●保坂正康[著] ●新潮新書 ●720円+税
8月を控え、アジア太平洋戦争に係る新書を4冊(本書、『8月15日の神話』『日本が「神の国」だった時代』『戦後責任論』)を連続で書評する。その第1回である。この試みは、アジア太平洋戦争を概括的におさえることを目的とする。
本題が示すように、あの戦争にはわからないことが多い。だれが何を目的に始めたのか、なぜあのような狂信的な気分に国民がひたったのか。310万人~500万人といわれる犠牲者を出す前に、なぜ、戦争を終結できなかったのか・・・
著者は本書を通じて、そうした疑問に丁重に答えようとしている。だが、それでも、筆者にはそれらの疑問が氷解したわけではない。
戦争開始の背景には、陸軍と海軍の対立があったといわれる。また、教育の「成果」だともいわれる。国民性だともいわれる。米国の陰謀だとも・・・ただ1ついえるのは、明治国家成立とアジア太平洋戦争は一直線に結びついているということ。このことに疑いようがない。つまり、日本人の国民性――エトスといわれるものは、高々明治国家成立以降に培われたものにすぎない。もちろん、明治国家成立前にも、武士道、切腹といった、生を軽んずる傾向は認められるけれど、それは武士と呼ばれる一部階級の倫理観にすぎなかった。
ところが、明治国家が近代戦争(日清戦争)を始めてから、日本国民すべてが、生を軽んじ、死を恐れない戦闘的国民へと変貌していった。本書は、戦争を支えた日本人の精神性についての記述は乏しい。政局、戦局、軍部についての分析を重点的に記述しているからである。そのことももちろん重要だけれど、筆者は、日本人の精神性と,あの戦争の関係について問うてみたい。
なお、戦後社会は、玉音放送が流された8月15日をもって、終戦記念日としているが、著者が指摘するように、このことは戦後社会の無責任性を象徴している出来事の1つである。アジア太平洋戦争が終わったのは、日本政府が無条件降伏文書に署名した9月2日である。8月15日以降、日ソ不可侵条約を一方的に破棄したソ連軍の軍事行動により、北方で多くの日本人が犠牲になっていることを忘れてはならない。さらに、捕虜になった民間人・関東軍の兵士がシベリア抑留という、非人道的扱いを受けた。もちろん、8月15日以前には、広島・長崎への原爆投下、東京大空襲などにより、それぞれ、数十万人という生活者が犠牲になった。あの戦争は何だったのか・・・
2005年7月30日土曜日
2005年7月25日月曜日
『LEFT ALONE 持続するニューレフトの「68年革命」』
●絓秀実・井上紀州・松田政男ほか[著] ●明石書店 ●2200円+税
本書は同名の映画の活字による再現だ。副題の「68年革命」というのは、1960年代後期、先進国で勢いを得た急進的左翼運動の高揚した情況を象徴的に指す言葉。もちろん、68年に政治的(つまり共産主義政権樹立という)意味における「革命」は、欧米日本等の先進資本主義体制国家では起きていない。
60年代後期、アメリカはベトナム戦争下にあり、学生を中心とした反戦・反人種差別(=公民権運動)運動が全米に吹き荒れた。ヨーロッパでは、西ドイツで赤軍派が結成されたし、フランスでは学生がパリのカルチェラタン地区を解放区とする運動が起こり、急進的労働者のゼネストと連帯寸前にまで情況が煮詰まった。あたかもそれは、革命前夜のような様相を呈した。日本では学生運動が全共闘運動として全国的に盛り上がり、暴力的街頭デモが連日行われた。中国では、紅衛兵が組織され、中国共産党内の官僚的実権派が毛沢東により粛清された。
