●笠井 潔〔著〕 ●言視社 ●3200円+税
はじめに
ある媒質を通過する光が入射角の違いによって異なる出方をするように、60年代末の季節という環境にたいしてどのように入っていったかということによって、経験の質も出射角も異なってくる。〔略〕何年に大学に入り、入った時の大学がどういう闘争の状況だったかで、経験のありようがまったく変わっている。(『思想としての全共闘世代』小阪修平〔著〕ちくま新書P32)
小阪のこの一文は、〈68年〉を考えるうえで、まさに決定的な意味をもっている。
孤独な革命家、黒木龍思の誕生
黒木龍思とは笠井潔のペンネームである。少年期、社会に違和を感じはじめた彼は、中学卒業後にドロップアウトを決意し、高校を中退し大学進学を放棄し、黒木龍思という孤独な革命家へと成長を遂げる。
〈60年〉の残像
笠井がドロップアウトを決意したその源は、60年安保闘争という、あたかも祝祭のような革命運動の記憶だった。労働者、主婦、学生、演劇人・俳優等の芸能人、教師、大学教授、宗教家といった、およそあらゆる階層で構成された大群衆がそれぞれの旗やプラカードをもって、国会をとりまく映像だった。その第二幕は、ついこのあいだまで敵国であり、敗戦を契機として支配者として君臨するアメリカからやってきた外交官を空港で待ち伏せて襲撃する学生たちの映像だった。第三幕は、国会を警備する警官隊が国会突入を図ろうとする学生を襲う凄惨な映像だった。その過程で警察機動隊が一人の女学生を死に至らしめた。フィナーレは国会議事堂を取り巻く無言の大群衆が日米安保条約自動延長を見守る映像だった。かくして、60年安保の幕は下りた。少年笠井は、この一部始終をお茶の間の白黒TVに映し出されたニュース番組を通して疑似体験した。
孤独な革命家志望者を受け入れたべ兵連
高校を中退した笠井はルンペンプロレタリアートという〝困難″な道を選択した。彼は革命家を志したが、その入口がみつからなかった。日本における革命運動の入口は大学生になり、大学で学生運動にかかわることが一般的だった。〈68年〉当時、大学以外の新左翼系団体はそれほど多くなかった。高校中退の青年が、受け入れ先となる新左翼系団体に巡り合ことはまれだった。笠井は独力で読書サークルを立ち上げたり、反日共系全学連のデモに紛れ込んだりしたという(本書P14)。そんな笠井は、べ兵連という入口を見つけた。
ベ平連とは正式名称「ベトナムに平和を!市民連合」といい、1960年代、ベトナム戦争の激化にともない、ベトナム反戦を旗印に日本で結成された反戦市民団体だ。表向きはだれでも参加できるノンセクトの運動団体であり、規約や党費の徴収はなく、参加、脱退が自由の任意組織だと報道されていたが、マルクス主義構造改革派(以下「構改派」という)の一派である、共産主義労働者党(共労党)の市民組織(別動隊)だ。共労党幹部の吉川勇一が事務局長を務め、共労党と兼ねたメンバーには、いいだもも、栗原幸夫、武藤一羊、花崎皋平らがいた。
共労党は構改路線から暴力革命路線に大転換した特異な政党
笠井の革命家人生は、べ兵連=構改派から本格的にスタートしたのだが、この出発点は笠井の政治活動に微妙な影響を与え続けることになったように思える。なぜならば、そもそも、構造改革マルクス主義というのは、社会の構造を変革しつつ議会における多数派を目指す修正マルクス主義であり、暴力革命の否定を特徴とする。
共労党の原籍は日共で、は1960年代中葉、日共内に構改派グループを立ち上げ、党内闘争の結果、主流派から放逐され3派に分裂したなかの一党だ。その後、〈68年〉になると、街頭実力闘争を敢行した新左翼各派の党勢が増すにつれて極左化を遂げ、構改主義からマルクス・レーニン・トロツキー主義に基づく暴力革命路線へと大幅な路線転換をはたした。
共労党幹部たちは、そのときどきの時流にのった「政治屋」ではないか。笠井は同党の大転換の渦中に入党し、同党を構改主義からルカーチ主義への転換を目指して同党およびその学生組織プロレタリア学生同盟(プロ学同)の幹部として通過した。その間、学生組織拡大強化を果すため、当時、高校卒業資格を問わない某私立大学に入学した。
笠井は本書において、共労党指導部批判を繰り返しているし、彼が体験した党内主導権争いとその不毛さについて詳述しているが、一方で、同党幹部から受けた援助、指導等に謝意も表している。とにかく彼は同党の学生組織にとどまり、党改革に情熱を傾け続けた。笠井が共労党から離れなかった理由を本書から明確に読み取ることができないので推測になるが、当時の共労党幹部(いいだもも、武藤洋一ら)は、〈68年〉当時、新左翼論壇を賑わせた人物であり、多くの論考を新左翼雑誌に寄稿していた。それらの価値をどう定めるかは別として、彼らが「書ける知識人」だったことはまちがいない。笠井の資質もその範疇に属していることは、本書に収録された「黒木龍思」名の論文が実証している。
加えて、小党といえども、共労党には組織があった。日共から除名された後、民主学生同盟(民学同)という学生組織を残していた。笠井は大学生を入口として党派に入ることを拒みながら、大学よりも選択肢が少ない市民団体を入口とし、マルクス主義構造改革派の下部組織に滑り込むかのようにして政治運動にかかわり、学生戦線拡大のために、あえて大学に入学したことはすでに書いた。
〈68年〉当時にブントや中核派や解放派で活動していた同世代の回想録は目につくが、それ以外の小党派の活動家による類書は少ない。本書の新稿部分は、二十歳を挟んだ6年間を共労党の党員として生きた者の当時の証言でもある。(本書P6)
階級形成論から世界共産主義へ
階級形成論は、カール・マルクスの『共産党宣言』第二章を出発点とする。同章は共産主義者とプロレタリアとの関係が述べられた箇所だ。そこには、《共產主義者󠄃の直接の目的は、他のすべてのプロレタリヤ諸󠄃黨派󠄄のそれと同一である。すなはちプロレタリヤを一階級に結成すること、ブルジョアの支配權を顚覆すること、プロレタリヤの手に政權を握ること。》とある。
