2023年1月1日日曜日

『対論 1968 』

 ●笠井潔・絓秀実 聞き手/ 外山恒一 ●集英社新書 ●1000円(+税)

 本書を読む前提として、対論した笠井潔・絓秀実それぞれの「1968」への関りを整理しておく必要がある。両人が本書においてその詳細を述べているので、それを筆者なりにまとめてみた。  まず年齢と学年である。笠井は1948年1月生まれ、絓は1949年4月生まれ。年齢は笠井の方が1歳上だが、学年では2学年上になる。本書で取り上げられている「ジッパチ」(1967年10月8日:第一次羽田闘争)で命を落とした京大1年生・山崎博昭(享年18歳)が1948年11月生まれだから、早生まれの笠井はふつうに大学進学していたら山崎より1学年上、絓は1学年下の高校三年生だったことになる。「ジッパチ」を実行した新左翼三派(中核、ブント、解放派)の当時の指導者は団塊世代より前の世代であり、笠井、絓は同闘争に参加していたのかどうか不明だが、参加していたとしても学生大衆の一人だったと思われる。いまになっては、1~2歳、1~2学年の差などたいして変わらないように思えるかもしれないが、とりわけ1967年、1968年、1969年の3年間の新左翼運動においては、大きな差異が生じたはずだ。
 次はそのとき、二人がどこにいたかである。どこの大学でどの党派に属していたかで、状況に違いが生じる。そもそも、高校を卒業したばかりの大学1年生に党派を選ぶ能力はない。多くの学生は進学した大学または学部で支配的だった党派にオルグられその党派で活動を始めるのが一般的だった。もちろん、党派を拒否してノンセクト・ラジカルであろうとした者もいたし、イメージだけで党派を選ぶ者もいないではなかった。 
 笠井は紆余曲折を経て和光大学にとりあえず進学したが、そもそも"学生運動"という範疇を拒否していたようだ。高校時代からルカーチに傾倒していたこともあり、構造改革派の共産主義労働党(プロレアリア学生同盟は同党の学生組織)〔注1〕に入党し、プロ学同の指導者として活動をする。
〔注1〕共産主義労働党(プロレアリア学生同盟は同党の学生組織):共労党は1968年以降、構造改革路線から暴力革命路線に転換し、他の新左翼党派と同調して街頭闘争に参加するようになった。
 一方の絓は浪人生活を経て学習院大という、当時革マル派の早稲田と並ぶ拠点校(黒田寛一の妹がいたとか)に入学。以後、党派に属することなく、同大全共闘、早大全共闘を構成した反戦連合などにて活動するが、自身によると、たいした政治活動はしていないという。共通するのは両人とも、日本における「1968」のメーンストリームである党派に属さなかったことだ。 
 そんな傍流であるにもかかわらず、両者の記憶力、洞察力は群を抜いている。当時の出来事、各党派の戦略・戦術、人脈等について詳しく細部に至るまで語り合っていることに驚嘆する。時代の語り部、生き証人の名に値する。もちろん編集段階で事実関係等の確認あっての刊行であるが、対論段階で当時を大雑把であれ、再現できる能力は人並みでない。そんな笠井・絓であるが、記憶に欠落がある。  

●1968.10.21国際反戦デーの語りがない 

 

 本書第1章「1968」は、当時のようすをキーワードごとに語り合う構成になっているのだが、筆者からすると、大事な事象が抜けている。それは1968年10.21国際反戦デー闘争に触れていない点だ。「1968」を回顧するならば、すなわち、新左翼ストーリーを語り合うならば、前出の1967.10.8=ジッパチ闘争を出発点として、1968年1月の佐世保エンプラ闘争、2月から新左翼が介入を開始した三里塚闘争、2月から3度にわたって闘われた王子野戦病院闘争、4月に始まった日大・東大全共闘運動等々を経て、1968年国際反戦デーをピークとする筋書きは必須だと思われる。   この闘争は1968年10月21日の国際反戦デーにおいて、米軍燃料タンク運搬阻止を掲げて新宿に結集した中核派、ML派、第四インター派などの新左翼部隊が規制に出た機動隊と激しい攻防戦を繰り広げ、さらに見物にきた民衆が新左翼側に加わって暴動に発展、ついに騒乱罪が適用されるに至ったもの。日本の反体制運動史上における稀代の大事件だった。また一方、ブントの部隊は防衛庁(当時)への突入を敢行し、一時、機動隊の阻止線を突破し、庁内侵入に成功した。まさに新左翼が敢行した街頭闘争がピークに達した記念すべき、そして、本題の「1968」を文字通り象徴する闘争だった。この闘争を抜きにした「1968」はあり得ない。その理由を以下に示す。

 

●10.21を契機に後退した新左翼党派 

 

