2025年12月30日火曜日

日本赤軍とは何だったのか その草創期をめぐって

●和光晴生〔著〕 ●彩流社 ●2000円+税

 日本赤軍とは何だったのか――読んでみると新たな発見があった。著者(和光春生)の述懐という一方的な情報からのみ本題の問いの解を示せば、以下のとおりになる。日本赤軍とは――それを一言で言えば――重信房子の私党であり、いまなお、私党であり続けていると。

日本赤軍の歴史

(一)共産主義者同盟赤軍派

 「日本赤軍」という組織名の由来を辿れば、1969年9月5日、全国全共闘結成大会で暴力的に登場した共産主義者同盟赤軍派(以下「共産同赤軍派」と略記)の結成を基点とする。このとき初めて日本の新左翼組織に「赤軍」という名称が使われた。同派は新左翼各派のゲバ棒街頭闘争の限界を軍事的に突破することを目指した。しかし、1969年11月5日、大菩薩峠における軍事訓練中に官憲に踏み込まれ、幹部・活動家の大多数が逮捕され壊滅的打撃を受けた。1970年3月31日、逮捕を免れた幹部と活動家数人が日本航空「よど号」をハイジャックし北朝鮮に亡命した。〔後述〕

 幹部不在となった同派は京浜安保共闘革命左派と合流し連合赤軍を結成したものの、1971~1972年、山岳ベース・リンチ殺人事件、あさま山荘事件など数々の殺人事件、リンチ殺人を起こして消滅した。ただし、連合赤軍に参加しなかった同派の残党(重信房子ら)は地下に潜った。

 ことほどさように、「赤軍」という組織名は共産同赤軍派・連合赤軍の非合法活動により、日本国内ではきわめてネガティブな印象を与える呼称となった。とりわけ、連合赤軍による同志リンチ殺人は新左翼の大衆的支持喪失の引き金となったと言われている。

(二)「リッダ闘争」と岡本公三

 「赤軍」という名称は日本では悪評ところが、人々が敬遠するほど忌み嫌われたものだったが、アラブ世界では、日本国内と真逆の評価を受けた。

 1972年5月30日、イスラエルの国際空港において、パレスチナ解放を目指す日本人3名(岡本公三、奥平剛士、安田安之)が空港内で銃を乱射し、26人を殺害した。奥平、安田は現場で死亡し岡本だけが逮捕された。和光は本書ではこの闘争を「リッダ闘争」と表記しているが、日本では「テルアビブ空港銃撃事件」として浸透している。岡本、奥平、安田は「京都パルチザン」というグループに属していて、共産同赤軍派ではなかった。〔後述〕

 なお、テルアビブ空港は、ベン・グリオン空港と名称を変更した。

 「リッダ闘争」は中東戦争に敗北し鎮静化したアラブ世界の反イスラエル闘争、パレスチナ解放闘争に火をつけた。逮捕された岡本公三はアラブ人民から英雄視されたのである。逮捕された岡本公三はその後の裁判で次のように発言した。この発言を契機として、日本赤軍が誕生することになる。

革命戦争はこれからも続くし、いろんな星(犠牲者)が増えると思う。

警告しておく:赤軍兵士は常にどこでもブルジョア側に立つ人間は(を)殺戮すると。(『日本赤軍 vs 日本警察』知られざる攻防/NHKテレビ)

The revolutionary war will continue, and I believe more planets will join the cause. Let me warn you: Red Army soldiers will slaughter anyone who sides with the bourgeoisie, anywhere and anytime.

 かくして、日本人の「赤軍兵士・岡本公三」は、アラブ世界で知らない人がいないくらい有名になった。

 前出のとおり、「リッダ闘争」は、日本赤軍の母体である共産同赤軍派とは異なる「京都パルチザン」によるものだった。岡本が発した「赤軍兵士は・・・」は党名、軍事組織名ではなく、パレスチナ解放闘争から世界革命を担う革命兵士という意味を込めた象徴的表現だった。とはいえ、「京都パルチザン」と共産同赤軍派がまったく関係ないとも言えない。なぜならば、奥平と重信は婚姻関係にあったからだ。

(三)重信房子と国際根拠地論

 重信房子は学生時代、共産同の学生組織である社会主義学生同盟の活動家として革命運動のスタートを切り、その後、共産同赤軍派に属し、「リッダ闘争」前にベイルート入りしていた。重信に課せられた使命は同派が掲げていた国際根拠地論に基づく海外拠点づくりである。1971年、2月に神戸市で「京都パルチザン」の奥平剛士との婚姻届を提出、「奥平房子」という戸籍を得て出国していた。

