●安田浩一〔著〕 ●中央公論新社 ●3600円+税
はじめに
本書を読んでいるあいだ、何度か目から涙がこぼれた。虐殺被害者に対する同情や憐みもあるが、口惜しさ、焦燥感、そして無力感にとらわれたのだ。そして、すべての日本人が本書を読み、いまから100年前の日本人の負の歴史に向き合い、差別と暴力の根絶に向かわなければいけないのだ、と叫びたい衝動に駆られた。このような読書体験は、近年まれなことだった。
関東大震災
本題にある地震とは、1923年(大正12年)9月1日11時58分、相模湾北西部を震源地とする関東大震災のことである。明治以降の日本の地震被害としては最大規模で、死者・行方不明者は推定10万5,000の被害者を出した。震源の規模を示すM(マグニチュード)でいえば、長さ130kmもの巨大な断層面でM8クラスの本震が双子地震で起こり、その3分後にM7クラスの大余震,さらに1分半後にM7クラスの大余震が再び発生したという説がある。その度に関東各地は強い揺れに見舞われた。 広大な激震域と大余震群火災、崩壊した家屋の下敷きなど前出のとおりの被害が出た。
本震災の特徴は、火災による焼死が多かったことだ。これは本震災発生時に日本海沿岸を北上する台風が存在し、その台風に吹き込む強風が関東地方に吹き、木造住宅の密集していた当時の東京市(東京15区)などで火災が広範囲に発生したからだという。正午前ということもあり、昼食の準備のためにかまどや七輪に火を起こしている家庭も多かった。また可燃物の家財道具(箪笥や布団)を大八車などに載せて避難しようとした者が多く、こうした大量の荷物が人の避難を妨げるとともに、火の粉による延焼の原因となったとされる。強風に加えて水道管の破裂もあり、火災が3日間続き、近代日本における史上最大規模の被害をもたらした。
特筆すべきは、各所で水道管が破裂し、消火活動が滞り、火災が3日間つづいたこと。そのことにより、東京市内の約6割の家屋が罹災したため、多くの住民は近隣の避難所へ移動した。ところが、東京市内の避難所をは過密化し、そこを避けて、近郊(千葉、埼玉)へと避難民が移動したことを忘れてはならない。このことについては後述する。
虐殺
本題にある虐殺は、震災直後に始まった。おそろしい人災(人殺し)のことである。朝鮮人・中国人が、そして当時「主義者」と呼ばれた共産主義者、社会主義者、労働組合活動家が、そして彼ら彼女らとまちがえられた地方出身の日本人、障がい者までもが虐殺された。虐殺者は、地域の在郷軍人、消防団員らを中核とする自警団、そして軍隊・警察の一部だった。
虐殺による犠牲者数は、「在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班」調査によると6,661人。その一方、当時の司法省発表では朝鮮人の虐殺犠牲者は233人としている。ただし、同報告は容疑者が判明し事件として立件できたケースに限られているため、実数とは大きくかけ離れているという。また、2009年、政府の中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」が発表した「1923関東大震災報告書【第2編】では、「震災時には、官憲、被災者や周辺住民による殺傷行為が多数発生した」「虐殺という表現が妥当する例が多かった」「対象となったのは、朝鮮人が最も多かったが、中国人、内地人も少なからず被害にあった」としたうえで、犠牲者数を震災全体の死者10万人超の「1~数%にあたる」と記述した。ということは、ざっくり数千人の虐殺による犠牲者があったことはまちがいなかろう。(本書P8)
虐殺発生のメカニズム
虐殺のメカニズムは国家権力が構築した。それが機能し、各所で虐殺が引き起こされた。
