2022年1月11日火曜日

『人新生の「資本論」』

●斉藤幸平〔著〕 ●集英社新書 ●1200円+税

2019年新書大賞を受賞した話題の本である。最近、著者の斉藤幸平はマスメディアにしばしば登場するようになり、情況的発言も目に付くようになった。

危機論型革命論

本書を一口で評するならば、危機論型「マルクス主義」革命論ということになる。19世紀ドイツ、ベルンシュタインに批判された窮乏化論、20世紀日本、革命的共産主義者同盟革マル派に批判された岩田弘の世界資本主義危機論とほぼ同型である。本書の場合、経済危機が、気候変動・生態学的変化――地球環境危機に置き換えられているにすぎない。このまま資本主義を継続すれば、地球、そして人類が滅亡する、その素因は資本主義そのものにある、だから資本主義に代わる経済体制を目指さなければならないと。世界の終わり、終末を煽って世直しを訴える論法である。

マルクスの権威に依拠

もう一つ気になったのは、晩期マルクスに依拠して、持論を権威づけようとする傾向である。晩期マルクスがエコロジーや植民地に関心を示していたという「発見」については興味深いが、その「発見」を検証する能力は筆者にはない。だが、マルクスがその方向に舵を切らず、体系的論考を残さなかったのは歴史的事実であり、だから、どうしてそうなってしまったのか、という問いを設けることはできる。その解として、①マルクスにその時間が残されていなかったから、②マルクスが敢えて論の構築を放棄したから――という二通りの推論が考えつく。筆者は②だと思う。その理由は、マルクスにとって、革命主体はあくまでもプロレタリアでなければならなかったからである。地球環境危機の元凶がブルジョワであるという立論を前面に出せば、『資本論』の書き換えが必要となるし、奴隷的労働を強いられている植民地民衆と19世紀欧州のプロレタリアとを連帯させる思想的環の論理づけも必要となる。晩期マルクスがエコロジー等に関心を示していたのだから、地球環境危機を救うには人類が資本主義を捨てるしかない、そのことが正統的マルクス主義革命論なのだ、という方向づけはマルクスを介した「後だしジャンケン」で、勝ちを宣言するようなものだ。

繰り返すが、晩期マルクスがエコロジー及び植民地に関心を示していた文献の「発見」は、マルクス研究における偉業であるとしても、マルクス主義はマルクスが世に出した研究結果をもって評価すべきであり、世に出さなかった関心事は、マルクスの限界として抑えるべきである。そのような学問的態度が、「21世紀の〈共産主義〉」、「人新生の〈共産主義〉」であり、マルクスの遺志の継承のあるべき姿のように思う。

人新生という本題への疑問

筆者は、本題にある「人新生」という用語がなじまない。著者(斉藤幸平)は「人新生」について、《人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンは地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、それを「人新生(Anthropocene)」と名付けた。(P4)》及び《「人新生」とは、資本主義が生みだした人工物、つまり負荷や矛盾が地球を覆った時代(P364)》という説明をしているにすぎない。浅学の筆者はやむなく、Wikipediaにて、その説明を読んでみた。

人新世(じんしんせい、ひとしんせい、英: Anthropocene)とは、人類が地球の地質や生態系に与えた影響に注目して提案されている、地質時代における現代を含む区分である。オゾンホールの研究でノーベル化学賞を受賞したパウル・クルッツェンらが2000年にAnthropocene(ギリシャ語に由来し、「人間の新たな時代」の意)を提唱し、国際地質科学連合で2009年に人新世作業部会が設置された。和訳名は人新世のほかに新人世(しんじんせい)や人類新世がある。人新世の特徴は、地球温暖化などの気候変動、大量絶滅による生物多様性の喪失、人工物質の増大、化石燃料の燃焼や核実験による堆積物の変化などがあり、人類の活動が原因とされる。
人新世という用語は、科学的な文脈で非公式に使用されており、正式な地質年代とするかについて議論が続いている。人新世の開始年代は様々な提案があり、12,000年前の農耕革命を始まりとするものから、1960年代以降という遅い時期を始まりとする意見まで幅がある。人新世の最も若い年代、特に第二次世界大戦後は社会経済や地球環境の変動が劇的に増加しており、この時期はグレート・アクセラレーション(大加速)と呼ばれる。

