2022年4月21日木曜日

『抵抗と絶望の狭間 1971年から連合赤軍へ』

 ●鹿砦社編集部〔編〕 ●鹿砦社 ●990円(本体900円) 

本書は拙Blogにて取り上げた『1970年 端境期の時代』の続編にあたる。鹿砦社の定期刊行物『紙の爆弾』増刊号で、本書を含め5冊がシリーズ化されている。編集の切り口は発刊年の50年前、新左翼運動が盛んだった時代のそれぞれの年を振り返るというもの。本書の場合、刊行された2021年の50年前、すなわち1971年に焦点が当てられている。

中村敦夫(俳優/1991年に行われたインタビューの再編集掲載)、松尾眞(元中核派全学連委員長)、田所敏夫(フリーライター)、長崎浩(元ブント活動家、著作業)、重信房子(元日本赤軍結成メンバー)ら15人が寄稿している。

長崎浩の連合赤軍への言及 

筆者が最も注目したのは、長崎浩の「連合赤軍事件 何が何だか分からないうちに」である。筆者は長崎の『叛乱を解放する 体験と普遍史』及び前出の『1970年 端境期の時代』を拙Blogにて取り上げ、そこで、長崎がブント系の赤軍派、連合赤軍、日本赤軍について言及していないことへの不満を表明した。その後、本書に長崎が連合赤軍に関する論考を掲載したことを知り期待したのだが、裏切られた。 

まず、副題からして、腰が引けている。長崎が連合赤軍の母体であるブントの活動家であり、連合赤軍の前身であるブント赤軍派と党内闘争をしていた別派の指導的立場にいたことは知られている。だから、連合赤軍のことを詳しく知らないのは仕方がないのだが、ブントの政治的体質、党内風土を知る者の一人として、他党派もしくは部外の者よりは強いコミットメントが求められて当然だと思う。はなから〝分からない″はない。長崎は革共同戦争と呼ばれる、中核派VS革マル派の内ゲバについては、かなり入念な調べをして、両派の対立の根源と内ゲバの詳細を記述している。にもかかわらずだ。

〈左翼反対派〉という視点 

長崎の連合赤軍による「軍事路線」「リンチ総括」への言及におけるキーワードは、〈左翼反対派〉である。長崎のいう〈左翼反対派〉を以下、筆者なりにに解釈するーー新左翼というのは1960年安保闘争を契機として、既成左翼を批判して革命戦線に登場したわけだから、左翼内の左翼、すなわち〈左翼反対派〉である。〈左翼反対派〉としての新左翼(共産主義者同盟、以下「ブント」及び革命的共産主義者同盟、以下「革共同」)は60年安保闘争時、そしてその敗北後の停滞期から1967年までは既成左翼の〈左翼反対派〉にとどまっていた。ところが、同年の10.8羽田闘争以降、三派系全学連による街頭闘争、全共闘運動の隆盛に伴い、〈左翼反対派〉から自立した左翼としての地位を獲得した。既成左翼(日本共産党・日本社会党)は、実態上、70年安保闘争を筆頭とする体制批判運動に事実上取り組んでいなかったからだ。

ここから、新左翼各派は、それまでの既成左翼に対する〈左翼反対派〉とは異なる位相における〈左翼反対派〉の地位獲得に迫られた。権力との暴力的衝突が激化する中、より過激な路線を提起し、それを実行するセクトが真の革命主体=真の前衛党であるという証明に追い込まれていった。自らが真の前衛党であり続けるためには、自派が〈左翼反対派〉の地位を占め、他党派を既成左翼の地位に貶め続けなければならなくなった。長崎の前衛党論からすると、ブント赤軍派→連合赤軍は、武装闘争を実行しうる真の前衛党として、当時弱体化しバラバラになりかけていたブントの胎内に産み落とされ、革命戦争実行部隊という自らの路線の優越性に基づき、その解体にとどまらず、ブント内〈左翼反対派〉はもとより、革共同ほか新左翼各派を「軍事力」において凌駕しようとする新左翼総体に対する〈左翼反対派〉を目指そうとした、ということになる。