 10.21は革命側にとって大勝利であると同時に、その後退の開始でもあった。日本政府は騒乱罪適用に至った事態を重視し、街頭闘争に対する警備を強化した。以降、1969年1月における東大安田講堂攻防戦、4月の沖縄闘争等々において、新左翼側は機動隊の圧倒的規制力により抑え込まれるに至った。1969年秋に新左翼各派が闘争の最大の山場と想定した70年反安保闘争、すなわち「安保決戦」に暗雲が立ち込め 10.21の「勝利」は新左翼党派の暴力路線(街頭ゲバ棒闘争にすぎないが)に自信を与えたと同時に、政府側の暴力(機動隊)を強大化させるという反作用を引き起こした。政府は1969年秋に向けた新左翼側の動きを事前抑制するため、全共闘が占拠した大学から活動家を追い出し逆封鎖(ロックアウト)し、革命側の拠点をことごとく潰していった。  その過程で誕生したのがブント赤軍派だ。赤軍派が掲げた、過渡期世界論、組織された暴力(=革命軍創設)、前段階蜂起、世界革命戦争という路線 -- 端的にいえば、機動隊殲滅は、10.21の高揚で獲得された武闘路線が、以降、国家権力側の抑圧により後退することに対抗する力学から生まれた。  赤軍派の登場は、1969年9月5日の全国全共闘結成大会(東京・日比谷)だった。この大会では逮捕状が発出されていた山本義隆東大全共闘議長が官憲の隙を狙って現れたもののけっきょくは逮捕された。全国全共闘結成大会は一見、新左翼党派とノンセクト・ラジカル(各大学の全共闘)が大同団結したかのように見えなくもないが、1969年9月に至って、「1968」を牽引した既成新左翼党派と全共闘の落日を象徴する舞台でもあった。前者は赤軍派によって引導を渡され、後者はその象徴である山本義隆を逮捕により失ったからだ。  新左翼党派による10.21国際反戦デー闘争に係る総括は、政府から騒乱罪を引き出したという見地から「勝利」とされた。新左翼からみれば、得意とする街頭闘争プロパガンダの大成功にすぎなかったのかもしれないが、そうではない。新宿に見物に来た無党派大衆が機動隊に対して反感を抱き、新左翼との、それは一瞬にすぎなかったのかもしれないが、共闘が実現した。そのことは権力にとって脅威であり、絶対に再現させてはならない"状況"だった。

 《暴動を通じてこそ、主体性(偉大なる人物でなく誰であっても)は歴史に導かれ、歴史に生命の息吹を与える。逸脱した者は馬鹿げた処罰と自分の生命を秤にかける。狂人はもはや監禁を受け入れないし自分の権利の失効を受け入れない。民衆は自分達を圧迫する体制を拒絶する。(ミシェル・フーコー「蜂起は無駄なのか?」)》

 笠井・絓が国際反戦デーや山本義隆を取り上げなかったのは、それが重要ではないということではないだろう。本書企画者の外山が「1968」を新左翼党派の動向に限定して対論するものではないと決めていたからだろう。連合赤軍事件についての言及も本書ではきわめて短いのも、そのことの現われかもしれない。「1968」をどのような切り口で論じるのか -- 総花的な思いつきめいたキーワードを設定して論じるのか --紙数の関係もあるだろうから、 難しいところではある。 

 

●華青闘告発(1970)、天皇、そしてポリティカル・コレクトネス(PC 

 

 先の大戦で日本帝国から侵略を受け、受難の歴史を刻んだアジア系の在日外国人から、歴史的観点からの日本帝国主義批判、および、そこに目を向けない新左翼運動批判が起きた。それが華僑青年闘争委員会(華青闘)による在日外国人に対する差別法制の撤廃を求める運動であり、それに対する中核派の不当な介入に反発したのがいわゆる、華青闘告発である。この告発を契機として、一挙に"天皇制"が前面化してくる。それは、これまでの新左翼運動の観念性を批判するに十分なものだった。

"戦後民主主義”なり"戦後体制”なりといった欺瞞のメカニズムの根底に最初から"天皇制"が組み込まれているという話だと思います。そういう構造が見えてくる、あるいは問題化され始める契機が1970年の華青闘告発だった、と。(本書P135)

 司会の外山はこのようにして、戦後体制の核心に迫る問題を提起した。それに対して、笠井は

 この(華青闘)告発に対して、新左翼三派(中核、ブント、解放派)は労働者階級中心主義、"先進国革命”路線のマルクス主義諸党派であって、それまで第三世界革命を位置づけられずにきたことに対して真剣な理論的反省もおこなうことなく、華青闘からの糾弾を道徳問題にすり替えてしまったこと(後略)。日帝の中国侵略を第三世界/近代世界の総体的システムの中で位置づけていくという視点のない、そういう安直な対応が結局は新左翼運動の思想的崩壊をもたらす一因ともなった。(本書P140)

