2018年11月28日水曜日

『江戸東京の聖地を歩く』

●岡本亮輔〔著〕 ●ちくま新書 ●940円+税

聖地というと、一昔前までは聖人の生誕地やその遺物が保管されているところ、あるいは、奇跡の起こったところ、超人的霊力が発せられるところ、特別な事件等が起きたところ…だと思われていた。ところが最近では、アニメや映画のファンにとっての〈聖地〉は、その中に描かれた「印象的シーン」の現場であり、呑み助の親父にとっての〈聖地〉は粋な「居酒屋」であり、野球好きの青少年にとっての〈聖地〉は「甲子園」…といった具合である。このような聖地の変化を換言すれば、聖地とはある者にとっての特別な場所といった意味にまで拡張される。

聖地を個人の体験・意識レベルまで還元すれば、恋愛を成就し結ばれた男(女)にとって、はじめてデートした場所を聖地と見做すこともできる。しかし、それを聖地とはとても呼ぶことができない。個人レベルにおける特別な場所が〈聖地〉となるためには、そこに物語性が付加され、世間一般に認知される必要がある。一対の恋人同士が結ばれたデートスポットの情報が多数の者に共有され、神聖視されなければならない。そこで初めて、無名のデートスポットが聖地へと変容する。

聖地とは何か

著者(岡本亮輔)は聖地を次のように定義する。
・・・内容が事実かどうかは関係なく、特別な物語と紐づけられて語られ続けられるのが聖地なのである。(P10)
物理的空間に物語が上書きされて意味を与えることで聖地になるのだ。聖地とは、虚構と現実を重ね合わせることでしか立ち上がってこない拡張現実なのである。誰かがその場所の物語を語り伝えなければ、聖地は持続しない。したがって、聖地を考える際に鍵となるのは、いかにして場所に物語が紐づけられるか、誰がそれを伝達しているのかを読み解くことなのである。(P12)

聖地の条件――場所・物語・伝達

・聖地に紐づく物語を紡ぐ者

聖地を構成する要素は、〈場所〉〈物語・神話化=作家〉〈伝達する者〉となる。場所はいうまでもない。が、物語、伝達はだれがどのようにつくりあげるのか。口コミも無視できないものの、それだけでは聖地として広域化するのは不可能だ。古代、中世、近世までは、芸能者が素朴な言い伝えを人々が関心を寄せる面白い話に創作した。

・史学と詩学の融合

近世・近代・現代では、マスメディアの発達と平行して、聖地に紐づく物語を量産化したのが作家である。著者(岡本亮輔)は、聖地=近藤勇墓所(東京・板橋区)を論ずる箇所(第6章)において、新選組頭目・近藤勇の神話化に果たした司馬遼太郎の「功績」について次のように書いている。
新選組ほどフィクションの力によって評価の一変した存在も珍しい。(略)新選組イメージは、長い時間をかけてメディアの中で作られてきたものだ。当然ながら、維新直後、新選組の評価は最悪だった。(略)新選組は京で志士たちを捕縛殺害してきたからである。(略)新選組復権の先駆となったのが、子母澤寛『新選組始末記』(1928)の刊行だ。(略)そして現在まで続く新選組のイメージを決定づけたのが、1960年代に連載刊行された司馬遼太郎の『新選組血風録』と『燃えよ剣』である。
續谷真紀は、司馬作品では、虚構があたかも史実であるかのように巧みに織り込まれていることに注目する。(略)司馬が確立した虚構と史実を織り交ぜるスタイル、つまり、詩学と史学の融合が新選組人気の理由の一つだ。(P253~255)
著者(岡本亮輔)は詩学と史学の融合は、赤穂浪士(泉岳寺)、鼠小僧(両国回向院)、四谷怪談(お岩稲荷)などにも共通する物語化の典型だという。赤穂浪士については、討ち入り事件という史実を土台にして、歌舞伎や浄瑠璃が創作を加えて演じられることによって大衆レベルに浸透した。

近代・現代に入ると、九州日報主幹の福本日南が著した『元禄快挙録』、浪曲師・桃中軒雲衛門が演じた『義士銘々伝』が人気を博し、続いて昭和になると、大佛次郎作の『赤穂浪士』をNHKテレビが大河ドラマに仕立て、赤穂浪士人気を不動のものにした。その大河ドラマは、驚異的視聴率を稼いだという。こうして泉岳寺は赤穂浪士の霊が祀られた聖地として、今日でも人気の場所である。

