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2022年4月23日土曜日
2022年4月22日金曜日
2022年4月21日木曜日
『抵抗と絶望の狭間 1971年から連合赤軍へ』
●鹿砦社編集部〔編〕 ●鹿砦社 ●990円(本体900円)
本書は拙Blogにて取り上げた『1970年 端境期の時代』の続編にあたる。鹿砦社の定期刊行物『紙の爆弾』増刊号で、本書を含め5冊がシリーズ化されている。編集の切り口は発刊年の50年前、新左翼運動が盛んだった時代のそれぞれの年を振り返るというもの。本書の場合、刊行された2021年の50年前、すなわち1971年に焦点が当てられている。
中村敦夫(俳優/1991年に行われたインタビューの再編集掲載)、松尾眞(元中核派全学連委員長)、田所敏夫(フリーライター)、長崎浩(元ブント活動家、著作業)、重信房子(元日本赤軍結成メンバー)ら15人が寄稿している。
長崎浩の連合赤軍への言及
筆者が最も注目したのは、長崎浩の「連合赤軍事件 何が何だか分からないうちに」である。筆者は長崎の『叛乱を解放する 体験と普遍史』及び前出の『1970年 端境期の時代』を拙Blogにて取り上げ、そこで、長崎がブント系の赤軍派、連合赤軍、日本赤軍について言及していないことへの不満を表明した。その後、本書に長崎が連合赤軍に関する論考を掲載したことを知り期待したのだが、裏切られた。
まず、副題からして、腰が引けている。長崎が連合赤軍の母体であるブントの活動家であり、連合赤軍の前身であるブント赤軍派と党内闘争をしていた別派の指導的立場にいたことは知られている。だから、連合赤軍のことを詳しく知らないのは仕方がないのだが、ブントの政治的体質、党内風土を知る者の一人として、他党派もしくは部外の者よりは強いコミットメントが求められて当然だと思う。はなから〝分からない″はない。長崎は革共同戦争と呼ばれる、中核派VS革マル派の内ゲバについては、かなり入念な調べをして、両派の対立の根源と内ゲバの詳細を記述している。にもかかわらずだ。
〈左翼反対派〉という視点
長崎の連合赤軍による「軍事路線」「リンチ総括」への言及におけるキーワードは、〈左翼反対派〉である。長崎のいう〈左翼反対派〉を以下、筆者なりにに解釈するーー新左翼というのは1960年安保闘争を契機として、既成左翼を批判して革命戦線に登場したわけだから、左翼内の左翼、すなわち〈左翼反対派〉である。〈左翼反対派〉としての新左翼(共産主義者同盟、以下「ブント」及び革命的共産主義者同盟、以下「革共同」)は60年安保闘争時、そしてその敗北後の停滞期から1967年までは既成左翼の〈左翼反対派〉にとどまっていた。ところが、同年の10.8羽田闘争以降、三派系全学連による街頭闘争、全共闘運動の隆盛に伴い、〈左翼反対派〉から自立した左翼としての地位を獲得した。既成左翼(日本共産党・日本社会党)は、実態上、70年安保闘争を筆頭とする体制批判運動に事実上取り組んでいなかったからだ。
ここから、新左翼各派は、それまでの既成左翼に対する〈左翼反対派〉とは異なる位相における〈左翼反対派〉の地位獲得に迫られた。権力との暴力的衝突が激化する中、より過激な路線を提起し、それを実行するセクトが真の革命主体=真の前衛党であるという証明に追い込まれていった。自らが真の前衛党であり続けるためには、自派が〈左翼反対派〉の地位を占め、他党派を既成左翼の地位に貶め続けなければならなくなった。長崎の前衛党論からすると、ブント赤軍派→連合赤軍は、武装闘争を実行しうる真の前衛党として、当時弱体化しバラバラになりかけていたブントの胎内に産み落とされ、革命戦争実行部隊という自らの路線の優越性に基づき、その解体にとどまらず、ブント内〈左翼反対派〉はもとより、革共同ほか新左翼各派を「軍事力」において凌駕しようとする新左翼総体に対する〈左翼反対派〉を目指そうとした、ということになる。