   と、いかにも党派的に整理する。それを受けて、絓と外山は ーー  

 華青闘告発を契機として出てきた一種の道徳主義的な傾向に対しては、多くのノンセクトは反発したし、オレも反発を感じたけれども、今から振り返ってみればあれが日本のPC(ポリティカル・コレクトネス)の源流になっているわけでしょう。 

 70年以降、左翼で勝利し続けているのは、まあそれを"左翼"と呼ぶとしての話ですが、PCだけじゃないですか。もちろん今現在、PCを担って「♯Me Too」をやっている人たちは華青闘告発なんか知らないわけですけど、やっぱりソ連崩壊を経て…。 

外山 つまり、"資本主義ではない何か"を志向すること抜きに"差別"の問題を...。 

 そうそう代替がないものだから...。 

外山 "道徳的"に解決するしかなくなると、と 

 "人格"とか"内面"を問題にするしかなくなるです 

外山 資本主義の枠内で"より良い社会"を作りましょう、的な...。 

 "資本主義だけ残った"ってことになっちゃてるからね。(本書P140~141) 

 

 "道徳的解決"は"良心に基づく"と言い換え可能だ。たとえば、地球環境に配慮して、自分は省エネ製品を購入する、原発企業の製品を購入しないナドナド。すべてを倫理に還元して自分だけピュアになったつもりで、問題解決を図ったと納得する。  そればかりではない。このたびのサッカーW杯がアラブの小国カタールで行われたことを知らない人は少ないと思うが、開催に際し、カタール国内の人権問題やスタジアム建設に従事した外国人労働者が多数亡くなったことに対して、"先進国"から批判の声が上がった。先進国側のPCの表明だ。

 だがこの声は、アラブ・イスラムへの偏向に基づいている。人権問題をいうなら、民主主義の「盟主」たるアメリカでいまなおやむことのないアジア系・アフリカ系・ヒスパニック系の人々に対する暴力的差別をなぜ、問題にしないのか。

 イスラエルのガザ地区でイスラエル軍によって行われているパレスチナ人(アラブ人)への差別・抑圧・無差別殺人がなぜ容認されるのか。カタールほかイスラム圏における女性差別や外国人労働者使い捨ての現状を批判することは当然だけれど、その批判と同等の、いやそれ以上の声・圧力をアメリカやイスラエルに対して向けなければ意味をなさない。なお付言するならば、次回サッカーW杯の開催地はアメリカ、カナダ、メキシコである。アメリカ開催に際しては、同国にいまなおはびこる人種差別に抗議する声が全世界から上がることが期待される。 

 

見当違いの"吉本隆明批判"  


 絓秀実は吉本隆明について、次のように発言している。 
 ・・・そもそも『共同幻想論』で言われた"天皇制の本質"って、要するに折口信夫が『大嘗祭の本義』(1928年)で言った"真床襲衾"説でしょう。西郷信綱経由ですが。大嘗祭新天皇がおこなう秘儀がある、と。ある種のセックスの擬態のような感じで特別な衣装を着てゴロゴロして云々っていう。折口のその"真床襲衾"説を『共同幻想論』は基本的に支持している。『共同幻想論』というと、柳田國男の『遠野物語』(1910年)と関連づけられることが多いが、折口でしょう。吉本に限らずですが、実はそういう折口的なオカルト的な文学的天皇制論が60年代に急に浮上してきた脈絡は、オレの考えでは、沖縄返還交渉だと思うです。
 中略
 ・・・結局のところ新左翼の沖縄論も、どんなふうに沖縄を日本に抱合するかという議論でしかないわけよ。"琉球独立"を言う人もないではなかったけれど、それだって思いつき的なもの以上を出なかった。それで結局、琉球独立論に影響を与えたのは吉本の『共同幻想論』や沖縄論「異族の論理」(1969年)である、ということになるでしょう。  中略 ・・・吉本の沖縄論もやっぱり"抱合・統合"の議論なです。"真床襲衾"みたいな"神秘"が沖縄の古層にある、つまり"天皇制の古層は沖縄にある、調査せよ"って話なだ。吉本の主観はともかく、結果としては天皇制の強化につながる議論だった。 (本書P118~120)

 

 絓秀実のあまりに粗雑な『共同幻想論』の読み、すなわち"折口的なオカルト的な文学的天皇論"とい批判的発言に筆者は驚いた。そもそも大嘗祭が秘儀とされ公開されない以上、この儀式そのものがオカルト(その語源である隠されたもの)なのであって、それを研究対象としてその本質を推論すること、そこから帝位継承すなわち天皇の権威の本義を追求することがオカルトなのではない。絓がオカルトの語源である"隠されたもの"をそのまま用いて折口にレッテルを張ったとは思えない。絓のいう"オカルト"は揶揄であり、蔑みの意味が込められている。絓のような発言に対してはまずもって、『共同幻想論』序に書かれた吉本隆明の次の一節の紹介をもって、抗弁を開始したい。 

