2005年11月20日日曜日

『小泉純一郎と日本の病理』

●藤原肇[著] ●光文社 ●952円+税

FI2068372_0E.jpg 小泉首相は、超法規的解散後、9.11総選挙で歴史的大勝をおさめた。小泉首相が掲げた、“郵政解散”と“構造改革”が国民の支持を得たわけだが、この国民の審判が、「小泉純一郎という病者」と「日本国民の病理」の合流により下されたものだったとしたら、日本は破滅に進むことだけは間違いない。本書の論旨を大雑把に言えば、そんなところだ。

著者は、小泉首相の「病状」の解析から始める。小泉首相が三代目の政治家であることはよく知られているが、初代が港湾都市・横須賀の闇勢力に通じていたこと、二代目が大政翼賛会に通じていたことについては、管見の限りだが報道がない。

また、小泉首相の英国留学が、小泉青年が日本国内で起こした婦女暴行事件の追求から身を潜めるためだった疑いがもたれていることも、報道されていない。加えて、小泉首相の離婚、実の姉との緊密な関係等々の私生活にまつわる怪しさについても、一時期週刊誌で報道された程度だ。本書の情報からすると、小泉首相の精神構造は、常人と異なる可能性が高い。小泉政権誕生の立役者でありながら、後に小泉首相から切られた田中真紀子元外務大臣は、既に小泉首相を「変人」と看破している。

小泉政権の政策上の欠陥については、いろいろと指摘されている。「郵政民営化」に代表される「聖域なき改革」が掛け声だけで、既得権益はしっかり守られていることは周知の事実だ。

そればかりではない。戦後日本に設けられたセイフティーネットは小泉政権によっておおよそ外され、弱肉強食、勝ち組、負け組による階級社会が形成されつつある。財政は破綻し、国債発行は止まるところを知らない。この先やってくるのは、増税による国民生活破壊だ。

著者は小泉政権下の日本の社会経済を「賎民資本主義」と呼ぶ。著者は資本主義のエートスを“公共善”という概念に求め、その実現を放棄した日本の経済人・経済活動・経済社会を批判する。それこそが日本の病理にほかならないと。

著者は日本の「賎民資本主義」に対峙する概念として、米国中西部の共和精神を持ち出し、そこに資本主義の理想を見る。私は著者の小泉批判に同感する部分もあるが、著者が米国中西部の共和主義を理想とすることには賛成できない。米国の共和主義とは、独立自尊、勤勉・禁欲を核とした(キリスト教)新教の思想だ。

筆者は、英国から新大陸・米国に渡ってきた新教徒の精神性こそが病理そのものだと思っている。彼らはアメリカ先住民を殺戮して居住地に追いやった。独立戦争後、広大な大陸を手に入れた彼らは、まず、飢餓にあえぐアイルランド人(旧教徒)を奴隷として新大陸に送り込み、過酷な開拓事業に従事させた。新教徒は米国建国の主体であるが、その成功の裏側には、無数の先住民とアイルランド人の犠牲が隠されている。だから私は、米国の共和主義を理想とする著者の価値観をまず信じない。

さて、話は横道にそれてしまったが、9.11総選挙で小泉政権がなぜ、国民に圧倒的に信任されたのか。本書には、若者のルサンチマンがやぶれかぶれの「小泉解散」と共鳴したこと、テレビの影響・・・などなどの回答はあるものの、十分だとはいえない。そのあたりの社会学的分析が望まれる。

本書は日本社会の現状分析について物足りない部分も多いが、著者が心配するように、日本社会がファシズムへの道を歩み始めている、という指摘に同感だ。私は著者と価値観を共有しないけれど、「日本が危ない」という著者の警鐘にはは耳を傾けるべきだと思う。