2023年12月10日日曜日

『私の1960年代』

  ●山本義隆〔著〕 ●週刊金曜日 ●2100円(+税) 

 著者・山本義隆(1941~)は1964年東京大学理学部物理学科を卒業後、同大学院博士課程を中退している。1960年代末期、東大全学共闘会議(全共闘)代表を、そして短期ではあったが、全国全共闘議長を務めた。新左翼学生運動とりわけ全共闘運動の代表的指導者のひとりだった。本書は山本が2015年に行った講演に加筆修正を行い、ビラ、パンフレット、討論資料、大会議案等を集成したものである。
 全共闘運動とは1960年代、全国の大学において任意に結成された運動組織のこと。新左翼各派、無党派(当時ノンポリと呼ばれた)の学生が混然となって全学共闘会議に結集し、たとえば、反戦運動、大学管理法反対運動、学費値上げ反対運動などの異議申し立てを行った。その最大の特徴のひとつが、日本共産党に代表される既成(旧)左翼の政治運動方針、革命路線に「ノー」を突きつけたことであった。よって、全共闘運動を新左翼運動のひとつと分類することもできる。 

山本義隆と〈自己否定〉の論理 

 山本が代表する全共闘運動の思想の核心となるのは、〈自己否定〉の論理だった。それを具体的に説明しよう。
 全共闘運動に参加した学生たちは、たとえば、ベトナム戦争に対する自分たち学生の立場を次のように自覚した—―アメリカ帝国主義がベトナム人民を殺戮する軍用機は、在日米軍基地からベトナムへと飛行する、また、米軍が使用する武器・弾薬・燃料等も日本から空輸される、つまり、自分たち日本人(学生)は、ベトナム人民を直接的ではないけれども、米軍に協力することによって殺戮しているに等しい、がしかし、そのことにあまりにも無自覚であり、戦場ではない「平和」な日本の大学生という自己を肯定している。それではいけない。米軍によるベトナム人民殺戮を是としないのならば、まずもって殺戮者に無自覚的に同伴している自己を否定することだ、そして帝国主義アメリカに協力する日本帝国主義政府を打倒する革命に立ち上がらなければいけないと。
 〈自己否定論〉が説得力をもった背景については、大学進学率の推移をみることで理解しやすくなる。山本が東大大学院生として東大全共闘のリーダーだった1969年における大学進学率は25%程度であった。現在の60%弱と比較するならば雲泥の開きがある。当時の大学生はいまよりもずっと恵まれた存在であり、大卒の将来は明るかった。大学生は社会の上層に自動的に昇るエスカレーターに乗ったに等しかった。しかし、とつじょとして、山本ら全共闘リーダーたちから〈自己否定〉が突きつけられた。なかで東京大学の院生となれば知的エリートであり、特権階級にみえる。超エリートである山本らが「自己を否定せよ」とアジれば、全国の学部の学生の心に響かないはずがない。そんな時代だった。

「科学技術の進歩をめぐって」 

 拙稿は〈自己否定〉、全共闘運動を論ずる場ではなく、山本の当時の言説を検証することにある。筆者が本書のなかで注目したのが「科学技術の進歩をめぐって」という論考である。山本は物理学を研究する院生であったためであろうか、日本の科学者の倫理、責任を問うものが多く、同論考はそのティピカルなもののひとつだと思われる。
 山本の立ち位置は、近代化以降すなわち日本帝国の科学者の研究成果が、アジア近隣諸国への帝国主義的侵略の具として利用されてきたこと、そして、いま(当時)なお利用されている実態を挙げ、研究者がそのことに無自覚的であるか自覚的であるかを問わず、その罪を問い、科学者のあるべき姿を探ろうとするものとなっている。
 山本によると、戦後における日本国の科学者およびジャーナリズムの世界では、先の大戦に負けた主因を「科学戦に敗けたこと」だと総括してきたという。そして彼らが目指す戦後の展望とはすなわち、日本帝国が戦争に負けたアメリカを上回る、高度な科学技術を有する日本国をつくることだと。
 侵略国家・日本帝国が掲げた富国強兵に同伴してきた日本の帝国主義的科学者たちは、敗戦後の新しい戦争(冷戦)の下、反共イデオロギーに包摂され、アメリカに隷属し、表向きにはそれを平和的に利用するという名目で、 広島・長崎の非戦闘員を虐殺した原子力研究に精力的に取り組んだという。日本国が以来原発を増設しそれを稼働し続けてきたのは、日本国が潜在的核(爆弾)保有国であることを世界に示すためだという。日本国はつくろうと思えばいつでも核爆弾をつくれるのだと。