またその一方、連合赤軍のリンチ総括殺人については、山岳アジトという、国家権力から遮断された閉鎖空間において、前衛党の優越性の証明が個人レベル、すなわち「兵士」という身分(立場)において引き起こされた結果とみなされている。幹部と兵士という序列関係の下、「兵士」と「兵士」のあいだにおける革命意識の優越性が問われたというわけだ。連合赤軍という党権力の圧力下、「兵士」は自己の共産主義化の獲得度を幹部(森恒夫・永田洋子)にいかに証明するか迫られ、暴力度の強弱が共産主義化の強弱の指標となったということになる。それが、「堕落」した「兵士」に対する死に至るリンチに発展し、幹部は、そのことにより、自らの権威性を保持できるというメカニズムが稼働したのだと。なお、長崎は優越性という表現を用いていないので、念のため本書の原文に当たっておく。
日本の新左翼諸党派はブントと革共同から始まり、ほぼおしなべてその系譜を引いているとする。とすれば、これら党派は共産党や社民の「既成左翼」にたいして、定義上左からの反対派の位置に立つ。そして歴史的には、コミュンテルンの分裂以降の20世紀、プロレタリア革命にたいする既成左翼の裏切りを告発するマルクス・レーニン派は、不可避的に左翼反対派の立場に立ったのだ。互いに唯一の「前衛党」を呼号して、両者の関係がしばしば暴力沙汰になるのは周知のことである。だからどんな集団にも発生する左からの反対勢力ではなく、左翼反対派とはマルクス主義の革命(論)における左翼反対派のことであり、これはカテゴリー的歴史的な必然である。
だが、日本でも1968年の大衆叛乱が始まる。この叛乱を地盤として乱立した1968年の新左翼諸セクトは、おしなべて左翼反対派の党ではありながらかつ同時に、もはや既成左翼はその母体ではありえない。社民と労働組合は無関係、共産党民青は初めから敵である。つまり無意識のうちにも、左翼反対派でありかつ左翼反対派ではないという矛盾の内に立たされたのである。むしろ矛盾は新左翼の内部に移されて、今度は新左翼セクトどうしが左翼反対派の関係として唯一の前衛党を競う仕儀に立ち至っている。(P142)・・・赤軍派は(したがって連合赤軍は)いわば他の新左翼セクトにたいする左翼反対派であろうとした。なるほど他党派にたいするリンチはしないと赤軍派は宣言した。だが、世間から孤立したちっぽけな集団の内で、幹部たちが左翼反対派として一般党員を責め立てた。「共産主義化」を求める「総括」の強要であり、挙句のリンチ殺人である。いわば左翼反対派由来の三重の拘束がそこに働いていたはずである。左翼反対派の「革命の独占と孤独」がもたらす病理であった。(P142)
他党派に対する優越性の証明
長崎の〈左翼反対派〉論を読んでいるとき、思いもかけず『歴史の終わり』(フランシス・フクヤマ著)が思い浮かんできた。同書はソ連崩壊後の世界のあり方について、ネオリベラリズムが世界を席巻した暁には、世界は自由で安定した国家で満たされ戦争はなくなり、そのとき歴史が終わるという説を展開した、いわばネオリベの経典のようなものだ。フクヤマに対して、エマニュエル・トッドは次のように批判した。
フクヤマはヘーゲルを単純化して用いたが、その用い方が高度な消費にも耐えたことに、パリ知識人は驚いたのである。歴史は意味=方向を持つが、その到達点は自由主義的民主主義の全世界化である。(中略)現実のヘーゲル、すなわちプロイセンに服従し、ルター派の権威主義を尊重し、国家を崇拝したあのヘーゲルを知っている者にとって、個人主義的民主主義としてのヘーゲルというイメージは、大いに笑えるものだった。(『帝国以後』藤原書店版P30)
トッドのシニカルなフクヤマ批判は、興味をそそるものだが、自己意識にさかのぼって歴史を考えるという方法を無視してはいけない。そのうえで『歴史の終わり』の第三部〔歴史を前進させるエネルギー 「認知」を求める闘争と「優越願望」〕の章の扉(1 はじめに「死を賭けた戦い」ありき/三笠書房版上巻P239)において、フクヤマは、ヘーゲルとコジェーブを引用する。
生命を賭けることによってのみ自由は得られる。生命を賭けることによってのみ、自己意識の本質とはたんに生きているということではなく、その最初にあらわれた姿そのものでもないことが試され、そして証明される。・・・生命を賭けなかった個人も、一人の人間としては認められることは確かだが、しかしそういう人は、自立した自己意識として認められるという心理に到達したことにならないのである。(ヘーゲル『精神現象学』)
