2022年4月8日金曜日

『1970年 端境期の時代』


●鹿砦社編集部〔編〕 ●鹿砦社  ●990円(本体900円) 

田原総一郎、中川五郎、長崎浩ほか15名による、1970年の振り返りである。それぞれの内容にはバラツキがある。執筆者の一人によると、編集部からの原稿依頼に特段の注文はなく、自由に1970年について書いてくれ、というものだったようだ。 

1970年は新左翼運動における分岐点、いわゆる小熊英二が名付けたパラダイムシフトの年だというのが定説化したきらいがあるが、筆者はその命名は正しくないと考えている。その理由については後述する。もちろん、本書のように年にこだわった特集本であるから、その年に起こったことに注力することはやむを得ない。それぞれの執筆者の事情において、その年を振り返る内容があっておかしくはない。しかし、新左翼政治運動に関与した執筆者であれば、それだけにとどまってほしくない。端境期という面と、持ち越してしまった面の双方を歴史的に比較検証し、その次に起きてしまった要因として突き詰めてもらいたいと思う次第である。 

筆者の印象に残ったのは、①「1970年を基軸にした山小屋をめぐる物語」(高部務)、②「「よど号」で飛翔五十年、端境期の闘いは終わっていない」(若林盛亮)、③「暑かった夏が忘れられない 我が1970年の日々」(三上治)、の3篇だった。これらは1970年における新左翼運動について、誠実に向き合っているように思えた。以下にそれぞれの内容を大雑把に書く。 

①1970年を基軸にした山小屋をめぐる物語(高部務) 

新宿でフーテンをしたりディスコで遊んでいた筆者の高部が、Sというブント赤軍派オルグと出会い、同派に入党する。1969年9月、高部をはじめとする赤軍派「兵士」およそ50名は、東京・日比谷野外音楽堂にて開催された「全国全共闘結成大会」で「蜂起貫徹 戦争勝利」と連呼し会場に入場する。だが、その後のデモ行進で機動隊に囲い込まれ、高部ら赤軍派「兵士」はバラバラに逃走し自然散会する。

しばらく赤軍派からの連絡が途絶えていた同年10月21日、高部は新宿でSに再会する。Sは「東京戦争」「逮捕された同志の奪還作戦」「警視庁・首相官邸襲撃」などの赤軍派の計画をペラペラと高部に打ち明ける。そして、そのための軍事訓練(山梨県大菩薩峠の山荘)に参加するよう誘う。Sの軽率な言説に不信を抱いた高部は、軍事訓練への参加を見合わせる。そして、11月5日の早朝、高部は大菩薩峠の「福ちゃん荘」に集結していた赤軍派53名が凶器準備集合罪の現行犯で逮捕されたことをニュースで知る。高部が危惧していた通り、「機密」は漏れていた。高部はこう記している。 

腑に落ちなかったのは、赤軍派結成大会前夜、里見寮に集まっていた仲間の姿が何人かあったが、(Sが)200名以上と言っていた参加メンバーはたったの53名だったことだ。それにもまして解せなかったのは逮捕者の中にSの名前がなかったことだ。
どうなっているんだ。僕は一人白ずんだ。
僕の赤軍派に対する幻想はこの時点で消えた。
明けて70年3月31日。赤軍派は「よど号」をハイジャックして北朝鮮に政治亡命した。
6月23日、安保条約自動延長が決まった。
学生運動は勢いを失い、セクト間の内ゲバが本格化した。世間からは「ゲバルトの殺人集団」といった厳しい目が向けられるようになっていった。(P89~90)

