●村松剛〔著〕 ●村松剛 ●500円(昭和46年5月第一刷)
どのような本であっても、読み進めるうちに一箇所くらいはなるほど、と思わせる記述にぶつかるものだ。
本書は三島由紀夫の生前、三島の最も近くにいた、といわれる保守系文化人の一人の手になる三島由紀夫論だが、三島論としては平凡だ。壮士ぶった保守系文芸批評家だった著者(村松剛)だが、三島の自決を知ったときの慌てぶりが尋常でなかったことがうかがえる。三島に同志的つながりを感じていたのは著者(村松剛)ばかりで、三島は村松に決行を知らせなかった。本書を読む限り、決行当時、三島を理解する者は皆無だったようだ。
さてさて、冒頭に記した、なるほどと思わせるのは、著者(村松剛)が三島の戯曲『わが友ヒトラー』を評した文中――「政治というものは、川に橋をかけたり物価を調整したりする技術である。」(P104)という箇所だ。この表現は、著者(村松剛)のオリジナルではないようなのだが、目から鱗が落ちた。
著者(村松剛)は、ヒトラーを芸術家とみなし、政治に美・理念・理想を求めると、とりかえしのつかない誤りが生じるというような意味の記述を続ける。著者(村松剛)はヒトラーの狂気を芸術家という資質に求めている。この見解には賛同しかねるものの、ヒトラー、スターリン、ポルポト、毛沢東らの人類史的な誤謬の根源には、橋をかけること、物価を調整することよりも、人類の理想の追求があったことは間違いない。政治(家)が、美・理想・ユートピア思想から逆規定して現実を修正し始めたとき、虐殺・戦争・粛清が回避できなかった。著者(村松剛)は政治の逆説的メカニズムに気づいている。
このような観点にたてば、戦後の日本の保守政治はただひたすら、川に橋をかけ続けてきたことになる。日本の戦後の保守政治とは、そのような政治であったし、いまでもそうだ。東西冷戦当時、日本は結果的には西側に属したけれど、イデオロギーとして積極的に西側を選択したわけではない。平和主義、自由と民主主義の名の下に、かつての、国体、大東亜協栄圏、国粋的美・伝統文化の継続性も忘れたのが、戦後政治だったし、軍事(武)までも米国に依存した。橋をかけるために、政治は国富から予算を奪い取り、業者間の談合で「物価」を調整してきた。日本人にとって、政治とは技術だった。その結果として、日本人は莫大な富を得ることに成功した。
三島が攻撃したのは、そのような日本の戦後政治のあり方であり、そこにどっぷりと漬かった日本のマルティテュードのあり方だった。三島は戦後の否定者として、まず、日本型政治に規定された自衛隊に代わって、美しい軍隊を求めた。技術に勤しむ日本の戦後政治家に代わって、潔い(美)壮士のごとき政治家を望んだ。
いま、「美しい国」という政治のキャッチが新しい。政治に関して、美を求める政治家が登場したとするならば、日本人は全体主義の到来を覚悟しなければならない。だが幸いにして、「美しい国」を掲げる首相は凡庸であり、ヒトラーのような「芸術家」ではない。このキャッチフレーズはまやかしである、幸いにも。
(2006/12/07)