人類の発生と進化につきまとう—―いっさいの人間的な欲望――自己意識や人間としての実在性を生み出す欲望――は、結局のところ「認知」を求める欲望の機能を果たしている。そして人間としての実在性を明るみに出すために生命を賭けるというのは、こうした欲望のために生命を賭けるということである。したがって、自己意識の「起源」について語ることは、必然的に「認知」を求めるための死闘について語ることにほかならない。(コジェーブ『ヘーゲル読解入門』)
このことをもって、新左翼党派が陥った、(長崎がいうところの)〈左翼反対派〉の立ち位置について、それが認知を求める欲望だったと片づけるわけではない。しかしながらフクシマは同書本文で以下のように展開する。
人間の自分自身の価値観と、それを他人に認めさせようとする要求は、今日にいたるまで勇気や寛容や公共心など気高い美徳を生み出し、暴政に対する抵抗の牙城となりリベラルな民主主義を選びとる根拠ともなってきた。しかしそのような認知を求める欲望には暗黒面もあり、そのために多くの哲学者たちが「気概」を人間悪の根源とみなすようになったのである。(下巻P30)
自分の優越性を認めさせようとする欲望を、私(フクヤマ)は古典ギリシア語から語源を借りて「優越願望」(megalothymia,メガロサミア)と新たに命名したい。(同P31)
「優越願望」が政治の世界にとってきわめて問題をはらんだ情熱であることは明らかだ。というのも、ある人から自分の優越性を認められて心が満たされるなら、すべての人間からそれを認められれば、当然いっそう大きな満足を得られることになるからだ。最初のうちはつつましやかな自尊心として登場してきた「気概」も、かくして支配への欲望に変身しかねない。この支配欲は「気概」の暗黒面であり、もちろんヘーゲルの描いた血なまぐさい戦いの開始時点からすでに存在していた。認知への欲望は原始的な戦いを煽り立て、それが主君による奴隷の支配をもたらした。そしてついにこの論理は、全世界からあまねく認められたいという欲望、すなわち帝国主義にいたるのである。(同P32)
フクヤマがいう、気概、認知、優越願望という人間論がその本質かどうかについては、いまは問わない。しかし、フクヤマの論及と、長崎の〈左翼反対派〉という、外形的かつ政治的立ち位置論とを比較するとき、赤軍派、連合赤軍、革共同の内ゲバ等の新左翼党派が陥った暗部の歴史的解明にはなお、深い考察が要求されることをフクヤマが示唆しているとは言えよう。
「レーニン」が機能しなかった「日本革命」
新左翼党派のそれぞれ理論的指導者は当初、レーニンのロシア革命をモデルとして、日本革命実現の道筋を追求した。その忠実な理論化と実践が党派同士のあいだにおける優位性の基準となった。〝組織された暴力”と〝プロレタリア国際主義”のスローガンは、その一つだった。1968年まではかなりうまくまわっていたのだが、権力側の弾圧強化により、新左翼が目指した街頭実力闘争は封じ込まれ、理論的・運動論的に隘路に追い込まれた。ブント系新左翼各派は、レーニン革命論に基づいた実力闘争が行き詰まった段階で、レーニンを「超える」革命論の構築に迫られた。そのひとつが「前段階武装蜂起」だった。ブント赤軍派は、そのことをもって、ブント内他派より優位な位置を得た。それがブント赤軍派誕生の経緯だ。ブント内のセクトでは、赤軍派に負けまいと、たとえば戦旗派は地下組織であるRGを立ち上げた。
一方、レーニン理論のなかの真の前衛党という位相において優位性を競ったのが、革共同両派(中核・革マル)であった。こちらの闘争(内ゲバ)は、レーニン理論から発展し、レーニン以降のソ連共産党=スターリン批判に従った「反帝国主義・反スターリン主義」を党是とする本家争いだから、両派の闘争はとどまるところを知らなかった。ブント、革共同のそれぞれの指導者たちは、革命理論と実践の同一性による政治的優位性、すなわち他者(他党派)に対する優越性を無意識のうちに競い、いつのまにか、暗部へと落下してしまったように思える。