3.11以降の反原発運動に引き継がれた山本の日本の科学技術者批判 

 山本が示した日本国の科学技術者に対する批判、とりわけ原子力研究者に対するそれは、東日本大震災(2011)のときに起きた福島原発事故後にわき上がった反原発運動に引き継がれた。山本および反原発派は原子力エネルギー研究を全否定する。はたしてそうなのだろうか。原子力研究が核爆弾に応用されたことは人類史における最大の不幸のひとつであろう。がしかし、歴史は巻き戻せない。原子力研究を封印することは不可能であり、人類の損失である。人類はこの不幸を背負って先へ進まなければならない。
 原発廃炉に係る現実的問題にもふれなければならない。敗戦後、日本国が設置した原発はおよそ50基ある。これらをすべて廃炉するに要する費用と労力と時間は、日本国のGDP値を想像以上に引き下げるだろう。自然・再生可能エネルギーを利用した発電装置を開発・設置し廃炉分を賄おうとすることも同様である。福島原発事故を乗り越える道筋は廃炉ではなく、原発の安全を保証する技術の獲得にある。戦後、安全を保証しないまま原発をむやみに設置し稼働してきたことは、日本国の科学者と原発管理者(行政)の大失態であり大罪だった。その反省に基づくならば、被爆国であり、原発事故経験者である日本国がまずもって着手すべきは、安全な原発開発技術の獲得とそれを管理する制度の構築にある。そのことが不可能だと科学的に実証されたとき、以降発生するであろう莫大な損失を覚悟したうえで原発を止め、廃炉に着手することになる。

物理学会米軍資金導入と研究者としての〈自己否定〉

 山本は1967年、物理学会に米軍資金が導入されることに反対する運動を契機として、日本の科学者・研究者批判を開始する。敗戦直後から1960年代を通じて、日本国の科学技術者を支配したイデオロギーを次のようにとらえる――日本国の研究者の思考回路は、自然科学の研究を絶対的な善とみて、「なにはさておき研究は大切」と唱える没論理的研究至上主義であるか、科学の進歩は社会の進歩と手を携えて進むと見る啓蒙主義的科学観にとりつかれているかのどちらかであり、どちらもが、高度成長のイデオロギーとなっていたという。山本は次のように書いている。

 第二次大戦後、科学技術の研究は政治や産業や軍事に重要なかかわりを有するようになり、実際に1960年代になって復活した日本の資本主義は基礎研究も含めて科学技術の開発に力を入れていたのであり、このように科学技術が体制にすっぽり取り込まれている時代に、自身の研究がどのような社会的関連の中で営まれているのかについての反省的な捉え返しを抜きに科学技術至上主義を語ることは、自己の関心をただひたすら研究業績をあげることに限定することになります。そのような立場での研究費要求運動は、現状肯定・現状追随のうえに研究者としての既得権を擁護することでしかなく、普遍的な価値をもちえないのです。(P79) 

 山本は、そこから科学者の主体性維持を論じはじめる。科学者が主体性を維持できるとするならば、研究を放棄する権利を有していることを自覚し、場合によってはその権利を行使して研究をサポタージュしなければならないと。すなわち「研究者としての自己否定」が、時に求められていたのだと。山本は次のように述懐する。 

 ・・・米軍資金問題をめぐる1967年の私たちの運動は、現役の研究者の内部から、研究者は研究モラトリアムの権利を有すると語ったはじめての運動であったと思います。物理学の勉強をしたいと思って大学に入った私の、ひとつの転換点でした。(P80) 

核爆弾と原子力研究者 

 山本は、唐木順三の遺稿『「科學者の社会的責任」についての覚書』を読んで共感したといい、次のよう書いている。

 アメリカ合衆国が原爆製造に乗り出す契機となったと言われる書簡を書いたアインシュタインが、戦後の核兵器開発競争の激化に際して、1955年の所謂「ラッセル・アインシュタイン宣言」で、科学と技術の進歩については語ることなく、それゆえ「科学者」としてではなく「人類、人という種の一員として」核の危険性を訴え、生まれ変わったら「行商人か鉛管工」になりたいと語っていることを取りあげ、それとの対比で、1957年の「パゴウォッシュ会議」について触れています。(P80) 

