●渡辺京二〔著〕 ●弦書房 ●2300円+税
有機水銀により神経を犯された患者の症状は、地獄絵と評するがふさわしいほど独特で凄惨を極めたものだった。患者の苦しみが写真・映像等で広く報道されることにより、チッソを糾弾する声が日本全国から上がった。
著者(渡辺京二)は、チッソを糾弾し被害患者を支援する団体の一つである「水俣病を告発する会」の会員として水俣病闘争に関わった。当時、総評、共産党系等の支援団体は、被害患者の多数派が補償について厚生省(当時)裁定に一任する旨の意思表明に従い、裁判闘争に移行した。その一方、「告発する会」は、チッソ側と直接補償交渉を行う闘争方針を掲げた「自主交渉派」と呼ばれる被害患者団体を支援した団体である。「告発する会」は東京のチッソ本社を一時占拠するなど、精力的な闘争を持続した。
「革命の主体」の発見
著者(渡辺京二)は、「告発する会」の自主交渉の闘争になぜ、同伴したのか。彼の闘争参加の目的・根拠はなんだったのか。本書ではそのことが明らかにされている。
「銭は一銭もいらん。会社のえらか順から、死人の数だけ有機水銀ば飲んでくれれば、それでよか」。
(略)前掲の(患者の)言葉は、ひくにひけぬ断崖に追い詰められた下層民の腹のすわりを示したものである。
(略)良識とか秩序とか共同社会の利益とかにからめて、圧服させようとするものに対し、こちらはそういうものによって無拘束であること、勝負はどちらかが倒れるまでの真剣勝負であることをいい切ったものである。すなわち、抑圧された下層生活民のアナーキーな情念が噴出しているのだ。(「現実と幻のはざま」P14)
著者(渡辺京二)は水俣病被害患者が出た水俣市沿岸部で生活を営む漁民を〈下層民〉と表記しているが、別の章でそれに注釈をつけている。
それ(下層民)はかならずしも貧困や隷属を意味しない。
(略)彼らは……彼らなりの海浜の民としての「栄華」をたのしみ、いまだかつて資本に隷属したことのないものの誇りを抱いてきたのである。
(略)彼らを下層民と規定するのは、彼らが日本近代社会の組織的法則の強制力によって、社会下層に沈殿する疎外者として解体されたからである。彼らはその漁民共同体を解体されつつも、けっして日本資本制社会の支配関係に統合され尽くすことはなかった。彼らに対する解体疎外の作用は、ついに水俣病という激烈な様相をとりつつ完結した。彼らはこうして日本近代社会の疎外者から、それへの叛逆者として転生する。(「死民と日常」P33-35)
市民社会と流民型労働者
水俣病闘争は全国から支援を受けたと前述したが、その内実は複雑だった。水俣市は水俣病発生当時、人口4万5千超の小さなまちである。市の財政はチッソに全面的に依存していた。水俣市民の大半はチッソの工場労働者等として、及び、その関連で生計を立てている事業者等であり、著者(渡辺京二)が下層民と規定した水俣病患者が続出した沿岸部漁民とは異質な生活基盤を築いていた。そのため、水俣市民は水俣病患者を差別したばかりか、公害補償でチッソ工場が撤退することを恐れ、水俣病闘争に反目した。水俣の工場労働者(プロレタリアート)が水俣病患者(下層民)に敵意を抱いていたことも事実なのだ。
(水俣病患者のなかの)自主交渉派の患者に対する水俣市民有志の攻撃ビラの中に、一市民の発言として「あいつらは弱った魚を食べたから奇病になったのはこれは事実じゃ。やっぱり本当の漁師が専門に取って、金を取って喰わせる魚を食わんとが一番悪かったごとあるなあ」と……。(「流民型労働者考」P42)
水俣湾沿岸部の漁民に水俣病患者が多く出たことはすでに書いた。その彼らは、九州の資本主義産業にひかれて出郷したものの、近代産業労働者として定着することに失敗し、「なになに流れ」という家を構えてふたたび村を構成した者だという。出郷と流着のメカニズムの構造が水俣病患者への差別の根底にあった。
