2025年11月22日土曜日

Ginと小皿

 イベント終了後、会場近くのクラフトジンのお店へ(曙橋)。

 





 2025/11/22、トークイベント「話そう ザ・バンド‼︎ 小倉エージvs池上晴之 Part2」(Bar461/曙橋)に行ってきました。

小倉さん、池上さんからメンバーの裏の顔が次々と暴露され、とてもおもしろかった。特にロビー・ロバートソン、映画「Once Were Brothers」では、ロビーが良き家庭人として描かれていたはず。

次回が楽しみです♪





2025年11月21日金曜日

ザ・バンド解散の「真相」

筆者が登録しているSNSに‘‘True Stories” という記事が偶然、流れてきた。ザ・バンド解散の「真相」を伝えるというのが主意である。ザ・バンドとは(ここでは詳細を省くが)、1960年代末から1970年代中葉にかけて活躍したロックバンドで、メンバーはカナダ人4人(ロビー・ロバートソン、リック・ダンコ、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソン)、アメリカ南部人1人(レヴォン・ヘルム)で構成されていた。いまや伝説と化したグループで、音楽性が高く評価されている。この記事ではその中の1人、レヴォン・ヘルムの大きな顔写真が目を引いた。 

レヴォン・ヘルム

(一)ロビーとレヴォンの確執

「真相」というのはほかでもない、メンバーのリーダー格と言われるロビー・ロバートソンと、彼と対立するレヴォン・ヘルムとの確執であり、強欲のロビー・ロバートソン、純粋なレヴォン・ヘルムというナラティブの定着に有力な情報を与える内容となっている。〔 ‘‘True Stories” の本文と翻訳は後掲〕

映画『ラストワルツ』より

 ロビーがほぼ独り占めしたと思われる莫大な富は、彼がザ・バンドに貢献した結果として受け取るに足る正当な報酬なのか、それとも仲間を騙した不当なそれなのか――を判断する情報を筆者は持っていないが、ただ言えるのは、映画『ラスト・ワルツ』を企画したロビーと監督のスコセシにとって、映画が興行的に大成功をおさめるためには、このイベントがザ・バンドの解散コンサートであるという名目が絶対に必要だったということだ。一方、ロビーを除く他のメンバーはこのイベントが解散を前提とするものとは思っていなかった。レヴォンは、「バンドそのものの終わりではなく、ツアーの送別会だと思っていた」とある。レヴォンの怒りはそこから発したと筆者は推測する。 

そればかりではない。『ラスト・ワルツ』撮影の休憩中に、「法律の担当者がレヴォンに書類を手渡した。それは、この映画とサウンドトラックの将来の著作権使用料を正式に定めたものだった。また、レヴォンが長年抗議してきた作曲クレジットの分割も確定したものだった。彼は、この音楽は、ロバートソンが最終的な歌詞を書くずっと前に、リック・ダンコ、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソンが核となる部分を形作り、一節ずつ、その部屋の中で作り上げられたものだと信じていた。レヴォンは、ロバートソンに主なクレジットを割り当てるそのページをもう一度読み返した」とある。この期に及んで、レヴォンはロビーに騙されたことを確信したようだ。

映画『ラスト・ワルツ』は、実際に行われたイベントの記録ではない。映画はロビーとスコセッシによって創作されたロック・オペラとも呼ばれる音楽映画だ。筆者は、つい最近、池上晴之氏の著作『ザ・バンド 来たるべきロック』を読んでこのことを知った。なんと半世紀近くにわたって、『ラスト・ワルツ』はその大半がイベントの記録で、そこに、多少のスタジオ撮影が付加されたと思い込んでいた次第である。

(二)バンドとは兄弟愛であるべきだ


2020年、ロビーがザ・バンドを回顧して制作した映画『Once were brothers 』が公開された。この映画では、レヴォン、リチャード、リックがアルコールとドラッグに溺れていく様子が描かれていた。解散は必至だと暗示するかのように。