 ここ(=『共同幻想論』)でとりあげられている世界は、民俗学や古代史学がとりあげている対象と重なっている。しかし、わたしの関心は、民俗学や古代史学のなかにもなかった。ただ人間にとって共同の幻想とはなにか、それはどんな形態と構造のもとに発生し存在をつづけてゆくかという点でだけ民俗学や古代史学の対象とするものを対象としようと試みたのである。この試みから民俗学や古代史学について調査と資料と文献によって整合された新しい知見をみつけだそうとしてもあるいは失望するかもしれない。もちろん民俗学と古代史学の現在の水準をけっして無視しなかったつもりだから、それなりの礼節はこれらの学問的な知見にたいしても支払われているはずである。(『共同幻想論』(吉本隆明著/河出書房版P29)

  繰り返そう、「民俗学と古代史学の現在の水準をけっして無視しなかったつもりだから、それなりの礼節はこれらの学問的な知見にたいしても支払われているはずである」。先人の学的業績に対するリスペクトを失えば、知の探究者の資格はない。謙虚さを失い、知ったかぶりの傲慢さが残るだけだ。  


●「祭儀論」


 さて、絓秀実が言う『共同幻想論』における吉本の折口支持という決めつけは、同書のなかの「祭儀論」を指すと思われる。「祭儀論」とはどんな論なのか。 

 

 吉本によれば、個体の自己幻想は、その個体が生活している社会の共同幻想にたいして〈逆立〉する。しかし、この〈逆立〉の形式はいちおうではなく、むしろある個体にとっては、共同幻想は自己幻想に〈同調〉するもののようにもみえ、またべつの個体にとっては共同幻想は〈欠如〉として了解されるし、また、別の個体にとっては〈虚偽〉として感じられるともいう。こうした前提の上で、吉本は、自己幻想と共同幻想が〈同調〉する要件を整理する。それが以下の部分である。 

 

 個体の自己幻想にとって、社会の共同幻想が〈同調〉として感じられるためには、共同幻想が自己幻想にさきだって先験性であることが自己幻想の内部で信じられていなければならない。いいかえれば、かれは、じぶんが共同幻想から直接うみだされたものだと信じていなければならない。しかしこれはあきらかに矛盾である。かれの〈生誕〉に直接あずかっているのは、すくなくとも成年にいたるまでは〈父〉と〈母〉との対幻想の共同性(家族)である。またかれの自己幻想なくして、かれにとって共同幻想は存在しえない。だが極限のかたちで恒常民と極限のかたちでの世襲君主を想定すれば、かれの自己幻想は共同幻想と〈同調〉しているという仮象をもつはずである。あらゆる民俗的な幻想行為である祭儀が、支配者の規範力の賦活行為を意味する祭儀となぞらえることができるのはそのためである。(『共同幻想論』P128) 

 

 ここでいわれている「極限のかたちで恒常民と極限のかたちでの世襲君主を想定すれば、かれの自己幻想は共同幻想と〈同調〉しているという仮象をもつはずである」という箇所が天皇制(少なくとも近代以前の)を暗示していることは想像できる。いわば、これが「祭儀論」の核心である。  

 さらに吉本はヘーゲルの『精神現象学』における〈前生誕〉ともいうべき〈胎児〉と母との関係を出発点として、キルケゴールの人間の生存の根源的不安、不安神経症の根源が〈母体〉から離れる不安への還元だとするフロイトの説を援用して、〈生誕〉の瞬間における共同幻想は〈母〉なる存在に象徴されるとする。そしてそのうえで、未開人における〈死〉と〈復活〉が同等であると見做されること、および、〈受胎〉、〈生誕〉、〈成年〉、〈婚姻〉、〈死〉は繰り返し行われること、そこに境界がないことを『古事記』の伊弉諾、伊弉冉の伝承からも裏付ける。もうひとつ、人間の〈死〉と〈生誕〉が、〈生む〉という行為がじゃまされるか、されないかという意味で同一視されるような共同幻想は、どのような地上的な共同利害と対応するかについて、『古事記』の須佐男と大気都姫の関係から解明する。つまり、共同幻想の表象である女性が〈死〉ぬことが、農耕社会の共同利害の表象である穀物の生成と結びつけられていることの証明である。共同幻想の表象に転化した女〈性〉が、〈死〉ぬという行為によって変身して穀物になることの暗示である。ここで共同幻想の〈死〉と〈復活〉とが穀物の生成に関係づけられる。ここで注目されるべきは、一対の男女の〈性〉的な行為が〈子〉を生むという結果をもたらすことが重要なのではない。換言すれば、女〈性〉だけが〈子〉を分娩するということが重要なのだ。だからこそ〈女〉性は共同幻想の象徴に変容し、女〈性〉の〈生む〉という行為が、農耕社会の共同利害の象徴である穀物の生成と同一視されるのである。《この同一視は極限までおしつめられる可能性をはらんでいる。女〈性〉が殺害されることによって穀物の生成が促されるという『古事記』のこの説話のように。(『共同幻想論』P135》。 