70年のパラダイムシフトと呼ばれる新左翼運動の質的変化は、もちろん、同年以前の延長線の事象である。それを象徴するのが高部が体験した、69年におけるブント(共産主義者同盟)赤軍派結成である。そしてそのことは、新左翼総体における、69年11月の「佐藤訪米阻止闘争」の政治的敗北(だんじて軍事的敗北ではない)の裏返りである。粗雑な言い方かもしれないが、新左翼運動は69年11月で実体上、終わっていた。にもかかわらず、政治的敗北を軍事的敗北に転嫁したところに、70年以降の退廃と暴力の進行を許した。高部の書きぶりから、赤軍派内部にスパイがいたことがうかがわれるが、核心はそこではない。世界革命戦争という妄想が新左翼の老舗党派であるブント内に形成されてしまったところにある。 

②「よど号」で飛翔五十年、端境期の闘いは終わっていない(若林盛亮) 

若林盛亮は前出の高部と同様、赤軍派の元メンバーであり、現メンバーでもある。若林は高部と似ていて、ヒッピー、モダンジャズ、ファッションやロックに入れ込んでいた長髪の若者だった。政治的ではなかったものの、当時の日本に強い違和感を抱いていたという。このあたりは、新左翼運動、全共闘運動に参加した若者の一つの典型である。そんな若林が1967年10.8羽田闘争で覚醒する。同志社大学入学後、革命的ロックバンド結成から全共闘に参加、そして赤軍派に入党、1970年3月31日、ハイジャック闘争に参加し「よど号赤軍」の一員となる。爾来50年余り、若林はいま、北朝鮮ピョンヤンにいる。そして、次のように書く。 

戦後世代が提起した戦後日本は「おかしい」、その正体は・・・米国を自由と民主主義の盟主と仰ぎ、「米国についていけば何とかなる」アメリカンドリーム追及・・・戦前と違うのは、侵略戦争をやるのは日本軍ではなく米軍(日米安保基軸)に任せ、それを補助して、その覇権権益のおこぼれに預かるようになったということだ。戦前の覇権主義が対米従属に衣を替えただけで体質は変わらない。これが戦後日本は「おかしい」の正体だったと思う。 (中略)
戦後日本は「おかしい」と問い続けてきた私たちの闘いはまだ終わっていない。私たちは古希前後の老兵ではあるが、頭と体が動く限り、まだやるべき役割はあるはずだ。新しい挑戦者のために私たちの世代が最後の花を咲かせる時ではないだろうか。(P124~125) 

①の高部と②の若林は赤軍派に入るまでの資質に似たところがある。政治的というより情緒的であり、倫理的というより享楽的だったような感じを受ける。70年前後に流行したヒッピー文化、ロック、ファッションに敏感に反応していたように思われる。二人は当時の日本に違和感を覚え、反抗心を抱き、赤軍派への入党につながった。そして、一方は赤軍派のオルグに不信を感じ離脱し、約50年後の現在、芸能、スポーツ関係のトップ屋として活躍している。その一方はハイジャックに参加し、いまなおピョンヤンに住み続け、日本革命に向けて闘志を燃やし続けている。なお、赤軍派を離脱した高部は、よど号をハイジャックした赤軍派の元同志、すなわち若林らのハイジャックを「政治亡命」と言う。 

③「暑かった夏が忘れられない 我が1970年の日々」(三上治) 

69年から70年前半にかけて拘置所に拘留され、同年6月、保釈後、ブント叛旗派を立ち上げた三上治の総括である。三上だけが新左翼運動活動家として、それまでの運動の検証を誠実に行っている。三上の核心ともいうべき箇所を書き抜いておこう。 

ロシア革命を継承してきたマルクス主義は権力観(国家観)において失敗し、過剰な権力状態を生み続けてきたが、それを踏襲する左翼は血で血を洗う抗争に歯止めを掛けられなかったのである。そのような理念を革命観において持っていなかったのである。権力がどうあるべきか、権力の性格をめぐる問題は権力の変革を目指す運動の展開の中でも問われているのであり、僕はそれを共産党や革共同の他党派、内部関係の中に垣間見てはいたが、自分たちにも問われる問題としては突き詰めて考えてはいなかった。この点は赤軍派の面々も同じだったと思う。連合赤軍事件ではこれはもっとも露骨に現れるが、これは当時の僕らの思考とは無縁ではなかったのだ。(P165) 