ところで、この映画の邦題は「かつて僕らは兄弟だった」とある。これは名訳で、換言すれば「もう僕らは兄弟ではない」となる。その一方、レヴォンは次のように言っているではないか。“A band is supposed to be a brotherhood,” he said. “A real one.”
「バンドとは兄弟愛であるべきだ」(と彼は語った)本物の兄弟愛をなすものだ」と。

 

ザ・バンドは解散したというものの、実際はロビーが離脱しただけで残りのメンバーはザ・バンドを名乗り、ライブおよびアルバム制作を続行した。日本でも複数回公演を重ねている。しかし、怒りのレヴォンはその後、病魔に襲われ、また経済的困窮にも見舞われた。が、それらを克服し、ミッドナイト・ランブル」〔註〕を創設し、そこを活動拠点として復帰した。「(人々は)レヴォン・ヘルムの不変の部分を見た。彼は現れ、誠実に演奏し、誰にも自分の結末を書かせようとはしなかった」(終わらなかった)。 


筆者はたとえ間違っていたとしても、心情的にロビーよりもレヴォンの肩を持ちたい。ザ・バンドの成功の果実はメンバー全員で分かち合うべきだと思うからだ。〔完〕


〔註〕「ミッドナイト・ランブル」とは、レヴォン・ヘルムがニューヨーク州ウッドストックにある彼のスタジオに創設した音楽コミュニティ。ザ・バンドとレヴォン・ヘルムの象徴的音楽を演奏しながら、レヴォン・ヘルムの伝説を守り発展させている場。レヴォンの娘のエイミーはこうコメントしている。「父(レヴォン・ヘルム)は再生とコミュニティの精神を掲げてミッドナイト・ランブルを創設した」と。
なお、ミッドナイト・ランブルとは、人種差別時代にアフリカ系アメリカ人向けに深夜に映画を上映することであり、ジム・クロウ法(19世紀後半から20世紀初頭にかけてアメリカ南部で導入された州法と地方法であり、人種差別を強制するもの)の下では他の時間帯では決して入場が許可されないような映画館で上映されることが多かった。上映される映画は、1910年から1950年の間にアメリカ合衆国で黒人のプロデューサー、脚本家、俳優、監督によって制作された500本以上の映画が選ばれることが多かった〔Wikipedia〕とある。また文字通り‘‘深夜のぶらつき”という意味かも知れない。いずれにしても、レヴォン・ヘルムが、ミッドナイト・ランブルにどのような意味を込めたかは不明である。 

(三)True Stories(原文~翻訳) 


Levon Helm walked out of the Winterland Ballroom in 1976 with a contract in his pocket he refused to sign. It gave Robbie Robertson control over The Band’s future. Levon folded the paper, put it in his jacket, and said he would never agree to it. He meant it.

1976年、レヴォン・ヘルムは、署名することを拒否した契約書をポケットにしまい、ウィンターランド・ボールルームを後にした。その契約書は、ロビー・ロバートソンにザ・バンドの将来を支配する権利を与えるものだった。レヴォンは紙を折りたたみ、ジャケットのポケットに入れ、決して同意しないと言った。彼は本気だった。

Levon Helm had the voice that sounded like dirt roads, diesel engines, and Sunday mornings. He drummed like he was steering a train. To millions, he looked like the heart of The Band. But behind the harmonies, a fight over credit, ownership, and truth grew louder than any guitar line. Levon kept his part quiet for years. The paperwork told a different story.

レヴォン・ヘルムの歌声は、未舗装の道やディーゼルエンジン、日曜の朝を思わせる響きを持っていた。彼のドラムはまるで列車を操縦しているかのようだった。何百万もの人々にとって、彼はザ・バンドの心臓部のように映った。しかしハーモニーの裏では、クレジットや所有権、真実を巡る争いが、どんなギターラインよりも激しく渦巻いていた。レヴォンは長年、自らの役割を沈黙で貫いた。書類は別の物語を語っていた。

The turning point came during the filming of The Last Waltz in 1976. Martin Scorsese directed. Cameras circled the stage. The Band planned it as a farewell concert. Levon thought it was a sendoff for the road, not the end of the group itself. Then he saw the production list. Song order approved by Robertson. Interview segments shaped around Robertson.