 ベイルート入りした重信、奥平らは、国際義勇兵としてPFLP〔註1〕に個々の意志により参加し、レバノンのベカー高原を主な根拠地に軍事訓練を受けていた。「リッダ闘争」と重信は、死亡した奥平との婚姻関係(偽装結婚といわれている)という一点で無関係ではないが、組織的関係はなかった。

〔註1〕PFLP(パレスチナ解放人民戦線/ Popular Front for the Liberation of Palestine):1967年に設立されたパレスチナの政党・武装組織。パレスチナ解放機構(PLO)に参加している。

(四)「リッダ闘争」の遺産を掠めとる

 共産同赤軍派が重信に課したプロジェクトは順調に進んではいなかったのだが、「リッダ闘争」という強い追い風が吹いた。重信は「リッダ闘争」でアラブ諸国から英雄視された日本人コマンド・岡本公三が発した「赤軍兵士・・・」という呼称を「日本赤軍」としてブランド化した。共産同赤軍派から日本赤軍への飛躍は、重信が属していた共産同赤軍派が自らの手で成し遂げたものではなく、「京都パルチザン」によって切り開かれたものだ、と筆者は思っている。

 「リッダ闘争」の直後、重信とPFLPとの共同声明の中で、「『日本赤軍』結成の日」との表現が使用された。ただし、組織名称を公式に「日本赤軍」としたのは1974年である。〔後述〕

 重信の構想をバックアップしたのがパレスチナ解放を公然・非公然で目指すPFLPのアブ・ハニ氏が率いる一派である。前者にとっては、「日本赤軍」という名称の公然・非公然組織をつくる絶好の機の到来であり、後者にとってはアラブの英雄・岡本公三が所属した「日本赤軍」が傘下に入ることは望むところだったにちがいない。重信に課せられたプロジェクトが完成に近づいた。

 繰り返すが、日本赤軍とは――「京都パルチザン派」2名の死をもってアラブに齎した遺産を掠めとって命名された組織名である。

 実体上、日本赤軍の最高幹部となった重信房子は日本に向けて、日本赤軍の下、パレスチナ解放闘争に参加するよう発信を続けた。PFLPのプロパガンダ映画も日本人映画監督によって制作され、日本各地で上映された。こうして、日本の若者がアラブを訪れるようになる。この間、紆余曲折を経て、前出のとおり、重信は前出のアブ・ハニ氏から離れ1974年、日本赤軍の正式創設に至った。

 筆者は、重信房子が日本赤軍の非公然活動にどのように関与したかについてはなにも知らない。イデオローグ?スポークスマン?連絡役?調整役?・・・筆者が思い描く重信房子は、オフィス、電話、テレックス、レジュメづくり、書類にかこまれた日常、そして、交渉、連絡、同志を集めて会議をする姿である。

(五)「北の国」と重信房子

 日本赤軍というよりも、重信房子が「北の国」と和光が称する国家と関係をもっていたことを本書で初めて知った。北の国とは、前出のとおり1970年、共産同赤軍派9名が「よど号」(日本航空351便)をハイジャックし、亡命した国のことだ。和光によると、1975年、重信房子は北の国を訪問したことになっている。

 日本赤軍は「よど号グループ」との協力関係は実現しなかった、と公式に発表している。亡命から5年を経過した「よど号グループ」はハイジャック当時に描いていた共産同赤軍派の世界革命戦略を放棄し、「北の国」の革命思想(一国革命路線)に感化されていたため、日本赤軍が目指す「世界党-世界赤軍-世界革命戦線構築」とは相いれなかったからだとされている。

 しかし、重信房子は「よど号グループ」から強い影響を受け、「自己批判-相互批判による思想闘争」を日本赤軍内部に提起したという。この「思想闘争」という概念は田宮高麿(「よど号グループ」リーダー)が北の国の革命論に感化されたもののようだが、和光はその内容にはふれていない。

 それだけではない。和光は重信房子と北の国との接触はPFLPの仲介なくしては実現不可能であり、パレスチナ解放勢力と北の国のあいだには、緊密なネットワークが形成されていて、重信房子が拉致問題と無関係ではないと示唆しているように読める記述が本書にある(本書P232~233)。

人はなぜ闘争に立つのか

 上記見出しは、本書第6章に付された表題である。この章から和光の文体は著しく変化する。同章は〈『1968』(小熊英二著)を糺す〉〈「70年代のパラダイム転換」とは何だったのか〉〈「同感力」・「共感力」〉の3節で構成されている。