70年安保決戦という掛け声や宣伝は、願望も含めて存在したが、運動が後退局面に入ったことは疑いもないことだった。ここで赤軍派が登場した。・・・彼らは当初、権力との闘争を切り開く先端部隊の創出を主張していたが、それがいつの間にか前段武装蜂起の提起に変わっていった。・・・運動が直面している現実の認識と僕とでは決定的といっていいほど違った。当時の言葉を想起すれば赤軍派の面々は革命的高揚期にあるという認識をもっていた。事態は高揚期どころかどう見ても後退期だった。この認識の違いは決定的だったが、当時の党派の面々は・・・運動が後退局面にあることを認識していたであろうが、それを現実認識として明瞭に、その上で運動の方向を出すということはしていなかったと思う。(P167) 

1969年の段階が反体制・反権力の運動にとって革命的高揚期にあり、武装蜂起の方向を提起すれば、その後退局面を変えられるとは到底考えられなかった。赤軍派の面々はロシア革命に倣って今が革命的高揚期にあり、武装闘争の方向を提起したが、これは彼らの願望によって言うなら主観主義的な現実認識に拠ったものである。(P170) 

67年、老舗の新左翼党派ブント(共産主義者同盟)は復活したものの、69年、リンチ殺人事件を経て赤軍派を生み、戦旗派、情況派、三上率いる叛旗派等と分裂を繰り返した。赤軍派はその後、連合赤軍、日本赤軍へと分離し軍事路線を突っ走った。筆者は、そのことを踏まえた三上の総括をほぼ全面的に受け入れることができる。三上に比べれば、ブントの分派の指導者であった長崎浩の「1970年 岐れ道それぞれ」は、前出の小熊英二の『1968』を書き写しただけの希薄さで、筆者の期待を裏切る内容だった。 

その他

(1)激突座談会〝革マルVS中核″ 

革共同革マル派・同中核派の元活動家、元無党派一般学生、板坂剛(司会)による座談会である。元活動家であって、座談会開催時は革マル派・中核派に属していない。にもかかわらず、のっけから両者は互いに相手を罵倒するというありさまである。「戦争」と呼ばれた両派の内ゲバ犠牲者に対する慰霊の言葉はもちろんない。憎しみというものは、50年余を経過しても晴れないものなのだと感じた。罵倒の言葉は当時と変わっていない。彼らはこの50年余りの年限をどう過ごしてきたのか。あのアジア・太平洋戦争で戦った日本軍・米軍の兵士同士が70年余を経過して互いに和解したというニュースをTVでみたことがあるが、内心はどうなのか心配になるくらいだ。これが「新左翼」なのか、そして「戦争」なのかと。 

(2)「7.6事件」に思うこと(中島慎介) 

同稿は1969年7月6日、第二次ブント内で赤軍派が中央派の仏徳二議長をリンチし、介入した警察により破防法で逮捕状が出ていた仏議長を逮捕に至らしめ、その報復で逆襲した中大ブントが望月上史を監禁し望月が逃亡しようとして転落、のちに死亡した事件の証言である。 

証言内容は本書を読んでただくとして、同稿あとがきにて、中島は《以上の文面は、2019年12月刊行の『追想にあらず』(講談社エディトリアル刊)に寄稿した原文そのままです(ただし本書編集部で誤字や誤記を修正し表記を統一したりした箇所が一部あります)。》と書き、続けて、《入稿後、ゲラを見ると全体の4割が削除され、文面も入れ替えられ、更に残りのゲラの1割の部分も削除され、意味不明の代物とされていました。》と独白している。けっきょく中島は『追想にあらず』編集担当者に対し、「出版拒否」「原稿引き揚げ」を通告したという。 

中島の言い分しかわからないので、これが事前検閲なのか編集権の行使なのか判断できないが、前者であれば許されない。