  やや先回りして言えば、絓の「ゴロゴロしてうんぬん」が意味する真床襲衾=聖婚説に対して、『共同幻想論』における吉本はいかにも慎重に論をすすめようとしている過程が読み取れる。 

 次に吉本は池上広正の論文「田の神行事」〔注2〕、堀一郎の論文「奥能登の農耕儀礼について」から20世紀に残る土俗的な形の記録から、『古事記』説話よりも高度な段階に達した農耕祭儀のあり方を示す。 

 〔注2〕田の神行事:能登の鳳至郡町野町川西において行われる農耕祭儀である。まず12月5日、田の神を家に迎えるため、夕方主人は正装して戸口で田の神を田から家に迎える。迎えられた田の神は風呂に入って床の間にしつれえた席に紹ずる。主人は田の神に数々の料理を盛った二膳を運びさしだす。特に「ハチメ」と呼ぶ魚を二匹腹合わせにしたものと大根は欠くことのできないものとされている。「二匹腹合わせ」の魚や大根(二股大根)は一対の男女の〈性〉的な行為の象徴であり、穀神は「夫婦神」として座敷にむかえられる。また、台所の神棚に隣して種籾入りの俵(タネ様)を並べて置く。

 供えた食物は下げてから主人夫婦が食べて、後は家中の人が食べる。このようにして「アエノコト」が終わるとその日から田の神は家に上ることになる。「タネ様」は2月9日の「アエノコト」まで天井などに吊るして丁寧に仕舞っておく。 

 2月9日になると、「タネ様」は天井から取り外して座敷に運び、12月5日のときと同じ場所に置き繕椀に料理を盛って供える。すべて12月の「アエノコト」と同一の饗応がくりかえされる。翌日(2月10日)は「若木迎えの日」と称し、早朝に起き出でて乾し栗、乾し柿、餅一重をもって山に行く。枝振りの良い適当な松を選んでその根本に御供えをし、柏手を打って豊作を祈ってから木を伐って持ち帰る。松はその夜、松飾りをする。七五三縄を松にかけ、カラ鍬を松の根本に並べ、一斗箕の上に乾し柿、餅などを供え、ローソクを点じ、夜食の時には甘酒をも供える。この夜の行事は内容的に翌日の「田打ち」の行事に続くものであり、11日には未明3時頃主人が前日の飾り松・鍬を担ぎ、苗代田へ行き東方に向かって松を立て、鍬で三度雪の上を鋤き、柏手を打って豊作を祈るのである。田の神はこの月を堺にして以後は田に下りられるのである。この田の神につては同じ鳳至郡でも盲目、片目、すが目とも考えられていて多くは夫婦神である。 

(吉本の解釈によると、)夫婦の穀神が〈死〉ぬのは、たぶん「若木迎えの日〉においてであり、「若木」はおそらく穀神のうみだした〈子〉を象徴するものでる。そしてこの〈子〉神が「田打ち」の田にはこばれたとき豊作が約束される。 (『共同幻想論』P137~138)

 

 吉本はこの段階を具体的に次のように示している。  

 この農耕祭儀では、女性が穀母の代同物として殺害されることもなければ、殺害の擬態行為も演じられていない。その意味で『古事記』説話よりも高度な段階にあるといえよう。そのかわりに、対幻想そのものが共同幻想に同致される。(後略) 

 この民俗的な農耕祭儀は、耕作の場面である田の土地と、農民の対幻想の現実的な基盤である〈家〉のあいだの〈空間〉と、12月5日から2月10日までの〈時間〉のあいだに対幻想が共同幻想に同致される表象的な行為が演じられている点に本質的な構造があるといえる。そのあいだに対幻想が死滅し、かわりに〈子〉が〈生誕〉するという行為が、象徴的に農耕社会の共同幻想とその地上的利害の表象である穀物に封じ込められる。 

 この奥能登でおこなわれている農耕祭儀が、(中略)高度だと考えられる点は、対幻想の対象である女性が共同幻想の表象に変身するという契機がここにはなく、はじめから穀神が一対の男女神とかんがえられ、その対幻想が穀物の生成と関係づけられているということである。したがってあくまでも対幻想の現実的な基盤である〈家〉とその所有(あるいは耕作)田のあいだの問題として祭儀の性格が決定されている。ここでは対幻想が、あきらかに農耕共同体の共同幻想にたいして相対的に独立した独自な位相を獲取していることが象徴されている。 

 いま、この奥能登の農耕祭儀にしめされているような民俗的な農耕祭儀を、〈空間〉性と〈時間〉性について〈抽象〉するとき、どういう場面が出現するだろうか? 