Wikipediaの説明を信じるならば、「人新生」という地質年代の開始については一万年以上の幅があり、科学的には正式には確定していない。

ヒトの歴史の始まりは、約20万~ 19万年前に ホモ・サピエンス(現在のヒト)がアフリカに出現し、約10万年前、その一部がアフリカを脱し、ユーラシア各地への移動を開始し、やがて世界各地に拡がったという説が最初だとされる。一つの類もしくは種が地球全体に分布できたということが、ヒトをして地球を制覇しえた素因である。そして有史時代が開始されたのである。

ヒトは地球に対してさまざまな働きかけをし、地球環境を毀損し続けて今日(こんにち)に至っている。ヒトによる非調和的狩猟採集、農耕、遊牧と移動手段としての馬の獲得、灌漑工事、ムラ、都市、クニ、帝国の誕生と階級の発生。地続きのユーラシアと、孤立した南北アメリカ及びオセアニアとのあいだの不均等発展、大航海時代(大帆船と海路の拡張)、植民地経営、搾取、モノカルチャー、奴隷売買、資源の掠奪。そして17~18世紀西欧における化石燃料(石炭を使用した蒸気機関の発明及び石油使用)によるエネルギー革命と、15世紀の印刷機の発明による情報化時代の到来もグレート・アクセラレーションの基礎をなした。18~19世紀の産業革命と資本主義経済の開始によって、地球環境の毀損の具合は決定的に悪化した。人新生の始まりはヒトの誕生か、農耕・遊牧の開始か、大航海時代か、産業革命(エネルギー革命)か・・・定かではないにもかかわらず、本題に〈人新生〉を付けてしまうということはきわめて乱暴な所作だと思える。本書の内容から本題に相応しいものとしては、〈晩期マルクスと脱成長コミュニズム〉くらいではないか。

本書キーワード、外部化(不可視化)

著者(斉藤幸平)の視点を整理してみる。第一の視点は、外部化(不可視化)である。現在の先進資本主義国家は、生態学的帝国主義によりグローバル・サウス(主に南の発展途上国)に資本主義的矛盾を外部化(不可視化)することによって、帝国主義的生活様式を維持しているというもの。この視点はウォーラースティンの「世界システム論」の援用により以下のように深化される。《ウォーラースティンの見立てでは、資本主義は「中核」と「周辺」で構成されている。グローバル・サウスという周辺部から廉価な労働力を搾取し、その生産物を買い叩くことで、中核部はより大きな利潤を上げてきた。労働力の「不等価交換」によって、先進国の「過剰発展」と周辺部の「過小発展」を引き起こしていると、ウォーラースティンは考えたのだった(P30)》。著者(斉藤幸平)はウォーラースティンの中核部と周辺部におけるギャップについて、それを資本主義の片側(人間の労働力)しか扱ってこなかったと批判し、もう一方の本質的側面として地球環境を挙げる。《資本主義による収奪の対象は周辺部の労働力だけではなく、地球環境全体なのだ。資源、エネルギー、食料も先進国との「不等価交換」によってグローバル・サウスから奪われていくのである。人間を資本蓄積のための道具として扱う資本主義は、自然もまた単なる掠奪の対象とみなす。このことが本書の基本的主張のひとつをなす(P32)》。

著者(斉藤幸平)の外部化(不可視化)という指摘は大変重要なキーワードである。外部化は、先進国によるグローバル・サウスを対象としたものだけではない。先進国、たとえば日本においては、沖縄という地域は内地から外部化されている。また、日本社会のなかでもエッセンシャルワーカーや派遣社員、在日の人々、外国人実習生らは外部化されている。

外部化はマスメディアが報道しないから起こるのではない。われわれ自身の内部が不都合な真実に目をつぶるのである。著者(斉藤幸平)は《「外部化社会」として先進国を糾弾するレーセニッヒによれば、・・・「どこか遠く」の人々や自然環境に負荷を転嫁し、その真の費用を不払いにすることこそが、私たちの豊かな生活の条件なのである(P33》と書いている。