『共産党宣言』は1848年ロンドンで出版されたものだが、19世紀中葉、プロレタリア階級は社会に発生したのちに群生したが、一階級としての結成をはたせずにいた。それから120年経過した〈68年〉当時も一階級としての結成をはたせずにいたし、今日(2024)においても未達成である。孤独な革命家(笠井潔)がプロレタリア階級結成に情熱を燃やし、その方法論を書き連ねたことは至極当然のことだった。
黒木革命論の深化と変遷
黒木龍思というペンネームで著わされた笠井の革命論のうち、本書に収録されたものは以下のとおりである。発表された年、タイトル、大雑把な内容――を明記しておく。
- 1968年;「階級形成論の方法的諸前提」
- 1969年:「戦術=階級形成論の一視点」=同論文にて、先進工業国における評議会(レーテ)と街頭占拠行動(叛乱)の連動 が提起される。
- 1970年:「革命の意味への問いの究明」=ここでは、近代主義的マルクス主義批判と第三世界(今日(2024.6.25)ではグローバル・サウスといわれる)を巻き込んだ革命論が提起される。
- 1971年;「戦後解体期の時代精神――長崎浩論」=長崎の『叛乱論』に係る評価と批判 である。
- 1972年:「日本革命思想の転生――近代主義革命への〈ロマン的反動〉批判」=ロマン的反動とは、誤った近代主義批判をいう。ここでそれが批判される。
- 1972年;「「近代世界」の基礎構造と「第三世界解放革命――世界共産主義」」
- 1974年;「ふたたび「革命の意味」を問うこと」=共労党離党、革命運動の停止を契機とした自己総括が示される。
以上の笠井論文は、ルカーチ主義と階級形成論からはじまり、近代主義的マルクス主義批判と第三世界の「発見」、そして、長崎『叛乱論』の評価と批判を経て、第三世界解放革命=世界共産主義の提唱にいたり、革命運動からの離脱で終わる。
ルカーチ主義とはなにか
笠井は1968-1969年にかけて、構造改革派マルクス主義政党である共労党をルカーチ主義に路線変更しようとしたことは前出のとおり。前掲の【1】【2】はルカーチに強い影響を受けていたことは明白であると同時に、笠井による、ルカーチ主義に基づく結党と革命遂行の決意表明ともいえる。そのルカーチの代表作ともいえるのが『歴史と階級意識』だ。
『歴史と階級意識』の構成は以下のとおり。
第1章 正統的マルクス主義とはなにか
第2章 マルクス主義者としてのローザ・ルクセンブルク
第3章 階級意識
第4章 物象化とプロレタリアートの意識
第5章 史的唯物論の機能変化
第6章 合法と非合法
第7章 ローザ・ルクセンブルクの『ロシア革命批判』についての批判的考察
第8章 組織問題の方法論
(『歴史と階級意識』(ルカーチ著/ルカーチ著作集9/白水社刊))
ルカーチ(1885-1971)について、『ルカーチ著作集9』巻末解説(城塚登・古田光〔著〕。城塚、吉田は著作集9の訳者) から抜粋する。
ハンガリー・ブタペスト生まれの革命家。彼の思想的自己形成は、当時支配的であった新カント派からドイツ・ロマン主義および神秘主義を経てヘーゲル弁証法およびマルクス主義へという軌跡をえがいていった。
第一次世界大戦が終結した直後(1918)にハンガリー共産党に入党し、ハンガリー革命に身を投じた。1919年3月、ハンガリー革命は成功、ベラ・クーンの革命政権が成立し、彼は革命政権の教育人民委員となって指導的な地位についた。だが革命政権はルーマニア軍の武力千渉にあって短期で崩壊し、ルカーチはウィーンへの亡命を余儀なくされる。反革命政府(ホルティ反動政権)は欠席裁判のままルカーチに死刑判決を下したが、ウィーンの警察によってシュタインホーフ精神病院に収容されることとなった。
収容中、ルカーチは活発な文筆活動を1929年までウィーンで続けた。彼の代表論文である「物象化とプロレタリアートの意識」「組織問題の方法論」は、このシュタインホーフ精神病院で書かれたもので、ハンガリー革命の思想的総括というべきものだ。
さて、『歴史と階級意識』であるが、その概要については、『ルカーチ著作集9』の訳者、城塚登・古田光による巻末解説の助けを借りて追ってみると、第一に、修正主義が跋扈した時代に正統的マルクス主義を再構築したことだ。反革命の逆風とともに、修正主義、社会民主主義がヨーロッパに台頭するなか、ルカーチは同書において、マルクスの弁証法を、主体的人間の実践を貫くもの、「唯物弁証法は革命的弁証法である」として再建したのである。換言すれば、思考と存在、理論と実践、主体と客体といった固定した二元性――近代の合理性のもつ限界――を乗り越えるものが「革命的弁証法」である、となる。
プロレタリア階級の自己認識がそのまま社会全体の正しい認識となり、しかもこの現実認識が闘争において自己主張する条件をつくりだし、社会変革を進める過程となる。プロレタリアートは、歴史過程における主体と客体との分裂と統一という弁証法を身をもって生きるものであるから、そこでの意識化としての理論は、ただちに歴史過程を革命的におし進める実践となる。
ルカーチは、プロレタリアートそのものにおける階級意識の革命的機能を解明しようとした。なぜならば、前出のとおり、ドイツ革命、ハンガリー革命の挫折がプロレタリアートの自然発生的意識に依存したためだという反省が込められたからだ。
第二に、ルカーチは、階級形成と党の役割を明確に規定した。
階級意識は、プロレタリアートの「倫理」であり、その理論と実践の統一であり、その解放闘争の経済的な必然性がそこで弁証法的に自由に転化する点である。党は階級意識の歴史的な形態として、またその行動的な担い手として認識されるが、これによって同時に党は闘争するプロレタリアートの倫理の担い手ともなるのである。党のこのような機能によって、党の戦略は規定されるべきものである。党の戦略は必ずしも常にその時々の経験的現実に合致しているとはかぎらないし、またそのような時には党の戦略がまもられないこともありうるだろうが、たとえそうだとしても、歴史の必然的な歩みは党に名誉回復の機会をもたらすであろうし、そればかりではなく、正しい階級意識や正しい階級的な行動のもつ道徳てな力も、――実践的・現実政治的に――その実を結ぶことになるであろう。(「マルクス主義者としてのローザ・ルクセンブルク」/『ルカーチ著作集9/歴史と階級意識』/白水社刊(以下「『著作集9』という)(P93)
