2010年5月26日水曜日

『玄界灘の島々(「海と列島文化」第3巻)』

●宮田登ほか[著] ●小学館 ●6627円(税込)

本書が取り上げる主な地域は、対馬、壱岐、沖ノ島、鐘崎(福岡県宗像郡玄海町)等である。そこは日本列島とアジア大陸・朝鮮半島の境界でもある。

■韓国から見た対馬、壱岐

アジア大陸から日本列島にいたる経路は、『魏志倭人伝』にあるとおり、朝鮮半島の金海(狗邪韓国)から海路で対馬~壱岐(一支国)を経て九州北部に入ったようだ。当時、北九州には、「末盧国」(佐賀県松浦)「伊都国」(福岡県糸島郡)「奴国」(福岡県博多)などがあり、その先に女王卑弥呼が統治する「邪馬台国」があると記されている。この記述は、朝鮮半島から島伝いに日本列島の中心(当時)に向かう安全かつ最短の順路であったと思われる。なかでも、対馬、壱岐は海路の中継地点として、重要な存在だった。当時、倭国より先進地域であった中国、朝鮮から、ヒト、モノ、情報、カネなどが、この地域を媒介して、倭国にもたらされた。

本書の諸論文中、「玄界灘に残る韓国文化」(任東権/イムドンクォン[著])が、朝鮮から見た対馬・壱岐の典型的認識を示す論文だと思われる。イムドンクォンによると、人類の移動は、寒冷地から温暖地へと向かうものだという。それが自然過程なのだと。このことは、一見自然のようだが、民族の正統性が「北」にあるというイデオロギーと不可分のものでもある。韓国人の常識には、日本列島の北に位置する朝鮮から南へ、すなわち、寒冷な朝鮮半島から、温暖な日本列島に向けて、民族移動があったはずだという前提があるようだ。

モンゴロイドの起源を特定することは不可能であるものの、彼らが地球の寒冷期への突入と同時に、北から南へ移動を開始した可能性は高い。しかし、歴史時代になると、人間集団(民族)の移動は、気候的要素に一元化できるものではない。朝鮮半島の住民が、対馬、壱岐を経て、日本列島に移動し定着したとはいい難い。しかし、朝鮮半島と日本列島が、もちろんその住民同士が活発に交流したことはまぎれもない事実である。同論文にあるとおり、韓国起源の山神信仰が対馬に残されているのは、明らかに、韓国からの影響であり、ヒトの移動を伴っていた。また、漂流神、天道(天童)信仰、檀君信仰等も、朝鮮半島~日本列島に広く分布する。海の正倉院といわれる沖ノ島には、中国・朝鮮を原産地とする遺物が多数奉納されており、古代のある時期、大陸文化が日本列島に一方的に流入した事実を否定しようもない。

地名についてみると、壱岐の全地域にいまも残る、「触(フレ)」のつく地名は、韓国語の古語の「村」を意味する、パル、パラ、ピレ、ヒラを起源とするのではないかという指摘も興味深い。

韓国語の古語と日本語の関係でいえば、対馬において、海神神社(いわゆる海神系の神社)に関するイムドンクォンの指摘に注目したい。日本においては、「ワタツミ」は、海神、和多都美と表記されるが、「ワタ」は“渡る”の意で、韓国語のパダ(海)に由来すると解されるという。つまり、日本の海神神社の起源は、朝鮮からの渡来神を起源としていることが、海神(ワタツミ)の語源から推察できるというわけだ。さらに、対馬にある海神神社は、海岸または海が臨める小高い丘の上に存するのであるが、そのことは、かつて海を渡ってきた人々の上陸地点か、または、定着した後に、故郷を臨める地点に信仰の中心地が建設された、と推測するのである。

■移動する海人

現代の漁業従事者というのは、港近くに居を構え、船にのって漁を行い、獲れた魚を販売することで糧を得る、いわゆる定住者のイメージが強い。家庭~港~出漁~帰宅というパターンである。ところが、「鐘崎と海人文化」(伊藤彰[著])を読むと、そんな漁民=定住民のイメージは吹き飛ぶ。海人の移動は「アマアルキ」といわれ、彼らは、「より良好な漁場があり、周辺に海産物を求める農村があり、そして領主の入漁保証と小屋掛けするだけの海辺の土地供与があればどこでも移住の対象地となった」(P396)という。鐘崎海人と隣接する大島海人(筑前)の分村は、瀬戸島(島根県)、夏泊(鳥取県)、輪島(石川県)に至っている。海人とは、「移動する民」なのである。彼らが漁業従事者であると同時に、海の軍事(海軍)を担う民であったことはいうまでもない。

ほかに、中世鎌倉時代から江戸時代に至るまで、日本の朝鮮外交を専門的に担ってきた、 宗氏の存在も忘れてはならない。