2025年2月28日金曜日

『近代天皇像の形成』

 ●安丸良夫〔著〕 ●岩波書店 ●2400円(税込) 

 本書は、近代天皇制を考えるうえで、まさに必読の書のひとつだといえよう。幕末、ペリー来航を奇禍として、盤石だった幕藩体制の崩壊が始まるなか、超越的権威としてせり上がるように登場する〈天皇像〉を析出する著者(安丸良夫氏/以下「安丸」と略記)の筆致に思わず興奮を覚えた。 

実際の天皇(像) 

 本題には天皇像とあるが、実体としての天皇を描出した箇所はきわめて少ない。そのような観点からすると、おなじく近代天皇制の成立過程を詳論した、これまた名著のひとつである『天皇の肖像』(多木浩二〔著〕)とは対極的である。 安丸が本書で描きだした実際の天皇の像(姿)を以下に引用する。

…岩倉によって、不世出の英王であり王政復古の大業はすべてその判断によっているとされた天皇は、実際には白く化粧し画き眉をした十五歳の少年であり、まだなんの政治的識見や判断力をもっていなかったということである(天皇は、翌年正月十五日に元服し、童服を脱いで成人の印にオハグロをつけた)。現実の天皇がそのような存在であること、天皇の意思とされていることは政治的実権を掌握しようとしている人びとの意思にほかならないことは、誰でも知っていた。(本書P165~166) 

 この引用箇所の背景について補足する。岩倉とは岩倉具視のこと。王政復古の大号令が発せられた1867(慶応3)年、天皇(睦仁/むつひと。明治天皇)〔註1〕 の面前で第15代将軍徳川慶喜を朝議に参加させるべきか否かの会議(小御所会議)が開かれ、そこで大激論が戦わせられたときの天皇の姿の描出である。この会議では越前藩主松平慶永や土佐藩前藩主山内豊信は、慶喜の参加を強く主張した。慶喜を朝議に参加させれば、旧幕府を含めた雄藩連合政権の方向へすすみ、日本は、西欧諸国の立憲制度の形式を模した公議政体論の理論的枠組みとなったはずだった。ところが、岩倉具視ら一部公卿と薩摩藩は徳川氏排除を主張し、天皇の権威を高く掲げた絶対主義的政権の完成を主張した。この席で、岩倉・薩摩藩に怒った山内が「幼冲ノ天子ヲ擁シテ権柄ヲ竊取セン」と非難したところ、岩倉が、天皇は「不世出ノ英材」であり、王政復古の大業は「悉ク宸断ニ出ヅ」と山内を叱りとばしたシーンにあったという。白く化粧し画き眉をした十五歳の少年を不世出の英材と断じることはあまりにも無理があるはずだが、この会議は御所のすべての門を西郷隆盛(薩摩藩)が指揮する軍隊が固めていたというから、岩倉らは絶対主義的政権樹立をはなから成立させるつもりだったのである。
 実際の天皇の姿を描出した資料としては、イギリス公使ハリー・パークスに従って天皇に謁見する機会をもった外交官アーネスト・サトウの回顧録の記述がある。 

天皇はまだ伝統的世界のなかにある不活発な君主という印象をあたえている。白く化粧をし、謁見者に直接は言葉をかけず、天皇の言葉は介添え役(山階宮)が述べるという、間接的な方法による伝統的謁見であった。(『天皇の肖像』からの再引用/同書P9) 

 アーネスト・サトウが天皇に謁見したのは、1869年(明治2年)1月5日だったから、前出の小御所会議の2年後になる。元服した後も不活発な天皇であったことはまちがいない。 

〔註1〕明治天皇(1852年11月3日~ 1912年7月30日)。在位は1867年2月13日〈慶応3年1月9日〉~ 1912年〈明治45年〉7月30日)。 

 安丸は、併せて、幕末、王思想を標榜して幕府打倒を目指した志士たちの天皇観を以下のとおり紹介している。 

明治維新が、天皇を「玉」と呼び、「玉を抱く」「玉を奪ふ」などの露骨な隠語で、天皇を権謀術数の手段とした志士たちによって遂行されたことは〔遠山、1972、202頁〕、よく知られている。近代天皇制は、18世紀末以来の尊王論や国体論の発展を背景にもちながらも、直接にはこうした権力政治の渦中から成立した。むきだしの権謀術策性のゆえにこそ、誰も表向きには反対できない超越的権威としての天皇が前面へ押しだされ、権威にみちた中心がつくりだされなければならなかったのである。(本書P164) 

