2012年1月30日月曜日

『オウム真理教の精神史  ロマン主義・全体主義・原理主義』

●大田俊寛 ●春秋社 ●2300円(+税)

2011年大晦日の深夜、オウム真理教元幹部、平田信容疑者(46)が突然出頭したというニュースが流れた。平田容疑者は、1995年2月の目黒公証役場事務長逮捕監禁致死事件などで特別手配されたまま、16年半も逃亡したことになる。平田容疑者の逮捕によって、忘れかけていたオウム事件の記憶が呼び起こされた。

オウム真理教の一連の事件についてはわからないことが多く、オウム真理教の核心をついた本が読みたいと常々思っていた。そんなとき、本書の刊行を耳にした。それだけに、期待は大きかったのだが、期待は裏切られた。このことは後述する。

さて、本書は、オウム真理教とは何だったのか、という問いに対する回答である。著者(大田俊寛)は、それを「ロマン主義的で全体主義的で原理主義的なカルトである」とする。いかにも簡潔な回答だが、そもそもカルトとは、“ロマン主義的で全体主義的で原理主義的なもの”なのではないか。

著者(大田俊寛)が使用するロマン主義、全体主義、原理主義とはどういうものなのかは、本書を読んでいただければわかることなので、ここでは詳述しない。なお、著者(大田俊寛)が本書で使用する原理論は、終末論的世界観と換言したほうがわかりやすい。

著者(大田俊寛)は、“ロマン主義、全体主義、原理主義という思想的潮流が発生し、社会に対して大きな影響を振るうようになったのは、近代という時代の構造、より具体的に言えば、国家が此岸の世界における主権性を獲得し、宗教や信仰に関わる事柄が「個人の内面」という私的な領域に追いやられるという構造そのものに起因していると考えることができる。”と説明する。

この説明は、カルト教団全般についてのものであって、オウム真理教に限ったものではない。たとえば、日本近代の黎明期に起きた「神風連(敬神党)の乱(1876)」、アジア太平洋戦争直前、青年将校による「2.26事件(1936)」、戦後の共産党による「血のメーデー事件(1952)」、高度成長期の三島由紀夫と盾の会による「自衛隊市ヶ谷駐屯地突入事件(1970)」、「連合赤軍事件(1971~1972)」など、みな、ロマン主義的、全体主義的、原理主義的なカルト教団・党派等が起こした事件である。だが、オウム真理教はそれらと異なっている、同質性よりも、異質性のほうが勝っている。オウム真理教の特殊性の説明がほしい。

それだけではない。オウム真理教が実際の国家権力(日本)に対して軍事的に対峙した経緯を振り返ると、小規模な同志の粛清から端を発し(オウムの場合は、真島照之死亡事件。連合赤軍の場合は、早岐やす子と向山茂徳を印旛沼にて殺害した事件。)、その死の隠蔽から軍事的エスカレートが始まっているという脈略で言えば、前出の「リンチ殺人事件」「浅間山荘事件」を起こした「連合赤軍」と近似した精神的傾向が認められるように思える。すなわち、オウム真理教が示した思想的潮流の説明を“近代の構造”に求めるよりも、閉ざされた人間集団が醸成する権力構造が引き起こす混沌した精神状況、すなわち、スターリン主義的病理に求めたほうが当たっているように思える。

著者(大田俊寛)は、本書最終章(5章)の最終単元において、オウム真理教の特殊性について簡単に触れている。このことは、推測だが、本書の展開がオウム真理教の一般的説明に終始しすぎたことに対する、著者(大田俊寛)反省の念からではないか。

…世界中に存在する多くの「カルト」を見渡してみても、オウムほど活発で過激な行動に出たものはきわめて稀であり、そのような宗教がなぜ日本に出現したのかということは、問われて良い事柄である。(P279)
“問われて良い事柄”ではなく、このことこそ“問われなければならい事柄”である。そして、前出のとおり、オウム真理教の核心的問題とは、オウムの特殊性の解明にある。著者(大田俊寛)は、この“問い”に対して、以下のとおり回答する。

最初に仏教と葬儀の問題について。(略)第二に、都市の巨大化の問題について。(略)最後に、天皇制の問題について。
はたしてそうなのだろうか。この“問い”に係る著者(大田俊寛)の説明があまりにも不十分であるがため、読む者は靴の上から足を掻くような焦燥感を覚えつつ、本書を読了することになる。先述した期待外れとは、このことを指す。

なお、本書とは関係のないことだが、蛇足ながら、筆者が抱くオウムへの関心を最後に書いておく。それを一言で言えば、オウムが誕生し、拡大し、サリン散布に代表されるような大規模テロを敢行するまでの世俗的な要件である。

第一は、資金の流れ。
今日でも、既存の宗教法人におけるカネの流れは不透明なところが多いと言われる。オウムが、地方とはいえ、広大な土地を取得し、大規模な施設を建設できたのは、新興のカルト教団では得られなかった資金をオウムであるがゆえに調達し得たからだろうと思う。出家信者の財産収奪や宗教関連の物品販売だけで、賄えたのだろうか。