ただ、外部化という重要な視点は、第1章~第3章まで一貫した流れとして読めるのだが、第4章〈「人新生」のマルクス〉を挟んで、第5章~第7章と非連続的である。そこをつなぐのが、第4章なのだろうけれど、違和感を覚える。その理由は前出の通り、晩期マルクスのエコロジーに対する関心の「発見」が、持論の権威付けになっているからである。

新自由主義と地球環境危機

地球環境危機を克服する方法論は概ね次の3つである。第一は、新自由主義を信奉する人々の立場で、市場がすべてを解決するという主張である。本書に登場するナオミ・クラインはトランプ前大統領を批判した書において次のように書いている。

新自由主義を信奉して経済を運営し、その価値観で社会をリードしたいトランプ政権にとって、地球温暖化に始まる地球環境問題は最大のネックである。トランプ政権が前出のとおり、化石燃料産業を代表とする面々により構成されていることは既にみた。地球温暖化対策としての二酸化炭素排出量規制は彼ら利益を損なうが故という面も否定できない。それもそうなのだが、「気候変動は現代の保守主義(新自由主義)が足場にするイデオロギーを粉々に打ち砕いてしまうのだ。気候危機が現実のものだと認めることは、新自由主義の終わりを認めることになる」(『Noでは足りない―トランプ・ショックに対処する方法』P98)

筋金入りの保守派が気候変動を否定するのは、気候変動対策によって脅威にさらされる莫大な富を守ろうとするだけではない。彼らは、それよりももっと大切なもの――新自由主義というイデオロギー・プロジェクト――を守ろうとしているのだ。すなわち、市場は常に正しく、規制は常に間違いで、民間は善であり公共は悪、公共サービスを支える税金は最悪だとする考え方である。(同書/P96)


新自由主義は市場原理主義とも言われる。市場がすべてを善に向けて解決するのだから、市場に公共(政府等)が関与すべきでないとする。かつて公害問題が発生した時代に「外部不経済」と呼ばれたものだ。先進国では、公害が市場原理によって解決されたと経験的に語られるかもしれないが、公害は発展途上国や国内の過疎地・僻地に「外部化」されたのであって、根本的解決に至ってはいない。先進国がいまのその過疎地・僻地で経験し、グローバル・サウスにおいてはすべての民衆が経験している公害問題こそ、地球環境危機の最たるものである。

第二は、本書にもあるように、暴走する資本主義を公的機関(政府、国際機関等)が統制、規制することにより、地球環境の決定的危機到来を遅らせ、新たな技術革新の登場をまち、いずれ科学技術の力でそれを克服しようという立場である。その具体的現れが、アメリカ民主党政権により息を吹き返した国連気候変動枠組条約第21回締約国会議(COP21)及び京都議定書第11回締約国会合(COP/MOP11)である。

そして第三が、本書のとおり資本主義に代わる経済・社会・政治のシステムを構築する以外に道はないとする立場である。だが、地球環境危機を救うために自然エネルギーに漸次切り替えることはそうたやすくはない。大きく厚く高い壁となるのは本書では触れられていない軍事問題ではないか。自然エネルギーへの移行の途中で取り返しのつかない軍事的衝突があったとき、旧エネルギーである化石燃料を独占した勢力が圧倒的武力で地球を支配するというような、まるで映画『マッドマックス』が描いたようなデストピアの出現を許してしまう可能性もある。

革命主体の形成が最重要課題

けっきょく最後に行き着く先は、地球人全員がエコロジカル・マルキストとしての自覚を得るまで布教運動を続けるという「人間革命」の道か、それとも、かつてレーニンが立案・実行し、後継者であるスターリン、毛沢東、ポルポト、鄧小平、習近平らが実践したプロレタリア独裁ならぬエコロジカル・マルキシズム独裁を過渡的に強権的に実行し、エコロジーに敵対する勢力を殲滅するまで弾圧する道の2つである。この2つは20世紀、人類が歩んだ悲惨な道だった。