2022年2月12日土曜日

『幻の村-哀史・満蒙開拓』

●手塚孝典〔著〕●早稲田新書 ●990円 

本書の章立ては以下のとおりである。 

第一章 沈黙の村
長野県河野村の満蒙開拓団の悲劇に係る記述。  

第二章 忘れられた少年たち
長野県山ノ内町の満蒙開拓青少年義勇軍の悲劇を伝える。数えで16~19歳の青少年たちが、敗戦間近、関東軍撤退後のソ連国境地帯の軍事的空白地帯に送り込まれ、侵攻してきたソ連軍に追われ、逃亡中及び収容所で非業の死を遂げた実態が示される。  

第三章 帰郷の果て
第四章 ふたつの祖国に生きる
ともに中国残留孤児問題への論及。開拓団家族はソ連軍の侵攻から逃亡する途中、せめて幼い子供だけは生き延びてほしいと、中国人に子供を預けた。戦後、その子供達が成人し、祖国日本への帰還を希望したのだが、帰還はそう簡単ではなかった。言葉、生活習慣、日本社会の排他性など、帰還した残留孤児たちの日本での生活は厳しかった。2002年に始まった、残留孤児による国家賠償請求訴訟の裁判では帰国した残留日本人の9割(2,211人)が原告となった。長野県では2004年、79人が原告となった。  

第五章 幻の村
第一章で登場した河野村において満蒙開拓を推進した当時の河野村村長・胡桃澤盛(くるみざわ・もり)の日記を中心にして、満蒙開拓がいかに推進されたかが詳細に示される。と同時に、戦後、自分が送り出した開拓団の悲惨な結果(73名が集団自決)を知らされた胡桃澤盛が自死を選択した経緯等が示される。 

日記

第五章の胡桃沢盛の日記を読むと、盛のそう長くない人生のなかに〈1930年代〉が凝縮されていることにはっとさせられる。と同時に、盛の歩んだ進路と日本帝国がアジア太平洋戦争に邁進した過程がぴたりと重なり合っていることに驚愕する。 21世紀に生きる「われわれ」は、彼の日記により、取り返しのつかない破綻、破滅、悲劇を同時代のように追体験する。満蒙開拓は、日本の近現代史を考える者に重い課題を突き付ける。

さて、長野県は全国中、満蒙開拓団を最も多く送り出した。

開拓民総数は27万人余り。うち長野県は3万3000人と全国一の多さで、さらにその4分の1の8400人が飯田・下伊那郡からであった。この地域から長野県の4分の1以上の渡満者が出ているのは特筆に値する。2013年4月、日本で唯一の「満蒙開拓」に特化した記念館が、長野県阿智村に開館している。(『論文「全国一の開拓民を送り出した長野県」 満蒙開拓平和記念館―戦争と自治体―/自治問題研究所)』 

当時、河野村がある長野県下伊那郡は全国で有数の生糸の生産地帯であった。ところが世界大恐慌の影響で対米輸出が大幅に減少し、同郡の農村の経済の疲弊が進んだ。そんな状況下、日本帝国政府が出した農村政策が皇国農村である。同閣議決定には満蒙開拓には一切触れていない。だが、よく読むと、そこに〈分村〉という二文字がある。 皇国農村という国策にそって、満蒙開拓移民はたくみに誘導され、かの地にわたっていったのである。 

胡桃澤盛の自死と日本の戦争の時代

敗戦から1年近くが経過した1946年、盛のもとに、盛が満州へ送り出した河野村開拓団の悲報が次々と届けられるようになる。そして盛は、同年、自ら命を絶った。日記の最後のページは破られていて、そこには遺書があったとみられているが、誰が破ったかもその行方もわからないという。だが、当時の新聞がそこにあった最後の言葉を伝えていた。 

胡桃澤盛の日記は、青春時代、大正デモクラシーを享受した長野の自由人が、1930年代、満州事変から始まった中国侵略戦争・アジア太平洋戦争へと進んでいく日本帝国の動きに同期していく過程を描きだしたものである。それは日本帝国の総力戦に向けた〈革新派〉の動きに、個が否応なくからめとられていく過程でもある。それを換言すれば、明治維新から始まった文明開化、すなわち、日本帝国の近代化の末路であり、日本浪曼派が嫌悪した日本型「近代」の終焉にほかならない。 

いまを生きるすべての日本人は、自由人がいとも簡単に、軍国ファシズムに従順なる者に変容してしまった事実を見定め、かつ、敗戦間近に村人を満蒙に移住させてしまう不条理を考え続ける必要がある。20世紀の戦争、すなわち総力戦とは、国民一人一人が加害者であり被害者であることを強いるものであったことを忘れてはいけない。 

あったことを記録するのが歴史の第一歩である。後年の者が「歴史戦」などとほざくのは論外である。歴史は修正されてはならない。胡桃澤盛の日記がそのことを如実に語っているではないか。