第三は、ブルジョア的な科学の事実認識の方法と、弁証法との差異という問題意識だ。ルカーチは、当時の「修正主義」が事実の科学的認識を唱えて弁証法を放棄したことを批判した。彼らすなわち事実認識を強調する者は、自然科学的方法の妥当性を論拠とする。自然科学のいう「純粋な」事実というものは、他の現象の介在によって攪乱させられずにその合法則性を基礎づけうるような環境において、生活現象あるいは思考上、置き代えることによって成立するにすぎない。一方、ルカーチは、事実とはすでに孤立化と抽象化とを経たものだと考えた。抽象化を前提する自然科学的・実証的方法をもって社会現象を把握しようとすれば、孤立化された事実や部分体系がどのような構造的・歴史的な連関をもつかを見ぬくことはできない。そして傍観的な事実認識と主観的な当為との分裂が生じてくる。ルカーチの弁証法の立場では、諸現象を直接的な所与の形態から解きはなち、諸現象をその中心または本質に関係づけ、またこれらの現象的性格や仮象を、歴史的な社会の構造的基礎から必然的に生じた現象形態として把握しようとする。こうして社会生活の個々の事実が歴史的発展の契機として「総体性」のなかに組みこまれたとき、はじめて事実の認識から脱却して「現実性」そのものの認識に到達する。このようにルカーチは、「直接性」のなかに埋没しているブルジョア的思考、実証的科学の方法を批判した。
第四は、ルカーチの思想における最重要な問題提起であるのだが、「物象化」についてであろう。ルカーチは、マルクスの「資本論」における「商品の物神性」の指摘を物象化の現象の原型とした。
商品形態においては、人間に対してかれら自身の労働の社会的性質が、労働生産物自身に具わった対象的性質、社会的な自然属性としてあらわれ、生産者の総労働に対する社会的関係が対象物の社会的関係としてあらわれるということ、つまり具体的な人間活動や人間関係が、物(商品)の自己運動、物的諸関係としてあらわれることが、物象化の基本現象なのである。ルカーチの独自な立場は、商品形態があらゆる社会現象の基本的カテゴリーとなった資本主義社会においては、この物象化が生産過程の抽象化(合理化)をもたらすだけでなく、政治(国家権力)の合理的組織化(官僚制)、法律制度の合理化をもたらし、さらにはイデオロギー(諸科学や哲学)の合理主義的・実証的な孤立化・固定化をもたらしたとし、ブルジョア的な思考や意識の根本的陥を指摘するところにある。(解説/『著作集9』P556)
第五は、共産党のあるべき姿を明示したことだ。共産党という組織が陥りやすい諸問題を指摘し、その解決の道筋を明示した。中欧における革命の挫折のなか、当時の革命論に両極の誤謬が顕著になった。その傾向とは、〈合法の白痴病〉と〈非合法のロマン主義〉であり、それを止場する必要を説いた。また、社会主義社会における自由や民主主義の問題、党の官僚主義化克服の問題などを論じた。
第六は、革命の主体はあくまでもプロレタリアートであると考えたことだ。
ブルジョアジーとプロレタリアートだけがブルジョア社会の純粋な階級である。〔中略〕その他の初期階級(小市民とか農民)の態度は、動揺していたり発展に対して不毛であったりするので、それはこれらの階級の存在が、もっぱら資本主義的生産過程におけるかれらの地位に基礎づけられておらずらず、身分的な社会の残存物と離れがたく結びついているからである。したがってこれらの階級は、資本主義的発展を促進しようと努めたり、あるいは自分自身を越え出ようと努めたりしない。(「階級意識」/『著作集9』P122 )
1969.秋期決戦の敗北と無期限権利停止処分
新左翼各派が「決戦」と位置づけた反安保闘争の頂点である10月・11月の街頭闘争は不発に終わった。その闘争中、笠井は他党派および共労党主流派が選択した中央決戦政治闘争とは一線を画し、彼独自の労働の現場における山猫ストに政治生命を賭けたが不発に終わった。笠井の企ては、共労党指導部から分裂行動とみなされ、規律違反によりプロ学同から処分される。笠井は1969年秋におけるみずからの一連の政治過程を次のように総括している。
処分の対象とされた分裂行動の原因には、叛乱型政治闘争と攻撃型政治闘争の対立があった。いいだももなどの東京の知識人党員グループと、白川真澄を象徴的人格とした関西の民学同OBグループによる相互不信と暗闘に巻きこまれ、翻弄された気もする。発想も問題意識も組織としての背景も異質な、関西中心の民学同左派に合流してプロ学同を結成したのが間違っていたのか。ルカーチ党を創る目的で共労党に加入するという発想が、はじめから実現ゼロの夢想にすぎなかったのか。(本書P149)
ここで共労党およびその学生組織であるプロ学同が抱えていた路線対立の詳細を書くことをひかえたい。とにかく笠井はその後処分を解かれ、共労党・プロ学同に復帰する。このとき(1970)、赤軍派のハイジャック、京浜安保共闘による交番襲撃による死者がでるなど、新左翼学生運動に激変の予兆が出始めていたころだ。笠井の革命論に転換の兆しが現れる。
笠井に影響をおよぼしたのは、大阪からやってきた戸田徹との出会いだった。戸田は、〈68年〉新左翼革命運動を領導してきた岩田宏『世界資本主義論』、一向健(荒岱助)『過渡期世界論』、そしてその延長線上に構築された、笠井が所属する共労党幹部のいいだもも・白川真澄の『現代世界革命論』を批判した。
