2019年11月2日土曜日

日本版「FEMA」の可能性

東日本を襲った台風19号の被害状況が今なお報道され続けている。一日も早い復興を祈るばかりである。

治水が王であるための条件

世界4大文明(インダス川、ナイル川、黄河、チグリス・ユーフラテス川)の歴史が示すとおり、河川は氾濫により人々を恐怖に陥れる一方、肥沃な土壌をもたすことで富(農業生産力の向上)を築いた。そのことが、文明発達を促進してきた。国を治めるということは、治水、灌漑、すなわち河川をコントロールすることだった。そのことが為政者、王たるための要件であった。

治水ができない日本の首相

翻って日本の現政権(そのトップ安倍)をみると、河川の氾濫に無策である。このことをもってしても、安倍は為政者トップの資格がない。もちろん、諸々の点で彼は総理大臣である資質に欠けているのだが。

国交省河川局は無為無策

今日、日本の災害対策は崩壊している。大型公共事業を仕切る国交省、とりわけ同省河川局は利権の草刈場と化していて、住民の安全を守るための事業を疎かにしている。気象庁は警報を発するだけ。「命を守る行動を」という呼びかけは間違ってはいないが、具体性がまったくない。災害がふりかかったときの避難方法、および、被災後の救済については市区町村(地方自治体)任せ。国が動くとしたら、自衛隊の派遣にとどまる。市区町村の職員はよくやっていると思うけれど、市区町村レベルのヒト、モノ、カネには限界がある。要するに、災害に対する総合的司令塔の不在、すなわち、災害に対して一貫した対策を取れる組織が日本にはない。

米国におけるFEMAの創設とその失敗

そこで思い出されるのが米国のFEMA (アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁)の存在である。FEMAは1974年、カーター大統領により大規模災害に対処するため、連邦政府(大統領)直轄の省庁横断的組織として創設された。その後、ブッシュ政権時代の2003年、国土安全保障省に編入され、2005年の大型ハリケーン、カトリーナの被災に及んでは全く機能せず、今ではその存在は忘れ去られた感がある。

アメリカにおけるFEMAの失敗は、大統領直轄から国土安全保障省への編入という「格下げ」が主因なのか、ほかに原因があるのかについては、研究の余地がある。とはいえ、いまの日本の大規模災害無策状態を脱するため、「日本版FEMA」の創設は有効か、という議論があって然るべきだと思うが、そのような雰囲気はいまの日本にない。その理由は、新自由主義の強い影響化にある日本、すべてが「自己責任」で片付けられるからである。加えて、役所を大きくすることに対する懸念、税金のムダ使いという批判の空気が強まっているからである。

日本では省庁横断的組織は機能しない?

「日本版FEMA」創設に対する懸念の根拠はそればかりではない。日本でも新設の横断的省庁は成功しない事例が多いことである。霞が関に新設される横断的省庁は、各省庁からの出向者で構成される。出向者は本籍の利益を誘導することが行動原理となるため、本来とるべき国民優先の政策が実現しにくい。


災害対策に不向きな霞が関の職員たち

もう一つ、霞ヶ関の職員は秀才揃いだが、かれらは調整力や事務力は高いが、災害現場に出かけて行って汚れ仕事をしたり、臨機応変に物事に対処する能力はなきに等しい。つまり災害現場で力を発揮できるような資質に欠ける者がほとんどである。

さはさりながら、『日本版FEMA」がアメリカで創設された当時のように大統領直轄、日本ならば首相直轄の省庁として創設されるならば、はかりしれないメリットがある。


そのメリットとは、先の台風19号来襲のときのように首相がラグビー観戦するようなことは絶対にできなくなるし、いつぞやのように、豪雨予報が発せられるなか、首相が取り巻きと都内で高級フランス料理を食するようなこともありえなくなる。

前出のとおり、日本版FEMA(緊急事態管理庁)のトップは安倍首相その人なのだから。