またその一方、連合赤軍のリンチ総括殺人については、山岳アジトという、国家権力から遮断された閉鎖空間において、前衛党の優越性の証明が個人レベル、すなわち「兵士」という身分(立場)において引き起こされた結果とみなされている。幹部と兵士という序列関係の下、「兵士」と「兵士」のあいだにおける革命意識の優越性が問われたというわけだ。連合赤軍という党権力の圧力下、「兵士」は自己の共産主義化の獲得度を幹部(森恒夫・永田洋子)にいかに証明するか迫られ、暴力度の強弱が共産主義化の強弱の指標となったということになる。それが、「堕落」した「兵士」に対する死に至るリンチに発展し、幹部は、そのことにより、自らの権威性を保持できるというメカニズムが稼働したのだと。なお、長崎は優越性という表現を用いていないので、念のため本書の原文に当たっておく。 

日本の新左翼諸党派はブントと革共同から始まり、ほぼおしなべてその系譜を引いているとする。とすれば、これら党派は共産党や社民の「既成左翼」にたいして、定義上左からの反対派の位置に立つ。そして歴史的には、コミュンテルンの分裂以降の20世紀、プロレタリア革命にたいする既成左翼の裏切りを告発するマルクス・レーニン派は、不可避的に左翼反対派の立場に立ったのだ。互いに唯一の「前衛党」を呼号して、両者の関係がしばしば暴力沙汰になるのは周知のことである。だからどんな集団にも発生する左からの反対勢力ではなく、左翼反対派とはマルクス主義の革命(論)における左翼反対派のことであり、これはカテゴリー的歴史的な必然である。
だが、日本でも1968年の大衆叛乱が始まる。この叛乱を地盤として乱立した1968年の新左翼諸セクトは、おしなべて左翼反対派の党ではありながらかつ同時に、もはや既成左翼はその母体ではありえない。社民と労働組合は無関係、共産党民青は初めから敵である。つまり無意識のうちにも、左翼反対派でありかつ左翼反対派ではないという矛盾の内に立たされたのである。むしろ矛盾は新左翼の内部に移されて、今度は新左翼セクトどうしが左翼反対派の関係として唯一の前衛党を競う仕儀に立ち至っている。(P142) 

・・・赤軍派は(したがって連合赤軍は)いわば他の新左翼セクトにたいする左翼反対派であろうとした。なるほど他党派にたいするリンチはしないと赤軍派は宣言した。だが、世間から孤立したちっぽけな集団の内で、幹部たちが左翼反対派として一般党員を責め立てた。「共産主義化」を求める「総括」の強要であり、挙句のリンチ殺人である。いわば左翼反対派由来の三重の拘束がそこに働いていたはずである。左翼反対派の「革命の独占と孤独」がもたらす病理であった。(P142) 

他党派に対する優越性の証明 

長崎の〈左翼反対派〉論を読んでいるとき、思いもかけず『歴史の終わり』(フランシス・フクヤマ著)が思い浮かんできた。同書はソ連崩壊後の世界のあり方について、ネオリベラリズムが世界を席巻した暁には、世界は自由で安定した国家で満たされ戦争はなくなり、そのとき歴史が終わるという説を展開した、いわばネオリベの経典のようなものだ。フクヤマに対して、エマニュエル・トッドは次のように批判した。 

フクヤマはヘーゲルを単純化して用いたが、その用い方が高度な消費にも耐えたことに、パリ知識人は驚いたのである。歴史は意味=方向を持つが、その到達点は自由主義的民主主義の全世界化である。(中略)現実のヘーゲル、すなわちプロイセンに服従し、ルター派の権威主義を尊重し、国家を崇拝したあのヘーゲルを知っている者にとって、個人主義的民主主義としてのヘーゲルというイメージは、大いに笑えるものだった。(『帝国以後』藤原書店版P30) 

トッドのシニカルなフクヤマ批判は、興味をそそるものだが、自己意識にさかのぼって歴史を考えるという方法を無視してはいけない。そのうえで『歴史の終わり』の第三部〔歴史を前進させるエネルギー 「認知」を求める闘争と「優越願望」〕の章の扉(1 はじめに「死を賭けた戦い」ありき/三笠書房版上巻P239)において、フクヤマは、ヘーゲルとコジェーブを引用する。 

生命を賭けることによってのみ自由は得られる。生命を賭けることによってのみ、自己意識の本質とはたんに生きているということではなく、その最初にあらわれた姿そのものでもないことが試され、そして証明される。・・・生命を賭けなかった個人も、一人の人間としては認められることは確かだが、しかしそういう人は、自立した自己意識として認められるという心理に到達したことにならないのである。(ヘーゲル『精神現象学』) 