震災発生直後、日本帝国政府は関東一円の自治体にむけて、被災地で不逞鮮人(朝鮮人を差別して使用する言葉)が「井戸水に毒を入れた」「略奪、暴行、強姦の狼藉を働いている」「徒党を組んで攻め込んでいる」といったフェイク情報を作成し、各自治体に向け、自警団を組織せよ、との指示を出した。それを受けた地域社会(住民)は、在郷軍人、消防団、青年団が中心となり、住民を竹槍、鳶口、こん棒、猟銃等で武装させたうえで自警団を結成した。その間、地域警察(私服)がデマ情報を流し、住民を恐怖に陥れた。当時のマスメディアであった新聞も政府のデマ情報を記事にした。そればかりではない。大震災という異常事態のなか、デマ情報は各地に誇大化されて拡散した。東京中心部およびその周辺部では、工場、河川工事、鉄道敷設工事等で働く多くの朝鮮人が集住していたため、とりわけその付近の住民は警戒心を強めた。
自警団は詰所を設置し、域内を通過する「不審者」を訊問し、怪しいと思われる者を拘束し、暴行のうえ殺害した。集団で移動中の朝鮮人を襲撃したり、朝鮮人を警察署に集め留置したうえで警察署を襲撃して朝鮮人を虐殺したケースもあった。警察官、軍人が直接、無抵抗の朝鮮人を殺害したケースもあった。また、特高警察は混乱に乗じて、日本人の社会主義者、組合活動家等の「主義者」を殺害した。いずれも無抵抗な者を問答無用で殺害した。
虐殺が行われた後、警察は一転して取締りを開始し、首謀者などを逮捕、起訴した。彼らは形式的裁判を経て、微罪(執行猶予等)判決を受けた。実刑判決を受けた者も、1927年2月7日の大正天皇大葬(大赦,減刑および復権ならびに特別基準恩赦)により放免となった。
日本帝国はなぜ「不逞鮮人」デマを流したのか
関東大震災は未曾有の大災害であり、国の心臓部にあたる帝都・東京の危機である。日本帝国政府が最優先すべきは住民の生命・安全の確保であり、罹災者にたいする救済措置であるはずだが、そうではなかった。日本帝国が最優先したのは、自分たち(権力者)に危機が及ぶことを未然防止することだった。そのことを最優先した背景をみておこう。
【日本帝国 近現代略年表(1868-1922)】
- 1868年:明治維新
- 1894年:日清戦争
- 1895年:台湾統治開始
- 1904年:日露戦争
- 1909年:伊藤博文、大韓帝国(朝鮮)独立運動家・安重根に暗殺される
- 1910年:韓国(朝鮮)併合
- 1911年:大逆事件(幸徳秋水らが、明治天皇の暗殺計画を準備したとされ、大逆罪で死刑となる。
- 1912年、鈴木文治ら友愛会(労働組合の連合組織)を創設
- 1914年:第一次世界大戦。日本参戦
- 1917:ロシア革命。翌年、ロマノフ朝皇帝、妻、5人の子どもたちが革命政府により殺害される。
- 1918年:米騒動および工場閉鎖・解雇・失業による労働争議が頻発
- 1918:シベリア出兵(ロシア革命に対する干渉戦争)
- 1919:朝鮮で大規模独立運動[三・一事件]*後述
- 1920:日本社会主義同盟成立
- 1922年:全国水平社結成、日本農民組合結成、日本共産党(秘密裡に)結党
日本帝国と朝鮮(大韓帝国)とのあいだの関係については、本書にさらに詳しく記述されている(本書P470)。以下にその抜粋を示す。
【日本帝国と朝鮮(大韓帝国)の関係年表】
- 1875年:江華島事件。日本海軍が漢城(現在のソウル)近郊の同島付近に艦艇を接近させ挑発。戦闘のうえ日本軍が砲台を占拠
- 1894年;甲午農民戦争(東学党の乱)。朝鮮に対する反政府闘争に日本が介入し派兵。朝鮮王宮を占拠。親日派政権を樹立。
- 同年:親日派政権が日本軍の派兵を要請。日清戦争の端緒となる。
- 同年:日本軍、上記の農民戦争を鎮圧。3万~5万人の朝鮮民衆を虐殺。
- 1895年:日本、朝鮮王妃・閔妃を殺害
- 日露戦争中の1904~1905年、朝鮮の首都・漢城を占拠。朝鮮半島北部で軍政を施行。これに抵抗する朝鮮人首謀者を処刑するなど暴力弾圧で応じる。
- 1905年、日本、韓国(1897年に大韓帝国と改名)を保護国化とし、韓国軍を解散さす。
- 1910年:日韓併合を挟み、韓国で「義兵闘争」が続く。日本軍はそれに対して朝鮮人2万人を殺害
- 1911年:寺内正毅朝鮮総督府暗殺計画にかかわったとして、朝鮮の独立運動家700人を検挙(105人を有罪とす)。拷問によるフレームアップである。このとき、反日朝鮮人活動家を「不逞」とする表現がはじめて使用されたという。