この問題が農耕社会の支配層として、しかも農耕社会の支配層としてのみ、わが列島をせきけんした大和朝廷の支配者の世襲大嘗祭の本質を語るものにほかならない。(『共同幻想論』P139~140) 

 吉本は、このような段階を経て世襲大嘗祭の「本義」に迫っていく。吉本のそれがオカルトであるという絓の読みが、いかにピント外れのはったりであるかがわかる。『共同幻想論』を読まずに絓に同調する読者がいないとは限らない。


●吉本による大嘗祭の再現


 吉本による世襲大嘗祭の描写である。まず、民俗的な農耕祭儀と大嘗祭の違いについて、前者は〈田神迎え〉である12月5日と〈田神送り〉である2月10日というように祭儀がおよそ2か月のあいだをもって開催されるのに反し、後者では共時的に圧縮され一夜のうちに行われる悠紀殿と主紀殿におけるおなじ祭儀の繰返しに転化される。《かれ(新しく即位する天皇)は薄べりひとつへだてた悠紀殿と主紀殿を出入りするだけで農耕民の〈家〉と所有(あるいは耕作)田のあいだの祭儀空間を抽象的に往来し、同時に〈田神迎え〉と〈田神送り〉のあいだにある2カ月ほどの祭儀時間を数時間に圧縮するのである。(同書P140)》。 

 このことはなにを意味するのかといえば、世襲大嘗祭は ーー奥能登の、いやおそらく日本全国に伝承されている ーー 民俗的な農耕儀礼の延長線上にある、ということであろう。ただし、世襲大嘗祭では民俗的農耕祭儀が抽象化され、洗練されているという同質性と、形式において、異質な性格に変容している面を併せ持っているということになる。そのことを吉本は次のように表現している。  

 民俗的な農耕祭儀は、すくなくとも形式的には〈田神迎え〉と〈田神送り〉の模倣行為を主体としているが、世襲大嘗祭では、その祭儀と時間とが極度に〈抽象化〉されているために、〈田神〉という土地耕作につきまとう観念自体が無意味なものとなる。そこで天皇は司祭であると同時に、みずからを民俗祭儀における〈田神〉と同じように〈神〉として擬定する。かれの人格は司祭と、擬定された〈神〉とに二重化せざるをえねない。(『共同幻想論』P149~150)

  世襲大嘗祭が民俗的農耕祭儀から飛躍し、天皇の人格が司祭と、擬定された〈神〉とに二重化されたところが、絓のいう「ゴロゴロ」、すなわち真床襲衾である。吉本は真床襲衾について次のようにいう。  

 そこで悠紀、主紀殿にもうけられた〈神坐〉にはひとりの〈神〉がやってきて、天皇とさしむかいで食事をする。民俗的な農耕祭儀では〈田神〉は一対の男・女神であった。大嘗祭では一対の男女神を演ずるのは、あきらかにひとりの〈神〉とみずからを異性の〈神〉に擬定した天皇である。 

悠紀、主紀殿の内部には寝具がしかれており、かけ布団と、さか枕がもうけられている。おそらくこれは〈性〉行為の模擬的な表象であるとともになにものかの〈死〉となにものかの〈生誕〉を象徴するものといえる。(『共同幻想論』P141) 

  次に吉本は西郷信綱の『古代王権の神話と祭式』と折口信夫の『大嘗祭の本義』に対する批判に転じる。絓が吉本の祭儀論について"西郷信綱経由"だといっていたが、それも不思議だ。吉本は、"西郷説は「天皇が真床襲衾の寝具にくるまって胎児として穀霊に化するとともに、〈天照大神〉の子として誕生する行為だと解している"と評し、また、折口説を"天皇が寝所にくるまって〈物忌み〉をしそのあいだに世襲天皇霊が入魂するのをまつために引き籠るものだ"と解釈する。吉本のそれぞれに対する反論は次のとおり。  

 大嘗祭の祭儀は空間的にも時間的にも〈抽象化〉されているためどんな意味でも西郷信綱のいうような穀物の生成を願うという当為はなりたちようがないはずである。また折口信夫のいうような純然たる入魂儀式に還元することもできまい。むしろ〈神〉とじぶんを異性〈神〉に擬定した天皇との〈性〉行為によって対幻想を〈最高〉の共同幻想と同致させ、天皇がみずから人身に世襲的な規範力を導入しようとする模擬行為を意味するとしか考えられない。(『共同幻想論』P141~142) 

 ●大嘗祭については諸説ある

 

(一)大澤真幸による折口信夫『大嘗祭の本義』の解釈 

 

 大澤が折口の『大嘗祭の本義』をわかりやすく要約しているので紹介しておく。  

 大嘗祭(だいじょうさい)は、天皇の代替わり毎(ごと)に行われる祭儀だ。かつては即位礼と一体であった。「折口学」と呼ばれた独自の民俗学を展開した折口信夫が、大嘗祭の起源に遡(さかのぼ)ることを通じて、天皇とは何かを語ったのが「大嘗祭の本義」である。昭和の大嘗祭の少し前に行われた講演だ。想像力に支えられた折口の洞察は、文献等(など)で確実に実証できる範囲を超えたところにまで及ぶ。 