 山本によると、唐木は「パゴウォッシュ会議」〔注〕では「科学者の社会的責任」というテーマの委員会の提言において、「科学者が自分の専門的研究の外に、戦争を防止するために全力を尽くし、恒久的かつ普遍的平和を確立するために、できるだけ助力することは、科学者の最高の責任である」を発出した一方で、「科学はそれが外部からおしつけられる如何なる教義による干渉からも自由であるとき(中略)最も有効に発展する。科学的精神のこの自由(中略)がなければ、科学の建設的な可能性を十分に利用することはできないであろう」と補足されていることを取り上げ、この補足部分に違和感を覚えたという。これを受けて山本も唐木の違和感に同調する。 

〔注〕本書では「パゴウォッシュ」と表記されているが、Wikipediaでは、正式名称として、科学と世界の諸問題に関するパグウォッシュ会議(Pugwash Conferences on Science and World Affairs)とされている。すべての核兵器およびすべての戦争の廃絶を訴える科学者による国際会議である。バートランド・ラッセルとアルベルト・アインシュタインによるラッセル=アインシュタイン宣言での呼びかけを受け、11人の著名な科学者によって創設された。1957年7月7日、カナダ・ノバスコシア州パグウォッシュにある鉄道王サイラス・スティーブン・イートンの別荘に、湯川秀樹、朝永振一郎、小川岩雄、マックス・ボルン、フレデリック・ジョリオ=キュリーら10カ国22人の科学者たちが集まって第1回の会議が開かれた。会議においてはすべての核兵器は絶対悪であるとされた。しかし第2回会議以降、核兵器に対する評価は変化し、核兵器廃絶を訴えるラッセルらと、核兵器との共生を求めるレオ・シラードらとの対立が鮮明化し始めた(シラードは核抑止論側に立った)。  

 唐木・山本の「パコウォッシュ会議批判」を整理すると

 パゴウォッシュ会議は――

  1. 一方で科学的真理の無限追及の自由を背後に維持しながら、他方でその心理が技術的に実現、応用、乃至悪用されることについて制限を加えるべしと言っているところの、二元論であること
  2. 科学と技術の進歩は不可避である。人類の技術的進歩の多くが、核力を自由にできるようになったことに依存していることを考えると、戦争が永久に、そして全面的に不可能になるようにすることがきわめて重要であるという委員会の報告は「うやむやの態度」であること
  3.  この会議には、科学者自身の自責の心は殆どないこと
  4.  あくまでも「科学者の立場」にこだわり、「研究の自由」を盾に研究については100パーセントのフリーハンドを主張しつつ、その結果について言うならば第三者的に制限云々をかたっているわけで、一方で科学、技術の無制限、無制約の進歩、発達を肯定、歓迎しながら、他方において、普遍的、恒久的な平和に〝助力″することが〝科学者の最高の責任である″というテーゼは、すっきりしないということ 

 これらを大雑把に言えば――

 科学技術研究に携わる者およびその成果はニュートラルであり、たとえ、それが戦争に用いる武器や実用機械として使用され事故を起こしたとしても、科学技術者および研究成果が罪を問われることはない、という立場・・・①
 そうではなく、科学技術が殺人や事故を起こす結果を見通すことができるのならば、科学技術者は、そのような研究をサポタージュすべきだという立場・・・②
 ――ということになる。
 唐木・山本の見解は、原子力研究は当初、核爆弾開発を想定して始められたものではなかろうが、原子力研究者が核爆弾に使用される可能性を予知していたにもかかわらず、その研究を続行してしまったので、その責任を問われる、というものではなかろうか。アインシュタインはどうだったのか。彼は核が爆弾として使用された事実を踏まえたうえで、つまり使用後に核の危険性を訴え、その自責の念を「生まれ変わったら、行商人か鉛管工になりたい」と語ったように筆者には思える。
 ところで、アインシュタインは山本が指摘しているように、《アメリカ合衆国が原爆製造に乗り出す契機となったと言われる書簡を書いた(P80)》のだろうか。そのことについて、『澤田昭二の反核ゼミ』(日本原水協ウエブサイト)において、澤田はこう書いている。 