彼らは、「わが国の近代市民社会を構成する正統的な市民生活形態(官吏、サラリーマン、大企業労働者、知識的職業人、軍人等々)のたどりつくことができなかった意識上の流民形態(「流民型労働者考」P48)」として水俣湾沿岸に定着し、そして水俣病患者になってしまった。
賤民化した流民を統合した戦前の天皇制
著者(渡辺京二)は、水俣病患者を多数出した漁村地区の存在形態と国家意識を次のように素描する。この箇所は著者(渡辺京二)の革命論の肝というべきところなので、長文を引用する。
それならばこのようなわが水俣漁村地区の流民の意識そのものはどういう規定においてとらえられるだろうか。故郷から放逐されながら正統的な市民社会の構成に加わることができないその周辺的な位置のゆえに、彼らの意識は中核において矛盾にひきさかれ、一方ではそこから放逐されたところの故郷=農村共同体へのノスタルジーとなって現れ、他方では、近代から疎外されているだけになおさら強烈な近代へのあこがれとなって現れる。この意味で流民とは、安定した部落共同体的支配と都市における近代市民統合とのはざまに陥没した意識のありかたであり、つねに何ものかに慕いよる意識のヴェクトルであるということができよう。このつねに何ものかに慕いよる流民する意識を把握するものこそ戦前社会における天皇制であった。
戦前段階における日本資本制の基本的特徴は全国民を市民社会的関係において編成しつくすことがまだ不可能だったという点にある。……わが近代資本制国家は天皇制というイデオロギー的装置によって、これら下層民を近代市民社会的関係に適応する正規の構成員となんら変わらぬ平等な臣としてその支配に統合したのである。
(略)戦後社会は憲法的擬制と利益配分体系によってそれ(全生活民)を国民として統合しようとする。しかし天皇制的統合から解き放たれた流民は、近代市民社会の原理によって統合されないままに戦後社会の漂流者となる。なぜなら、小作農民は出郷せざる土着の正統的住民として農協を通じて、労働者は労働諸法によって正統性を保証された大労組通じて、それぞれ戦後社会の正統的メンバーとして市民意識を獲得していったのに対して、流民的意識はそのような市民社会的構成に編入され、市民的論理によって教育されることを無意識にこばむことにおいて、戦後社会の域外の民としてとどまったからである。(「流民型労働者考」P52-53)
「流民型労働者」が自主交渉グループの中心
自主交渉闘争の担い手となった患者を著者(渡辺京二)は次のように評している。「もちろんこのグループの患者には古典的な流民の意識圏にふくまれる人びともいるわけだが、すくなくとも自主交渉闘争の中心的な担い手だった川本輝夫さん、佐藤武春さん、江郷下一美さんの三人には前述のような流民的意識の古典態をつきぬけたところがあり、……彼らの意識類型をひとつのカテゴリーとして設定するなら、「流民型労働者」という……言葉がもっとも適切であるように思われる。(「流民型労働者考」P55)
流民型労働者の日常と水俣病
水俣に限らず、農村部から出郷して大都会に出た者のなかにも、前出の官吏、軍人、サラリーマン、労働者等になることがかなわず、大都市型流民となった者が存在した。彼らは山谷(東京)、釜ヶ崎(大阪)に代表される寄せ場といわれる簡易宿泊街に漂着し、日払いのその日暮らしの単純労働に従事したし、いまでもその形に変化はない。
では、大都市型流民と水俣の流民型労働者との違いはなにか。前者が完全に自然と分離しているのに対し、後者は自然(海=漁業、土=農業)との接点を持ち続けている点だろう。本書では、土本典昭監督の記録映画「水俣―患者さんとその世界」のなかの水俣病患者である「流民型労働者」の老人がタコ漁をするシーンが紹介される。著者(渡辺京二)はタコ漁をする老人の姿に水俣の流民型労働者の自然を基盤とした膨大な日常的部分によって構造づけられた存在を見る。
