●網野善彦ほか[著] ●小学館 ●6311円(税別)
本書がとりあげる地域は、九州西北部、佐賀、長崎、熊本の3県の海沿いである。この当たりの地図を眺めてみると、有明海、大村湾といった内海や、平戸島、五島列島、天草諸島といった島々、そして、西彼杵半島、島原半島、長崎半島などが入り組んだ、複雑な地形をなしていることに驚く。そこから西に東シナ海が広がり、直線で済州島を経て、中国の長江(揚子江)の下流域にぶつかる。以後、この地域を本書に従って、“西海地方”と呼ぶ。
こんにち、西海地方が日本の政治・経済の中心であるとは言い難い。が、本書にあるとおり、弥生時代から徳川時代末まで、世界と日本列島を結ぶ重要な役割を担ってきた。近代以前の西海地方は、日本列島の中にあって、世界に向かって開かれた唯一の窓であったと言って言い過ぎでない。
[1]弥生時代と西海地方
◎弥生文化は中国江南地方から伝えられたのか
西海地方が海外と接触を始めたのは、弥生時代(紀元前3世紀ごろから3世紀ごろまでの500~600年間)に遡る。弥生時代とは、日本列島が大陸文化の影響を受け、それまで築いてきた縄文時代の社会・文化が大きく変容を遂げた時代だと考えられる。
大陸文化は、日本列島に、稲作技術、金属使用等を伝えた一方、列島内の各所には、一定規模を有する権力機構(クニ)が整備され、有力な支配者が誕生した。その中の一つの「邪馬台国」と、その支配者(女王)・卑弥呼の名前が中国の文献に記されている。
大陸文化が日本に流入した有力な経路としては、朝鮮半島から対馬・壱岐を経由して、北九州に上陸したとされる「朝鮮半島ルート」が挙げられてきた。ところが、近年の弥生時代研究の進展により、中国江南地方から東シナ海を経て、西海地方に直接流入したとされる「江南ルート」が注目されるようになった。大陸文化の流入経路として「江南ルート」が「朝鮮半島ルート」より有力視されるようになった考古学上の契機の1つが、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)の発見であった。同遺跡は現在の地図上では内陸に位置するが、当時、有明海は同遺跡の間近まで迫っていた。すなわち、同遺跡は海岸沿いに開けた“クニ”の址なのである。
◎倭人の姿は、江南地方の越人と同じ
そればかりではない。『魏志倭人伝』には、
■又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。 東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。
(略)
男子は大小と無く、皆黥面文身す。古よりこのかた、その使の中國に詣るや、皆自ら大夫と称す。夏后小康の子、会稽に封ぜらるるや、断髪文身して以て蛟龍の害を避く。 今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤を補う。文身は亦以て大魚・水禽を厭う。後やや以て飾りとなす。諸国の文身各々異なり、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。■
とあり、倭人が中国を訪れたとき、自らを夏(王朝)の末裔(太伯の後裔)であると称していることも江南地方との関係を推定させる根拠となっている。夏王朝とは、紀元前2070年頃~ 紀元前1600年頃にあったと伝承される中国最古の王朝で、夏后ともいう。近年、江南地方において考古学資料の発掘が相次ぎ、実在が見直されてきている。非漢民族系の水上民族だという説も有力である。
夏王朝の末裔を自称する民族は中国周辺にいくつかあり、その1つが、春秋時代の紀元前600年頃~紀元前334年、中国江南地方(浙江省)に建国された越である。越の首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。もちろん、非漢民族系であると考えられている。また、時代は下って、紀元前220年~同80年の三国時代(魏・呉、蜀)には、江南地方には呉が建国されていて、呉も越人の国であった。
さらに、『魏志倭人伝』には、倭人が海中で鮫等の襲撃から身を守るため文身(刺青)をしていると記録されているが、江南地方の越の人々も鮫等の襲撃から身を守るため、倭人と同様、文身(刺青)をし、海中に潜って漁をしていたことが確認されている。なお、『魏志倭人伝』には、末盧國(現在の佐賀県松浦郡に推定)で、海に潜って漁をする人々の姿が記録されているが、西海地方にはいまなお、海人による潜水漁が伝えられている。
◎中国の東方憧憬信仰と日本の「徐福伝説」