 「アインシュタインが原爆を作るようにルーズベルト大統領に手紙を出したことが、核兵器製造の発端だった」とよく言われます。しかし、この手紙が大統領に届けられてから実際の原爆開発・製造のマンハッタン計画につながる経緯は、それほど単純ではありませんでした。この経緯を正確に捉えることは、科学と政治、科学者と政治家の関係についての正しい教訓を引き出すためにも大事な、今日的な問題です。
 すでにふれたように、核分裂が発見されて以来、その発見がナチス・ドイツの原爆製造につながる可能性について、物理学の側面から、もっとも強い関心をもって取り組んだのは、レオ・ジラードでした。同時に、彼は、アメリカがドイツに先がけて原爆を開発して、ドイツの原爆使用をけん制すべきだという、今日の「核抑止論」のような発想を抱いていました。 ジラードはこうした考えについて、同じハンガリー人の亡命科学者であるエドワード・テラー、ユージン・ウイグナーと議論しました。
 三人は、アメリカの原爆開発がドイツの原爆使用を回避するだけでなく、原爆を使った戦争をすれば、戦争の勝者も敗者もなくなり、戦争そのものができなくなるだろうと考えました。そうなれば、通常兵器を使ったあらゆる戦争も廃止できるだろう。彼らはアメリカの原爆開発にきわめて楽観的な、夢のような期待を抱いていたのです。彼らは、アメリカ政府を動かすには、同じ亡命科学者としてナチスのユダヤ人弾圧に心を痛めているアインシュタインの知名度を利用して、ルーズベルト大統領に手紙を書いてもらうことを考えつきました。一九三九年の七月一六日、ジラードとウイグナーはロングアイランドの避暑地にアインシュタインを訪ねました。アインシュタインはこのとき初めて、連鎖反応と原爆製造の可能性を知って驚きました。同時に、ジラードらのアメリカ政府を動かそうとする意図も理解しました。この時は、アインシュタインが手紙の内容をドイツ語で口述し、それをウイグナーが書き取って持ち帰り英訳しました。この手紙は、後に何度も書き変えられ、大統領宛の手紙の草案になりました。
 ジラードは、ルーズベルト大統領とつながりの深いアレキサンダー・ザクスを通してアインシュタインの手紙を大統領に届ける道をつけました。そこで、七月三十日、今度はジラードとテラーがロングアイランドにアインシュタインを訪ね、大統領宛の手紙を再検討しました。この時の手紙の草案をザクスとジラードが検討して手紙を作成し、アインシュタインが署名しました。これが有名な「アインシュタインの大統領宛の手紙」となったのです。
 ザクスがこの手紙を大統領に届けたのは二ヶ月以上を経た十月十一日でした。その時すでに、ドイツはポーランド侵攻を開始し、第二次世界大戦が始まっていました。ルーズベルト大統領は、さきの手紙を受け取ると直ちに「ウラン諮問委員会」を発足させました。「ウラン諮問委員会」は十一月一日付けで大統領宛の報告書を作成しましたが、この報告書は一九四一年秋、英国から原爆製造の可能性を具体的に示す報告書が届くまで大統領のファイルに収められ、眠ったままになっていました。
 第二次世界大戦が始まった一九三九年当時、アメリカの世論は一般住民への非人道的な爆撃に対する批判を高めていました。ルーズベルト大統領も、無防備な一般住民への爆撃を止めるように訴えるアピールを九月一日に発表しています。
 しかし、真珠湾攻撃をきっかけに世界大戦に参加するようになると、アメリカの非人道的な爆撃への非難は、復讐への衝動を強めることにつながっていきました。一九四五年にアメリカは東京大空襲をはじめ一般市民に対する爆撃をあいついで繰り返すようになりましました。一九四五年五月ドイツが降伏すると、ジラードは核兵器開発の停止を訴えました。しかし、原爆を手にしたアメリカは、原爆を対ソ外交の「切り札」と位置づけるようになっていました。ついに、今から五七年前の一九四五年、完成したばかりの原爆を、広島と長崎の一般住民に対して投下しました。
 戦後、アメリカは半世紀におよぶ米ソの核兵器開発競争に勝利し、ソ連が崩壊すると、一国覇権主義を強めるようになりました。「核兵器廃絶の明確な約束」をせざるを得なくなった今日でも、ブッシュ政権は核兵器を背景にして軍事力で世界を支配しようとする政策を捨てようとしていません。
 ナチスの暴圧を逃れて亡命してきた科学者たちは、核兵器を手にしたアメリカがこのように人間性を喪失し、変質していくことを予想だにしていませんでした。アインシュタインは、手紙に署名したことを生涯の最大の過ちとして、その後の生涯を平和のために捧げました。 (「原水協通信」2002年8月号 第702号 掲載) 