笠井は、戸田が著わした「第三世界革命論」について、先進国プロレタリアートが普遍的階級に自己形成するのは第三世界解放革命闘争への合流をかちとり、そのことを通じて帝国主義的国民としての自己の定在を解体することによって帝国主義打倒の共同の戦列を構成しうること、今日のマルクス主義者は第三世界解放革命の意義をその世界史的根拠までさかさかのぼってとらえかえすという困難な理論課題を自らに課すことを抜きに、その歴史的任務の完遂はありえない――と解釈、絶賛した。
戸田と共闘して、共労党・プロ学同の新体制=いいだもも・白川真澄および彼らが指針とする『現代世界革命論』と対決することを決意する。この時点で、笠井がルカーチ主義からの離反を意識しはじめたことが読み取れる。ルカーチはその革命論のなかで、資本主義下のプロレタリアートが革命の主体であることをつねに強調していことは前出のとおり。
ルカーチ、レーニンからグラムシ、マオイズムへ
1970年、笠井は本格的にルカーチ批判に転ずる。
「戦術=階級形成論の一視点」では、ボリシェビキ党を「媒介者の党」に読み替えようと試みたが、1969年を通過したのちの「革命の意味への問いの究明」では、すでにレーニン主義へのへの距離感が生じている。秋期決戦に向かう過程で闘うことを強いられた俗流レーニン主義の二本柱、「プロレタリアートの百歩先を得意気に歩こうとする」前衛主義と中央決戦政治の根拠が、レーニン主義それ自体にあるのではないかと疑いはじめたからだ。革命のパターンとしてはソヴィエト型から人民戦争型へ、理論としてはルカーチ=レーニン主義からグラムシ=マオイズムへのシフトを、この時期には模索していくことになる。(本書P167)
その萌芽は、前出のとおり、1969年秋期決戦における闘争戦術をめぐる共労党中央と笠井の見解の相違に起因した。繰り返せば、笠井は新宿郵便局の占拠とストライキ(評議会)を街頭占拠行動(叛乱)と連動させることで決戦の展望を具体化しようとした。笠井が選んだ戦術は、他党派、なかんずくブント戦旗派に代表される「中央権力闘争」(権力=官邸、省庁等が集中する霞が関周辺)を攻撃するという戦術を否定するものだった。「中央権力闘争」は、結果として、権力側の圧倒的暴力の前に封じ込目の前に、新左翼各派の敗北で終わった。
笠井はこのとき以降、長崎浩の『叛乱論』に傾倒し、共感・賛辞を惜しまなくなる。高橋岩木は《長崎「叛乱論」の基本的な意義は、叛乱を史的唯物論の経済法則に照らして予言される客観的勝利としてではなく、社会に常に伏在する潜在的な力として捉えたことだった。黒木における長崎への共感は、ハイデカー哲学の受容とも連動することで、ルカーチ的な革命をスターリニズムを含む近代世界総体への叛乱として捉える方向に向かう。(本書/解説P405-406)》と指摘している。
先回りしていうと、長崎『叛乱論』は、笠井の「近代主義としてのマルクス主義批判」と「第三世界革命論」の中間に位置する。笠井は前者を手掛かりとして、それを乗り越えて後者に行き着いた。
叛乱とその本質
笠井は叛乱について、次のようにきわめて簡潔に書いている。
叛乱の歴史はマルクス主義の歴史よりも古い。この自明の前提が、なぜかくも深く隠蔽されてしまったのか。マルクスからレーニンにいたる半世紀のあいだに、科学的社会主義による叛乱現象を階級闘争理論の枠内におしこめようと、人々はやっきになってきた。〔中略〕全共闘運動と総称される、60年代後半から70年代初頭にかけてこの国を襲った大衆的政治経験は、少なくとも叛乱を科学的社会主義による合理化と固定化から解放することで、人々を叛乱という現象そのものに直面させた。であるからこそ、それは近代知性にたいする攻撃ともなり、また階級闘争理論にもとづく指導を拒絶して「展望なき叛乱」に終始したのだ。
全共闘運動を生きた主体にとって、叛乱が道具でもなく、それ自体で充実した完璧な瞬間を創りだす生経験の全体性に他ならないことは明白だ。叛乱とは、あれこれの「理想的な」社会経済状態を実現するための物理力なのではない。叛乱の本質はイデアルな世界変容であり、生体験の根源にむかって殺到する集合的投企に他ならない。曖昧な実感のなかで、このことは充分に承認されてきたように思われる。しかし、その意味はなお徹底して問われているとはいえない。全共闘以後十年の時代の地平が、革命の意味への問いを重ねて深く要求してきているにもかかわらず。(本書P377-378)
この引用に続いて、武藤一羊の『フランス五月革命の教訓』を引用し、《ここで語られている「バリケードの夜と大衆デモがつくりだした魔法(マジカル)のような雰囲気について、それは誰もが実感しながら、「なんと説明していいかわからない」と、誰もがそれについて語ることを「ためらう」と表現する。
そして笠井は、現象学における事物の意味の無限という主張、すなわち、事物の多義的な意味が一義的に狭められていく「意味の沈殿作用」を介して、「私たちの生活世界とは、私をとりまく事物と他者たちが、すべてその豊かな意味の多義性を沈殿させられ、機能的に一義化さられてはいれつされているような世界なのだ」と喝破する。
意識の超越性が事物に無限の意味を能与しうるにもかかわらず、私たちが事物の意味を記号化するようにしてしか存在できないのはなぜか。それはニーチェが語るように人間という存在が二つの極をもった過渡的な存在だからだろう。人間は事実性と超越性とに引き裂かれている。人間存在の超越性は、陽光にきらめきながら落下する一滴の水に全宇宙を視ることもできるのに、記号的世界は住人の水滴で床が濡れることを心配するばかりなのだ。そして、このような人間存在の事実性あるいは条件性の地平の上に、マルクスが歴史の土台と呼んだ全構造が聳え立っている。(本書P379-380)