- 1919年:ソウルの公園に数千名の学生などが集結し、朝鮮独立を宣言し「朝鮮独立万歳」を叫んだ。この動きは全土に広がった。朝鮮総督府は軍隊・警察で弾圧、7504名を殺害、約5万人を逮捕[三・一事件]
- 1919年:「提岩里事件」=日本軍と警察が独立運動に参加した民衆を教会のなかに閉じ込め、外から一斉射撃、さらに火を放ち焼き払い29名を虐殺
- 1920年:「間島省朝鮮人虐殺事件」=中国と朝鮮の国境に位置する間島省(中国領だが朝鮮系住民が多数を占めていた)で抗日朝鮮民族独立運動が活発化し、琿春の日本領事館が襲撃された。それに対し日本軍は独立派の掃討作戦を展開し、3000人の朝鮮人を虐殺、焼かれた家屋2507戸、学校も31校焼かれた。こんにち(2024年)のイスラエルによるガザ虐殺を彷彿とさせる暴挙である。
(本書P472~474より)
大震災直後にもっとも優先された「対策」
明治維新から関東大震災発生までのあいだ、日本帝国は対外戦争にあけくれた。大震災前には、その結果手にいれた植民地(朝鮮)経営に苦慮していた。植民地内の朝鮮人の抵抗、独立運動が激しさを増してきたのだ。
海外に目むけると、ロシア革命が起り、ロマノフ王朝一族が革命政府により断絶させられた。天皇を頂点とする日本帝国は、ロマノフ家を頂点とするロシア帝国が革命政府に倒され、皇帝一族が皆殺しにされたことを聞いて恐怖した。共産主義にたいする恐怖である。革命の影響は、日本国内にも及び、社会主義・共産主義政党が結党され、労働争議が頻発した。
日本帝国政府がもっとも恐れたのは、植民地の朝鮮人の反日抵抗運動が日本国内の朝鮮人に波及し、国内で叛乱が起こること、さらにその動きに社会主義者・共産主義者ばかりか米騒動に代表される大衆叛乱が合流することだった。
大震災直後、日本帝国は「治安維持ノ爲ニスル罰則ニ關スル件」を発出した。これは戒厳令と治安維持法の前身をなすものだが、軍隊を広域展開する戒厳体制をとらなかった、というよりも、とれなかった。警察・軍隊が根拠なく、日本に住む朝鮮人を拘束・殺害することは国際法上なじまない。諸外国から非難を受ける。日本帝国が有する暴力装置を行使せず、その代替機関として、民間武装すなわち自警団の組織化と自警団員による予防拘束の促進が国家によって画策された。さらに特高は、大震災という混乱に乗じて、「主義者」の拘束、拷問、殺害が水面下で遂行できるものと考え実行した。
不寛容、差別、虐殺
ウンベルト・エーコは『永遠のファシズム(岩波現代文庫版)』におさめられた 「移住、寛容そして堪えがたいもの」において、原理主義、教条主義、似非科学的人種主義は、ひとつの〈教義〉を前提とした理論的な立場だが、不寛容こそがあらゆる教義の前提として置かれるといっている。不寛容は生物学的な根源をもち、動物間のテリトリー性のようなものとしてあらわれるから、しばしば表面的な感情的反応に起因するといっている。
わたしたちが自分と違う人びとに堪えられないのは、わたしたちが理解できない言語を話すからであり、カエルや犬や猿や豚やニンニクを食べるからであり、入れ墨をするからだ...といった具合に(前掲書P153)。
このような不寛容について、エーコは欲しいものをなんでも手に入れたいという本能と同様、子供の自然さだという。しかし子どもはしだいに他人の所有物を尊重するようにと寛容性を教育され、自分のからだをコントロールできるようになっていく。成長するにつれ、自分の括約筋をコントロールできる(おもらしやおねしょをしなくなる)ように。ところが、からだのコントロールとはうらはらに、寛容は、おとなになってからも、永遠に教育の問題でありつづける。そしてエーコは次のように続ける。
さらに恐るべきは、差別の最初に犠牲者になるのは、貧しい人びとの不寛容である。裕福な人びと同士に人種主義はない。金持ちは人種主義の教義を生み出したかもしれないが、貧しい人びとは、それを実践に、危険極まりない実践にうつすのである。知識人たちには野蛮な不寛容を倒せない。思考なき純粋な獣性をまえにしたとき、思考は無力だ。だからといって教義をそなえた不寛容と闘うのでは手後れになる。不寛容が教義となってしまってはそれを倒すには遅すぎるし、打倒を試みる人びとが最初の犠牲者となるからだ。(前掲書P156~157)