1971年とはどんな年だったのか
本書には1971年の年表が付されている。主な出来事を拾ってみよう。
(一)新左翼の動き
学費闘争、沖縄闘争(6.17闘争で爆弾使用)、成田闘争(9.16第二次強制執行阻止闘争で機動隊員3名死亡)が、ほぼこの年、年間を通じて闘われた。4.28ブント関西派、赤軍派、京浜安保共闘、全京都学生連合会など「蜂起戦争派」が初めて清水谷公園で統一集会。8.22赤衛軍事件、10.21国際反戦デー(全国の大学でストなど)、11.14中核派による渋谷暴動、後日、反戦派教師死亡、機動隊員死亡、11.19沖縄強行採決糾弾闘争で警視庁は前日、中核派申請のデモを不許可、中核派は日比谷公園内松本楼に突入し放火炎上、関西、東海でも火炎瓶闘争など展開。12.29警視庁極左暴力取締総本部、「過激派」いぶり出しにローラー作戦開始、急進4派の指名手配26人を写真付きで新聞発表。
(二)爆弾闘争の多発化
6.17沖縄闘争で手製爆弾により機動隊員26人重軽傷 8.7警視総監公舎と成田署に時限爆弾、8.22東京目黒の警視庁職員宅で爆弾爆発、8.26小型手製爆弾千葉県我孫子市レール上で発見、9.18杉並区高円寺の交番脇で時限爆弾爆発、9.22機動隊独身寮で鉄パイプ爆弾爆発、10.18東京新橋郵便局で小包爆弾爆発、10.23渋谷区・杉並区・板橋区の4カ所の派出所に爆弾仕掛けられる(不発)、10.24都内6か所に爆弾、うち3か所で爆発、10.25豊島区の駅ホームで爆弾見つかる、 11.11東京地検で爆発、千葉県柏、荒川警察署長公舎で爆発、11.12東京中野区の元警視庁警務局長宅にて爆発、葛飾区の警視庁家族寮で爆発、12.18警視庁警務部長土田国保自宅に配送された荷物が爆発、夫人が死亡、四男負傷、12.24新宿伊勢丹デパート前の交番に置かれた爆弾爆発、警官通行人1名が負傷
メディアが報じた爆弾闘争であるが、実行犯、組織等の詳細部分については、当局から発表されていないものも多い。
(三)内ゲバ
沖縄で革マルVS民青内ゲバ発生(革マル派学生1名死亡)、10.20横国大で革マルVS中核内ゲバ発生(革マル派学生1名死亡)、10.30学芸大で革マルVS中核内ゲバ、4人重傷、11.1杉並で革マルVS中核内ゲバ、12.4関西大学構内で革マル派が中核派全学連副委員長ほか1名を殺害、12.13法大内で中核派学生が反帝学評学生に襲われ2人が重傷
(四)公害闘争
4.12田子の浦ヘドロ訴訟で住民から告発された大昭和製紙等製紙会社社長ら、竹山祐太郎静岡県知事らを静岡地検が不起訴処分、5.24公害都市・大阪西淀川区では1年間に12人の公害認定患者が死亡、患者数は1,741人に。6.30イタイイタイ病訴訟で住民側が勝訴。9.27新潟地裁での水俣病裁判判決を前に、被告の昭和電工が上訴権を放棄、公害追放を叫ぶ住民パワーに大企業が屈す。新潟水俣病裁判で患者側が勝訴、企業から損害賠償を勝ち取る。12.10水俣病認定患者6人と石牟礼道子がチッソ本社社長室でハンスト、会社側が機動隊を導入、
思いつくままの抜粋であり基準はない。新左翼各派は一年を通じ、沖縄闘争と成田闘争に熱心に取り組んだ。街頭闘争における火炎瓶の使用が多発し、手製爆弾爆発(未遂を含む)が多発した。1960年代より闘争で使用される「武器」はエスカレートしたが、政治的効果はむしろ、マイナスに作用した。
この年、2月11日、京浜安保共闘(革命左派)が栃木県真岡市鉄砲店を襲撃、散弾銃等を強奪。同派の行動が表面化した。5月31日、初めて小袖に山岳アジトを建設。7月15日、京浜安保共闘と赤軍派が合流して統一赤軍を結成。このころから仲間の処刑・粛清始まる。8月中旬、連合赤軍結成。主体の「共産主義化」論。10月には山岳アジトを数か所移動。そして、翌72年2月17日、連合赤軍、森恒夫・永田洋子逮捕。19日、連合赤軍、銃撃戦開始、28日制圧さる。3月5日、連合赤軍リンチ殺人発覚に至る。なお、本書には、「〔年表〕連合赤軍の軌跡」という詳細な資料が収録されている。
2022年4月14日木曜日
日本プロ野球活性化のための再構築計画