これら運動の共通項は、旧来の左翼(ソ連を頂点とする共産党指導)による運動ではなく、新左翼と呼ばれる新前衛党によるものだった。本書は日本における新前衛党結成期に与った松田政男、西部邁、柄谷行人らに、かつて全共闘運動活動家で現在は評論家の絓秀実がインタビューを試みたもの。絓秀実は1949年生まれだが、松田・西部・柄谷らは全共闘世代よリ前の世代に属する。
戦後日本においてソ連の指導のもとに政治活動を行った前衛党は、日本共産党及びマルクス主義解釈で共産党と対立した日本社会党の2党であった。ところが、1960年の安保闘争を機に、既成前衛党(=日本共産党)から、共産主義者同盟(ブント)が分離した。ブントは安保闘争敗北を境に衰退し、その過程で、革命的共産主義者同盟が分派した。60年代中葉、両同盟はマルクス主義解釈、組織論、運動論で互いに対立しつつ、また、内部分裂を繰り返したものの、1967年、三派系全学連(=学生大衆組織)で共闘を成功させ、街頭暴力運動を積極的に展開し、民衆の支持を得るまでに成長した。その詳しい経緯等については、本書の註に詳しい。
新左翼運動の核心は、大雑把に言って、反帝国主義・反スターリン主義、世界同時革命、暴力革命、(哲学的には)疎外論、初期マルクス(『経哲草稿』『ドイツイデオロギー』等)の読み直し・・・などだった。
ところが、69年以降、全共闘運動は衰退する。と同時に新左翼各党派は内ゲバ・リンチ殺人等々の事件を引き起こし、大衆的支持を失う。80年代、90年代、新左翼は絶滅したとさえ、言われた。
本書は、若い世代による、絶滅し化石となったと言われる日本の新左翼研究であり、その成果の1つと言える。インタビュアーであり、本書(本映画)の「主役」は、絓秀実。彼は、衰退したと言われる新左翼革命運動は、実はいまなお持続しており、諸々の世直しに貢献している、と主張する。
本書のテーマである持続する「68年革命」とは、今日の社会的価値観の形成は、60年代を通じて生まれ育った新左翼運動を含めた大衆的高揚(換言すれば社会革命か)の影響下にあることを意味する。新左翼運動の総括的研究は本書だけではないのだが、今日との連続性を問うものは管見の限り少ない。ただし、本書において、連続性を実証する具体的エビデンスとなると心もとない。そのあたりが充足すれば、新左翼の見直しの気運が再び起こる可能性もないとは言えない。
60年代後期、アメリカはベトナム戦争下にあり、学生を中心とした反戦・反人種差別(=公民権運動)運動が全米に吹き荒れた。ヨーロッパでは、西ドイツで赤軍派が結成されたし、フランスでは学生がパリのカルチェラタン地区を解放区とする運動が起こり、急進的労働者のゼネストと連帯寸前にまで情況が煮詰まった。あたかもそれは、革命前夜のような様相を呈した。日本では学生運動が全共闘運動として全国的に盛り上がり、暴力的街頭デモが連日行われた。中国では、紅衛兵が組織され、中国共産党内の官僚的実権派が毛沢東により粛清された。
これら運動の共通項は、旧来の左翼(ソ連を頂点とする共産党指導)による運動ではなく、新左翼と呼ばれる新前衛党によるものだった。本書は日本における新前衛党結成期に与った松田政男、西部邁、柄谷行人らに、かつて全共闘運動活動家で現在は評論家の絓秀実がインタビューを試みたもの。絓秀実は1949年生まれだが、松田・西部・柄谷らは全共闘世代よリ前の世代に属する。
戦後日本においてソ連の指導のもとに政治活動を行った前衛党は、日本共産党及びマルクス主義解釈で共産党と対立した日本社会党の2党であった。ところが、1960年の安保闘争を機に、既成前衛党(=日本共産党)から、共産主義者同盟(ブント)が分離した。ブントは安保闘争敗北を境に衰退し、その過程で、革命的共産主義者同盟が分派した。60年代中葉、両同盟はマルクス主義解釈、組織論、運動論で互いに対立しつつ、また、内部分裂を繰り返したものの、1967年、三派系全学連(=学生大衆組織)で共闘を成功させ、街頭暴力運動を積極的に展開し、民衆の支持を得るまでに成長した。その詳しい経緯等については、本書の註に詳しい。