生活者の日常の位相は、彼らの上にそそり立つ経済・政治・法などもろもろの諸制度、諸機構の位相とまったく異なっており、その支配をうけつつも、核心部分にはけっして侵入を許さない頑固さを保ち続けている。……その日常の位相が日本近代の市民社会組織を根底から否定するものであり、生活民の自立した闘争としての水俣病闘争がそのような水俣病下層民の生活の位相に根拠をおかざるをえないことを暗示しているのである。(「死民と日常」P29-30)
大都市型流民と水俣の流民型労働者を比較して優劣をつけるわけではない。大都市には、自然と切断された大都市型の生活があり、水俣には、自然と接合した水俣型の生活があったというだけの話である。水俣の流民型労働者は、水俣病を媒介して、水俣の生活の位相を根拠にして、水俣病闘争を闘い抜いたということである。
水俣病闘争の時代
水俣病闘争が展開された1960年代後半から1970年代前半にかけては、日本社会のなかに反戦平和主義が強く意識され、かつ、高度経済成長の歪みが各所に噴出していたことから、労働組織や市民運動の力は現在よりも強かった。加えて、学生運動等の革命運動も活発であった。前者は革新勢力とよばれ、社会党・共産党が指導部となっていた。しかし、両党は水俣病闘争を自党の勢力拡大を目的として介入していたため、患者(被害者)よりも党利を優先する傾向にあった。また、後者は、既存左翼を否定する新左翼各派が指導し、革命運動の一環として水俣病闘争に関与していた。
著者(渡辺京二)らの自主交渉闘争派支援者は、新旧左翼勢力の政治利用とは一線を画し、自主交渉派患者に無条件で同伴することだった。
著者(渡辺京二)らの自主交渉闘争派支援者は、新旧左翼勢力の政治利用とは一線を画し、自主交渉派患者に無条件で同伴することだった。
水俣病闘争は成立の日から今日まで、患者の存在を原点とし、その意志を一切の規準とするということを不可侵の原則として進められてきた。それはたんなる運動のモラルであったのではなく、水俣下層民の存在と意識の深層から自立する運動以外に水俣病闘争はありえない、という基本的な方法論・認識論であった。(「『わが死民』解説」P112)
谷川雁と渡辺京二
著者である渡辺京二(1930-)の運動論は、谷川雁(1923-1995)の影響を受けていないだろうか。渡辺は旧制熊本中学に在学し、現在も熊本市に在住して執筆活動等を行っている。渡辺が水俣病闘争に参加したのも地縁が働いている可能性が高い。谷川雁は水俣の出身、民俗学者で本書にも登場する谷川健一は雁の兄である。
渡辺と谷川がどのような関係にあったのかは、本書からはうかがえないが、東京において、年長の谷川雁が渡辺京二を支えたことがわかっている。渡辺が雁の思想的影響を受けたことはまちがいない。
ただ、谷川雁は水俣病問題について、石牟礼道子(1927- 2018)に宛てた私信のような形式で短文を書いていて、その内容を大雑把にいえば、『苦海浄土』の著作で水俣病を世に知らしめた石牟礼道子批判である。雁も石牟礼も水俣出身者である。
一方、著者(渡辺京二)は熊本県在住ではあったが水俣出身ではないものの、石牟礼の『苦海浄土』を世に出した編集者であり、関係性は雁より強かったのではないか。雁の短文を読む限り、石牟礼道子をめぐる距離は、谷川雁と渡辺京二とでは微妙に異なる。
著者(渡辺京二)は水俣病患者が多発する漁師部落の歴史的な成りたちを石牟礼道子の談話「流民の都」から提供してもらったと書いている(「流民型労働者考」P42)。「流民の都」によると、同地域の流民は、薩摩、天草、アメリカ、アルゼンチン、南洋、フィリピンなどに出ていきながら、そこから帰ってきた人たちが定着して村になっていたところで、それぞれの家は「なになに流れ」と呼ばれ、定着した流民は長崎造船所等の大工場のなかの単純労働に従事する者として、生計を立てていたという。