日本プロ野球(NPB)はストーブリーグ中だが、高額選手のFA移籍もなく、話題が乏しい。トライアウトも話題にはなるが、契約が内定した選手は極めて少ない。毎年100人辞めて100人が入団するというNPBだけれど、筆者はこの時期、戦力外通告、自由契約を宣告され、入団先が決まらない若い選手のことを思うと気が重い。トライアウトをTV映像で見た限り、やれそうだなと思われる選手が何人かいたが、契約の情報はいまのところ、入っていない。
「プロは実力の世界」は思考停止
プロは実力の世界――という言い方は間違いだとは思わないが、いまのNPBに関する限り、それは思考停止の正当化だと筆者は考える。NPBは一軍(セパ6球団合計12球団)、二軍(イースタン、ウエスタン合計12球団)があり、その下部組織として3軍を保持する球団もある。さらに育成契約選手というわけのわからぬカテゴリーも存在している。
一方、NPB以外の野球運営組織(学生を除く)としては日本独立リーグ機構(JPBL)という独自の職業野球組織がある。同機構は、2005年に四国アイランドリーグplusが発足(現在4球団)、2007年にはルートインBCリーグが発足し、現在、東地区4、中地区4、西地区4、合計12球団で運営されている。
さらに日本野球連盟(JABA)が都市対抗野球大会を運営していて、地区予選(1次、2次)を勝ち上がった32チームが本大会で覇権を競っている。いわゆる社会人の野球大会なのだが、企業の支援の下、レベルは高い。
現状、バラバラな運営状態
日本は人口1億人超の大国であり、日本人は野球が大好きだし、競技人口も多い。プロ野球ビジネスは市場性として有望だ。ところがその運営組織がバラバラ。近年、NPBと独立リーグの人的交流は増加したが、選手間の交流はそれほど活発ではない。社会人野球は「アマチュア」を表に出していて、職業野球との交流に消極的だ。
筆者は都市対抗――社会人野球という運営組織が日本のプロスポーツの活性化、スポーツビジネスの阻害要因だと思っている。社会人であるという身分保証が選手の能力開発を妨げる。野球で身を立てるリスクをヘッジして、引退後の職場を担保しているわけだ。それでは伸びない。もちろん、プロでやる自信はないけれど、好きな野球をしたいという人の気持ちを肯定する。そういう人はクラブチーム、草野球で仕事の合間の時間を使って野球をすればいい。ところが、現在の都市対抗は企業の知名度アップ、宣伝PRの材料であって、プロとうたわない偽のアマチュア組織だ。こういう詐欺的名称は早く下ろして、プロ化すべきだ。
既得権益にしがみつく12球団
NPBにも問題がある。12球団がそろって既得権益にしがみつき、球団数増加を規制している。アメリカにならい、MLB→AAA→AA→Aのような形で球団のすそ野を広げるべきだ。日本の場合ならばすでに、一軍、二軍、三軍、育成選手、独立リーグ、社会人があるのだから、NPBがサッカーのJリーグのような統括機構になって、サッカーのJI、J2、J3のようなカテゴリーを設けることが望ましい。そうなれば、トライアウトのようなまやかしの再就職イベントを開催しなくとも、選手の流動性を高めることはできる。一軍、二軍、育成、独立リーグ、社会人の全球団をシャッフルして、リーグを実力ごとに再編成してカテゴリーをつくればいい。一軍はおそらく、現在の12球団から16球団まで増やせるだろう。そうなれば、クライマックスシリーズ(CS)という愚かなイベントも不要だ。CSはマラソンの後、上位6名に100メートル走を強いるくらい愚かだ。16球団ならば地区別4球団のノックアウト方式の勝ち上がりで日本一を決めればいい。
Jリーグを参考にリーグ活性化の仕組みをつくり直せ
消化試合問題の解決方法は、これもJリーグを参考にすればいい。下位球団のカテゴリー入れ替えが一つ。もうひとつは、サッカーの場合、上位3チームがアジア・チャンピオン・リーグ(AFC)への参加資格を得られることだ。つまり、上位・下位が最後まで必死で戦い抜く仕掛けがビルドインされている。AFCで勝てば、世界の強豪と戦うチャンスを得られる。
職業野球の場合、世界~アジア~国を統合する機構が存在しないのでいますぐには無理だが、将来的にはビジネス拡大のタネになる。アジア大会ならば、日本、韓国、台湾、中国、オーストラリアでいますぐにでも開催可能だろう。