転機は、1976年の『ラスト・ワルツ』の撮影中に訪れた。マーティン・スコセッシが監督を務めた。カメラがステージをぐるりと囲んだ。バンドはこれを別れのコンサートと位置づけていた。レヴォンは、バンドそのものの終わりではなく、ツアーの送別会だと思っていた。ところが、制作リストを見て驚いた。曲順はロバートソンが承認したもの。インタビューの構成もロバートソンを中心に組まれていた。

Publishing and backend rights funneled through companies Robertson controlled. Levon realized the concert wasn’t just a goodbye. It was a narrative being locked in ink.

出版権とバックエンドの権利は、ロバートソンが支配する企業を通じて流れた。レヴォンは、このコンサートが単なる別れではないことに気づいた。それは、インクで閉じ込められた物語だったのだ。

During a break in the shoot, a legal rep handed Levon a document. It formalized future royalties for the film and soundtrack. It also locked in songwriting credit splits Levon had protested for years. He believed the music was built in the room, bar by bar, with Rick Danko, Richard Manuel, and Garth Hudson shaping core pieces long before Robertson wrote final lyrics. Levon reread the page that assigned primary credit to Robertson again. Then again. He put the paper in his pocket and walked out to the loading dock without signing.

撮影の休憩中に、法律の担当者がレヴォンに書類を手渡した。それは、この映画とサウンドトラックの将来の著作権使用料を正式に定めたものだった。また、レヴォンが長年抗議してきた作曲クレジットの分割も確定したものだった。彼は、この音楽は、ロバートソンが最終的な歌詞を書くずっと前に、リック・ダンコ、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソンが核となる部分を形作り、一節ずつ、その部屋の中で作り上げられたものだと信じていた。レヴォンは、ロバートソンに主なクレジットを割り当てるそのページをもう一度読み返した。そしてもう一度。彼はその書類をポケットに入れ、署名せずに積み込みドックへと歩いていった。

The refusal cost him. When The Last Waltz made millions over the next three decades, Levon received far less than he believed he had earned. He picked up acting jobs to pay medical bills. He sold pieces of his Woodstock property after a throat cancer diagnosis in the 1990s. Still, he kept telling anyone who asked that music was supposed to be shared work. He never softened the story. “A band is supposed to be a brotherhood,” he said. “A real one.”

その拒否は彼に代償を払わせた。『ラスト・ワルツ』がその後30年間で数百万ドルを稼ぎ出す中、レヴォンが受け取った報酬は、自分が稼いだと信じていた額よりはるかに少なかった。医療費を払うため俳優の仕事を引き受けた。1990年代に喉頭がんと診断されると、ウッドストックの土地の一部を売却した。それでも彼は、音楽は共有すべき仕事だと尋ねてくる者には誰にでも言い続けた。その話を和らげることは決してなかった。「バンドとは兄弟愛であるべきだ」と彼は語った。「本物の兄弟愛をなすものだと」

When he rebuilt his life through the Midnight Rambles, hosting concerts in a barn where the roof shook, people finally saw the part of Levon Helm that never changed. He showed up, he played honest, and he refused to let anyone else write the ending for him.

「ミッドナイト・ランブル」で人生を再構築した時、屋根が揺れる納屋でコンサートを開催する中で、人々はついにレヴォン・ヘルムの不変の部分を見た。彼は現れ、誠実に演奏し、誰にも自分の結末を書かせようとはしなかった。


2025年11月19日水曜日

ベランダ・レモン

 ベランダで大きなレモン。




2025年11月16日日曜日

昼タイムカラオケ

 先週に引き続き、昼カラオケで歌ってきました。



2025年11月15日土曜日

ザ・バンドをいい音で聴こう!(西荻窪・アナログ天国)