人類の発生と進化につきまとう—―いっさいの人間的な欲望――自己意識や人間としての実在性を生み出す欲望――は、結局のところ「認知」を求める欲望の機能を果たしている。そして人間としての実在性を明るみに出すために生命を賭けるというのは、こうした欲望のために生命を賭けるということである。したがって、自己意識の「起源」について語ることは、必然的に「認知」を求めるための死闘について語ることにほかならない。(コジェーブ『ヘーゲル読解入門』) 

このことをもって、新左翼党派が陥った、(長崎がいうところの)〈左翼反対派〉の立ち位置について、それが認知を求める欲望だったと片づけるわけではない。しかしながらフクシマは同書本文で以下のように展開する。

人間の自分自身の価値観と、それを他人に認めさせようとする要求は、今日にいたるまで勇気や寛容や公共心など気高い美徳を生み出し、暴政に対する抵抗の牙城となりリベラルな民主主義を選びとる根拠ともなってきた。しかしそのような認知を求める欲望には暗黒面もあり、そのために多くの哲学者たちが「気概」を人間悪の根源とみなすようになったのである。(下巻P30) 

自分の優越性を認めさせようとする欲望を、私(フクヤマ)は古典ギリシア語から語源を借りて「優越願望」(megalothymia,メガロサミア)と新たに命名したい。(同P31) 

「優越願望」が政治の世界にとってきわめて問題をはらんだ情熱であることは明らかだ。というのも、ある人から自分の優越性を認められて心が満たされるなら、すべての人間からそれを認められれば、当然いっそう大きな満足を得られることになるからだ。最初のうちはつつましやかな自尊心として登場してきた「気概」も、かくして支配への欲望に変身しかねない。この支配欲は「気概」の暗黒面であり、もちろんヘーゲルの描いた血なまぐさい戦いの開始時点からすでに存在していた。認知への欲望は原始的な戦いを煽り立て、それが主君による奴隷の支配をもたらした。そしてついにこの論理は、全世界からあまねく認められたいという欲望、すなわち帝国主義にいたるのである。(同P32) 

フクヤマがいう、気概、認知、優越願望という人間論がその本質かどうかについては、いまは問わない。しかし、フクヤマの論及と、長崎の〈左翼反対派〉という、外形的かつ政治的立ち位置論とを比較するとき、赤軍派、連合赤軍、革共同の内ゲバ等の新左翼党派が陥った暗部の歴史的解明にはなお、深い考察が要求されることをフクヤマが示唆しているとは言えよう。

「レーニン」が機能しなかった「日本革命」

新左翼党派のそれぞれ理論的指導者は当初、レーニンのロシア革命をモデルとして、日本革命実現の道筋を追求した。その忠実な理論化と実践が党派同士のあいだにおける優位性の基準となった。〝組織された暴力”と〝プロレタリア国際主義”のスローガンは、その一つだった。1968年まではかなりうまくまわっていたのだが、権力側の弾圧強化により、新左翼が目指した街頭実力闘争は封じ込まれ、理論的・運動論的に隘路に追い込まれた。ブント系新左翼各派は、レーニン革命論に基づいた実力闘争が行き詰まった段階で、レーニンを「超える」革命論の構築に迫られた。そのひとつが「前段階武装蜂起」だった。ブント赤軍派は、そのことをもって、ブント内他派より優位な位置を得た。それがブント赤軍派誕生の経緯だ。ブント内のセクトでは、赤軍派に負けまいと、たとえば戦旗派は地下組織であるRGを立ち上げた。

一方、レーニン理論のなかの真の前衛党という位相において優位性を競ったのが、革共同両派(中核・革マル)であった。こちらの闘争(内ゲバ)は、レーニン理論から発展し、レーニン以降のソ連共産党=スターリン批判に従った「反帝国主義・反スターリン主義」を党是とする本家争いだから、両派の闘争はとどまるところを知らなかった。ブント、革共同のそれぞれの指導者たちは、革命理論と実践の同一性による政治的優位性、すなわち他者(他党派)に対する優越性を無意識のうちに競い、いつのまにか、暗部へと落下してしまったように思える。 