選手が異なるカテゴリーで活躍できるようになれば、その上に再チャレンジする可能性が広がる。もちろん給料は下がるだろうがそれこそ実力の世界だ。NPBはドラフトでアマチュア選手を数多く指名し囲い込む一方、そのときのGM、監督、コーチらの主観で不要と判断された選手がポイ捨てされる。あまりの無責任さに腹が立つ。
2022年4月8日金曜日
『1970年 端境期の時代』
田原総一郎、中川五郎、長崎浩ほか15名による、1970年の振り返りである。それぞれの内容にはバラツキがある。執筆者の一人によると、編集部からの原稿依頼に特段の注文はなく、自由に1970年について書いてくれ、というものだったようだ。
1970年は新左翼運動における分岐点、いわゆる小熊英二が名付けたパラダイムシフトの年だというのが定説化したきらいがあるが、筆者はその命名は正しくないと考えている。その理由については後述する。もちろん、本書のように年にこだわった特集本であるから、その年に起こったことに注力することはやむを得ない。それぞれの執筆者の事情において、その年を振り返る内容があっておかしくはない。しかし、新左翼政治運動に関与した執筆者であれば、それだけにとどまってほしくない。端境期という面と、持ち越してしまった面の双方を歴史的に比較検証し、その次に起きてしまった要因として突き詰めてもらいたいと思う次第である。
筆者の印象に残ったのは、①「1970年を基軸にした山小屋をめぐる物語」(高部務)、②「「よど号」で飛翔五十年、端境期の闘いは終わっていない」(若林盛亮)、③「暑かった夏が忘れられない 我が1970年の日々」(三上治)、の3篇だった。これらは1970年における新左翼運動について、誠実に向き合っているように思えた。以下にそれぞれの内容を大雑把に書く。
①1970年を基軸にした山小屋をめぐる物語(高部務)
新宿でフーテンをしたりディスコで遊んでいた筆者の高部が、Sというブント赤軍派オルグと出会い、同派に入党する。1969年9月、高部をはじめとする赤軍派「兵士」およそ50名は、東京・日比谷野外音楽堂にて開催された「全国全共闘結成大会」で「蜂起貫徹 戦争勝利」と連呼し会場に入場する。だが、その後のデモ行進で機動隊に囲い込まれ、高部ら赤軍派「兵士」はバラバラに逃走し自然散会する。
しばらく赤軍派からの連絡が途絶えていた同年10月21日、高部は新宿でSに再会する。Sは「東京戦争」「逮捕された同志の奪還作戦」「警視庁・首相官邸襲撃」などの赤軍派の計画をペラペラと高部に打ち明ける。そして、そのための軍事訓練(山梨県大菩薩峠の山荘)に参加するよう誘う。Sの軽率な言説に不信を抱いた高部は、軍事訓練への参加を見合わせる。そして、11月5日の早朝、高部は大菩薩峠の「福ちゃん荘」に集結していた赤軍派53名が凶器準備集合罪の現行犯で逮捕されたことをニュースで知る。高部が危惧していた通り、「機密」は漏れていた。高部はこう記している。
腑に落ちなかったのは、赤軍派結成大会前夜、里見寮に集まっていた仲間の姿が何人かあったが、(Sが)200名以上と言っていた参加メンバーはたったの53名だったことだ。それにもまして解せなかったのは逮捕者の中にSの名前がなかったことだ。
どうなっているんだ。僕は一人白ずんだ。
僕の赤軍派に対する幻想はこの時点で消えた。
明けて70年3月31日。赤軍派は「よど号」をハイジャックして北朝鮮に政治亡命した。
6月23日、安保条約自動延長が決まった。
学生運動は勢いを失い、セクト間の内ゲバが本格化した。世間からは「ゲバルトの殺人集団」といった厳しい目が向けられるようになっていった。(P89~90)
70年のパラダイムシフトと呼ばれる新左翼運動の質的変化は、もちろん、同年以前の延長線の事象である。それを象徴するのが高部が体験した、69年におけるブント(共産主義者同盟)赤軍派結成である。そしてそのことは、新左翼総体における、69年11月の「佐藤訪米阻止闘争」の政治的敗北(だんじて軍事的敗北ではない)の裏返りである。粗雑な言い方かもしれないが、新左翼運動は69年11月で実体上、終わっていた。にもかかわらず、政治的敗北を軍事的敗北に転嫁したところに、70年以降の退廃と暴力の進行を許した。高部の書きぶりから、赤軍派内部にスパイがいたことがうかがわれるが、核心はそこではない。世界革命戦争という妄想が新左翼の老舗党派であるブント内に形成されてしまったところにある。
