2009年12月2日水曜日

歴史の法廷に立つのはだれか

政府民主党が行った「事業仕分け」が大きな話題を集めた。中には、思わぬ批判もあった。その中の一つ、筆者にとって最も印象に残ったのは、事業仕分けチームが科学技術に係る予算の減額の判定を下したことを、ノーベル賞を受賞した高名な科学者たちが一斉に批判をした件だ。国家予算=税金の使われ方について活発な議論があることはいいことなのだけれど、事業仕分けに対する批判が、巧妙な論理のすり替えを伴う以上、これを看過することはできない。

ノーベル賞受賞科学者たちが、事業仕分け結果について批判した趣旨は次のとおりだ。まず、日本は先進国と比べて、科学技術関連予算が格段に少ないこと、そして、米国で博士号を取る人が中国の20分の1、韓国の6分の1しかいない現状などを説明し、「10年後、各国に巨大な科学国際人脈ができ、そこからリーダーが生まれる。日本は取り残される可能性がある」と指摘。「(事業仕分けは)誇りを持って未来の国際社会で日本が生きていくという観点を持っているのか。将来、歴史の法廷に立つ覚悟でやっているのかと問いたい」と疑問を呈したらしい。

まずもって、筆者はノーベル賞受賞者が、「歴史の法廷」という大言で事業仕分け批判を展開したことに大きな驚きを覚えた。事業仕分けが行った科学技術予算の減額は、科学技術の発展を否定する観点から行われたものではない。彼らが目指したのは、たとえば、某独立行政法人の「●研」が明らかに無駄な予算を獲得し、それを浪費している実態に、また、この独法が科学技術の発展に資する活動を行わず、関連する企業と癒着し、公正さを欠く契約等により研究資材等を購入している実態にメスを入れたかったのだ。スパコン開発も「●研」の利権がらみだし、「●研」は関係官庁から天下り官僚を受入れ、関連機関、団体、企業と特命随意契約を交わして、入札もなく理化学器械等を買い漁っているような「研究所」だ。しかも、そこの研究者にいたっては、研究成果が出なくとも「●研」から追い出されることはなく、欧米の研究所のように、研究者が厳しい競争にさらされることがない。つまり、独法「●研」に就職しさえすれば、たいした研究成果をあげなくても、放り出されることはない。

旧政権時代、日本が科学技術に対して、あまり潤沢な予算を組まなかったことはだれでも知っている。旧政権における科学技術関連の予算の使われ方は、科学者の実践的研究にではなく、天下り官僚の人件費や適正でない価格で購入する研究資材等に使われていた。仕分け人がメスを入れたかったのは、そうした旧政権における、日本の科学技術予算の使われ方のほうなのだ。

ノーベル賞を受賞した日本の科学者たちは官僚出身ではないものの、天下り独法の役員を務めており、天下り官僚と一心同体なのだ。ノーベル賞の価値をどう評価するかについては人さまざま、だれがどう思おうと勝手だけれど、筆者は少なくとも、すべての同賞受賞者の人格が高潔だとは思っていないし、科学者が世俗の欲望と無縁な者だとも思っていない。権力欲も物欲も人並み以上に強い者であると確信している。

日本の科学者・研究者のあり方が問われたのは、いまから40余年前の東大闘争だった。闘争終結後から今日まで、東大という日本を代表する学問・研究の場が改革されたという話は聞いていない、どころか、より権威主義的傾向を強めている。日本のノーベル賞受賞者、なかんずく、科学技術分野の受賞者は、権威主義が幅を利かす大学研究機関で生き残ってきた者であって、彼らが長けているのは、研究者としての能力よりも、政治力、管理力なのであって、加えて、企業、役所とあい渉るパワーなのだ。ついでにいえば、ノーベル賞を客観的な意味において、世界最高「権威」だと信じるか、信じないか、という問題も残っている。

誠に残念なのは、日本のマスコミである。ノーベル賞受賞者という権威筋からの事業仕分けに対する批判・恫喝(歴史云々)に恐れおののき、論点のすり替えに気がつかないふりをして、仕分け人批判に靡いてしまった。ナイーブ(うぶ)なこと、このうえない。

将来、歴史の法廷に被告として立つのは、どちらであろうか。