第二は、ロシアとの接点。
この件については、本書にも簡単に触れられている(P260~)。本書によると、オウムがロシアから入手した武器は、自動小銃のAK-74、生物化学兵器関連製品(防毒マスク、防護服、検知器等)、ヘリコプター(ミル17)、洗脳用LSD、もちろん、武器製造ノウハウ伝授、武器使用を可能とする軍事訓練も受けていたという。オウムがのちにテロに使用したサリンの製造技術も、ロシア経由であった可能性が高い。

1990年代初頭のロシアはソ連崩壊から間もない時期に当たり、混乱状態にあったらしい。近年のハリウッド映画にしばしば描かれているように、旧ソ連軍の大量破壊兵器(ミサイル、核爆弾、生物兵器等)を世界中に売りさばいているのは、“ロシアンマフィア”の仕業であり、オウム真理教もそのような集団と取引を行っていたことが推測される。

オウムがロシアで布教活動中、武器販売を専門とする闇組織と接触し、武器調達に至ったのか、そもそも、オウムのロシア進出は武器調達が目的だったのかも定かでない。また、両者の仲介者はだれなのか、という疑問も残ったままである。

第三は、日本の公安当局とオウムの関係。
前出のように、大量な資金がオウム真理教に還流し、それを使って、彼らは大規模な不動産を取得し、ロシアから、大量の武器や高額なヘリコプターを調達した。日本の当局がオウムの一連の不自然な動きを察知できなかったのだろうか。オウムが宗教法人であるがゆえに、当局が捜査(介入)を躊躇ったのではないか。

第四は、ロシア以外の海外勢力の影。
1995年3月、警察庁長官國松孝次が狙撃され重傷を負った事件は未解決なまま、2010年3月に殺人未遂罪の公訴時効(15年)を迎えている。なお、現場からは、朝鮮人民軍のバッジや大韓民国の10ウォン硬貨が見つかったという。この事件では、オウム真理教の信者だった警視庁巡査長(事件当時31歳)が取り調べに対し、犯行の具体的な状況や、銃を神田川に捨てたことを1996年5月に詳細に供述していたが、証拠品捜索の為にダイバーを投入しても銃が発見されないなど、供述に矛盾点が多いとして立件は見送られた。

なお、当時、オウムに対する当局の対応は、いかにも後手後手であった。「地下鉄サリン事件(1995年3月)」の前に起こった「松本サリン事件(1994年6月)」では、警察は、被害者である第一通報者・河野義行氏を重要参考人として取り調べを行った。また、マスコミによる報道が過熱の一途を辿り、事実上、マスコミによる冤罪が確定してしまった。捜査当局とマスコミ共作による、「でっち上げ」が常套化したのは、松本サリン事件からかもしれない。

最後に忘れてならないのが、オウム真理教幹部の一人・村井秀夫に対する、テロ殺人事件である。事件は、1995年4月23日午後8時35分、教団東京総本部ビル前において、村井が、犯人によって刃物で殺害された。その様子はTVニュースで繰り返し放映され、日本中に衝撃を与えた。実行犯は昼頃より事件現場に待ち伏せており、計画的犯行であることが伺えた。実行犯は事件後直ちに逮捕された。

『ウイッキペディア』には興味深い引用があるので、以下、ペーストする。

事件直後の上祐史浩外報部長(当時)のTV番組内での証言によれば、村井は死ぬ間際に「ユダにやられた」と話したという。後の2000年2月の週刊プレイボーイ上のインタビューでは上祐は、「彼(村井)は刺殺される直前に、オウム真理教の事件その他はユダヤの陰謀であると言おうとしていた、そんな気配がある」「ユダヤ叩きというのは、僕にはどういう意味なんかよくわからない」が、「彼はあの直前に、テレビに出演してユダヤ叩きをやろう、という計画を立てていた」「刺殺される数時間前に彼から私の方に「ユダヤ叩きをやりますよ。今から戻ります」という電話があった」「彼はその直後に刺殺された」、と述べている。また、事件当日、「オウム出版の編集部に彼が「ユダヤの陰謀関係の本を集めてくれ」と依頼していたという事実もある」。また、事件直前に出演したTBSテレビNEWS23で、筑紫哲也の「阪神大震災が地震兵器で起きたとすれば、それを使ったのは誰ですか。米軍ですか?」の問いに対して、「米軍と特定するには条件が足りないが、かなりの力を持っている団体と思う」と答えている。

殺害された村井が、「ユダヤ叩き」をやろうとしていた、というのは誠に奇妙なことだといわねばならない。

これらは、もちろん、本書が解明しようとした、“オウムとは何だったのか”という設問とは位相が異なるけれど、オウムの実態解明には、これまた、避けてとおれない事柄のように思える。

※著者(大田俊寛)が本書にて、若干触れている宗教学者・中沢新一批判については、稿を改めることとする。