 和光は第1節において、小熊の『1968』を次のように批判する。

 彼(小熊)の論点の前提には、人が闘いに立つ動機は「不幸」である、という考え方があるようである。
 果して、人は「不幸」の故にのみ闘いに立つのだろうか。
 「不幸」を起点とする、怒り・憎悪・怨恨・ねたみ・やっかみ、などのネガティブな動機からでは、報復のための闘いにしかならない。私は自分自身の体験からそんなふうに考えるようになった。
〔中略〕
 ・・・リーダーの位置にいた重信房子さんが「貧乏への嫌悪」を自らの行動の動因の一つにしているのではないか、ということだった。(本書P247)

 重信房子の父親は厳格な「憂国の士」である一方、そのことが家業の食料品店を営む上ではマイナスとなり、家庭は決して裕福でなかったことを和光は重信から聞かされたという。それらの体験が、重信にとって貧しい人々や虐げられた人々への憐憫、同情の念を生むのか、という印象を和光は感じたと書いている。和光が重信に抱いた印象は、いわゆる人道主義だ。自分が不幸だから闘うというのと、他者の不幸を憐れんで闘いに立つのとは似たように思われるが、そこには千里の径庭がある。貧しい人々、虐げられた人々と、そのような他者の不幸を憐れむ者とがつながるのが、後者が抱く「同感力」「共感力」なのだ、というのが和光の論理だろう。

 ところがその直後に《(重信房子は)裕福な階層や、いわゆる「セレブ」な人々に対する反発を抱くようになったのではないか、という印象を、私はアラブでの(重信との)初対面の当時から受けていた(本書P248)》、と書き足している。そして、以下に続く。

 70年代の初め頃は、海外旅行者や海外に駐在する商社員などは、まだ裕福な階層と思われる時代だった。在アラブの日本人グループが、当時、旅客機ハイジャック作戦や、商社員誘拐作戦などを次々と計画し、実行した背景に、それらの「セレブ」や富裕層に対するネタミ・ヤッカミの類の感情も働いていたのではないか、ということが今現在の私のとらえかえしにはある。(本書P248)

 第6章がいつ書かれたか不明だが、かなり混乱した書きぶりである。重信房子について、人道主義に立って貧しい者のために闘うという印象を受けながら、一方で重信が「セレブ」に対する反発を闘いの原点だと受けとめた、というのでは矛盾をきたす。しかも和光は、アラブに参集した自分自身を含めた日本人グループまでもが「セレブ」や富裕層に対するネタミ・ヤッカミの類の感情も働いていた、という。この言説は、和光の革命家としての立脚点を全否定するに等しい。和光の闘争の原点がそこだったとしたら、小熊のいう、人が闘いに立つ動機は「不幸」である、を全面的に認めたように読めてしまう。

 和光は小熊の前掲書にある「70年代のパラダイム転換」において、小熊の言説を認めつつ、次の節では次のように書いている。

 かつて、70年代初めに、日本からアラブの地へと結集していた人たちも、日本国内で感じていた閉塞感とかの「現代的不幸」を出国の契機としていただけではなく、パレスチナの人々の難民としての来し方への同情、最下層社会たる難民キャンプで懸命に生きる姿への共感、そして彼らの解放へ向けた闘いへの連帯感を抱き、それらの想いを実際の活動によって表現しようとすることもまた、大きな契機となったはずである。
 それらの想いは、決して「不幸」というキィーワードで括られるものではない。(本書P254)

 ここでは前出の「セレブ」に対するネタミ・ヤッカミ云々は消され、人道主義的きれいごと的表現に回帰している。アラブに来るまでは人道主義的想い(同感力・共感力)を契機とし、アラブに来るや、日本人「セレブ」に対するネタミ・ヤッカミ感情が武装闘争の戦術に盛り込まれたというのだろうか。和光の論理からはそのように解釈する以外にない。

「不幸」な者ではなく、疎外された者

 和光の小熊批判が支離滅裂に陥ってしまった主因は、小熊の「不幸」という表現にとらわれすぎたためだろう。近代的不幸、現代的不幸を問わず、人が闘争に立つ契機は〈疎外された〉者であるとの自覚からだ。他者の不幸を憐み、それを糺そうと闘争に参加するのは憐みからではなく、不幸な者を救いたくても救えない〈疎外された〉者であることの克服のためだ。裕福な「セレブ」に対して反発を覚え、彼らをなんとかしようと闘いに立つのは、自分一人では彼らを抹殺できない〈疎外感〉から、自己回復の手段として、武装闘争に参加するのである。

 1960年代末期の全共闘運動では、多くの活動家が自己否定の論理の下に運動に参加した。大卒の肩書を得てエスカレーター式に社会に出れば、中流より上の階層に到達できる自己を否定する。当時の大学進学率は20%程度だったから、そのような否定の論理が有効だった。結果、ベトナム戦争に加担している自己、パレスチナ抑圧に加担する自己・・・自己を否定する精神性は死に至るまで拡張する。日本の全共闘運動に参加した若者と、日本からアラブに飛んでパレスチナ解放闘争に参加した若者とは、1万3千キロ離れていても共通していた。