続いて、先の引用、「誰もが実感しながら、なんと説明していいかわからないもの」、誰もがそれについて語ることを「ためらう」という、「バリケードの夜と大衆デモがつくりだした魔法(マジカル)のような雰囲気」の正体を明かす。笠井はエリック・ホブズボームの『叛乱の原初的形態』で考察された「千年王国主義的運動」をヒントとして、千年王国主義的運動および他の前近代的な叛乱現象すべての特質について、それらは〝特定の利害集団の自己利害貫徹の運動ではなかった点″を挙げ、〝叛乱とは人間の存在条件の固定化・形態化がもたらした世界の記号化への意味の叛乱に他ならない(本書P381)″と定義する。 次に、
叛乱が叛乱となるためには、まず利害集団としての共同体が解体され、それが新しい集団に再編、むしろ再生されねばならない。より直接的には、共同体が疎外し共同規範としての共同観念(倫理/エティック)から私が離脱し、そのような無数の私のあいだに新しい規範が形成されるのででなければならない。その意味は二重である。第一に、叛乱の真の根拠は意味的なものであり、決して経済的な利害やその観念化としての共同規範(エティック)にあるのでない点。第二に、倫理的(モラリスティック)なるものの叛乱は同時に私(わたし)的なるものの叛乱であり、決して自生的な共同性の叛乱ではありえない点である。つまり、叛乱の根拠は、利害集団から離脱した〈私〉が、共同利害の観念形態とは異なった新しい倫理主体として自己を超越することによってのみ形成されうる。(本書P381)
その一方で、〈68年〉叛乱の陥穽を指摘することを忘れていない。
叛乱の根拠としての私的=倫理的なるものについての思想的な無自覚は、結局、60年代の大衆ラディカリズムをふたつの方向に分解させ、崩壊させることになる。第一は叛乱を集団の利害貫徹運動に還元する方向であり、それは実質上の社民化に帰着した。第二は私的=倫理的なるものの部分的なウルトラ化と固着の方向であり、それは連合赤軍事件、東アジア反日武装闘争事件、そして革共同中核派の反革マル戦争という現実を生みだしてきた。(本書P384)
長崎『叛乱論』について
笠井は一時、長崎浩の叛乱論に傾倒した。そしてそれを笠井なりに解釈し、やがて乗り越えた。笠井の長崎浩論はきわめて難解である。
〈60年〉と〈68年〉
1937年5月生まれの長崎浩は笠井(1968-)より10歳年長である。長崎は東大本郷時代にブントに参加し、60年安保闘争を闘った。笠井は長崎との世代の差、政治経験の違いを前提としつつ、長崎批判ではなく、〝うちなる『叛乱論』の解体″(本書P214)を目指して立論することを明言する。
十年ほどの年代差異性に規定された二様の戦後体験の、六〇年代後半における思想的交差の意味を了解すること。その交差が白日に一瞬の暗い火花を散らしたような、微妙な異和感の意味を了解すること。可能な方法はこれ以外にあり得ないと思われる。この長崎論にもしも幾分かの時代的意味が認められるとすれば、それは一瞬の交差ののちに遠ざかりゆく二様の時代経験を、次の時代への二つの軌跡として了解する点においてだろう。(本書P215)
笠井は、《長崎の「政治的なもの」にたいする思考の原点は六〇年安保闘争の経験にある(本書P215)》と断言する。 そして笠井は長崎の〈60年〉における政治経験を次のように概説する。
長崎は〔中略〕、「未知なる大衆」とも「言葉の魔力」とも無縁に自己形成せざるをえなかった。長崎の世代は、いわば1917年2月から10月の激動のなかの、たとえばペテルブルグ駅舎前に集まった群衆に向けて「4月テーゼ」を読みあげたレーニン、単身クロンシュタットにのりこみアジテーションのみを武器として数千の軍隊を蜂起の側に獲得したトロツキーを、その鮮烈な政治経験において追体験したのである。(本書P218-219)
笠井の長崎評は誤りではない。なぜならば、笠井が長崎の著作である『叛乱論』から次の箇所を引用しているからだ。
私(長崎)は私の「政治の経験」がどこで受容されたかを記述してみた。それはアジテーターの立場よりする「アジテーターと大衆とのたしかな関係だったのであり、いいかえれば私はそのときレーニン主義を通じて叛乱をかいま見ていたのだと思う。もちろん叛乱というも恥ずかしいささやかな闘争にすぎなかったし、アジテーターとしての経験もレーニン主義の実験のごときものだった。(略)私たちはレーニン主義をプロセスとしてみていたことはたしかである。「大衆の高揚」を一つの生成としてとらえ、これにかかわりつつ自らをも運動させていった。このような生成の過程が私たちにとって政治だった。(『叛乱論』長崎浩〔著〕)から再引用/本書P219)
〝乗り越えられた前衛″だった長崎および60年ブント
長崎が〈60年〉、アジテーターとして、大衆の叛乱をかいまみ、その高揚を一つの生成としてかかわりつつ、自らをも運動していたという記述を疑うことは難しい。その原体験から叛乱論が書かれたという笠井の断言は繰り返すが、誤りではない。 だがしかし、筆者は長崎の記述をそのまま了解した笠井に不信を抱く。なぜならば、長崎が大衆とのたしかな関係を築いたという記憶に疑問を抱いているからだ。
長崎の「私ごとを語る」(『叛乱を解放する――体験と普遍史』月曜社刊収録〕という回想文の中に、「ブントと島成郎」という章があり、60年安保闘争におけるブントの狼狽ぶりが記されている。それによると、長崎は当時、東大本郷のブントの活動家で、東大本郷は島成郎(1931-2000)が率いるブント中央と対立関係にあったという。これからの記述は、両者の微妙な関係性を前提にして、読んでいただきたい。長崎たちは、島の国会突入指令に反発し、現場で突入を図る学生を制止する側(反中央)にまわっていたというのである。
(島さんが『ブント私史』で言っているように、)このとき(4.26国会前闘争)、東大の教養学部と本郷(長崎たち)が中心になって、学生が装甲車を乗り越えて国会前に殺到していくことを、むしろ阻止するようになった。言ってみれば、公然たる反対ですね。しかも学生の前で演じた。学内でまだ運動が初期段階にあるという政治的配慮があった上に、反中央の姿勢がこうしたミスを生みました。(「私ごとを語る」P155)》