②「よど号」で飛翔五十年、端境期の闘いは終わっていない(若林盛亮)
若林盛亮は前出の高部と同様、赤軍派の元メンバーであり、現メンバーでもある。若林は高部と似ていて、ヒッピー、モダンジャズ、ファッションやロックに入れ込んでいた長髪の若者だった。政治的ではなかったものの、当時の日本に強い違和感を抱いていたという。このあたりは、新左翼運動、全共闘運動に参加した若者の一つの典型である。そんな若林が1967年10.8羽田闘争で覚醒する。同志社大学入学後、革命的ロックバンド結成から全共闘に参加、そして赤軍派に入党、1970年3月31日、ハイジャック闘争に参加し「よど号赤軍」の一員となる。爾来50年余り、若林はいま、北朝鮮ピョンヤンにいる。そして、次のように書く。
戦後世代が提起した戦後日本は「おかしい」、その正体は・・・米国を自由と民主主義の盟主と仰ぎ、「米国についていけば何とかなる」アメリカンドリーム追及・・・戦前と違うのは、侵略戦争をやるのは日本軍ではなく米軍(日米安保基軸)に任せ、それを補助して、その覇権権益のおこぼれに預かるようになったということだ。戦前の覇権主義が対米従属に衣を替えただけで体質は変わらない。これが戦後日本は「おかしい」の正体だったと思う。 (中略)
戦後日本は「おかしい」と問い続けてきた私たちの闘いはまだ終わっていない。私たちは古希前後の老兵ではあるが、頭と体が動く限り、まだやるべき役割はあるはずだ。新しい挑戦者のために私たちの世代が最後の花を咲かせる時ではないだろうか。(P124~125)
①の高部と②の若林は赤軍派に入るまでの資質に似たところがある。政治的というより情緒的であり、倫理的というより享楽的だったような感じを受ける。70年前後に流行したヒッピー文化、ロック、ファッションに敏感に反応していたように思われる。二人は当時の日本に違和感を覚え、反抗心を抱き、赤軍派への入党につながった。そして、一方は赤軍派のオルグに不信を感じ離脱し、約50年後の現在、芸能、スポーツ関係のトップ屋として活躍している。その一方はハイジャックに参加し、いまなおピョンヤンに住み続け、日本革命に向けて闘志を燃やし続けている。なお、赤軍派を離脱した高部は、よど号をハイジャックした赤軍派の元同志、すなわち若林らのハイジャックを「政治亡命」と言う。
③「暑かった夏が忘れられない 我が1970年の日々」(三上治)
69年から70年前半にかけて拘置所に拘留され、同年6月、保釈後、ブント叛旗派を立ち上げた三上治の総括である。三上だけが新左翼運動活動家として、それまでの運動の検証を誠実に行っている。三上の核心ともいうべき箇所を書き抜いておこう。
ロシア革命を継承してきたマルクス主義は権力観(国家観)において失敗し、過剰な権力状態を生み続けてきたが、それを踏襲する左翼は血で血を洗う抗争に歯止めを掛けられなかったのである。そのような理念を革命観において持っていなかったのである。権力がどうあるべきか、権力の性格をめぐる問題は権力の変革を目指す運動の展開の中でも問われているのであり、僕はそれを共産党や革共同の他党派、内部関係の中に垣間見てはいたが、自分たちにも問われる問題としては突き詰めて考えてはいなかった。この点は赤軍派の面々も同じだったと思う。連合赤軍事件ではこれはもっとも露骨に現れるが、これは当時の僕らの思考とは無縁ではなかったのだ。(P165)
70年安保決戦という掛け声や宣伝は、願望も含めて存在したが、運動が後退局面に入ったことは疑いもないことだった。ここで赤軍派が登場した。・・・彼らは当初、権力との闘争を切り開く先端部隊の創出を主張していたが、それがいつの間にか前段武装蜂起の提起に変わっていった。・・・運動が直面している現実の認識と僕とでは決定的といっていいほど違った。当時の言葉を想起すれば赤軍派の面々は革命的高揚期にあるという認識をもっていた。事態は高揚期どころかどう見ても後退期だった。この認識の違いは決定的だったが、当時の党派の面々は・・・運動が後退局面にあることを認識していたであろうが、それを現実認識として明瞭に、その上で運動の方向を出すということはしていなかったと思う。(P167)