・物語を伝達する者

伝達する者にも変遷がみられる。古代・中世・近世前期において物語の伝達を担ったのは非農業民であった。一般に移動の自由が制限された時代に日本各地を遊行できたのは漂泊の民である。彼らの出自は古代、平民に対し職人と呼ばれた者に由来する。みずからの身につけた職能を通じて、天皇家、摂関家、民仏神と結びつき、供御人(くごにん)、殿下細工、寄人(よりうど)、神人(じにん)などの称号を与えられて奉仕するかわりに、平民の負担する年貢・公事課役を免除されたほか、交通上の特権などを保証された。その一部は荘園・公領に給免田畠を与えられたのである。中世社会には農業以外の生業に主として携わる非農業民(原始・古代以来の海民,山民,芸能民,呪術的宗教者,それに商工民など)が台頭し、全国を移動する自由をもった彼らが情報伝達の役を担ったと思われる。(参考:平凡社世界大百科事典)

近世の中後期になると、瓦版、絵本、図鑑、書物等の紙のメディアが都市を中心に発達した。その結果、非農業民の口伝に加えて、都市を中心にそれらも情報伝達の役を担った。近代、現代ではいうまでもなく、新聞、雑誌、ラジオ、テレビといったマスメディアであり、ポストモダンのいまではマスメディアとともに、SNSが聖地形成の重要な手段となっている。

帝国主義権力と聖地

本題にある江戸東京は、大雑把には4つの時代に区分される。

(1)古代、中世まで、この地は京(中央)から遠い辺境の地。とはいえ、中央の文化(文学、芸能、宗教等)は当然のことながら、この地にも移入されていた。
(2)近世からは、江戸幕府が置かれた中央に格上げされ、江戸は世界有数の規模を誇る都市に成長した。
(3)明治維新後は帝都・東京として発展を続けた。
(4)アジア太平洋戦争の日本帝国の敗戦で壊滅的打撃を受けた東京だが、奇跡の復活を遂げ、世界的メガシティとして繁栄を取り戻し今日に至っている。

なかで江戸東京の大転換は(3)の時代である。まず江戸幕府の聖地の破壊が進行した。たとえば、徳川家の菩提寺である寛永寺が上野戦争で焼失したことを機に、寛永寺という幕府の聖地は破壊され博覧会の会場となり、その後、恩賜公園として整備された。(P122~)

明治維新後の日本は日清、日露、第一次世界大戦、中国侵略、アジア太平洋戦争と、帝国主義戦争の時代であった。そして、帝国主義戦争を継続した体制によって、その維持に資するための「聖地」が体制の手によってつくられた。

1868年(明治維新)から1945年(アジア太平洋戦争敗戦)までの期間につくられたいわば官製の「聖地」は、本書に書かれたほかの聖地のどれとも異なる。生活者が塗炭の苦しみから助けを求めてすがった神社仏閣、偉人、聖人とはかけ離れた、「軍神」と呼ばれる者(に関係する地)が帝国主義国家の「聖地」とされた。彼らの「偉業」を物質化するために銅像や慰霊碑が建立され、その「偉業」を讃えるための「教育」が修身の名のもとに児童生徒に施された。このような聖地(そこに建てられた銅像や慰霊碑を含む)は、国体護持のためのアイコンにすぎない。

本書は取り上げていない聖地を二つほど紹介しよう。その第一は二宮尊徳の像だ。この像はかつて、日本のいたるところの小中学校に建てられていたという。薪を背負いながら本を読んで歩く姿(「負薪読書図」と呼ばれる)から聖なる感覚は呼び起こされるには至らないが、そこには権力側が望む人間像――休むことなく労働と勉学に勤しむ奴隷的労働者を奨励する帝国主義国家の意図――が透けて見える。帝国主義国家が人民に強制する道徳観である。

二宮尊徳もまた、修身の教科書に取り入れられた。その像が学校に建立されるということは、尊徳(像)というアイコンにより、学校という空間の聖地化及び当時の軍国主義教育という観念の聖域化が帝国主義国家によって目指された結果である。

東京・渋谷駅前に建てられた「忠犬ハチ公」もその類である。今日「忠犬ハチ公」の像は待ち合わせ場所の目印となっていて、それを聖地と見做す人はいない。そもそもハチ公とは、死去した飼い主の帰りを東京・渋谷駅の前で約10年間のあいだ待ち続けた犬(ペット)にすぎない。

ハチ公も帝国主義戦争のイデオロギーと無関係ではない。忠犬の「忠」は、上に素直に従う人格を象徴する語で、戦時下、上官の命令に忠実に従う兵士、及び、帝国主義政府の方針に文句を言わない人心――を醸成する物語として、修身の教科書に載せられ、広く国民の思想教育の具となった。

本書で取り上げられた「広瀬中佐像」(高山→東京・万世橋)、乃木神社(東京・港区)、東郷神社(東京・神宮前)も華々しい軍功が物語として語られ(もちろん事実ではない)、教科書に載せられ、臣民教育の一助とされた。それだけではない。これら「軍神」の像は彼らの故郷ではなく、帝都(東京)に建立されたことも忘れてはいけない。

