2025年11月21日金曜日

ザ・バンド解散の「真相」

筆者が登録しているSNSに‘‘True Stories” という記事が偶然、流れてきた。ザ・バンド解散の「真相」を伝えるというのが主意である。ザ・バンドとは(ここでは詳細を省くが)、1960年代末から1970年代中葉にかけて活躍したロックバンドで、メンバーはカナダ人4人(ロビー・ロバートソン、リック・ダンコ、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソン)、アメリカ南部人1人(レヴォン・ヘルム)で構成されていた。いまや伝説と化したグループで、音楽性が高く評価されている。この記事ではその中の1人、レヴォン・ヘルムの大きな顔写真が目を引いた。 

レヴォン・ヘルム

(一)ロビーとレヴォンの確執

「真相」というのはほかでもない、メンバーのリーダー格と言われるロビー・ロバートソンと、彼と対立するレヴォン・ヘルムとの確執であり、強欲のロビー・ロバートソン、純粋なレヴォン・ヘルムというナラティブの定着に有力な情報を与える内容となっている。〔 ‘‘True Stories” の本文と翻訳は後掲〕

映画『ラストワルツ』より

 ロビーがほぼ独り占めしたと思われる莫大な富は、彼がザ・バンドに貢献した結果として受け取るに足る正当な報酬なのか、それとも仲間を騙した不当なそれなのか――を判断する情報を筆者は持っていないが、ただ言えるのは、映画『ラスト・ワルツ』を企画したロビーと監督のスコセシにとって、映画が興行的に大成功をおさめるためには、このイベントがザ・バンドの解散コンサートであるという名目が絶対に必要だったということだ。一方、ロビーを除く他のメンバーはこのイベントが解散を前提とするものとは思っていなかった。レヴォンは、「バンドそのものの終わりではなく、ツアーの送別会だと思っていた」とある。レヴォンの怒りはそこから発したと筆者は推測する。 

そればかりではない。『ラスト・ワルツ』撮影の休憩中に、「法律の担当者がレヴォンに書類を手渡した。それは、この映画とサウンドトラックの将来の著作権使用料を正式に定めたものだった。また、レヴォンが長年抗議してきた作曲クレジットの分割も確定したものだった。彼は、この音楽は、ロバートソンが最終的な歌詞を書くずっと前に、リック・ダンコ、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソンが核となる部分を形作り、一節ずつ、その部屋の中で作り上げられたものだと信じていた。レヴォンは、ロバートソンに主なクレジットを割り当てるそのページをもう一度読み返した」とある。この期に及んで、レヴォンはロビーに騙されたことを確信したようだ。

映画『ラスト・ワルツ』は、実際に行われたイベントの記録ではない。映画はロビーとスコセッシによって創作されたロック・オペラとも呼ばれる音楽映画だ。筆者は、つい最近、池上晴之氏の著作『ザ・バンド 来たるべきロック』を読んでこのことを知った。なんと半世紀近くにわたって、『ラスト・ワルツ』はその大半がイベントの記録で、そこに、多少のスタジオ撮影が付加されたと思い込んでいた次第である。

(二)バンドとは兄弟愛であるべきだ


2020年、ロビーがザ・バンドを回顧して制作した映画『Once were brothers 』が公開された。この映画では、レヴォン、リチャード、リックがアルコールとドラッグに溺れていく様子が描かれていた。解散は必至だと暗示するかのように。

ところで、この映画の邦題は「かつて僕らは兄弟だった」とある。これは名訳で、換言すれば「もう僕らは兄弟ではない」となる。その一方、レヴォンは次のように言っているではないか。“A band is supposed to be a brotherhood,” he said. “A real one.”
「バンドとは兄弟愛であるべきだ」(と彼は語った)本物の兄弟愛をなすものだ」と。

 

ザ・バンドは解散したというものの、実際はロビーが離脱しただけで残りのメンバーはザ・バンドを名乗り、ライブおよびアルバム制作を続行した。日本でも複数回公演を重ねている。しかし、怒りのレヴォンはその後、病魔に襲われ、また経済的困窮にも見舞われた。が、それらを克服し、ミッドナイト・ランブル」〔註〕を創設し、そこを活動拠点として復帰した。「(人々は)レヴォン・ヘルムの不変の部分を見た。彼は現れ、誠実に演奏し、誰にも自分の結末を書かせようとはしなかった」(終わらなかった)。 


筆者はたとえ間違っていたとしても、心情的にロビーよりもレヴォンの肩を持ちたい。ザ・バンドの成功の果実はメンバー全員で分かち合うべきだと思うからだ。〔完〕


〔註〕「ミッドナイト・ランブル」とは、レヴォン・ヘルムがニューヨーク州ウッドストックにある彼のスタジオに創設した音楽コミュニティ。ザ・バンドとレヴォン・ヘルムの象徴的音楽を演奏しながら、レヴォン・ヘルムの伝説を守り発展させている場。レヴォンの娘のエイミーはこうコメントしている。「父(レヴォン・ヘルム)は再生とコミュニティの精神を掲げてミッドナイト・ランブルを創設した」と。
なお、ミッドナイト・ランブルとは、人種差別時代にアフリカ系アメリカ人向けに深夜に映画を上映することであり、ジム・クロウ法(19世紀後半から20世紀初頭にかけてアメリカ南部で導入された州法と地方法であり、人種差別を強制するもの)の下では他の時間帯では決して入場が許可されないような映画館で上映されることが多かった。上映される映画は、1910年から1950年の間にアメリカ合衆国で黒人のプロデューサー、脚本家、俳優、監督によって制作された500本以上の映画が選ばれることが多かった〔Wikipedia〕とある。また文字通り‘‘深夜のぶらつき”という意味かも知れない。いずれにしても、レヴォン・ヘルムが、ミッドナイト・ランブルにどのような意味を込めたかは不明である。 

(三)True Stories(原文~翻訳) 


Levon Helm walked out of the Winterland Ballroom in 1976 with a contract in his pocket he refused to sign. It gave Robbie Robertson control over The Band’s future. Levon folded the paper, put it in his jacket, and said he would never agree to it. He meant it.