震災直後、自警団に志願し、武器をもってマイノリティーを虐殺した実行部隊はまさに庶民という決して裕福でない階層の者であった。裕福な者(政治家、資本家、官僚等)は差別を教義(愛国主義、排外主義等)とするが、貧しい人はそれを実践にうつす。それが震災下の虐殺である可能性はある。
ならば、不寛容を社会からなくすことはできないのだろうか、エーコは不寛容が生物学的、あたかも動物的自然さに起因するといっていた以上、不可能だということなのか。結論としては、前出の子どもが年齢を重ねるに従い、〝しだいに他人の所有物を尊重するようにと寛容性を教育され、自分のからだをコントロールできるようになっていく″というところにもどる。教育である。
・・・挑戦してみる価値はある。民族上の、宗教上の理由で他人に発砲する大人たちに寛容の教育を施すのは、時間の無駄だ。手後れだ。だから本に記されるより前に、[....]もっと幼い時期からはじまる継続的な教育を通じて、野蛮な不寛容は、徹底的に打ちのめしておくべきなのだ。(前掲書P157)
敗戦後、日本帝国から日本国にかわり、民主主義国家にかわったとされる。しかしながら、戦後の教育政策は失敗の連続だった。不寛容を徹底的に打ちのめすことはできず、歴史教育においては、近現代史の修正ばかりが勢いを増し、いま(2024年)ここにいる。
虐殺の情況論
エーコの不寛容(差別)にたいする教育の重要性の提言がまちがっているとは思わない。筆者は、エーコの言説は一般論として正しいと思うものの、いまから「100年前」の「日本帝国」における「震災直後」に各所で起こった「虐殺」の説明としては弱い。1923年という時間性および日帝国という空間性によって規定された要因があるはずだと。100年前の日本帝国における震災と虐殺の情況論に迫りたい。
震災前、すでに日本社会は虐殺を許容する〈社会〉を形成していた。朝鮮人・中国人・障がい者といったマイノリティーにたいする差別が社会にじゅうぶん、定着していた。その根源はどこにあるのか。デマ情報に踊らされ、「不逞鮮人」というレッテルになぜ簡単にのせられてしまったのか。自警団はなぜ、虐殺に走ったのか。なぜこれほどまでに、残虐になれたのか。
このような問いにたいし、明確な要因を示す震災・虐殺に係る記録は管見の限り、筆者の手元にない。心理学的説明がなされているのかもしれないが、筆者はそれらを普遍科学として受け入れようとは思わない。ゆえにここから先の記述は、筆者の想像・推測となる。
筆者が考える第一の要因は、朝鮮人・中国人にたいする差別が日本社会のなかに根強くあり続けたことだと思う。その説明の前に、〈社会〉とは何かからはじめてみたい。
竹田青嗣はその著書『現象学は〈思考の原理〉である(ちくま新書版)』において、西研の『哲学的思考』のなかの言説を引用し、社会の本質を簡潔に観取したものと絶賛している。竹田が引用した西の〈社会〉を以下に再引用する。
- 〈社会〉とは、身の回りの範囲を超えた広範囲にわたる人びとの関係であり、マスコミを通じて、″思い描かれた″ものである。
- 〈社会〉政治的単位としての「国家」と外延を同じくしない。社会は小さなものから大きなものまでさまざまな範囲があり、経済や人々の交流といった具体的な関係をイメージさせる。
- 〈社会〉は、人々がそこを生きるさいの〈客観的環境〉という側面と、〝ともにルールをつくり共同の問題に対処しようとするわれわれ″という〈共同主体〉の側面を含み込んでいる。
記号-1:地震と虐殺の関係を結ぶ〈社会〉は虐殺が関東一円に及んだことに鑑みれば、人々の身の回りの範囲を超えた広範囲にわたる人びとの関係性としてあったことが説明できる。震災当時のマスメディアは主に新聞であり、新聞がデマ情報を流した事実は確認済だ。また、デマが東京中心部からの避難民の流入によって伝播したこともわかっている。さらに政府→自治体→地域という通達の流れも確認されている。こうして、大衆の内部に「不逞鮮人の悪事」という震災下における事実と反する〈社会〉が描かれた。
記号-2:そのまま震災下の状況を表したものとなろう。とりわけ、デマも自警団結成も虐殺も人々の交流だ。