これが発祥地点になって、しかも東大細胞だけではなくブントという党自身が、学生のみならず一般市民に乗り越えられていく。5月から6月までの国会周辺の安保闘争です。それまでは、国民会議の第何次統一行動というようにスケジュールを決め、国会に労働者と学生がデモにいって、そのなかで全学連が跳ね上がるというかたちを繰り返してきたわけですが、もはや連日、国会前が人で溢れ返る。統一行動もへちまもないような、一種の首都圏市民の叛乱状態が、連日くりかえされることになった。
たとえば5月20日のことですが、全学連書記長の清水丈夫(1937-)が国会の前で、宣伝カーの上から、「これから全学連は新橋デモに移る」と提起したけれども、ヤジり倒された。統制がきかないわけです。国会前に連日人は集まりますが、それから何をすればいかという展望が全く出ないわけですから、この人たちに濃淡の差はあれ、焦りと欲求不満が蓄積していくわけですよ。(「私ごとを語る」 P157-158)
島が率いるブント中央が無方針で、自分が属していた本郷細胞がその被害をこうむったかのような長崎の書きぶりが気になるものの、明らかに社共(既成左翼)もブント(左翼反対派)も、大衆に乗り越えられていたことは明らかではないか。
もうひとつ、長崎叛乱論のキイワードであるアジテーターにふれておこう。笠井は長崎の政治経験をペテルブルグ駅舎前のレーニン、クロンシュタットのトロツキーにアナロジーした。ところが、長崎自身は〈60年〉における国会前闘争におけるアジ演説についてこんなことを書いている。
島さんに言わせれば、(略)この4.26で国会通用門前の装甲車を乗り越えて進むという戦術を、彼一人が発案して全学連幹部と拠点大学とを説得して回った。唐牛であり、後に革共同に行く陶山(健一)であり、篠原浩一郎 であり、これらの第一級のアジテーターをそろえて、車の上から学生に対する猛烈なアジテーションを続ける。(後略)
その結果として、我々(長崎ら)の制止を振り切って学生が国会前に殺到する。(「私ごとを語る」「私ごとを語る」 P155)》
この会議で北小路敏が・・・京都から呼ばれていたのです。彼は会議のあいだずっと眠っているのです。こいつ現場で大丈夫かなと懸念しました。ところが、当日の国会前では我々の主張をそのまま見事なアジテーションにして、学生に向けてアジった。大衆政治家として天性の男の一人ですね。当時の全学連にはこういう才能の持ち主が何人もいたんです。(「私ごとを語る」P160)
唐牛健太郎(1937年生まれ) 、陶山健一(1936年) 、篠原浩一郎 (1938年) 、北小路敏(1936年) といえば、日本の新左翼運動史に名を刻む面々であり、1937年生まれの長崎と同世代だ。長崎が彼らと並んでどのような場面でいかなるアジテーションをしたのか筆者が知る由もないのだが、長崎がブント内で国会突入を制止する側にいたことから推察するに、彼がアジテーターと大衆という関係を実際に築いていたことには疑問が残るばかりか、本当にアジテーションをしたのかどうかさえ疑わしい。
観念としての「大衆/アジテーター」
〈60年〉の政治過程において、自らの政治経験を原点として生み出されたという長崎叛乱論だが、それはおそらく、神話化されたもの、実態上は安保ブントさえもが「乗り越えられた前衛」であったことの隠蔽工作から生まれたものだ。〈60年〉をもっとも過激に、そして果敢に闘った唯一の前衛党というブント神話と混然一体となった長崎の「記憶」ではないのだろうか。長崎自身による60年安保闘争のブントの実態的記録である「私ごと」を読むかぎり、大衆の沸点に近づきつつある叛乱エネルギーをもてあまし、狼狽し、かつ長崎自身はその爆発を抑制する側にあり、学生新聞に「乗り越えられた前衛」と揶揄された60年ブントを原体験とする叛乱論は「体験」から築き上げられた思想ではない。
長崎は「私ごと」というかたちで60年ブントにおける自己の立ち位置と実態を封じ込めた。そのうえで、観念的でありながら実体験を偽装した関係、すなわち、「大衆/アジテーター」を構想し、叛乱を疑似的に体験したかのように叛乱論を立ち上げた。〈60年〉の政治的高揚期に見た(と思い込んだ)叛乱が原初の叛乱であり、その後、国会を包囲した大衆が消え、政治の季節の終焉において、新たに規定せざるをえなくなった叛乱が提示されたのだ。
近代と叛乱
長崎により新たに規定された叛乱とは、それが「根源的には近代への叛乱」であるみなすことだった。笠井は長崎の「近代/叛乱」について、実に簡潔にまとめている。笠井は、本書にて、長崎の〔近代/叛乱〕に係る一節を引用したあとで、こう書いている。
(長崎の〔近代/叛乱〕についての)問題はつまるところ「近代人の自己と反自己の葛藤」であり、「アジテーターと大衆の死闘」もまたこの「葛藤」の政治的表現にすぎない。叛乱をめざす政治がこうしたものである以上、叛乱は根源的には「近代への叛乱」であるみなされる。すなわち「アジテーターといい大衆というのも、近代を乗り越えた人間の全体性を表現する行為全体の二様の呼び名である。両者は近代の根幹をなす行為の規定性とこれが忘却した闇との相克をあらわす関係概念としてとらえらえたときには、叛乱者のうちに内在化される。このように長崎は、一切の根拠を近代の歴史的地平にさしもどすことを要求する。(本書P224)
笠井が長崎『叛乱論』を見直す契機となったのは、長崎が政治の叛乱というものが、つまるところ、近代人の内部におきる外部との断絶によって生起すると考えたことによる、と笠井が捉えたことだ。
(長崎がえた)結論の第一は「近代の叛乱として叛乱はつねにある」ということ、第二は「叛乱が権力を獲得するかいなかは本質的ではない」ということだ。前者は大衆的自然発生性の純粋化と普遍化であり、「レーニン主義の復権」から出発した長崎にとっては、後者とともに視点の根底的な転換を意味するものだ。だから長崎は「宿命的な叛乱の頽落」として、レーニン主義を、そしてその双生児たるアナキズムを検討しなければならない。(本書P226)