新左翼運動の核心は、大雑把に言って、反帝国主義・反スターリン主義、世界同時革命、暴力革命、(哲学的には)疎外論、初期マルクス(『経哲草稿』『ドイツイデオロギー』等)の読み直し・・・などだった。
ところが、69年以降、全共闘運動は衰退する。と同時に新左翼各党派は内ゲバ・リンチ殺人等々の事件を引き起こし、大衆的支持を失う。80年代、90年代、新左翼は絶滅したとさえ、言われた。
本書は、若い世代による、絶滅し化石となったと言われる日本の新左翼研究であり、その成果の1つと言える。インタビュアーであり、本書(本映画)の「主役」は、絓秀実。彼は、衰退したと言われる新左翼革命運動は、実はいまなお持続しており、諸々の世直しに貢献している、と主張する。
本書のテーマである持続する「68年革命」とは、今日の社会的価値観の形成は、60年代を通じて生まれ育った新左翼運動を含めた大衆的高揚(換言すれば社会革命か)の影響下にあることを意味する。新左翼運動の総括的研究は本書だけではないのだが、今日との連続性を問うものは管見の限り少ない。ただし、本書において、連続性を実証する具体的エビデンスとなると心もとない。そのあたりが充足すれば、新左翼の見直しの気運が再び起こる可能性もないとは言えない。
2005年7月20日水曜日
『マニ教』
●ミシェル・タルデュー[著] ●文庫クセジュ ●951円+税
3世紀のイラン、メソポタミアは、キリスト教、ユダヤ教の分派活動の結果生まれた新宗教や、ギリシア哲学を発展させた新思想が生まれ、それらが互いに議論を交わし、自らの存続をかけて活動したところだった。マニ教は、そんな情況が生み出し育んだ宗教の1つ。
マニの父は「ムグタジラ」(アラビア語)、ギリシア語では「アルカサイオス」または「アルハサイ」「エルカサイ」の信者だった。「エルカサイ」は、洗礼派キリスト教という説もあるが、ユダヤ教の一派であるという説が有力だ。
マニは4歳から「エルカサイ」に入信し、しばらくの間その宗教活動に従事したが、西暦228年(マニ12歳のとき)天啓を受け、預言者へと成長していくことになる。
マニ教とはどんな宗教なのか。組織論としての特徴は、厳粛な身分制度を堅持した宗教であったことが挙げられる。教団は「選良者」と「聴講者」に区分された。「聴講者」の最下位に位置するのが在家信者で、彼らにはもっともゆるやかな戒律が課せられた。「選良者」の最下位には修道士が位置したが、修道士の戒律は厳しく、「聴講者」の日常とは、大きな隔たりがあった。
マニ教徒の義務としては、戒律、祈祷、布施、断食、懺悔の5事項があった。この5種類は後世のイスラム教の「五柱」である、信仰告白、祈祷、布施、断食、巡礼に酷似している。イスラム教がマニ教の影響の下にあったことは明白だ。
さて、マニ教の教義を、筆者がここで手短にまとめることは極めて難しい。本書を手始めに、興味をお持ちの方々がそれぞれ学習していただくことが一番だが、筆者の大雑把な理解を以下に記しておく。
天と地及びその中のすべてのものの存在に先立ち、善なる本質(光=「偉大なる父」=アッパ・ドゥ・ラップタ)と悪なる本質(「暗闇の王」=ムレク・へシュカ)が存在する。「偉大なる父」の外側に、知性・知識・思考・熟慮・意識の5つの住居(スキタナ)が住んでいる。一方、「暗闇の王」は彼の大地である、彼の5つの世界、煙界、火界、風界、水界、暗黒界に住んでいる。
第一次の戦闘:「暗闇の王」から偉大なる父に向けて敵対行為が開始される。