カーネーションの直枝政広さんと『ザ・バンド 来たるべきロック』の著者・池上晴之さんのトークイベントに行ってきました。

アルゼンチン盤ブラウン・アルバムやドイツで発売されたドーナツ盤などレアなレコードが聴けました。

直枝さん曰く「ザ・バンドは普遍的だ」というのが本日のキーワードでしょうか。







2025年11月11日火曜日

クマ被害を防ぐ


  クマが人間を襲う事件が、日本列島東日本を中心に続発している。これまでの人的被害の発生状況は、人間がクマの領域である山間部などに侵入して襲われることが一般的だったが、いまや市街地(コンビニ、スーパー、民家、病院等)にクマが出没し、そこで偶然出会った人間を無差別に襲撃するところが特徴となっている。

 原因は明らかで、地方における人口減、高齢化であり、それにともなう、耕作放棄地面積の増加や、里山といわれる集落――田畑・水辺・その周辺の二次林などが融合した地域――の荒廃が、人間とクマを隔てていた境界を市街地側に引き寄せた結果だと思われる。里山において、人間集団が活発に生活していたならば、クマはそこを境界として奥山にみずからの生活圏を定めていたはずである。 

 クマ被害が多発する秋田県を例に取ろう。 

 秋田県の人口は(2022年8月時点での推定)93万2227人、面積が 11,610 km²である。東京23区の世田谷区(人口:950,540人、 面積:58.05㎢)と比較すると、およそ200倍の広さのところに、2万人少ない人が住んでいる――それが秋田県である。 その他のデータ〔註〕をみても、秋田県の民力低下が著しい。 

〔註〕人口増減率:-1.47%(全国47位)、自然増減率:-1.03%(同47位)、社会増減率:-0.44%(同47位)、死亡率:人口1000対15.8人(同1位)、出生率:人口1000対5.2人(同47位)、高齢化率: 36.4%(同1位)、75歳以上高齢化率:19.7%(同1位)、年少人口比率:10.0%(同47位)、婚姻率:人口1000対3.1人(同47位) 

 クマが秋田諸地域の民力低下を本能的にかぎ分け、市街地への侵攻を開始したと考えて不思議はない。それまで活発に人や車が行きかい、クマには近づきにくかった市街地だったが、民力低下とりわけ高齢化によって、市街地の活力が失われ、そこがクマにとって危険の少ない脆弱な生き物(人間)が棲む地域へと変容した結果が、人間にとってのクマ被害となって表出している。 

 人口増、高齢化の早急な歯止めは不可能だ。即効性があるのはすでに行われている、自衛隊派遣である。自衛隊部隊とライフル等殺傷力のある武器を携行できる警察官、民間ハンター、自治体職員(全国から応援も必要)が部隊を編成し、県内のクマ出没地域を重点的に巡回し、クマを見たら、ライフルで即刻駆除する以外にない。そこでクマが部隊すなわち人間を恐怖の対象だと学習すれば、人間とクマの境線が山間地等に後退し、越境するクマは減少するだろう。とにかく、人海作戦で境界を山奥へと押しを戻すほかない。 

 いまのところ、残念ながら、即効性ある対策としては、人海作戦以外思いつかない。短期間だが、大規模な部隊の展開が必要となろうが。〔完〕 

2025年11月9日日曜日

昼カラオケ体験

 きょうはワークアウト終了後、激安・昼カラオケに行ってきました。

酒類の提供はありませんが、歌い放題1300円というお財布にやさしい価格設定。

美人ママさんに、お客様は歌自慢のマダムばかりと、楽しい午後となりました。






2025年11月1日土曜日

NPB異論


   2025NPBはソフトバンク(以下「SB」)が日本シリーズで阪神を4-1で制し、全日程を終了した。NPBはオフシーズンとなり、人々の関心は、各球団の人事へと移行する。

(一)ソフトバンク 日本一 

 SBが4勝した試合のうち3試合は1点差、両チームの実力は均衡していたという見方もできるが、筆者はパワーの差を感じた。そのことを象徴するのが第5戦、50試合連続無失点記録をもつ石井大智のフォーシームを柳田がホームランし、続く打者もこともなげに打ち返してヒットとしたシーンだった。セリーグの各打者が打てなかった石井のフォーシームがSBには通用しなかったのだ。 