徐福という方士(道士)が、中国を統一した秦(紀元前778年~紀元前206年)の始皇帝に対して、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり戻らなかったとの記述が、司馬遷の『史記』の巻百十八『淮南衝山列伝』にある。日本側からみると、これがいわゆる「徐福伝説」で、有明海沿岸各地に徐福伝説が残されている。なお徐福の来訪地といわれるところは、日本の各所にある。
この伝説を素直に読めば、中国から東方に向けて、3000人が移住したわけで、東方とは日本列島であると推定される根拠がある。すなわち、中国側から「徐福伝説」を読み解くと、中国に古くから伝わる「東方憧憬信仰」の1つだ考えることが自然である。東方に方士を差し向けたことは、始皇帝が最初ではない。
古代中国では、東方に理想郷もしくは不老不死の国があるという東方憧憬信仰が、秦の建国以前から信じられていた。周代(紀元前1046年頃~紀元前771年)に、倭人と越人が交流し、倭人が暢を貢いだことが、後漢代の江南の学者王充の『論衡』にある。暢(草)とは神聖な祭事に欠かせない薬草もしくは神酒だといわれている。暢を東方の倭人が貢いだという情報が、東方憧憬信仰の形成要因の1つとなった可能性もあるし、併せて、江南地方と倭の交易ネットワークが、周の時代には整備されていたとも考えられる。
◎「家船」と「蛋民」
西海地方に近年まで残っていた家船(えぶね)といわれる水上生活者の存在を、中国南部の水上生活者(=「蛋民」)と比較する研究も進められている。蛋民研究も西海地方と江南地方を結びつける手掛かりの1つだと考えられている。
◎水稲栽培は中国江南地方からこの地にもたらされたのか?
いずれにしても、西海地方は、日本列島における弥生文化の最先端地域の1つだった。ならば、西海地方における稲作技術の受容については、どのような状況であったのだろうか。
稲作技術の流入経路としては、①華北説、②華中説、③華南説の3説がある。①は、大陸文化流入の「朝鮮半島ルート」に、②が「江南ルート」に、それぞれ対応する。③は柳田国男が唱えた「海上の道」説で、中国広東省から台湾~南西諸島(沖縄)を経て南九州に入ったとするルートであるが、今日の学会では支持者は少なく、稲作流入でも、②華中説=「江南ルート」が主流である。
日本最古の水田址遺跡は特定されていないが、弥生時代前期初頭の水田遺構は、福岡平野の板付遺跡や野多目遺跡、早良平野の橋本一丁田遺跡等で発見されている。また、縄文後期中葉に属する岡山県南溝手遺跡や同県津島岡大遺跡の土器胎土内からイネのプラント・オパールが発見されたことにより、紀元前約3500年前から陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていたとする学説が有力となっている。いずれにしても、稲作関連の遺構は、西海地方からの発見ではない。近年の研究では、水稲栽培で定義される弥生時代の始まりが、紀元前10世紀まで遡る可能性を指摘する。
[2]遣唐使と西海地方
時代はくだって、中国に強大な唐王朝(618年~907年)が成立。倭国はこの文化先進国から学問・政治制度、技術等を学ぶため、遣唐使を派遣した。彼らが唐に向かう遣唐使船は、西海地方の美美良久(みみらく)=福江島三井楽から出航した。西海地方は、奈良・平安時代における大陸・東シナ海世界の一環にあった。
[3]倭寇が跋扈する海域
中世になると、中国江南地方、朝鮮半島南部海岸地域、済州島、壱岐・対馬、西海地方を含めた海域は、倭寇が勢力を振るう圏域となった。倭寇とは同海域において、漁撈、交易、海賊行為を行った人々の総称と考えられ、必ずしも倭人とは限らない。倭寇は国家統治や国境を意識しない自由な民であり、まさにグローバルに経済活動を行った集団だった。
[4]近世、大航海時代と西海地方
中世末(1543年)、ポルトガル人が種子島に漂着して以降、日本は大航海時代の西欧世界と接触を開始した。1570年には長崎が開港し、1549年にはイエズス会のフランシスコ・ザビエルが日本にやってきた。16世紀なると、西海地方は、日本が産する銀を求めるスペイン、ポルトガルが行う世界貿易の一環に組み込まれ、世界貿易と同時にキリスト教(カトリック)が西海地方に伝えられた。キリスト教布教の本格化とともに、長崎、平戸、五島列島、天草地方等々に教会、聖堂が建設されたりしたが、秀吉によって「禁教令」が発せられ、キリスト教は弾圧対象となった。以降、長崎は江戸幕府の鎖国政策の中にあっても、朝鮮貿易、オランダ貿易の日本で唯一の窓口=世界貿易港であり続けた。
本書によって、西海地方は、古代から近世に至るまで、日本列島内において、最もドラスティックに海外と接触を続けた地域であったことを知る。