記号-3:まさに、震災直後の社会そのものではないだろうか。地域が共同の問題(不逞鮮人からの防衛)に対処しようとするわれわれ(自警団)という共同主体として、虐殺という異常を正常とする〈社会〉を形成した。
虐殺後、裁かれた自警団幹部たちは悪びれた様子を見せていない。自分たちは「あたりまえのことをしたまで」といわんばかりだ。英雄気取りの者もいたという。つまり、虐殺に及んだ自警団員たちは、〈社会〉の通念・常識のまま行動した。そして、虐殺後の〈社会〉は彼らを赦し、その罪を隠蔽し、なかったこととして100年が経過し2024年に至っている。
竹田は西研の「社会とは」を引用したあと、記号-3の〈社会〉は〈客観的環境〉と〈共同的主体〉という両契機をもっているところに強く注目し、〈社会/自分が属する集合体〉とは、基本的にわれわれの個別的生の外的条件をなしているものだが、その外延をどのようにイメージするとしても、それは必ず一定程度、生の条件を決定的に拘束する限定性として現れるとともに、しかしまた一定程度、われわれが主体的に働きかけて変化させることのできる可変な条件であるという二つの本質契機をもっているという西研の説を紹介する。ここでいう自分が属する集合体とは、「家族」「友だち仲間」「学校」「職場」「地域」「都市」「国家」でもなんでもいいという。そして、次のように書いている。
「社会」の本質は、誰にとっても生の可能性の一般条件をなしているが、ある場合はそれを外的な規定性としてわれわれを拘束するものとして現れ、ある場合はそれはわれわれが生の一般条件を改変し、刷新しうる可能性の的として現れる。
つまり、前者の契機が強くなれば、社会はつねに自由を圧迫する動かしがたい権力性や制度性としてわれわれに現象し、〔それに反して〕後者の契機を高めることができるなら、社会はむしろわれわれの個別の的な生の希望を促し促進するような可能性の対象として、われわれにつかまれる。誰にとってもそういうことが「社会」という対象が孕む対照的本質である。〔後略〕(『現象学は〈思考の原理〉である』P238)
日本帝国がつくりあげた不寛容社会がまずあった。そして、各地域の小社会は、大震災に直面したその構成者が生の可能性を失うかもしれないという危機意識に陥ったとき、「社会」の外的規定性として、構成者の自由を圧迫し、権力性・制度性として強い圧力を構成者にかけ続けた。そのことを同調圧力というのかもしれないが。
大震災-虐殺-戦争
震災後の日本帝国は著しい変容を示している。地震がそれを促進したかのようにも思えるくらいである。震災後の日本帝国の歩みを年表で追ってみる。
【日本帝国 近現代略年表(1924-1941)】
- 1924年:共産党解党
- 1925年:治安維持法成立 、普通選挙法成立、日本労働組合評議会結成
- 1927年:田中首相、山東出兵を表明
- 1928年:共産党系の活動家を大量検挙[三・一五事件] 、張作霖爆殺事件
- 1929年:共産党の大規模検挙[四・一六事件] 、ニューヨーク株式市場大暴落(世界恐慌)
- 1931年:[満州事変=柳条湖事件]
- 1932年:第一次上海事変 、満州国建国、[五・一五事件]
- 1933年:日本帝国、国際連盟を脱退
- 1935年:天皇機関説攻撃、岡田内閣、国体明徴声明発出
- 1936年:[二・二六事件] 、日独防共協定締結
- 1937年:盧溝橋事件(日中両軍の小衝突を発端として、日本軍が北京・天津地方を制圧) 、近衛内閣、軍の華北派遣を決定、日本軍対中国へ総攻撃開始
- 1938年:国家総動員法公布
- 1939年:ナチス、ポーランドへ侵入[第2次世界大戦]
- 1940年:日本軍、北部仏印進駐を開始、大政翼賛会発足
- 1941年:御前会議で対米英開戦決定 、日本軍マレー半島上陸、日本軍真珠湾攻撃
大震災(1923)後の日本帝国が歩んだおよそ20年間は帝国主義戦争・侵略戦争の時代といえる。日本帝国は国家・国民総力を挙げて、侵略戦争の遂行を決意した。戦争という非常時にそなえて、日本帝国は共産党弾圧、天皇機関説排撃、治安維持法等の強権的手法により、社会主義者・共産主義者はいうにおよばず、自由主義者をも社会から追放した。大震災時には、混乱に乗じて水面下で行った「主義者」の抹殺が、戦時という非常時に備えた国家権力によって、合法的(治安維持法)に白日の下行われるようになった。