 この引用箇所こそが、安丸の明治維新論もしくは近代天皇像形成論の核心にあたる。明治維新とは、辺境諸藩および公家らが共謀し、徳川家とそれを支持する旧主派諸藩による日本支配を武力によって倒したクーデターあるいは革命にほかならない。幼い天皇を神話と祖霊崇拝等を駆使した呪術的手法により、徳川幕府の権威に対抗するばかりか、それを凌ぐ超越的権威に高めたのは、いまに思えば、マジックとしかいいようがない。近代化にむけた国家統治のイデオロギーとして、▽旧幕府を含めた雄藩連合政権体制か、▽絶対天皇制か、という二択しかもちえなかったことは日本の近代化における不幸のはじまりである。儒学・国学によって構築された絶対天皇制(論)は、西欧の17世紀からはじまる絶対王政を打倒し、自由を希求する市民革命のイデオロギーを醸成できなかったのである。

近代天皇制と国民国家 

 安丸は、明治維新国家と西欧国民国家成立の共通性を認め、おおむねの次のように評している。その共通性とは国民国家という共同体を成立させる幻想のことをいう。国民国家は、きわめて旧いとされる伝統に国民的アイデンティティのよりどころを求めて、伝統の名によって当該社会を統合していく民族的活力をひきだそうとするところに由来する。
 その伝統とは、歴史を国民国家の課題にひきよせて作られた構築物にすぎないのだが、作為性はほとんど無意識のうちに隠蔽されて、歴史は現在を照らしだすための鏡となり、それが〈発明された伝統(E・ホブズボーム)〉にあたるということ。そして発明された伝統は19世紀中葉以降の西欧における国民国家統合の実現と同期していること。
 そればかりではない。黒船来航は、日本が「世界システム」(ウォーラ―スティン)に組み込まれようとする大転換期を象徴する事柄であり、「世界システム」および前出の国民国家統合の実現という世界史的同時性が、明治維新と近代天皇制成立の背景にあることはおさえておく必要があろう。

近代天皇制はいつ成立したのか 

 本書が近代天皇〈像〉の成立を論じたものであるから、天皇および天皇像がその後、どのように展開したかについては埒外であることはいうまでもないが、その一方で、尊王派勢力が暴力革命によって維新政府を樹立したことをもってただちに近代天皇〈制〉が成立したと考えることもできないのである。
 加えて、幕府派と尊王派の抗争は権力内における内部対立であるから、その外部にある民衆・生活者が後者によって擬制的につくられた天皇像を一気に受容するわけでもない。民衆・生活者が尊王派が提起した超越的権威である天皇像をなんの媒介もなく受けいれるはずもない。つまり、権力闘争における一方のイデオロギーのアイコンが、権力とは無関係にある人民に浸透した過程をたどってこそ、近代天皇像の成立とするべきだという立場もあろう。
 維新政府が人民にむけて天皇像のプレゼンテーションを行った経緯については、前出の『天皇の肖像』に詳しく描かれていることはすでに述べたとおりであり、詳しくは同書をあたられたい。ここでその代表的なものを挙げるならば、行幸、錦絵、肖像画、写真(御真影)、メディア、行政指導、教育等の利用があった。維新政府がこれらを駆使して、天皇の具体像を与え、しだいに人民の側に天皇のイメージが定着するようになる。しかし、こうした視覚的・観念的天皇像の強要には限界がある。人民・生活者が天皇を強烈にイメージするようになったきっかけは、徴兵制と対外戦争だったのではないかと筆者は考える。
 近代天皇制の成立(1868)から崩壊(1945)の期間は77年間であり、3人の天皇が(明治、大正、昭和の各天皇)が在位した。その間、日本帝国は日本史上特記すべき対外戦争として、日清戦争(1894)、日露戦争(1904)、日中戦争(1937~1945)、太平洋戦争(1941~1945)を戦った。〔註2〕 

