2005年8月15日月曜日

『日本が神の国だった時代』

●入江曜子[著] ●岩波新書 ●740円+税

戦争を考えるシリーズの第三弾。本書副題にある国民学校というのは、1941年3月1日「国民学校令」によって公布、同年4月1日の施行により誕生した、日本の初等教育機関のこと。この年、国民学校が、それまでの「小学校」に取って代わることになった。

国民学校創設の狙いは、日本が大東亜共栄圏構想の下、日中戦争→英米開戦を控え、天皇と国家に盲目的に従う人間の育成を目指したことだった。

国民学校の教科書や教育内容では、日本は神武以来の神の国で、始原より天皇が国を治め、国民(臣民)は天皇のためにすべて(生命)を投げ出すことが勤めだとされた。さらに、周辺諸国にも、日本の伝統的宗教(国家神道)の信仰を強要し、「日本臣民」として、天皇のためにつくすことを求めた。国民学校の教科書は、だから、「満州国」、台湾、朝鮮においても使用された。

国民学校の教育を一言で言うならば、「皇国民」の練成ということになる。国民は天皇の赤子と呼ばれ、兵士(赤子)は戦場で無謀な作戦で危険にさらされたとき、生命を落とす前に、「天皇陛下、万歳」と叫ばなければ、非国民とされた。

兵士(赤子)の母は、息子が戦地で国のために犠牲(戦死)となることを喜びとした。女性は、戦争ために犠牲となる兵士(=男児)を産むことを強制された。母は借り腹で、生まれた子は天皇の子であり、天皇のために命を投げ出すことが勤めとされた。そのような国家的価値を初等教育において、子供たちに「刷り込んでおこう」というのが、国民学校の目的であり機能だった。

さて、確かに国民学校の教科書や教育内容は、日本がアジア太平洋戦争で行ってきた戦争犯罪、周辺諸国の植民地化、超国家主義、天皇信仰といったものに同調している。しかし、「国民学校令」の公布(1941)は総力戦直前であり、そこから教育を始めても教育効果が現れるのは少なくとも6年後(1946=戦後)となろう。つまり、国民学校創設以前に、日本の天皇制超国家主義体制というのは、完成していたことになる。国民学校は、天皇制超国家主義思想の教育的集大成(体系化)であって、国民学校によって、天皇制超国家主義思想が国民に直接刷り込まれたわけではない。つまり、結果であって主因ではない。

筆者にはどうしてもわからないことなのだが、日本人がなぜ、天皇制超国家主義体制を容認し、進んで命を賭して戦争をしたのだろうか。国民すべてが、そのような施策を積極的に受容したのだろうか。天皇のために命を落とすことを喜びと感じたのだろうか・・・

自問自答するならば、日本人のすべてが、宗教的呪縛に包まれていたからではないかと思う。宗教的呪縛というのは言葉足らずだけれど、宗教の力でなければ、人間は非合理的な選択をしない。狭い意味の戦争、つまり、戦闘に参加した兵士(神風特攻員を代表的存在として)、また、それを喜びをもって送り出した日本の母親を含め、戦争を機会として、みな殉教を選んだのだと思う。若い兵士たちは、戦場を殉死の場として自ら選んだように思える。

いまからおよそ70年前といえば、つい最近のこと。そのころ、日本の教師たちは、かくも非合理的・非科学的な「歴史」や「道徳」を、小学生に対して、(国民)学校という場で、疑問もなく教えていたのかと思うと唖然とする。だが、人間がすべてに合理的かつ科学的選択をするとは限らない。理性、科学を万能と考えてはいけない。われわれ日本人が、日本という国家をつかって、かくもあきれた教育をまじめに執り行っていたことを、けっして忘れてはならない。