1930年代には日中戦争を開始している。非常時便乗型国家再編の遂行は、日中戦争が拡大するに従い、その総仕上げとして、国家総動員法の施行、大政翼賛会発足をもってほぼ完成する。
日本の侵略が中国からインドシナ、西太平洋に拡大するに及んで、日本帝国と欧米帝国主義国家群(英米蘭等とその同盟国)は対立する。日本帝国は独伊と協定を結んで、最終戦争(日本帝国の勝利により、世界から戦争がなくなること)と位置づけた太平洋戦争への道を選択する。日本帝国が侵略したアジア・太平洋各地では、日本帝国軍による現地の非武装住民の虐殺が相次いだ。そして、1945年8月15日、日本帝国はその国土を焦土と化し、310万人超の犠牲者を出して敗戦を迎えた。
虐殺と総力戦体制
さてここで、大震災発生前の世界を俯瞰してみよう。世界は近代から現代へと歴史を進めていた。1014~1917年まで欧州で続いた第一次世界大戦(WWⅠ)である。この大戦によって、欧州にあった4つの帝国、ハプスブルク(オーストリア・ハンガリー)、オスマン、ドイツ(プロイセン)、ロシアが滅亡した。東アジアでは大戦直前ともいえる1912年に清王朝が滅亡している。
そればかりではない。WWⅠは対外戦争のあり方を変えた。それまでの戦争は、軍と軍の戦闘だったのだが、WWⅠからはタンク、航空機、潜水艦、毒ガスといった新兵器の登場により、戦争の概念が一変し、戦争は狭義の前線の戦いでなくなり、国内の日常生活すべての領域までをも動員せざるを得ない性格のものとなった。このような変化は、それまでの職業軍人の能力の限界性を明らかにし、軍人は変化した戦争(総力戦)には適さないという結論をもたらした。総力戦の司令塔は、前線のみならず、国内戦線の諸問題――産業・交通・教育・宣伝・輸送、等等――を配慮する能力を要するようになったからだ。総力戦は軍事戦略にもとづく軍人ではなく、政府官僚によって企画され、統制されなければならない国家的事業となった。
山之内靖がいうように、戦争は前線においてというよりも、一国全体のあらゆる資源――経済的・物質的資源のみならず、知的能力・判断力・管理能力・戦闘意欲を備えた人的資源、さらにはそうした人的資源を情報操作によって制御し得る宣伝能力という新たな資源――を動員しうる官庁組織によってこそ、遂行され得るものとなった。
日本帝国はWWⅠ後、総力戦研究のため、欧州に軍人・官僚を派遣し、情報を収集した。総力戦研究所が内閣総理大臣直轄の研究所として開設されたのは1940年だが、一朝一夕にはその理論を構築することは難しい。そもそも、陸軍内の統制派という派閥が「高度な総力戦に備えて軍の統制を制度と人事によって強化し、その組織的圧力によって国家全体を高度の国防国家に止揚しようとする」という思想を抱いていた。総力戦体制理論を唱えていたのは、統制派のイデオローグは永田鉄山(陸軍中佐)である。永田が唱える高度な総力戦とは前出のとおり、欧州を主戦場としたWWⅠが国家と国家の総力をあげた戦争であったとの認識から出発した国家観であり、戦争とは、軍事はもとより、国家の総力が激突する戦いだという認識である。こうした認識は間違ったものではない。第一次世界大戦後の欧米の帝国主義諸国は、戦争をそのように認識しそのように戦ったのだから。
統制派が軍部のみならず、政治の実権を握った時、日本は総力戦体制を整え、国防から無謀無策の侵略戦争へと進んだ。そのとき国民を統治したイデオロギーは、陸軍内で統制派と対立した皇統派のスローガン「一君万民」だった。すべての国民は天皇の赤子として、天皇のための戦争で死ぬことが名誉とされた。皇統派は〔二・二六事件〕で蹶起して統制派に鎮圧され、首謀者は処刑された。
山之内靖は総力戦とその体制を次のように定義している。