全共闘運動の内にあって「醒めた者」
笠井は長崎『叛乱論』を整理したのちに、〈60年〉と〈68年〉という、長崎と笠井の政治経験の差異に戻る。長崎は人が叛乱者となるのは「権力体験」だといい、60年代を戦後期の固有だった構造が急速に解体され、日本の近代社会が完成形態に接近していく過程として捉えている、と笠井は指摘する。そしてそのことに反発するかのように、次のように書く。長いが、筆者にとって印象に残る箇所なので引用する。
高度経済成長下の日本社会が市民社会的成熟を遂げて、純粋近代が露呈されてきたという長崎の時代把握は妥当だったのか。私たちは全共闘運動のなかでなにゆえ「孤独」だったのだろう。〔中略〕たしかに全共闘運動の参加者たちの多くが「高揚する叛乱の内部での熱い融合状態」、「私」と「われわれ」の特権的合一、あるいは神津陽によれば「行為の共同性と関係の革命」などなどの実現を夢想した。夢想だけではなく、それはもう〝萌芽的″に実現されていると思い込む者さえもいた。しかし、こうした祝祭ぶりのなかでひそかな後めたさがあることを一瞬忘れながらも、祭りが高揚するほどにある種のしらけた意識がその裏で成長したことを、私は想起することができる。それは異様な感覚だった。
私が自己と世界との敵対関係を自覚するにいたったのは、完全に無機的な「孤独な群衆」の位相においてではない。疎外態はむしろ、無機的なマスの内に形成される大小の無数の社会的共同体の「内では共有、外には占有」という構造にあった。伝統的共同体ではない、大衆社会状況のうちに自然発生する小共同体からさえも分泌される疎外と受苦の経験。この体験から、純粋な主観性こそ自らの道であるという決意が生じる。なれあいの共同体を敵とし、ひたすら内なるモラルは、ここにあるのではないか。全共闘運動はそのあとである。
科学的でもなく説得的でもない観念(綱領と戦略)に純化し、ぬるぬると共同体への密通を欲求する自己の肉体を限界まで酷使した時、轟轟たる「民主的世論」の非難と「暴力学生」呼ばわりを受けた時にこそ、他者とのいかなるなれあいをも拒否しえたというささやかな感動は訪れた。1967年の闘いを生きた多くの叛乱者が68年と69年の学生叛乱に際して、硬直した政治主義者の貌をまとったのは相応の理由がある。一切の共同性への禁欲と他者との闘争をモラルとした者たちにとって、流行の「祝祭としての叛乱」や「コミューン的共同体」はなんといかがわしく感じられたのだ。私たちは全共闘運動の内にあって「醒めた者」であることを強いられ、それによって、祝祭のうちなる孤独をこうむったのである。(本書P227-228)
私にとっての60年代
長崎にとっての60年代は、近代への純化過程だった。日本社会における近代の形式的規定性が実存との間にもたらす矛盾、この矛盾を日常的に生きる大衆の「行為の本質への飢餓」こそが叛乱と叛乱をめざす政治の基礎である、と思考した。これにたいし笠井は、〝深まる近代がその手によって破壊した前近代的諸構造を、それをも自らのたえまない拡大と膨張のために変型し再生産していく過程として体験された″(本書P228)
と笠井はいい、続けて――
大衆社会の到来が「砂のような大衆」一般の創出とともに、近代の延命のため一層奇怪に変型された日本的共同体によってまずもたらされた。深まりゆく日本近代が、他ならぬ「近代と前近代との奇怪なアマルガム」の高度化として進行した独特な性格のために、60年代ラディカリズムは現象学的な鈍化された主観主義を、あるいは近代主義の極北を希求することになったのではないか。理論(対象的知)による形式合理的関係以外にいかなる同志的結合もありえないと思いさだめて、あらゆる共同性への欲求を禁欲した私たちは、革命に迫るまで極限化された近代主義によって、逆説的にも長崎浩の思考と交差することになる。長崎が想定した「純粋近代」における叛乱と政治の世界に幻惑されて、私たちはそれをほとんど愛したとさえいえる。『叛乱論』の世界はあくまでも魅惑的だった。
理論に対するニヒリズムと、にもかかわらず理論だけが政治的関係を媒介するのだという強固な確信は、日本近代がなおも温存した日本的共同体の、個の確立も真の自立もない相互もたれかかり合いの無責任的体系、森崎和江のいう「日本民衆の薄笑い」の構造に対する、私なりの対決から生じてきた。近代に組みこまれた日本的共同性は、日本近代の成熟によって自然消滅していくことなどなく、近代のもたらす受苦的経験をいっそう増幅し、それへの抵抗と解放すら「ふるさと」の幻想に吸収していく特殊な抑圧の構造である。このことを60年代の経験は疑いないものとして教えていた。(本書P228-229)
笠井は全共闘運動に内在したコミューン的空間性、祝祭的情動にたいして批判的だ。それらよりも、党と大衆組織を介して、自己の思想と行動を純粋に綱領と戦略に純化し、誓約に基づき闘う、近代的マルクス主義革命の活動家として自覚した。そのうえで、所属する共労党をルカーチ主義革命党として左旋回させつつ、69年秋期決戦にむけて全身全霊を傾けた。そのことは近代主義(的マルクス主義、レーニン主義)に基づく、(近代的)プロレタリア革命への道だった。
しかし、笠井は同時に、1960年代の日本社会が一方で近代化を完成しつつ、その一方で日本的共同体が増幅する現実の過酷さに苛立った。彼の近代主義としてのマルクス・レーニン・ルカーチへの投企と日本的共同体の重く湿った空気感のような重圧が、60年代を通じて、長崎「叛乱論」と交差したという。しかし、その交差は逆方向からだった。こうして、笠井は長崎叛乱論との隔たりを意識しだす。
戦後精神にたいする長崎との評価の相違もまた、二人の60年代了解の相違にかかわってくる。戦後の終焉を近代の純化とみるのか、近代と前近代の不可解なアマルガムの自己増殖とみるのか、この一点に二つの戦後経験を重ねあわせる作業から、戦後期の黄昏のうちで一瞬暗い火花を散らした長崎と私との交錯は、その意味を幾分かであれ露わにしえたのではないか。次には、69年秋期の政治体験を契機に開始され、刻々と深まりつつある両者の思想的隔たりの意味するものについて語らねばならない。(本書P233-234)