1971年とはどんな年だったのか

本書には1971年の年表が付されている。主な出来事を拾ってみよう。

(一)新左翼の動き 

学費闘争、沖縄闘争(6.17闘争で爆弾使用)、成田闘争(9.16第二次強制執行阻止闘争で機動隊員3名死亡)が、ほぼこの年、年間を通じて闘われた。4.28ブント関西派、赤軍派、京浜安保共闘、全京都学生連合会など「蜂起戦争派」が初めて清水谷公園で統一集会。8.22赤衛軍事件、10.21国際反戦デー(全国の大学でストなど)、11.14中核派による渋谷暴動、後日、反戦派教師死亡、機動隊員死亡、11.19沖縄強行採決糾弾闘争で警視庁は前日、中核派申請のデモを不許可、中核派は日比谷公園内松本楼に突入し放火炎上、関西、東海でも火炎瓶闘争など展開。12.29警視庁極左暴力取締総本部、「過激派」いぶり出しにローラー作戦開始、急進4派の指名手配26人を写真付きで新聞発表。

(二)爆弾闘争の多発化 

6.17沖縄闘争で手製爆弾により機動隊員26人重軽傷 8.7警視総監公舎と成田署に時限爆弾、8.22東京目黒の警視庁職員宅で爆弾爆発、8.26小型手製爆弾千葉県我孫子市レール上で発見、9.18杉並区高円寺の交番脇で時限爆弾爆発、9.22機動隊独身寮で鉄パイプ爆弾爆発、10.18東京新橋郵便局で小包爆弾爆発、10.23渋谷区・杉並区・板橋区の4カ所の派出所に爆弾仕掛けられる(不発)、10.24都内6か所に爆弾、うち3か所で爆発、10.25豊島区の駅ホームで爆弾見つかる、 11.11東京地検で爆発、千葉県柏、荒川警察署長公舎で爆発、11.12東京中野区の元警視庁警務局長宅にて爆発、葛飾区の警視庁家族寮で爆発、12.18警視庁警務部長土田国保自宅に配送された荷物が爆発、夫人が死亡、四男負傷、12.24新宿伊勢丹デパート前の交番に置かれた爆弾爆発、警官通行人1名が負傷 

メディアが報じた爆弾闘争であるが、実行犯、組織等の詳細部分については、当局から発表されていないものも多い。 

(三)内ゲバ 

沖縄で革マルVS民青内ゲバ発生(革マル派学生1名死亡)、10.20横国大で革マルVS中核内ゲバ発生(革マル派学生1名死亡)、10.30学芸大で革マルVS中核内ゲバ、4人重傷、11.1杉並で革マルVS中核内ゲバ、12.4関西大学構内で革マル派が中核派全学連副委員長ほか1名を殺害、12.13法大内で中核派学生が反帝学評学生に襲われ2人が重傷

(四)公害闘争 

4.12田子の浦ヘドロ訴訟で住民から告発された大昭和製紙等製紙会社社長ら、竹山祐太郎静岡県知事らを静岡地検が不起訴処分、5.24公害都市・大阪西淀川区では1年間に12人の公害認定患者が死亡、患者数は1,741人に。6.30イタイイタイ病訴訟で住民側が勝訴。9.27新潟地裁での水俣病裁判判決を前に、被告の昭和電工が上訴権を放棄、公害追放を叫ぶ住民パワーに大企業が屈す。新潟水俣病裁判で患者側が勝訴、企業から損害賠償を勝ち取る。12.10水俣病認定患者6人と石牟礼道子がチッソ本社社長室でハンスト、会社側が機動隊を導入、 

思いつくままの抜粋であり基準はない。新左翼各派は一年を通じ、沖縄闘争と成田闘争に熱心に取り組んだ。街頭闘争における火炎瓶の使用が多発し、手製爆弾爆発(未遂を含む)が多発した。1960年代より闘争で使用される「武器」はエスカレートしたが、政治的効果はむしろ、マイナスに作用した。

この年、2月11日、京浜安保共闘(革命左派)が栃木県真岡市鉄砲店を襲撃、散弾銃等を強奪。同派の行動が表面化した。5月31日、初めて小袖に山岳アジトを建設。7月15日、京浜安保共闘と赤軍派が合流して統一赤軍を結成。このころから仲間の処刑・粛清始まる。8月中旬、連合赤軍結成。主体の「共産主義化」論。10月には山岳アジトを数か所移動。そして、翌72年2月17日、連合赤軍、森恒夫・永田洋子逮捕。19日、連合赤軍、銃撃戦開始、28日制圧さる。3月5日、連合赤軍リンチ殺人発覚に至る。なお、本書には、「〔年表〕連合赤軍の軌跡」という詳細な資料が収録されている。