 折口によれば、大嘗祭の中心的な意義は、新天皇の身体に天皇霊を付けることにある。天皇霊は、外来魂――天つ国からの外来神(まれびと)のエッセンス――である。天皇の身体は「魂の容(い)れ物」だ。すると、天皇の権威の源泉は、万世一系の天皇家の祖霊にではなく、天皇が即位したときに(古代においては毎年繰り返し)己の身体に入れた天皇霊にある、ということになる。 

 その天皇霊を付着させるために、新天皇はまず「真床襲衾(まどこおふすま)」等と呼ばれる特別な衣で身を包む。衣を取ることが禊(みそぎ)の完了を意味した。真床襲衾を除(の)けることで天皇に外来魂が付くのだ。 

 次いで天皇は高御座(たかみくら)から言葉を発する。それが祝詞(のりと)である。祝詞は、神の言葉の反復である。普通は天皇の言葉の伝達者を「みこともち」と呼ぶが、天皇が既に神の言葉(ミコト)の伝達者だったのだ。この言葉が届く範囲が天皇の領土、天皇の人民である。 

 それに応えて群臣は寿詞(よごと)を唱える。寿詞は、自身の魂を天皇に贈与することを意味し、服従の誓いである。諸国が米を献上することも寿詞と同じ意義をもっていた。稲穂には魂が付いているからである。 

 以上が大筋だが、興味深い細部がある。天皇の禊に奉仕する女性がいた。この女性は、衣のまま湯(=斎〈ゆ〉)につかった天皇の衣の紐(ひも)を解く役目を担う。折口は、この「水の女」を重視し、戦後の「女帝考」では、神の声を受け取るのは一人の男ではなく、女と男の対である、と論ずるようになる。天皇は男系だと言われるが、折口はむしろ、天皇の秘められた根源に女性的なものを見たのだ。(古典百名山:56/ 折口信夫『大嘗祭の本義』大澤真幸が読む』(朝日新聞2019年5月18日掲載)

  

(二)谷川健一の大嘗祭論 

 

 民俗学者の谷川健一はその著書『大嘗祭の成立』において、南島および日本列島周辺の稲作地帯の稲穂儀礼などを採取し、独特の大嘗祭論を展開している。同書を含めた大嘗祭に係る論及の整理は筆者の今後の課題であり、近日中にまとめる所存である。ここでは、谷川の大嘗祭についての基本的論点を紹介するにとどめる。 

 

  1. 死者に対する最初の儀礼は喪屋の中で死者の魂を復活することを目的としたものであった。それとともに死者に添い寝をして、死者の霊をひきつぐという儀式をおこなったと考えらえるのである。そのもっとも原始的な行為は、死者の活力を自分の体内に入れるために、死者の肉を食い、骨をかじるということであった。 
  2. 冬至は太陽神の死と再生の時期にあたっていた。新嘗祭のおこなわれる陰暦11月の中卯の日は冬至の前後にあたる。記紀によると、アマテラスが大嘗をきこしめす神殿にスサノオは屎(くそ)まり散らした。それら一連の狼藉がアマテラスの天岩戸隠れの原因となり、それによって世の中が真暗になったという。この物語を暦日にひきあててみると、太陽神がいったん死んで再生する儀式を新嘗のときおこなったことを意味する。冬至を中心とした死と再生の考えが第一にあって、それが新嘗祭の忌籠りにも影を落としたと考えるべきであろう。 
  3. 大嘗祭は年々の新嘗祭と共通の部分を含むが、一世一代の大祭としての大嘗祭は、先帝から新帝の王権の移行の儀式としておこなわれる。したがって、大嘗祭は先帝の死という具体的な事実を抜きにすることはできない。死者が完全に死者となり切るまえに、その活力を新帝が受けつぐためには、喪家におけるモガリの儀式を必要とする。まず裳に相当するものがあり、死者とともに裳の中にいて、霊力をひきつぐ儀礼、それが大嘗祭の「まどこ・おふすま」の儀礼に反映していると私は考える。(『大嘗祭の成立』谷川健一著/小学館/P139) 

  谷川は、大嘗祭とは人間の死をもって、生者がその霊を受けつぐことで新たな活力を授かる儀礼を原型とすると考える。もともとの形は、霊という不可視なものを受け継ぐのではなく、死者の肉や骨を食して体内に入れていたという南島の民俗を根拠のひとつとする。 

 

●大嘗祭については、これからも深く論ぜられるべきである 

 

 