笠井のいう隔たりとは、第一に、長崎が「前近代的なもの」を方法的に捨象したのにたいし、笠井が、〈第三世界〉と〈日本的特殊性〉を叛乱論のうちに措定したところだ。笠井は、長崎がそれらを捨象したのは、清水幾太郎、姫岡玲児、そして長崎に共通する発想だという。その発想とは、構造改革論、計量経済学の流行という、60年代における思想風俗と通底するともいう。ただし、これらは、60年安保闘争の思想的挫折を媒介として形成された「戦後解体期の時代精神」に共通する発想だとしながらも、〝(長崎)叛乱論の独特の性格は、深まる近代をニヒリズムとともに革命、あるいは叛乱の側に奪還した点にあり・・・「情報理論」や「離陸」といったニューモードの近代主義に足をすくわれるのではなく、逆にそれをもって(さまざまなヴァリエーションがある疎外論に依拠することなく)叛乱を措定しかえしたところに、60年安保の挫折からネオ近代主義へという凡庸な軌跡を超える長崎の思考の固有性があった。》とも弁護する。
第二は、長崎叛乱論では、党が無構造的なものとして措定され、「党」はアジテーターの集合態とされ、その内部構造の分析が捨象されている点、そして第三は、ファシズムの大衆運動と革命的叛乱との本質的性格についての論理展開が不十分だという点、第四は、――それは笠井の次なる革命論の核心部分でもあるのだが、――第三世界との直面だ。笠井はそれを、〝「認識の武器としての理念型的近代」と「批判の方法としての純化された近代」を、一挙かつ同時に破壊する出来事だった″と書いている。
世界了解においても政治了解においても、長崎と私はかつての交錯ののち、再度交わることのない二様の軌跡を描いて中空を離れ続けている。長崎が〈アジテーターの遍歴史〉によって『叛乱論』――『結社と技術』の軌跡の深化を目指すのだとすれば、私たちは「大衆叛乱」の地平を超え「人民の革命戦争」へ前進しなければならない。二様の戦後体験の交錯はその意味をあらわにしたであろうか。(本書P240)
第三世界革命への合流、挫折、そして共労党脱退
1971年、全共闘運動および新左翼各派が目指した権力闘争はすでに敗北した後だ。情況としては、学生自治会を基礎とする戦後学生運動が終焉し、新しい活動家は大学ではなく地区に組織された叛軍闘争、入管闘争から登場してきていた。笠井が属していた共労党の学生大衆組織であるプロ学同は地区青年同盟、プロ青同、赤色戦線とそれぞれの母体ごとに組織名を変更していたのだが、赤色戦線がそれらの総称として定着していた。
赤色戦線を含む新左翼各派の最重要政治課題は、成田空港建設による強制土地収用を阻止する三里塚農民に連帯する闘争だった。笠井はこの闘争こそが、帝国主義本国市民社会における人民武装闘争・人民権力闘争に転化する場と規定した。そこから笠井は、グラムシの「陣地戦」、毛沢東の〝農民に依拠し、農村を革命の根拠地とする″「人民闘争革命論」の再評価をへとつなげていく。人民による社会権力の奪取と占拠の持久的闘争は、中欧から遠く隔てた東アジア中国に共通する革命論であると。そこから、先進資本主義国、資本主義が未発達な中国、そして第三世界の旧植民地・従属国それぞれの社会の状態に合わせた、持久戦・陣地戦による「人民権力闘争」が浮上する。そこには〝プロレタリア革命″の影は薄く、プロレタリアをふくむ〝人民″が革命主体として登場する。
人民権力闘争
近代的な主権国家体制が未整備な第三世界諸国では、地理的な解放区の獲得による法的・政治的な二重権力状態を持久的に形成するための条件がある。これにたいし先進諸国では、市民社会の諸文節を占拠した人民諸権力が主権権力の支配を脱して、法的・政治的な自立を獲得することは困難にしても、ヘゲモニー的な二重権力を構築していくことは可能だろう。実際に三里塚には武装した反対同盟農家による、警察権力が容易には立ち入ることのできない自律的空間が形成されている。(本書P200)
前出のとおり、笠井は、長崎『叛乱論』が近代世界総体への叛乱として捉えることにおいて評価した。しかし笠井はそこにとどまらず、第三世界革命への合流として捉えることで、長崎から離れていった。この変容を「うちなる『叛乱論』の解体」と宣言した。そのなかで、長崎『叛乱論』が叛乱の経験を純粋に記述するがゆえに叛乱とファシズム的叛乱が十分に区別されないこと、叛乱が国家、党といかに向き合うべきかという点にも答えられていないこと――を批判した。
笠井の「第三世界革命論」は日本の新左翼が形成した、諸潮流に対する批判的整理から準備され、「ロマン的反動批判」と名づけられた。批判の対象は次の4点だ。
- 東アジア反日武装戦線に代表される無党派地下グループの爆弾闘争であり、笠井はそれを「人民なき人民戦争」とシニカルに評した。
- その思想的背景となっている太田龍の「原始回帰思想」批判
- 津村喬の「民族的責任論」(中核派の「血債主義」も津村の思想の延長線上にあるとする。)
- 滝田修の「戦士的共同体」論批判
〈68年〉のおわり
笠井は日本国内における三里塚を第三世界として認識し、そこに革命運動の実体をみようとした。しかしながら、それもかなわなかった。三里塚は農村地帯だが、第一世界のそれだ。笠井自身が指摘したように、〝深まる近代がその手によって破壊した前近代的諸構造を、それをも自らのたえまない拡大と膨張のために変型し再生産していく過程″にあった。
そればかりではない。笠井もいうように、近代ベビーブーマーが大学を卒業していく1972年をさかいに、〈68年〉という政治情況は変容した。共労党をふくむ新左翼各派も「危機の淵に突き落とされた」(本書P351)」。
1973年、共労党東京都委員会が解散を決定、左派共労党は実質的に解党した。こうして、笠井潔=黒木龍思の革命家人生は終わった。 〔完〕