「偉大なる父」は最初の一連の召命(最初の創造)を呼び出すことによって、「暗闇の王」の攻撃に反撃する決定を下す。「偉大なる父」は「活ける者たちの母」(エンマ・ドゥ・ハッイェ)を呼び出し「活ける者たちの母」は「原人」(ナシャ・カドマヤ)を呼び出し、「原人」が5人の息子を、戦いの武具を身に着けるかのように呼び出す。
「暗闇の王」によって、「原人」とその息子達は敗北する。そして、「偉大なる父」が再び召命(第二の創造)を呼び出すことによって、第二の反撃を加え、「原人」が活ける霊によって救済される・・・
以下、「偉大なる父」と「暗闇の王」との戦いが何度か繰り返され、召命(創造)が呼び出され、何度となく「原人」とその息子達が復活し、「活ける霊」が創造主(デミウルゴス)として働き、「使者」によって、宇宙の機械が始動される。
やがて、戦闘は神々のレベルで終わり、人間のレベルで始まる。最後の光の一片が混合相手の物質から救出され父の知的な5つの光輝(ジーワーネー)である完全な「人間」が回復されるまで続く。
さて、マニ教の特徴は、善悪の「極性」及び「5」を基数とする「5個組性」並びに「多名性」にある、といわれている。
「極性」はニ神論を表すようにも思えるが、本書によると、善悪の二極性は、ニ神の弁証法的な駆け引き(戦い)を意味するという。悪は善を引き出す役割を担うということだろうか。
「多名性」ついては、たとえば、「暗闇の王」については、「悪魔」(ギリシャ語、ラテン語、コブト語資料)、「サタン」(アラビア語資料)、「アハレメン」(中期ペルシア語、パルティア語、古代トルコ語資料)、「シマヌ/シムヌ」(ソグド語ほか)・・・と言い換えられているという。「偉大なる父」についても同様にいくつもの呼称が与えられている。
マニは、ユダヤ教の一派から分離し、キリスト教や伝統的宗教を取り込んで、独自の教義と組織論をもってマニ教を完成。その布教に努めたが、西暦274年、ゾロアスター教を公認するバグダッド近くの小国の王・バハラームによって殺された。
マニ教発生の地はイスラム圏の中心部だが、では、周縁部ではどうなのだろうか。例えば、インド西部とかイランの僻地とかで、マニ教徒に出会ってみたいと思うのは、筆者だけだろうか。
マニ教の開祖・マニは3世紀、メソポタミアに生まれた。この時代、イラン(ペルシア)、メソポタミア地域は、キリスト教各派、ユダヤ教各派の周辺宗教と、イラン起源の伝統的宗教であるゾロアスター教などが信仰されていた。
その一方、インド起源の仏教の流入もあり、また、ギリシア哲学の影響も認められた。ギリシア哲学としては、グノーシス派の影響が強かった。
3世紀のイラン、メソポタミアは、キリスト教、ユダヤ教の分派活動の結果生まれた新宗教や、ギリシア哲学を発展させた新思想が生まれ、それらが互いに議論を交わし、自らの存続をかけて活動したところだった。マニ教は、そんな情況が生み出し育んだ宗教の1つ。
マニの父は「ムグタジラ」(アラビア語)、ギリシア語では「アルカサイオス」または「アルハサイ」「エルカサイ」の信者だった。「エルカサイ」は、洗礼派キリスト教という説もあるが、ユダヤ教の一派であるという説が有力だ。
マニは4歳から「エルカサイ」に入信し、しばらくの間その宗教活動に従事したが、西暦228年(マニ12歳のとき)天啓を受け、預言者へと成長していくことになる。
マニ教とはどんな宗教なのか。組織論としての特徴は、厳粛な身分制度を堅持した宗教であったことが挙げられる。教団は「選良者」と「聴講者」に区分された。「聴講者」の最下位に位置するのが在家信者で、彼らにはもっともゆるやかな戒律が課せられた。「選良者」の最下位には修道士が位置したが、修道士の戒律は厳しく、「聴講者」の日常とは、大きな隔たりがあった。