聖地マーケティング

今日の「聖地」には、神社仏閣の経営戦略によって、大衆レベルに認知されたものが散見される。恋愛成就(縁結び)、健康志向等を背景にして、それらの祈願成就事例を創作し、それに関連するグッズを開発し、大量集客を求めて祈祷料、賽銭等を得ようとするものである。その結果、ほんらいの縁起と無関係の「聖地」が誕生している。その成功を意図的とするか、偶然によるものかの論議の余地はあるとしても。

・神前結婚という商品開発(東京大神宮)

文金島田の花嫁と羽織袴の花婿が神主の立会いのもと、三々九度を上げる神前結婚。日本古来の風習と思いきや、わずか100年前に東京大神宮(東京・千代田区富士見)で整備された儀礼だったとは(筆者は本書で初めて知った)。やがて全国の神社で一般化し、結婚式場の建設と平行して一般化し、今日に至っているという。筆者(岡本亮輔)は「重要なのは、神前結婚式が合理的な婚礼形式とみなされたことである。」(P200)と指摘するが。

・パワースポット・ブーム

新たな聖地がパワースポットと名を変えて形成されようとしている。アニメ、コミック、ラノベ(ライトノベル)等の若者向け表現が、LINE、フェイスブック、ツイッター、インスタグラム等のSNSによって拡散され、人々が集まりだした結果の新聖地の誕生である。知名度を得た新聖地は、グッズ(絵馬、御神籤、お守り等)や体験型商品(滝行、祈祷等)の開発に乗り出し、経営の一助としている。これら新聖地の事業の是非は論じない。聖地として信じる者には、そこが聖地なのだから。

聖地のいかがわしさ

“いかがわしい”という表現が適当かどうか迷ったが、ほかに適切な言葉が見つからなかったので使用する。本書に取り上げられた「縁切榎」という聖地についてである。「縁切榎」は現在の東京・板橋区にある。この榎に念ずれば、縁切りが可能だと信じられ大衆的支持を集め、聖地として今日に至っている。

江戸期、女性からの離縁は不可能だった。どんなに不幸な結婚生活を強いられようと、相手と縁が切れない。そのため離縁を果たそうとする女性の信仰を広く集めた。また、男が娼妓にはまって普通の生活ができなくなったことを憂えた家族が、娼妓との縁切りを願ったという事例もある。やがて縁切りは男女関係に限定されず、難病・悪病との縁切り、過度な飲酒の縁切り(=断酒)にまで拡張された。

さて、「縁切榎」にまつわる負(と筆者が感じた)事例を著者(岡本亮輔)が取り上げている。“1934年6月の朝日新聞には、恨みは「縁切榎」 縁談破れて娘服毒 という記事がある(P66)”と。

この事件は破談された22才の女性が揮発油を飲んで自殺未遂したというもの。義兄がもってきた縁談が途中までうまくいっていたが、破談にあう。その理由は男性側が、「縁切榎」の近くを通った女性を嫁にもらいたくないと言い出したせいだ。女性の実家が埼玉県の沼影にあり、帰郷するたびに「縁切榎」の横を通る。そのことを男性側が嫌がって破談にしたのだという。わずか80余年前にそんな迷信がと思うかもしれないが、それが事実なのだから仕方がない。

筆者は、この男性側の言い分を信じない。筆者の推測にすぎないが、女性が「縁切榎」を通ったというのは破談の真の理由ではなかろう。おそらく男性が別の良縁を得て、この縁談を破談にしたがったのだろう。ところが適当な理由が見つからない。そこで「縁切榎」を利用したのだ(と思う)。

男性からの一方的な破談の申し出なのだから、女性側に対して謝罪と慰謝があって当然なのだが、男性側がそれを回避して「縁切榎」という聖地を持ち出すとは、なんと卑劣な理由付けだと思うが、女性の一方的な泣き寝入りである。服毒自殺未遂とは気の毒というほかない。聖地の悪用事例だと筆者は信ずる。

(おわりに)

聖地は、生活者のギリギリの願いや祈りによって形成されたものばかりとは限らない。近年、安易で手軽な聖地(化)もなくはない。体制側による民衆コントロールの具や、帝国主義イデオロギーの醸成のための聖地もある。権力の暴力的移行に伴い犠牲となった敗者の死――荒ぶる魂――を恐れた聖地もある。怨霊信仰に基づく勝者側の保身と畏怖でつくられた聖地である。近年では、寺院、神社の経営(マーケティング)のためにつくられた新しい聖地もある。先述のように、「縁切榎」という聖地を悪用したと思われる事例もある。

本書は江戸東京に限定された聖地の紹介であるが、読みごたえがあり、信頼のおける聖地論となっている。筆者の住まいに近い聖地が多数紹介されていて、一度は訪れてみたいと思わせる情報の質と量を備えている。本書の帯に記された「東京を味わう」というコピーはうってつけ――まさに良質の料理に例えられよう。