1976年、レヴォン・ヘルムは、署名することを拒否した契約書をポケットにしまい、ウィンターランド・ボールルームを後にした。その契約書は、ロビー・ロバートソンにザ・バンドの将来を支配する権利を与えるものだった。レヴォンは紙を折りたたみ、ジャケットのポケットに入れ、決して同意しないと言った。彼は本気だった。

Levon Helm had the voice that sounded like dirt roads, diesel engines, and Sunday mornings. He drummed like he was steering a train. To millions, he looked like the heart of The Band. But behind the harmonies, a fight over credit, ownership, and truth grew louder than any guitar line. Levon kept his part quiet for years. The paperwork told a different story.

レヴォン・ヘルムの歌声は、未舗装の道やディーゼルエンジン、日曜の朝を思わせる響きを持っていた。彼のドラムはまるで列車を操縦しているかのようだった。何百万もの人々にとって、彼はザ・バンドの心臓部のように映った。しかしハーモニーの裏では、クレジットや所有権、真実を巡る争いが、どんなギターラインよりも激しく渦巻いていた。レヴォンは長年、自らの役割を沈黙で貫いた。書類は別の物語を語っていた。

The turning point came during the filming of The Last Waltz in 1976. Martin Scorsese directed. Cameras circled the stage. The Band planned it as a farewell concert. Levon thought it was a sendoff for the road, not the end of the group itself. Then he saw the production list. Song order approved by Robertson. Interview segments shaped around Robertson.

転機は、1976年の『ラスト・ワルツ』の撮影中に訪れた。マーティン・スコセッシが監督を務めた。カメラがステージをぐるりと囲んだ。バンドはこれを別れのコンサートと位置づけていた。レヴォンは、バンドそのものの終わりではなく、ツアーの送別会だと思っていた。ところが、制作リストを見て驚いた。曲順はロバートソンが承認したもの。インタビューの構成もロバートソンを中心に組まれていた。

Publishing and backend rights funneled through companies Robertson controlled. Levon realized the concert wasn’t just a goodbye. It was a narrative being locked in ink.

出版権とバックエンドの権利は、ロバートソンが支配する企業を通じて流れた。レヴォンは、このコンサートが単なる別れではないことに気づいた。それは、インクで閉じ込められた物語だったのだ。

During a break in the shoot, a legal rep handed Levon a document. It formalized future royalties for the film and soundtrack. It also locked in songwriting credit splits Levon had protested for years. He believed the music was built in the room, bar by bar, with Rick Danko, Richard Manuel, and Garth Hudson shaping core pieces long before Robertson wrote final lyrics. Levon reread the page that assigned primary credit to Robertson again. Then again. He put the paper in his pocket and walked out to the loading dock without signing.

撮影の休憩中に、法律の担当者がレヴォンに書類を手渡した。それは、この映画とサウンドトラックの将来の著作権使用料を正式に定めたものだった。また、レヴォンが長年抗議してきた作曲クレジットの分割も確定したものだった。彼は、この音楽は、ロバートソンが最終的な歌詞を書くずっと前に、リック・ダンコ、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソンが核となる部分を形作り、一節ずつ、その部屋の中で作り上げられたものだと信じていた。レヴォンは、ロバートソンに主なクレジットを割り当てるそのページをもう一度読み返した。そしてもう一度。彼はその書類をポケットに入れ、署名せずに積み込みドックへと歩いていった。

The refusal cost him. When The Last Waltz made millions over the next three decades, Levon received far less than he believed he had earned. He picked up acting jobs to pay medical bills. He sold pieces of his Woodstock property after a throat cancer diagnosis in the 1990s. Still, he kept telling anyone who asked that music was supposed to be shared work. He never softened the story. “A band is supposed to be a brotherhood,” he said. “A real one.”

その拒否は彼に代償を払わせた。『ラスト・ワルツ』がその後30年間で数百万ドルを稼ぎ出す中、レヴォンが受け取った報酬は、自分が稼いだと信じていた額よりはるかに少なかった。医療費を払うため俳優の仕事を引き受けた。1990年代に喉頭がんと診断されると、ウッドストックの土地の一部を売却した。それでも彼は、音楽は共有すべき仕事だと尋ねてくる者には誰にでも言い続けた。その話を和らげることは決してなかった。「バンドとは兄弟愛であるべきだ」と彼は語った。「本物の兄弟愛をなすものだと」

When he rebuilt his life through the Midnight Rambles, hosting concerts in a barn where the roof shook, people finally saw the part of Levon Helm that never changed. He showed up, he played honest, and he refused to let anyone else write the ending for him.

「ミッドナイト・ランブル」で人生を再構築した時、屋根が揺れる納屋でコンサートを開催する中で、人々はついにレヴォン・ヘルムの不変の部分を見た。彼は現れ、誠実に演奏し、誰にも自分の結末を書かせようとはしなかった。