●ルイ・アンビス[著] ●白水社 ●951円+税
紀元4~5世紀ごろ、広大なユーラシア大陸の東西に2つの帝国が君臨していた。東には中国、西にはローマである。そして、2つの帝国はどちらも、遊牧騎馬民族の侵入に悩まされていた。中国を襲った異民族は匈奴と、また、ローマを襲った異民族はフンと、それぞれよばれた。
匈奴はおそらく、ウラル山脈以東のある地域を原郷とし、フンはウクライナ以西(スキティア)のある地域を原郷としたに違いないのだが、匈奴はギリシア語で「クーノイ」(Χοόνι・単数形Χουν)となり、紀元6世紀頃にアルタイ山脈にいたトルコ系の一部族を示す中国語「Houen」に該当するという。匈奴を中国語で「フルン」(frun)、「クン」(kouen)と発音すると、フンと通じるところから、両者を同一民族と看做す学説が有力である一方、その確証はないとする学説も根強く、本書は後者の「異民族説」に立っている。
5世紀、フン族及びその周辺の遊牧民族等を統一し、ウクライナから中部ヨーロッパにかけて広大な帝国を築いたのがアッチラである。本書によると、《ヨルダニス(6世紀、南ロシア生まれの修道士、歴史家。『ゲート人の事績』『ローマ民族史』などの著書がある。)が描くアッチラの肖像は、背が低く胸幅が広い。頭は大きく、目は小さくて落ち窪んでいる。眉弓は高く飛び出し、鼻は平たく、色はくすんでいる、というよりむしろ黒いほうである。ひげはあまり生えていない》という。ヨルダニスの描写のうちの「色はくすんでいる、というよりむしろ黒いほうである」という部分を除くと、現在のモンゴル系に近いように思えるが、色が黒いという描写を真に受けると、高アジア系(トルコ系、チベット系、中央アジア系)と思える。
フンの歴史的な役割というか、重要性とはいうまでもなく、彼らの圧力によりアラン族(イラン系)が西に移動し、そのあおりを受けて、黒海あたりまで南下してきたゲルマン系ゴート族がさらに西に押し出され、ローマ帝国領内に移動を開始したことにある。
フンの侵攻は暴虐を極め、ゴート族はじめ、その当たりに定住を試みていたゲルマン人みな恐れおののいてローマ帝国内に逃げ込んだといわれている。ローマ帝国内に移動したゴート族がローマを一時期支配し、ローマ帝国の滅亡を招くことになったことから、フンが西欧(ヨーロッパ)の成立を促したとも言える。
さて、フン帝国の領土拡大を図るアッチラは、ゴート族を追撃するかのようにローマに向けて政治的・軍事的圧力を加え続けたばかりか、周辺のゲルマン系、遊牧系の諸民族を支配下におき、兵士として吸収し軍事力の増大を図った。ところが、定住農耕民でない彼らには、膨らんだ軍事力(兵士)を養う経済手段がない。彼らはいわば、略奪経済に依拠していたのであり、略奪の量が兵士を養う量を下回れば、戦闘を維持することが困難となり、さしものアッチラもイタリアを支配することはできなかった。そして、その間、力を蓄えてきたサルマチア族、東西ゴート族らのゲルマン諸族の連合勢力より東に押し返され、453年、アッチラは死去した。アッチラ死後、フンの勢力は衰え、その後にやってきたブルガール族や、前出のサルマチアや、ゴートらに吸収されるかのように、フンは歴史の表舞台から忽然と消え去ってしまうのである。
4~5世紀にかけてのフンのヨーロッパ世界への登場は、大型台風の襲来に似ている。大型台風の去った後、ヨーロッパの風景は一変する。この地の主役は、〈ローマ〉から、かつてフンに追われて逃げ延びてきた、〈ゲルマン〉にとって代わってしまうのである。
本書によると、フンに関する考古学的遺跡は少ない。彼らの文化的、人種的特徴等については推測、想像の域を脱しない部分も多い。それだけに、フンと匈奴の同一民族説も魅力的である。
筆者の中では、広大なユーラシアを駆け抜けた遊牧騎馬民族に対するロマンは、留まるところを知らないのだが、懸念すべきは、中欧・東欧における政治勢力が、フンの末裔を自称し、覇権の旗印として「フン」を復古・悪用することである。いまのところ、そのような政治的動きは認められないが、歴史上の「強者」が、現代政治に引用されることは危険な兆候の1つである。日本では、戦国武将の一人・織田信長が、政治的に悪用されている。