民主党のトップ二人が辞任した背景に何があるのか、実際のところはわからない。参院選に向けたイメージチェンジだというのが一般的見方だ。おそらく、その解釈で正しいのである。がしかし、どうにも不自然ではないか。
政権交代後の民主党を追い込んだのは、検察とマスコミが一体化した、鳩山と小沢に対する執拗な追及であり、追求の大義名分は“政治とカネ”だった。とりわけ、小沢一郎に対する検察とマスコミの追求は常軌を逸していた。小沢一郎という政治家は大衆に理解しにくいところがあるといわれるし、いかにも強面で、裏がありそうに見える。小沢一郎の顔が嫌だという人もいる。
危険なベストセラー『1Q84』
ところで、再び『1Q84』である。昨年、Book1~Book2が超ベストセラーとなり、今年の4月に続編のBook3が刊行された大作である。同書に関しては様々な解釈がなされているものの、天吾という青年と青豆という「殺し屋」の女性との純愛が大筋を構成するという見方に異論は生じないだろう。しかし、純愛というテーマでは割り切れない危険な要素が、この小説には散りばめられているように思う。フィクション、伝奇物語、現代の御伽噺・・・ではすまされない。とりわけ、BOOK3において、大きく扱われる牛河という私立探偵(調査員)に係る作者(村上春樹家)の人物像の付与については、看過できないものがある。
物語は、青豆がある謎の老婦人の依頼を受け、「さきがけ」という教団のリーダーを殺害(リーダーは自殺したとも解されるが)したところから大きく展開する。(「さきがけ」はオウム真理教を、そして、そのリーダーは麻原彰晃をイメージさせるが、そのことは物語の大筋に関与しない。)
教団のリーダーの抹殺を青豆に依頼した老婦人については、DV被害女性を救済するためには何でも実行する謎の大金持ちという設定である。この老婦人は、教団のリーダーが何人もの少女を淫行しているという疑いをもち、少女たちを守るため、青豆に殺害を依頼したことになっている。青豆はリーダーの殺害にいちおうは成功するが、その結果、教団から追われることになる。
牛河については、教団側が青豆の居場所を探すために雇った調査員という設定である。作者(村上春樹)が牛河に付与したキャラクターは、以下のとおり。
外見において、牛河は例外的な存在だった。背が低く、頭が大きくいびつで、髪がもしゃもしゃと縮れていた。脚は短く、キュウリのように曲がっていた。眼球が何かにびっくりしたみたいに外に飛び出し、首のまわりには異様にむっくりと肉がついていた。眉毛は濃くて大きく、もう少しでひとつにくっつきそうになっていた。それはお互いを求め合っている二匹の大きな毛虫のように見えた。学校の成績はおおむね優秀だったが、科目によってむらがあり、運動はとにかく苦手だった。(P250)
醜い少年は歳月の経過とともに成長して醜い青年となり、いつしか醜い中年男となった。人生のどの段階にあっても、道ですれ違う人々はよく振り返って彼を見た。子供たちは遠慮なくじろじろと正面から彼の顔を眺めた。醜い老人になってしまえばもうそれほど人目を惹くことはないのではないかと、牛河はときどき考える。老人というものはたいてい醜いものだから、・・・(P254)
ここに挙げた牛河に関する描写は、同書中のごく一部にすぎない。このような描写がしばしば繰り返される。「彼を見た者のだれもが嫌悪を抱く」と、作者(村上春樹)はこの小説中、執拗に何度も何度も繰り返して、その醜さを強調する。なぜ、牛河の醜さがこうまで、強調されなければならないのか、最初のうちは理解しにくい。
牛河は、物語の終幕近く、彼が青豆の居場所を発見する寸前、青豆の雇い主である謎の老婦人が差し向けたタマルというボディーガードに殺されてしまう。醜悪な牛河の手によって、青豆が教団に差し出される寸前、牛河がタマルによって窒息死させられる場面には、多くの読者が拍手を送り、快感を覚えたに違いない。
ボディーガード・タマルのキャラクターは、完璧な仕事人で、青豆を助けるためにあらゆる援助を惜しまない者であり、肉体的にも精神的にも美しいゲイである。タマルは、拳銃、食料、衣服等々青豆が逃走するに必要な物品の調達から、隠れ家の手配、そして、ついには、青豆や老婦人を脅かす調査員(牛河)の抹殺まで、ありとあらゆる仕事を完璧にやってみせる。いわゆる、その道のプロ(殺し屋)だ。たとえば、イスラエルの特殊部隊(モサド)を髣髴させる。
