2019年7月17日水曜日

『苦海浄土 わが水俣病』

●石牟礼道子〔著〕 ●講談社文庫(新装版) ●690円+税

本書については、巻末解説『石牟礼道子の世界』(渡辺京二)及び『水俣病の五十年』(原田正純)においてすべて尽くされていて、つけ加えることはなにもない。とりわけ前者は、著者の近くにあって、しかも本書を実質上、世に送り出したともいえる渡辺京二の言説であり、解説以上の価値と内容がある。

『苦海浄土』の多様性

本書にはいくつもの顔がある。▽水俣病を発病させた新日本窒素水俣工場(チッソ)の企業犯罪を告発する側面、▽被害者の病状や苦痛及び被害者の生活苦を代弁する側面、▽水俣病と闘い続けた反公害運動のプロセスを開示する側面、▽土着=被害者である漁業者等⇔市民=チッソという大企業に生活を依拠している工場労働者及び地域事業者等の敵対的関係、▽公害に対して企業寄りの姿勢を堅持した行政(自治体、厚生省、警察)の犯罪性の告発…などを読み取ることが可能である。

『苦海浄土』の今日性

水俣病の被害者が出てから解決までおよそ半世紀を要したばかりか、水俣病の原因が、チッソによる有機水銀が溶解した工場排水であると認定されたにもかかわらず、同社は操業を続け、排水を止めることがなかった。行政も事実上、操業を黙認していた。このことは、新自由主義経済の強欲資本主義が席巻する今日の状況に通じている。そればかりではない。3.11で崩壊したはずの「原発安全神話」が復活し、日本各地の原発再稼働ばかりか、原発輸出、原発再建設の話までが出始める今日の経済社会状況にも通じている。

日本の公害は過疎地、辺境と呼ばれているところで発生することが多い。原発も然りである。過疎地や辺境の人々の暮らしを豊かにするという建前で大工場(原発)が誘致され、資本は雇用を増やし、消費を増やし、税収を増やし、インフラが整備されることで地域に貢献していると喧伝する。実際、そのような面を否定はできない。

ところがその一方、公害が発生し(原発事故が起こり)、企業の犯罪性が露見するや否や態度を硬化させ、原因の科学的究明を盾に時間を稼ぎ、被害を増大化させる。行政も資本の側に立ち、操業停止をみおくる。補償交渉は長期化し、補償がまとまるまでにおよそ半世紀を要する。

福島原発事故による被曝被害が科学的(医学的)に証明されるまで、半世紀以上を要するとするならば、世代を超えた被害を認めることなく、一次加害者及び被害者はこの世の人ではなくなる。恐ろしいことだ。

『苦海浄土』の本質

筆者を含めた多くの、いやおそらくすべての読者は、前出の渡辺京二の解説のなかの一文に衝撃を受けるであろう。それは、「実をいえば『苦海浄土』は聞き書きなぞではないしルポルタージュですらない。」(P368)という部分である。本書に溢れるようにおさめられた水俣病被害者の声が聞き書きではない、と知らされ、後方から頭を殴られたような思いがするにちがいない。本書は一見ドキュメンタリーのような体裁をとりながら、石牟礼道子の創作だというのだ。渡辺は石牟礼道子を「記録作家ではなく、一個の幻想詩人」(P378)といい、「この作品(『苦海浄土』)は石牟礼道子の私小説であり、それを生んだのは彼女の不幸な意識だ」という。

その理由や渡辺がいう本書の〈世界〉がどのようなものなのかについては、本書を及び解説を熟読して、読者諸氏それぞれがそれぞれの思いをめぐらすことが重要である。

さて、渡辺京二の解説と異なる位相において、著者(石牟礼道子)の立ち位置を筆者なりに推測する根拠は、「第一章 椿の海」に収められた「死旗(しにはた)」の次の箇所である。
・・・僻村といえども、われわれの風土や、そこに生きる生命の根源に対して加えられた、そしてなお加えられつつある近代産業の所業はどのような人格としてとらえられなければならないか。独占資本のあくなき搾取のひとつの形態といえば、こと足りてしまうかもしれぬが、私の故郷にいまだたち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の原語と心得ている私は、私のアニミズムとプレアミニズムを調合して、近代への呪術師とならねばならぬ。(P75)
近代への呪術師と自己規定した石牟礼道子。水俣の風土とそこに生きる生命の根源からの声なき声が彼女に憑依し、『苦海浄土』という文学作品に昇華したのだとしたら、近代的な文学の方法論を超越した文学の成立を本書に見出すことが可能である。