令和の大嘗祭

 筆者の世代は「昭和の終わり」と「平成の終わり」において2度の大嘗祭を「経験」した。もちろん、どちらもテレビ報道に接したにすぎないのだが、前者と後者では著しく状況に違いがある。言うまでもなく、前者は先帝の死後のものであり、後者は先帝が存命のままのものであることだ。前者の〈時〉は、先帝の病状がテレビによって逐次報告され、歌舞音曲、祭り、イベント、にぎやかなCMまでが自粛され、暗いムードが巷を襲った。そして、大喪の礼があり、大嘗祭が行われたのだと思う。このような進行は、おそらく、先帝の死、新帝の即位という大嘗祭の本来のあり方に則ったものだと思える。「死者の霊もしくは魂を新帝が受け継ぐ」とする説にしても、吉本のように「なにものかの〈死〉となにものかの〈生誕〉を象徴する」という説にしても、どちらの説も〈死〉を前提とした祭儀が大嘗祭の本義であることにかわりない。であるならば、令和の大嘗祭とはどのような意味がこめられていたのであろうか。先帝は上皇として存命なのである。上皇が亡くなったとき、いまの天皇はどうするのだろうか。

●天皇は農耕民の神だった

 これまでみてきたとおり、世襲大嘗祭から確実に得られる情報は、天皇が農耕の神であるということだ。天皇霊というものがあるのか、それが稲魂なのかどうかについては吉本は否定的だけれど、大嘗祭が、誕生 ー 性交 ー 出産 ー 死 のサイクルをほぼ無限に繰り返す植物(農作物)の循環を基底にした祭儀であるとは言い切れる。

 天皇が農耕の神である以上、日本列島において農耕従事者の全人口に占める割合が小さくなることに応じて、神威を要する者は減少するだろう。その歴史的分岐点を筆者は、1930年代だとみている。昭和維新と呼ばれる時代、テロリズムが群発し、軍事クーデター未遂の大事件が勃発した。テロやクーデターに参加したのは、農本主義思想の影響を受け、蹶起した青年将校たちだった。そして彼らの多くは農村出身者だった。彼らは日本が農業から商工業に重点をおきつつある転換期にあって、農耕の神に恋蹶の情を抱いた。彼らは農耕の場を追われて都市に放たれた成年たちだった。そのとき日本の農村襲った経済的貧窮、農民の没落、家・農村共同体の崩壊もその情をかき立てたかもしれない。彼らは最後の農村の"息子たち"だった。

 そして、敗戦。つぎにやってきた高度成長に従い象徴天皇制が定着する時代の進行とともに、農耕の神は消えようとしている。天皇制を普遍だと考える者にとっては、それにかわる新たな、なにものかの神として、天皇を位置づけなおす必要が生じている。  

 大嘗祭に係る研究、論及は多様であり、浅学の筆者が拙稿で結論めいたものを引き出す力量はない。ここでは、『対論1968』における絓秀実による見当違いな吉本隆明批判を糺すことに足るであろう、ささやかな材料を集めたに過ぎない。吉本の「祭儀論」におけるまとめ部分を最後に紹介しておく。  

 わたしたちは、農耕民の民俗的な農耕祭儀の形式が〈昇華〉されて世襲大嘗祭の形式にゆきつく過程に、農耕的な共同体の共同利害に関与する祭儀が規範力(強力)に転化するための本質的な過程をみつけだすことができよう。それをひと口にいってしまえば、共同社会における共同利害に関与する祭儀は、それが共同利害に関与するかぎり、かならず規範力に転化する契機をもっているということである。そしてこの契機がじっさいに規範力にうつってゆくためには、祭儀の空間性と時間性は〈抽象化〉された空間性と時間性に転化しなければならない。この〈抽象化〉によって、祭儀は穀物の生成をねがうというような当初の目的をうしなって、いかなる有効な擬定行為の意味をももたなくなるかわりに、共同規範としての性格を獲得してゆくのである。 

 民俗的な農耕祭儀では農民は、〈田神〉と農民はべつべつであった。世襲大嘗祭では天皇は〈抽象〉された農民であるとともに、〈抽象〉された〈田神〉に対する異性〈神〉として自己を二重化させる。だから農耕祭儀では農民は〈田神〉のほうへ貌を向けている。しかし世襲大嘗祭では天皇は〈抽象〉された〈田神〉のほうへ貌をむけている。しかし世襲大嘗祭では天皇は〈抽象〉された〈田神〉のほうへ貌をむけるとともに、みずからの半顔を、〈抽象〉された〈田神〉の対幻想の対象である異性〈神〉として、農民のほうへむけるのである。祭儀が支配的な規範力に転化する秘密は、この二重化のなかにかくされている。なぜならば、農民たちがついに天皇を〈田神〉と錯覚することができる機構ができあがっているからである。(『共同幻想論』P142)  

 2023年、"農民が〈田神〉と錯覚することができる機構”の崩壊は明らかだ。ならば、非農耕民が錯覚することができる〈新たな神〉はどこにいるのか。(完)