1969年の段階が反体制・反権力の運動にとって革命的高揚期にあり、武装蜂起の方向を提起すれば、その後退局面を変えられるとは到底考えられなかった。赤軍派の面々はロシア革命に倣って今が革命的高揚期にあり、武装闘争の方向を提起したが、これは彼らの願望によって言うなら主観主義的な現実認識に拠ったものである。(P170)
67年、老舗の新左翼党派ブント(共産主義者同盟)は復活したものの、69年、リンチ殺人事件を経て赤軍派を生み、戦旗派、情況派、三上率いる叛旗派等と分裂を繰り返した。赤軍派はその後、連合赤軍、日本赤軍へと分離し軍事路線を突っ走った。筆者は、そのことを踏まえた三上の総括をほぼ全面的に受け入れることができる。三上に比べれば、ブントの分派の指導者であった長崎浩の「1970年 岐れ道それぞれ」は、前出の小熊英二の『1968』を書き写しただけの希薄さで、筆者の期待を裏切る内容だった。
その他
(1)激突座談会〝革マルVS中核″
革共同革マル派・同中核派の元活動家、元無党派一般学生、板坂剛(司会)による座談会である。元活動家であって、座談会開催時は革マル派・中核派に属していない。にもかかわらず、のっけから両者は互いに相手を罵倒するというありさまである。「戦争」と呼ばれた両派の内ゲバ犠牲者に対する慰霊の言葉はもちろんない。憎しみというものは、50年余を経過しても晴れないものなのだと感じた。罵倒の言葉は当時と変わっていない。彼らはこの50年余りの年限をどう過ごしてきたのか。あのアジア・太平洋戦争で戦った日本軍・米軍の兵士同士が70年余を経過して互いに和解したというニュースをTVでみたことがあるが、内心はどうなのか心配になるくらいだ。これが「新左翼」なのか、そして「戦争」なのかと。
(2)「7.6事件」に思うこと(中島慎介)
同稿は1969年7月6日、第二次ブント内で赤軍派が中央派の仏徳二議長をリンチし、介入した警察により破防法で逮捕状が出ていた仏議長を逮捕に至らしめ、その報復で逆襲した中大ブントが望月上史を監禁し望月が逃亡しようとして転落、のちに死亡した事件の証言である。
証言内容は本書を読んでただくとして、同稿あとがきにて、中島は《以上の文面は、2019年12月刊行の『追想にあらず』(講談社エディトリアル刊)に寄稿した原文そのままです(ただし本書編集部で誤字や誤記を修正し表記を統一したりした箇所が一部あります)。》と書き、続けて、《入稿後、ゲラを見ると全体の4割が削除され、文面も入れ替えられ、更に残りのゲラの1割の部分も削除され、意味不明の代物とされていました。》と独白している。けっきょく中島は『追想にあらず』編集担当者に対し、「出版拒否」「原稿引き揚げ」を通告したという。
中島の言い分しかわからないので、これが事前検閲なのか編集権の行使なのか判断できないが、前者であれば許されない。
2022年4月3日日曜日
NPB順位予想(2)
パシフィックリーグ
〈A〉
パリーグ各球団の格付けとしては、ロッテ、オリックスがA、楽天、ソフトバンクがB、西武、日ハムがCとなる。若手の台頭著しいロッテと自信のオリックスという両球団で、優勝が争われる。
〈B〉
投打の主軸が最盛期を過ぎ、退潮著しいソフトバンクがどこまで踏ん張れるか。投手力が弱く、主軸打者が高齢化し、若手が伸び悩むという、これまた過渡期に入った楽天がどこまで順位を上げられるか。
〈C〉
ビッグボスの日ハムはオープン戦までの主役。コスト・カットで、主力選手を自由契約(クビ)にして、チーム力を落とした。選手を大事にしない冷酷経営の日ハムには、勝ってほしくない。クローザーの平良というずば抜けたタレントはいるが、打線がベテラン頼みで不安定。チームの総合力が劣る西武は上位に残れない。
そんなわけで、順位は以下のとおりである。
1.ロッテ、2. オリックス、3. ソフトバンク、4. 楽天、5. 西武、6. 日ハム