来るべき将来の戦争(総力戦)は、前線の将軍によってではなく、今日の諸官庁のような安全で閑静な、陰気な事務所の内部から、書記たちに囲まれた「指導者」によって運営されることになる。第一次世界大戦により、戦争は、武器が高度のテクノロジーを駆使する精巧な機械へと変身したことに対応して、人間のあらゆる能力を全国民規模で動員するところの、無機質なビジネスとしての性格を完成させたのである。
戦争はロマンとしての一切の性格を失う。だが、それだけに却って、戦争における死をいやがうえにも栄光に包み込むイデオロギー装置が、不可欠なものとして要請されることとなる。戦争としての死が、前線だけでなく国内においても、例外なく平等に訪れる国民全体の運命となったこと、このことは、国民というフランス革命いらいの概念に、まったく新しい意味を与えることになった。国民とは、政治に参与する権利と義務をもった者たちの呼び名ではなくなり、死に向かう運命共同体に属する者たち、死を肯定するに足る情念を共有する者たちの呼び名となった。この情念を共有しえない者は、非国民として倫理的に糾弾された。国民という名称は、こうして、敵国および敵国に属するあらゆる人びとからは区別され、彼らとは絶対に相いれることのない文化的価値を有する者、戦争において死の運命を共有する者、という意味を帯びるようになる。国民のイデーは、世俗生活を統括する情念でありながら、事実上、宗教となった。「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)としての国民概念は、総力戦時代に完成する。 (中略)
総力戦体制が社会にもたらしたもう一つの変化は、階級や身分といった国民の上下関係や差別を平準化する力学をはたらかせることだ。国家の危機が国民の運命共同体としての平等性を与え、政治的権利としてのデモクラシーという理性的要請をはるかに超えた感情的動員力を形成する。近代政治は行政(中央官庁)にたいして、議会によって決定された法案の忠実な執行者という限界をはめていた。しかし、総力戦時代の中央官庁とそのエリートたちは、死の運命共同体としての国民というイデオロギー装置を駆使することによって、こうした制約を突破するチャンスを掴みとることができた。(『総力戦体制』ちくま学芸文庫版P14~16)
筆者は、大震災における虐殺と総力戦体制が無関係だと思えない。一般には、大震災直後に起きた朝鮮人虐殺は土着的・土俗的な、いわば人間の初発の根源的暴力から発したというイメージに支配されている。たとえば自警団が使用した武器としては、竹槍、鳶口、棍棒もしくは鎌、日本刀といった古式なものが主であり、新しい武器としては、せいぜい猟銃くらいだ。これらで武装した集団が醸し出すイメージは、総力戦体制という(現代的)国家システムと対極に位置するようにみえる。しかし筆者は、自警団は大震災という危機を戦争状態として受け止めていたと考える。「不逞鮮人」は敵軍であり、日本帝国を脅かす者であり、そのような者にたいし死をもって臨まなければならない、という決意で漲っていたように感じる。
そのとき、自警団員どうしは運命共同体として初めて「国民」となった。われこそが、警察や軍隊と同一の者すなわち、敵国および敵国に属するあらゆる人びと(大震災下では「不逞鮮人」)からは区別され、彼らとは絶対に相いれることのない文化的価値を有する者、戦争において死の運命を共有する者、という意味を感じとったにちがいない。そして自警団(国民)のイデーは、世俗生活を統括する情念でありながら、事実上、宗教となっていたにちがいない。
そればかりではない。こうしたイデーは、総力戦体制が社会にもたらしたもう一つの変化すなわち、階級や身分といった国民の上下関係や差別を平準化する力学のはたらきにより、国家の危機が国民の運命共同体としての平等性を与え、政治的権利としてのデモクラシーという理性的要請をはるかに超えた感情的動員力が形成され、自警団は在郷軍人に導かれ、歓喜のなか、虐殺へと向かったのだと思う。
前出の皇統派が唱え、統制派がイデオロギー化した「一君万民」である。その後、総動員法によって対外戦争に徴兵された日本帝国軍兵士は、貧困、上下関係、階級、身分差別から解放され、震災下の自警団と同じように、敵国および敵国に属する人々に接し、占領地で虐殺に及んだ。