「流民の都」を読んだ著者(渡辺京二)は、「そもそもある程度発達した準位の資本制を導入せざるをえない後進国の場合、出郷した農民がそのままでは能率的な労働力になりにくいのは当然のことで、平均的な工業プロレタリアートの形成のかわりに、労働力として劣弱な部分が選別されていわば賤民化される現象は、なにもわが国の場合にかぎった話ではない。(「流民型労働者考」P47)と全面肯定し、「水俣市周辺地区の漁民――それは水俣病患者の主層であるのだが――は、わが近代資本制の分解力の一定の準位の結果として、農村共同体(故郷)から放逐されながらついに近代的労働者として定着できず、……流民化し都市周辺に漁民、労務者、小商人などの形で定着する(「流民型労働者考」P47)」と結論づけた。
一方の谷川雁は水俣について次のよう書いている。
水俣は移住民・流民の町です。あなた(石牟礼道子)の親も私の親もそうです。それゆえ新しい民への差別がいちじるしい。
(略)チッソ工場進出以前に、この一帯には田畑も定職もない農村遊民がいくらも存在していて、かれらが工場に吸いよせられるまで、この主なき浜辺はかれらの遊びとも仕事ともつかぬ行動圏だったのですから。……村の日雇いより八銭安く、会社勧進(乞食)とよばれ、道でも顔をそむけられた〈南九州の神武たち〉とその子孫、これが精神の純粋種としての〈第一の水俣〉です。
(略)〈第二の水俣〉は水俣病患者の層です。かれらは身体性に富んだ思想的な発言で都市住民をおどろかしたが、あなたのいうように、ちっぽけな泉水にひとしいあの海との接触だけで言葉を養ってきたとはいえません。かれらをきたえたのは〈第一の水俣〉の白い眼です。
(略)〈水銀以前〉の水俣を、あなたは聖化しました。……それが〈水俣病〉の宣伝にある効果を与えたのも事実です。
しかし患者を自然民と単純化し、負性のない精神を自動的にうみだす暮らしが破壊されたとする、あなたの告発の論理には〈暗点〉がありませんか。小世界であればあるほど、そこに渦巻く負性を消してしまえば錯誤が生じます。なぜなら負性の相克こそ、水俣病をめぐって沸騰したローカルな批評精神の唯一の光源ですから。
あなたの水俣には底面の葛藤がありません。結局のところ病の狂乱のただなかへ古い神話性をよびもどすことで終わった。(『〈非水銀性患者〉水俣病・一号患者の死』(1990年6月「すばる」/『谷川雁の仕事(上)』P210)
谷川雁の石牟礼道子批判が本書と関係があるものか、といわれるかもしれない。が、谷川雁によれば、本書の著者(渡辺京二)が定義した「流民労働者」が基層の民ではなく、〈第二の水俣〉だといい、それを先験的に原初的革命主体だとすると見誤る、ということだけはいえる。
だが、石牟礼を批判した谷川雁も石牟礼批判の前に『農村と詩』(1957年1月『講座現代詩』Ⅲ)で次のように書いていたが。
無名民衆の優しさ、前プロレタリアートの感情……それらを理念として表現すれば東洋風のアナルコ・サンジカリズムとでも呼べばいいと思う。……日本のコミュニズムは日本それ自体の土壌に発生した前コミュニズムの内在を明らかにすることなしには一歩も前進することはできない。それはもっとも初歩的な弁証法の原理である。(『谷川雁の仕事』P102)
基層、古層、下層、故郷、出郷、流民、無名民衆、前コミュニズム、前プロレタリアート……といった概念は聖性を纏った、ロマン主義的魅力にあふれていて、それらに抵抗することは難しい。しかも、原点だと確信したものがそうでないこともある。その結果、思わず思想的錯誤を犯し、足をすくわれることもある。