 澤田の説明が事実であるならば、戦争における核の使用と原子力研究者すなわち科学者の責任とが対応的関係にあるようには、筆者には思えない。アメリカの核爆弾開発・使用は、アメリカ(政府)の第二次大戦後における世界制覇戦略に基づくもの――核を背景とした、政治経済的世界支配という思惑によるものだったのではないか。
 アインシュタインは原子力研究を停止することを望んだのではなく、アメリカ大統領に出した手紙に自分の名前が利用されたことを悔いたのではないか。もしかしたら、彼は広島・長崎で核爆弾が使用され大戦終結後、核兵器開発競争が開始されたことを知って、「生まれ変わったら、行商人か鉛管工になりたい」と語った、つまり、原子力研究に従事したことにより、以降、世界大戦の勃発を永遠に封じる(世界最終戦争)という思惑が外れ、大戦後に核兵器開発競争が加速してしまったことを悔いたのではないか。
 筆者の推測にすぎないが、1945年8月すなわち大戦末期の時点では、それが真珠湾攻撃で自(アメリカ)国民を不意打ち殺戮した日本帝国に投下されたことを止むなしとしていた可能性を否定できない。 
 繰り返せば、アインシュタインが慙愧に耐ええなかったのは、核爆弾が世界最終戦争をみちびき、以降、戦争がなくなると考えていたにもかかわらず、大戦後、米ソを筆頭に核兵器開発競争が開始されたことだったのではないか。
 それゆえ、アインシュタインの「生まれ変わったら、行商人か鉛管工になりたい」という語りは、山本ほどには、筆者の心に響かない。 

総力戦と科学者をふくむ全国民の関係

 第一次欧州大戦(WWⅠ)、第二次世界大戦(WWⅡ)、そしてそれと並行して戦われたアジア・太平洋戦争がそれ以前の戦争と異なるのは、戦争が総力戦という形態に変化したことだ。総力戦については、クラウゼヴィッツがナポレオン戦争が起源(『戦争論』)としているようだが、一般にはWWⅠからとみなされている。
 総力戦とは、戦争が軍隊と軍隊が衝突するにとどまらず、国家・国民が、軍事、経済、商業、物流、文化そしてもちろん科学技術等を総動員して相手国と戦うところに進化したことを特徴とする。国際条約では非戦闘員の殺戮は違法とされるが、実態はそうではない。
 アメリカはアジア・太平洋戦争末期(1944~1945)、日本帝国(軍)が完全に自国の制空権を失ったことを見越したうえで、都市の市街地を標的として無差別空爆を行ったばかりか、人類史上初めてとなる核攻撃(原子爆弾投下)を行い、広島・長崎の市民を大量虐殺した。
 日本帝国は、日中戦争中の1938年~1941年、当時中華民国の首都であった重慶に対して大規模な無差別空襲(市街地を区分して隈なく絨毯爆撃)を反復実施した。
 連合国(イギリス・アメリカ等)は、WWⅡ末期の1945年、ドイツ東部の都市、ドレスデンに対し、無差別爆撃を行った。この爆撃によりドレスデンの街の85%が破壊され、市の調査結果によれば死者数は25,000人、また一説には、10万人以上、13万5千人から20万人の死傷者ないし死者が出たともいわれる。
 総力戦では個別の戦闘ばかりか、相手国のpeople、都市インフラ(ライフライン、住宅、道路、物流、病院、学校、工場、商店、研究機関、官庁等の政治行政司法施設・・・)、劇場、寺院といた文化・宗教にかかわる施設をも攻撃対象として破壊する。そうして相手国の総力を減退させる。
 表向きの戦時国際法では、死傷者の収容・保護、病院地帯への攻撃は違法とされるが、総力戦では病院こそが軍事施設である。なぜならば、病院は負傷した軍人を治療し、回復後、戦力として戦場に再送するからだ。病院は戦力(軍人)再生工場なのだ。当然のことながら、科学技術者が新たな武器開発の基礎となる研究をする大学や研究所、そして兵器を製造する工場も優先順位の高い攻撃対象になる。
 総力戦では攻撃対象にならないものはない。敵国の市民がたくさん死ねば、厭戦気運が高まり、反戦、反政府運動につながるという論理もはたらく。すなわち、総力戦においては、戦争に関与しない国民(people )は一人もいない。女性、子供もそうだ。女性は兵士を「生産」する、子供は将来の兵士である。ついでながら、教師は愛国教育を施す者、文学者は好戦的文学を提供する者、コメディアン等の芸能人は戦闘に疲れた市民・兵士の心をリフレッシュする云々。 