 SBが本シリーズを制することができた最大の要因は、第2試合、阪神藤川監督が先発投手起用をミスしたことだ。長いブランクを経たばかりの投手を先発で起用するのはリスクが高い。 

 短期戦では投高打低の傾向が一般的だ。もともと下位打線が弱い阪神、接戦にもちこんで、少ないチャンスをものにするところに活路を見いだす以外ない。初戦、SBの強力打線も阪神投手陣に手を焼き、阪神が敵地で先勝した。以降、この流れを維持できれば、阪神にチャンスがあった。逆にSBは2戦目の圧勝で重圧から解放され、敵地で3連勝した。メンタル面で自信をもつことができたSBが、阪神にプレッシャーをかけ続けられた。3戦目以降、SBが接戦をものにできた主因だろう。 

(二)オフの話題 

 日本シリーズが始まる前後、NPB各球団から戦力外、自由契約、引退などの報道が相次ぐ。他人事とは言え、いい気持ちはしない。毎年100人余りがNPBの門の叩き、150人程度が出て行く。故障、病気などで野球をやめざるをえない者もいるのだろうが、多くは球団から実力不足と判定された者だ。この厳しさがNPBの質を高めているというのが定説だが、戦力外を通達された彼らにセカンドチャンスはないのか。このことは当該Blogに繰り返し書いたので繰り返さない。NPBという機構の近代化を望むばかりである。 

阿部VS.桑田 

 各球団の人事異動のなかで筆者が最も興味を覚えたのが読売ジャイアンツ(以下「巨人」)の人事だ。一軍では二岡智弘ヘッド兼打撃チーフコーチが退任し、桑田真澄 二軍監督および駒田徳広 三軍監督が退任、退団した。 

 スポーツ・メディが注目したのが桑田の突然の退任発表だった。読売球団内部で何かが起きているという憶測記事もあった。筆者はこの件について取材できる立場にないから、以下の記述はいわゆる「こたつ記事」以外のなにものでもない。憶測、推測にすぎないが書いておきたい衝動に駆られた。 

 桑田はイースタンリーグの優勝監督であるから、実績上、咎を受ける立場ではない。退任理由は「一軍に戦力となる若手選手を送り出せなかったから」ということになっているが、これをそのまま受け取る者はいないだろう。これが退任理由となるならば、優勝を逃した球団の二軍監督は全員退任しなければならなくなる。望ましい成績を上げられなかった責任を二軍監督が引き受けるという論理は成り立ちようがない。 

 あるメディアは関係者の話として、球団が「3年契約の阿部慎之助にとって、来季はおそらく監督最後のシーズンになるから、彼の思うとおりにやらせてあげたかったからだろう」と報道した。この報道は阿部と桑田が相いれないことを前提としている。まったくそのとおりだと思う。阿部と桑田は野球指導理論に隔たりがあることは周知の事実。前者は昭和の根性論、後者は大学院でスポーツ科学を学び直した理論派、水と油だ。 

 いま(2025/10/31現在)のところ、橋上秀樹(一軍作戦戦略コーチ)、松本哲也(一軍外野守備走塁コーチ)、立岡宗一郎(三軍外野守備走塁コーチ)の就任が発表されていて、桑田の後任(二軍監督)は未定だ。桑田の後任がだれになるかわからないが、阿部が選んだスタッフの顔ぶれから想像するに、桑田以上の理論派が就任する可能性はない。阿部の指導方法を素直に受け入れ、阿部の言うとおりに二軍から一軍に選手を送り出す、いわゆる「イエスマン」となるだろう。 