総力戦体制構築を目指していた当時のエリートたちが大震災という危機を国民統合の実験場として利用したという記録はない。しかし、歴史は世界一国ほぼ同時的に歩んでいた。欧州から遠く離れた日本帝国の自警団は、総力戦体制下の欧州の兵士と同じような心情を抱き、総力戦と同じように無抵抗の者を虐殺した。WWⅠが終わった数年後の日本帝国の関東地域において、日本人が総力戦を最初に戦った事実が残されたのではないか、と筆者は受け止めている。
おわりに
もうすぐ9月1日がやってくる。「防災の日」として記憶される関東大震災だが、「虐殺の日」でもある。この原稿を執筆中の8月8日に、九州・宮崎で震度6弱の、その翌日には神奈川県で震度5弱の地震が起きている。今年の元旦には能登半島地震(最大震度7弱)が発生したばかりだ。日本に大地震が起こることは避けられない。
大地震とともに、被災地では窃盗犯罪が報じられる。また同時に、「外国人が・・・」というフェイクニュースがSNSではあたりまえのように投稿されるという。こうした悪意と不寛容が日本社会から払拭されない以上、本題である「地震と虐殺」がけして過去の不幸な出来事でなく、近い将来に再現されることが暗示される。
本書に紹介された、埋もれた歴史(虐殺の事実)を掘り起こしてきた方々が、遺族、教員、地方紙(新聞)記者、中学生だったりすることが心に沁みる。いわば、無名の生活者なのだ。その方々の尽力がなければ、虐殺された方々の霊は地中深くに、川底に、虐殺現場の空中に、放置されたまま彷徨続けていたにちがいない。いや、慰霊をされることなく、100年後のいまなお「なかったこと」とされたまま放置された霊が関東一円のいくつかの地域に漂っているにちがいない。
「地震と虐殺」は、国家から、地方自治体から、地域社会からいま、抹消されようとしている。マスメディアはこのことを報じない。歴史学会は沈黙しているように筆者には思える。小池東京都知事は、陸軍被服廠跡地(現横網町公園)における朝鮮人犠牲者追悼行事への追悼文送付を取りやめたままだ。 そこに建てられた追悼碑にはこうある。
〈1932年9月発生した関東大震災の混乱のなかで、あやまった策動と流言蜚語のため六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われました。
私たちは、震災五十周年をむかえ、朝鮮人犠牲者を心から追悼します。
この事件の真実を識ることは不幸な歴史をくりかえさず、民族差別を無くし、人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎となると信じます。
思想、信条の相違を越えて、この碑の建設に寄せられた日本人の誠意と献身が、日本と朝鮮両民族の永遠の親善の力となることを期待します。
千九百七十三年九月
関東大震災朝鮮人犠牲者 追悼行事実行委員会〉
とある。(本書P119)
2024年1月、「群馬の森」朝鮮人労働者追悼碑が県による行政代執行により撤去(破壊)された。撤去を策動したのはレイシスト集団だ。それを受けて2014年、県は追悼碑の(公園における)使用許可の更新を認めなかった。(本書P350~351)。そのときの群馬県知事は大澤正明。今年、代執行を強行した知事は山本一太である。
国も同様だ。昨年(2023)、震災100年を迎えて国会では震災時の虐殺をめぐり、杉尾秀哉、福島みずほの両参議院議員が100年ぶりに政府の責任を追及する質問をおこなったが、いずれに対しても政府は「調査したが記録は見当たらない」「今後もさらなる調査は考えていない」と答弁(本書P9)した。
本書はこうした動きに真向から異議をとなえる。記録を調べ、現地に赴き、関係者に取材し、さらに朝鮮人虐殺に取り組んできた先人から聞き取りを行い、本書にまとめ上げた。労作という評価を超えた、筆舌に尽くしがた貴重な一書となっている。まずもって、著者(安田浩一)に敬意を表する。『東京新聞』書評欄において、評者の加藤直樹(ノンフィクション作家)が「この本は、関東大震災時の朝鮮人虐殺について知りたい人にとってのスタンダードになるだろう。」と書いている。そのとおりだと思う。少なくとも、日本のすべての図書館が本書を蔵書とすべきである。〔完〕