〔註2〕第一次大戦、シベリア出兵も小規模な対外戦争である。また、日中戦争と太平洋戦争を一括りにしてアジア・太平洋戦争とも呼ばれる。

 これらの戦争を機に、日本帝国は台湾、韓国、中国北東部(満州)、インドシナ、南洋諸島へと版図を広げたのだが、維新から16年後の日清戦争が果たした近代天皇像成立への影響もしくは関与を筆者は疑うことができない。
 日本帝国軍の歴史は、戊辰戦争〔註3〕に勝利した板垣退助による御親兵の創設構想から発した。板垣らは、明治2年5月(1869年6月)、旧幕側外国人将校、旧伝習隊・沼間守一らを土佐藩・迅衝隊の軍事顧問に採用してフランス式練兵を模倣し、さらに国民皆兵を断行するため、明治3年12月24日(1871年2月13日)、全国に先駆けて「人民平均の理」を布告し、四民平等に国防の任に帰する事を宣した。維新政府は富国強兵を国策に掲げ、明治4年(1871年)2月には長州藩出身の大村益次郎の指揮で明治天皇の親衛を名目に薩摩、長州、土佐藩の兵からなるフランス式兵制の御親兵6,000人を創設。常備軍として廃藩置県を行うための軍事的実力を確保した。この御親兵が近衛師団の前身にあたる。
 その一方で維新政府は、廃藩置県・廃刀令で武士階級を消滅させた後、明治6年(1873年)に徴兵令を施行する。 士族反乱、西南戦争等の内乱鎮圧を経て、徴兵制度の施行に伴い国民軍としての体裁を整えていった。その後、陸軍省が創設され、明治11年(1878年)に参謀本部が独立する。 

〔註3〕戊辰戦争(慶応4年・明治元年〈1868年〉~ 明治2年〈1869年〉)は、王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩等を中核とする新政府軍と、旧江戸幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)が戦った日本近代史上最大の内戦。名称の由来は、慶応4年・明治元年の干支が戊辰であることからきている。 

 ここで注目すべきキーワードともいえるのが、「人民平均の理」であり四民平等に国防の任に帰する旨の宣である。 日清戦争は徴兵令施行から21年後に起きた。対外戦争が人民平等の下に犠牲を伴い戦われ、アジアの大国である清国に勝利したことで、超越的権威としての天皇像が人民に内面化され、国民は真に天皇の下に包摂されたのではないか。維新政府は対外戦争を国民皆兵という施策のもとで軍事国家化を成し遂げ、新たな天皇像=軍神として天皇を祀り上げることにより、そのことをもって、「全国民平均」に君臨することができた。日清戦争開始から勝利の瞬間こそが、近代天皇制成立であり、全国民平均的に軍神としての近代天皇像が成立した瞬間だと筆者は考える。
 その副作用は、アジア人蔑視、排外主義、帝国主義であり、日清戦争からアジア・太平洋戦争敗戦までの戦争の時代において天皇がはたした役割については、本書の枠外ではあるものの、近代天皇像を変化するものとしてとらえ、かつ、対外戦争と関連して論ずる必要があると、筆者は考える。

現代天皇制について 

 安丸は本書「第9章 コメントと展望」において、今日の天皇制について論じ、天皇制が国民国家の編成原理として存在し続けていることを指摘する。そして、その中で、天皇制が政治とは一定の距離をとった儀礼的な儀式のもとで、誰もが否定してはならない権威と中心を演出して、それを拒否する者は「良民」ではない、少なくとも疑わしい存在と判定されるのだという選別=差別の原理をつくりだしている――という。こうした選別=差別の原理としての天皇制は、穢れへの神経症的恐怖とでもいうべき極端な浄・不浄観によって構成されている神道儀礼と固く結びついていること、天皇家の人びとが、誠実・生まじめ・幸福などを模範的に体現し、さまざまの人間的苦悩を押しかくして清浄人間を演じなければならぬこと、支配層もまた、政治の毒をあびない「天空にさん然と輝く太陽のごとき」存在として天皇制を位置づけようとしていること――の危うさを指摘する。
 近年強まる他者にむけた差別・排除の傾向の中心に天皇制があり続けていることの安丸による別言であろう。〔完〕