マニ教徒の義務としては、戒律、祈祷、布施、断食、懺悔の5事項があった。この5種類は後世のイスラム教の「五柱」である、信仰告白、祈祷、布施、断食、巡礼に酷似している。イスラム教がマニ教の影響の下にあったことは明白だ。
さて、マニ教の教義を、筆者がここで手短にまとめることは極めて難しい。本書を手始めに、興味をお持ちの方々がそれぞれ学習していただくことが一番だが、筆者の大雑把な理解を以下に記しておく。
天と地及びその中のすべてのものの存在に先立ち、善なる本質(光=「偉大なる父」=アッパ・ドゥ・ラップタ)と悪なる本質(「暗闇の王」=ムレク・へシュカ)が存在する。「偉大なる父」の外側に、知性・知識・思考・熟慮・意識の5つの住居(スキタナ)が住んでいる。一方、「暗闇の王」は彼の大地である、彼の5つの世界、煙界、火界、風界、水界、暗黒界に住んでいる。
第一次の戦闘:「暗闇の王」から偉大なる父に向けて敵対行為が開始される。
「偉大なる父」は最初の一連の召命(最初の創造)を呼び出すことによって、「暗闇の王」の攻撃に反撃する決定を下す。「偉大なる父」は「活ける者たちの母」(エンマ・ドゥ・ハッイェ)を呼び出し「活ける者たちの母」は「原人」(ナシャ・カドマヤ)を呼び出し、「原人」が5人の息子を、戦いの武具を身に着けるかのように呼び出す。
「暗闇の王」によって、「原人」とその息子達は敗北する。そして、「偉大なる父」が再び召命(第二の創造)を呼び出すことによって、第二の反撃を加え、「原人」が活ける霊によって救済される・・・
以下、「偉大なる父」と「暗闇の王」との戦いが何度か繰り返され、召命(創造)が呼び出され、何度となく「原人」とその息子達が復活し、「活ける霊」が創造主(デミウルゴス)として働き、「使者」によって、宇宙の機械が始動される。
やがて、戦闘は神々のレベルで終わり、人間のレベルで始まる。最後の光の一片が混合相手の物質から救出され父の知的な5つの光輝(ジーワーネー)である完全な「人間」が回復されるまで続く。
さて、マニ教の特徴は、善悪の「極性」及び「5」を基数とする「5個組性」並びに「多名性」にある、といわれている。
「極性」はニ神論を表すようにも思えるが、本書によると、善悪の二極性は、ニ神の弁証法的な駆け引き(戦い)を意味するという。悪は善を引き出す役割を担うということだろうか。
「多名性」ついては、たとえば、「暗闇の王」については、「悪魔」(ギリシャ語、ラテン語、コブト語資料)、「サタン」(アラビア語資料)、「アハレメン」(中期ペルシア語、パルティア語、古代トルコ語資料)、「シマヌ/シムヌ」(ソグド語ほか)・・・と言い換えられているという。「偉大なる父」についても同様にいくつもの呼称が与えられている。
マニは、ユダヤ教の一派から分離し、キリスト教や伝統的宗教を取り込んで、独自の教義と組織論をもってマニ教を完成。その布教に努めたが、西暦274年、ゾロアスター教を公認するバグダッド近くの小国の王・バハラームによって殺された。
マニの死後、マニ教は弟子達によって、東はインドから中国に至るまで、西は西欧にまで広がったものの、どういう理由か、世界宗教となるに至らなかった。本書にはマニ教が今、どういう形で信仰されてるか記されていないが、素人判断では、イラン、メソポタミア等においては、イスラム教に吸収されたものと解釈されよう。
マニ教発生の地はイスラム圏の中心部だが、では、周縁部ではどうなのだろうか。例えば、インド西部とかイランの僻地とかで、マニ教徒に出会ってみたいと思うのは、筆者だけだろうか。
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