 桑田追放人事は、巨人の将来像を規定する。昭和の偉業(V9)にしがみつき、根性論と厳しい選手管理で選手を締め付ける保守派が主導権を握り続ける予感がする。保守派は育成を怠り、FAで完成品を入手して優勝を狙う金満球団経営派と換言できる。理論派は排除され、スター選手が天下りし監督となり、独裁チームとなる。彼らの理想はV9の時代だ。ドラフト制度がなく、巨人は有望なアマチュア選手を自由に獲得できたうえ、高額な報酬をちらつかせて、他球団の大物選手を引き抜いてチーム強化が図れた。高倉照幸(西鉄ライオンズ)、金田正一(国鉄スワローズ)、そしてV9後に張本勲(東映フライヤーズ)が続く。金田、張本はいま現在、巨人OBとして知名度が高いが、晩年に巨人に移籍した選手だ。その結果のV9であり、いまとは情況が異なる。いまや巨人幻想は色褪せ、かならずしも巨人でなければという意識は薄れ、MLB志向の方が強くなった。その結果、巨人に限らず全球団においてV2すら難しくなってきた。V9はほぼ困難だと言っていい。 

 来季の巨人は、岡本の流出という戦力ダウンが予想されるから、2025シーズン以上に厳しくなる。リーグ優勝する要因を見つけにくい。3年契約が終了する来季以降、阿部が続投する可能性は高くない。2025オフの桑田の退任は、彼が一軍監督として巨人に復帰する可能性が消滅したことを意味する。筆者には、「巨人」の終わりが見える。

 他球団が有望アマチュア選手に係る情報収集網を広域化し、入団後の育成に資する人材(スタッフ)を集め、FA制度に依存しないチーム強化に舵を切るなか、巨人すなわち読売球団はその流れから取り残される。しかも、スター選手=有能な指導者ではない。現場の指導者すなわち監督の資質を持った者をえらび、コーチほか多能なスタッフ陣が監督を支える構造をつくあげなければ強いチームはつくれない。 

阿部は監督業に不向き

 阿部の作戦面の稚拙さについては、当該Blogでたびたび書いたので繰り返さない。そのことを大雑把に言えば、監督の作戦で試合に勝てたというナラティブを欲しがりすぎる、ということになる。

 チームで打率トップの選手に犠牲バンドをさせる、気候変動により猛暑が続く夏場に中継ぎ投手を酷使し、自分の継投策で勝てたと満足するが、そのツケが後半戦に及んでしまう。野手に複数ポジションを守らせて、エラーをまねく。2025シーズン、巨人のエラー数78は、12球団中トップだった。しかも得点がらみのエラーが多かった。そのうえで、 ミスをした選手に不要なプレッシャーをかける。

 加えて、記録を調べていないが、主力選手にケガ、故障が多かったような気がする。思いつくままに、岡本、甲斐、吉川、ヘルナンデス、グリフィン、赤星、高梨らが挙げられる。ケガを完全になくすこと(たとえば甲斐の場合のように)はできないが、岡本のケガは彼に複数ポジションを守らせたことによるものだ。要は、選手の健康・メンタル面の管理ができない。

おわりに 

 セリーグにDH制度が導入されるのは2027シーズンからだ。遅きに失した感がある。MLBを見ればわかるとおり、ベースボールは急速に変化している。試合時間短縮のため、さまざまな新ルールが導入された結果、選手はそれに従い、よけいなタイムをかけることがなくなった。投手はピッチロック導入とともに、超小型デバイスを耳に入れなければならなくなったが、MLB各投手は特に問題なくそれらを使いこなしている。 

 デジタル化の波が審判の判定にも押し寄せ、いずれ審判不要の時代が来るかもしれない。「誤審を含めて野球」なんて情緒的野球観は一掃される。誤審によって野球人生を狂わされた選手もいるのだから、厳密かつ正確な判定が可能になれば、スポーツとしての純度が上がる、すなわち実力がより反映されるようになる。昭和の野球では、「長嶋ボール」「王ボール」と揶揄された。巨人のスター選手が見送れば、ストライクであってもボールと判定されたのだ。前出のV9とはそんな不正すら見過ごされ、「栄光の巨人軍」が成立した時代だった。 

 巨人一強はすでに過去のものとなり、地域のチームを応援するあたりまえの野球界が成立しつつある。日本の職業野球近代化の完成まで、あと一歩のところまできている。〔完〕