「1968年革命」と日本赤軍

 1960年代末期、世界は冷戦という奇妙な均衡の下、対立しているはずの東西の市民社会にほぼ同様の閉塞感が充満していた。東と西はイデオロギーと経済体制に相違があったものの、両陣営には官僚支配による抑圧的管理社会が形成されていたという共通点を持っていた。それに対する反発が「1968年革命」である。

(一)「1968年革命」の帰結――左派の政治的テロリズム

 「1968年革命」は頓挫し、以下のような帰結に至った。スラヴォイ・ジジェク〔註2〕に従えば、①過激な形での性的な享楽の探求、②左派の政治的テロリズム、③精神的経験の〈現実界〉への志向(東洋の神秘主義)――の3点に集約される。日本赤軍の登場は②にあたり、(西)ドイツ赤軍派、イタリアの赤い旅団などと同列に分類される。

 ジジェクは《大衆が資本主義のイデオロギーの泥沼にどっぷりつかった時代には、もはや権威あるイデオロギー批判も有効ではなく、生の〈現実界〉の直接的暴力、つまり、「直接行動」に訴えるよりほかに大衆を目覚めさせる手段はないと考え、(ドイツ赤軍派、赤い旅団、日本赤軍等は)そこに賭けた》と書いている。

(二)資本主義の新たな精神としてのネオリベラリズム

 「1968年革命」の帰結の後に登場したのが、1968年革命の平等主義かつ反ヒエラルキー的な文言を昂然と復活させ、法人資本主義と〈現実に存在する社会主義〉の両者に共通する抑圧的な社会組織というものに対して、勝利をおさめるリバタリアンの反乱の出現だった。

 この新たな自由至上主義 はネオリベラリズム(新自由主義)、フリー・マーケット・システム(市場原理主義)などと呼ばれ、経済学なのかイデオロギーなのか判別しにくいが、日本を含めた多くの国の人々の価値観・思考・行動を規定し、新たな社会的風潮(資本主義の新たな精神)をつくりあげる原理となった。なお、経済学における「ポストモダン資本主義」については、ここではふれない。

具体的な社会・政治的企てからの逃避

 ジジェクは、前出の①過激な形での性的な享楽の探求、②左派の政治的テロリズム、③精神的経験の〈現実界〉への志向に共通するのは、直接〈現実界〉に触れる具体的な社会・政治的企てからの逃避だった、書いている。

 和光は前出のとおり、70年代初めに、日本からアラブの地へと結集していた人たちが日本国内で感じていた閉塞感そして「現代的不幸」を出国の契機としていただけではなく、難民となったパレスチナの人々への同情、最下層社会たる難民キャンプで生きる姿への共感、そして彼らの解放へ向けた闘いへの連帯感が活動を志す大きな契機となったはずだ、と書いたが、和光の「共感」「連帯」からの〈活動による表現〉という説明からでは、なぜ、日本国内(直接〈現実界〉に触れる具体的な社会・政治的企て)へのコミットではなく、遠いアラブの地の解放闘争なのか――という疑問に答えられない。

 ジジェクの上記3分類における、②左派の政治的テロリズムと③精神的の〈現実界〉への志向(東洋の神秘主義)には、場所的・空間的な隔離を伴うという共通点を見出すことができる。③に分類されるヒッピーのコミューンは人里離れた僻地やアジアの宗教の聖地(バリ島のクタビーチ、カトマンズ、インドのゴヤなど)が選ばれた。オウム真理教がサリンを製造した上九一色村(現在は廃止)のサティアンも自然豊かで風光明媚な村だ。人民寺院(Peoples Temple of the Disciples of Christ Peoples Temple)事件は信者918人が自殺・殺害により命を落とした大事件だったが、舞台は彼らが南米ガイアナに信徒が開拓したコミューンで起きた。ヤマギシ会の共同農場(ヤマギシ村)も外界と距離をおいたところにある。こうした、コミューン、キャンプ、共同農場などは指導者が信者を僻地に囲い込み、外界から遮断するためのものだ。

 ②の政治的テロリズムでは、全共闘運動の「バリケード」、共産同赤軍派よど号グループの「北の国」、連合赤軍の「山岳ベース」、日本赤軍の「アラブ」などを挙げることができる。

 左派は革命理論(国際革命根拠地づくり等)に基づいた戦略的行動だと説明するだろうが、筆者には、直接〈現実界〉に触れる具体的な社会・政治的企てからの逃避の場のようににうつる。〔完〕

〔註2〕『ポストモダンの共産主義』(スラヴォイ・ジジェク〔著〕ちくま新書)