハリルの甘さ


ベルギー遠征後、ハリルは苦境に立たされていたのだが、彼はそのことに気づかなかった。ベルギー遠征はハリルにとっては練習試合つまりテストにすぎない2試合だったのだ。しかしながら、このハリルのこの位置づけ及び見通し・認識は正しくない、本番(6月19日コロンビア戦)まで3カ月を切った遠征試合において、本番に向けた戦列整備がなされていなかったことを大衆的に明らかにしてしまったことは、ハリルにとって致命的なミスであった。その甘さは厳しく問われて当然である。ベルギー遠征に向けたハリルの姿勢は間違ったものであり、計算違いであり、彼は自ら「解任」の墓穴を掘ってしまった。

ベルギーの2試合の内容及び結果が惨憺たるものだったから、「反ハリル派」に解任の口実を与えてしまった。いまのハリルを取り巻く状況なら、解任はだれからも文句が出ないと見たのだろう。「反ハリル派」の目論見はみごと成功した。解任後の報道は、「仕方がない」「新しい出発に期待する」「巻き返しが始まる」「これで日本らしいサッカーができる」・・・と。メディアからは勇ましい「進軍ラッパ」が鳴り始めた。敗戦を転進と言い換えた「大本営発表」を報道する戦時中のメディアと同等の野蛮さが満ち満ちている。

この時期の監督解任は代表サッカーにおける非常識

ロシア大会で日本がベスト16に入るか入らなかは神のみぞ知るところ。しかし、この監督更迭のドタバタぶりを見てしまった以上、日本代表に期待するものはなくなった。そもそもJFAは、ハリルホジッチのサッカー観を理解して監督に迎え入れたのではないのか。それが4年間で達成できなかったならば、次の4年間を待つまでではないのか。4年間で日本にモダンサッカーが定着されなかったからといって、8年前に逆行してどうする。

今日の日本代表がモダンサッカーの流れに乗り遅れたのは、ハリルだけの責任ではない。南アフリカ大会(2010年)が終わった段階で、JFAは世界のサッカートレンドを読み違い、ザッケローニを招いてしまったことで、フィジカル重視の世界のサッカーの潮流から取り残された。その結果、ブラジル大会(2014年)で予選敗退した。ブラジル大会直前、当時の日本代表の主力選手は、「自分たちのサッカーをすれば(W杯で)勝てる」「(W杯で)優勝を狙う」と豪語していた。結果はどうだったのか。

いま時計は8年前に逆行しようとしている。そして、逆行のリーダーは、なんとブラジル大会惨敗の戦犯である。そんな輩がロシア大会出場を目論んでハリルの方針に反旗を翻し、スポンサー(大手広告代理店)、JFA、スポーツメディアを巻き込んで、クーデターを敢行し、それが成功したのが4月9日の「解任劇」の真相であろう。

代表のサッカーが日本サッカーの質を決定する

ロシア大会で日本がベスト16入りしたらハリル解任は成功と評価され、予選敗退すれば間違っていたと、総括されるだろう。サッカーが「代表監督」に還元されて、次の代表監督探しで日本中が騒がしくなるというわけだ。

もちろん、代表監督選びには、日本のサッカーの方針が象徴されるという重要な側面があるのだから、おろそかにしてはいけない。だが、それだけに一元化されてしまえば、日本サッカーの質の向上が問われなくなってしまう。代表のサッカーの方針が定まっても、Jリーグを頂点とする日本サッカー界がそれと異なる動きをしていたのではおかしなことになる。こう書くととてつもなく壮大な日本サッカー改革が必要だと思われるかもしれないが、大げさなことではない。世界で勝てるサッカーを日本代表が示せば、下は自然にその流れに同化し従属するものなのである。

JFAはどうすべきだったのか

ハリルの方針は代表に定着せず、ロシア行きから外されそうな選手は造反を煽り、チームの「実情」をメディアにリークする者もいたかもしれない。本番3カ月前でチーム状態は最悪だったことも事実だろう。このまま放置しておけば、ロシアで惨敗するのは目に見えている云々・・・

筆者ならば、最後までハリルに任せる。結果はどうあれ、ロシア大会はハリルのサッカー集大成なのだ。ハリルのサッカーを良かれと判断して代表監督に招致したのだから、その結果を待つしかない。ハリルに課されたの最大のミッションであるアジア予選突破は果たしたのだから、彼にはロシアに行く権利がある。彼が最終的に見極めた素材(代表選手)で戦って、結果を問えばいい。なにが足りなかったのか、負けても得るものはあったのかなかったのか。そうすれば、次の大会までの目標や選手選考の基準、日本サッカー界全体の指導指針も出てくるはずだ。

ハリルを更迭してしまった結果、いまの日本代表はまさに空虚である。指針があっての4年間の努力であり、それがあっての結果であり、その総括も可能となる。よしんば空虚なチームが勝ったとしても、それは偶然の勝利にすぎない。負ければさらに空に虚を重ねるばかりである。

2018年4月2日月曜日

水元公園(2018/04/02)

東京23区の外れ、埼玉県との境にあるのが水元公園。

自然豊かなところで桜の名所の一つ。

今年は満開が例年より早く、ピークを過ぎてのお花見となってしまった。