鉛管工と科学者 

 さて、ふたたびアインシュタインである。前出の彼の語り、「生まれ変わったら、行商人か鉛管工になりたい」は、筆者には、科学者の高慢のように聞こえる。総力戦の最中ばかりか平時においても、行商人だろうが鉛管工だろうが、科学研究者・技術者であろうが、国家に在るかぎり、国家と国家の戦争の主役の一人にほかならない。科学技術者は大量破壊兵器開発の糸口を国家に提供し、国家はそれを工場(労働者)を介して兵器に変える。行商人は科学技術者に必要な物資を仕入れてそれをとどける、鉛管工は研究所や兵器工場の鉛管をつなぎ、それを修理する。社会総体の関係に与らないpeopleは存在しない。
 山本は、科学技術者こそが戦争にもっとも近い者だと錯覚しているのではないか。科学技術者が戦争を牽引するのではない。核をはじめとする高度な大量破壊兵器ばかりに目を奪われ、国家の総体を形成しているpeopleに目がとどかない。山本が研究者として〈自己否定〉するのは自由であるから、そのことを否定しない。だが、そのことばかりを強調して、特別な、選ばれた自己=研究者だけの〈自己否定〉を展開するのは、裏返ったエリート意識の表出である。
 筆者はだから、アジア・太平洋戦争時における「学徒出陣」をいまなお、あたかも悲劇ふうに報道する今日の日本国のマスメディアのあり方にも危機感を覚える。農民、工場労働者、商人等の青年が「出陣」するのは当たり前で、学徒(学生)が特別なのかと。科学者と鉛管工をむすぶ――生活者としての自己否定が反戦にむすびつくような論理展開が求められている。

〈自己否定〉と関係の絶対性

 1960年代に山本らが掲げた科学者の〈自己否定の論理〉を、1950年代に吉本隆明が著わした『マチウ書試論』における関係の絶対性という概念と対照しながら考えてみることにする。吉本は同試論の中でマチウ書(「マタイによる福音書」)23章29~33を引用する。吉本の引用は難解な訳なので、その箇所を新約聖書現代語訳から転載する。

23:29 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、 
23:30 『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。 
23:31 このようにして、あなたがたは預言者を殺した者の子孫であることを、自分で証明している。
23:32 あなたがたもまた先祖たちがした悪の枡目を満たすがよい。 
23:33 へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。 
(口語訳聖書「マタイによる福音書」) 

 そして以下、現代キリスト教批判を展開する。 

 すべての悲惨と、不合理な立法と支配の味方である現代のキリスト教は、当然この言葉をうけとらなければならない。加担の因果は、秩序というものを支点としてめぐるのである。加担の意味が現実の関係のなかで、社会的倫理にとらえられなければならないのはこのときである。ここでマチウ書が提出していることから、強いて現代的な意味を描き出してみると、加担というものは、人間の意志にかかわりなく、人間と人間との関係がそれを強いるものであるということだ。人間の意志はなるほど、撰択する自由をもっている。だが、この自由な撰択にかけられた人間の意志も、人間と人間との関係が強いる絶対性のまえでは、相対的なものにすぎない。(中略)
 関係を意識しない思想など、幻にすぎないのである。(中略)
   秩序に対する反逆、それへの加担というものを倫理に結びつけ得るのは、ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である。(中略)
 現代のキリスト教は、貧民と疎外者にたいし、われわれは諸君に同情をよせ、救済をこころざし、且つそれを実践している。われわれは諸君の味方であると称することは自由である。何となれば、かれらは自由な意志によってそれを撰択することが出来るから。しかしかれらの意志にかかわらず、現実における関係の絶対性のなかでかれらが秩序の擁護者であり貧民と疎外者の敵に加担していることをどうすることもできない。加担の意味は、関係の絶対性のなかで、人間の心情から自由に離れ、総体のメカニズムのなかに移されてしまう。(『マチウ書試論 転向論』吉本隆明〔著〕講談社文芸文庫) 