『1Q84』の第一の特徴は、美と醜の二元論が貫徹している小説であることだ。「美」に属する者は、青豆、天吾、謎の老婦人、タマル、フカエリであり、「醜」は、牛河、天吾の父親(NHKの集金人)、青豆の母親(証人会という信仰宗教の信者)であり、天吾の下宿の住民であり、その他諸々の生活者たちだ。
第二の特徴は、「正」と「悪」が倒錯した世界であることだ。青豆がDV被害女性救済のため、謎の老婦人に雇われた殺し屋であることは既に書いた。それはそれで、マンガであるのだから、問題とするに及ばない。しかし、青豆が教団のリーダーを殺害(リーダーは自らが殺されることを容認していたとしても)したことは、錯誤による殺人であって、老婦人、青豆に義はない。さきがけ教団のリーダーは、淫行犯ではなかったのだから。
リーダーを殺された教団がその犯人=青豆を捕らえようとすることは当然の措置であり、義は教団の側にある。青豆は錯誤によって無益な(物語上は極めて重要だが)殺人を犯した者にすぎない。教団が警察を恃まずに内々で殺人犯をとらえるため、私立探偵(=牛河)を雇うことも当然(義)であり、牛河が青豆を追いかけることも当然(義)だ。
ところが、牛河は、その醜さゆえに、義をもたない側、錯誤に基づいて教団のリーダーを抹殺した側=老婦人(その代行者タマル)によって、逆に殺害されてしまう。青豆は牛河の殺害に直接関与していないとはいえ、青豆が天吾との純愛を追求するという利己的欲求のため、青豆を追いつめんとした牛河を死に至らしめたことは明白だ。牛河を殺したのは、謎の老婦人に司直の手が及ぶことを阻止しようとしたタマルによってであるが、牛河を死に至らしめた主因は、前出のとおり、青豆の身勝手さ(純愛の貫徹の欲望)からだ。
読者は、村上春樹が周到に準備した毒素によって、醜悪な牛河が抹殺される場面に快感を覚え拍手をし、安堵する。正義と邪悪とが倒錯した世界が村上と読者の間で共有され、醜悪な者に対するスティグマが一掃されることを喜びあう世界が完成する。
前出のとおり、タマルはモサドをイメージする。パレスチナのテロが失敗と多くの犠牲を伴う反面、イスラエルが公然と行うパレスチナ人民に対するテロは完璧であり、モサド側の犠牲を伴わずになしとげられる。イスラエル、西欧及び米国からみれば、アラブ・パレスチナは醜悪であり、スティグマの対象である(オリエンタリズム)。
『1Q84』にはいろいろな解釈が可能のようであり、それぞれの解釈が文芸評論家等々によって開陳されている。しかし、牛河がタマルに殺害される箇所は、「美」が「醜」に対して、無条件に優位にあるという村上春樹の前提によって描かれた世界だ。邪悪と正義の倒錯が完成され、「醜」の抹殺、つまり、スティグマの解消が快感を伴って許容される世界だ。この牛河抹殺の箇所こそが、「村上ワールド」の完成の場面なのだ。スティグマを一掃するためには、理由も理屈も要らない、美しいものが醜いものを排除することが快い――という世界観が達成された場面にほかならない。
小沢排除に通じる『1Q84』の人間観
人々は、生活、倫理、法といった、面倒くさいものを日々払いのけたいと願い、美が醜に勝るという価値観をもって、そのとおりに、すなわち「自由」に、行動することを望む。「醜」なる者が唱える理屈(理論、仕事、作品)はその存在に規定されて「醜」であるに違いないと盲信し、スティグマを一掃する扇動に身を委ねたがっている。
これまで、マスコミは、小沢一郎の政策や理念をたった一行も報道しない代わりに、繰り返し、彼のイメージ(醜)に従って、報道の基準とした。マスコミは、小沢一郎を論理的・政治的にではなく、美醜の基準で抹殺した。と同時に、人々は、小沢一郎をその外見等々によって嫌悪した。彼の辞任(排除)に安堵し、彼の政治的退場に喝采を送っている。このことは、日本の言論界が「村上ワールド」そのものになっていることを意味しないだろうか。『1Q84』は極めて危険なベストセラーなのである。