 「関係の絶対性」はわかりにくい表現だが、谷川雁がいうところの、その反対が「観念の相対性」なのだと規定するとわかりやすくなる。本書にもどれば、平時においては、だれも自分の仕事が戦争に結びつくとは思えない。研究者も鉛管工もそれぞれのモチベーションに従い仕事を続ける。賃金が低ければサポタージュ(ストライキ)も辞さないだろうし、快適で効率的な職場を求めてやまない。ところが、冒頭で指摘した〈自己否定論〉を反復すると、外国における悲惨な戦争や国内の政治腐敗等の報道に接したとき、静観する自己のなかの倫理観に従いつつ、異議申し立ての意志をもつにいたる。前出のベトナム戦争の事例のとおり、戦争に加担している自己を発見する。物理学研究者の学徒である山本は米軍という戦争機関のカネ(資金)が、所属する大学院に流入することを知り、自分(の立ち位置)が戦争に直結しているのだと自覚する。
 しかし、吉本が指摘するように、自由な意志によって、物理学徒である自己を否定するという撰択をすることは出来る一方、自分の意志にかかわらず、現実における関係の絶対性のなかで自分が秩序の擁護者であり貧民と疎外者の敵に加担していることをどうすることもできない。研究者でありながら、研究者批判の運動をしようとも、あるいは、研究者の職を辞して、ほかの場(職)に移ろうとも、関係の絶対性という尺度からみれば加担に変化はない。
 なぜならば前出のとおり、自国が総力戦に突入すれば、すべてのpeopleが戦争に結びつけられる。科学者も鉛管工もない。そのとき自由な意志で〈自己否定する者〉は、国家に対する反逆者とならざるをえない。そのとき極限の自己否定が反戦の論理として立ち上がる。
 一方の自己肯定する愛国者たちは自由な意志にしたがい国家への忠誠と献身を誓い、前線で戦う兵士、兵器を開発する科学技術者、それを製造する労働者、兵士に提供する食料を耕作する農民、負傷兵を「再生」する医師、看護師・・・として、戦争に勝つために励む。愛国者は軍国ファシストに変身し、国家はそれを下から組織して総力戦体制という構造をつくりあげる。(戦争への)加担の意味は人間の意志、心情から自由に離れ、関係の絶対性という総体のメカニズム――社会、国家という構造のなかに移されてしまう。

 吉本はさらに続ける。

 人間は狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信ずることもできるし、貧困と不合理な立法をまるごと強いられながら革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。しかし、人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである。ぼくたちは、この矛盾を断ちきろうとするときだけは、じぶんの発想の底をえぐり出してみる。そのとき、ぼくたちの孤独がある。孤独が自問する。革命とは何か。もし人間の生存における矛盾を断ちきれないならばだ。(前掲書) 

 筆者がこの部分を引用した理由は、山本が「秩序を狡猾にぬってあるきながら、革命思想を信ずる」者であると言いたいがためではなく、吉本が革命とは何かという自問に自答していないことを明らかにしたいがためである。吉本は、《関係の絶対性のなかで自由な意志を表明したとしても、どうにもならないではないか》、という絶望と孤独のなか、《人間の生存における矛盾を断ちきろうとするとき、発想の底をえぐり出して、それをみる》ことができる地点にとどまる。
 では山本の唱える科学者・研究者の〈自己否定論〉が、1960年代から半世紀以上を経過したこんにちにいたるまでのあいだ、吉本がいう、生存における矛盾という地点に到達し、それを越えられたのかどうか――山本義隆の次なる像をもとめ、確認する作業が筆者に残されてしまったようだ。〔完〕