2012年7月17日火曜日

『生態平和とアナーキー ドイツにおけるエコロジー運動の歴史』

●ウルリヒ・リンゼ[著] ●法政大学出版局 ●2400円(+税)

前回のBOOKSで『現代社会のカルト運動――ネオゲルマン異教(S・V・シューヌアバイン著)』(以下、『現代社会のカルト運動』と略記。)をとりあげた際、ドイツのエコロジー運動、とりわけ、[緑の党]について、同党がカルト宗教、ナチズムを本流とするかのような傾向を強調しすぎるきらいがあった。[現代ドイツの緑の運動=カルト集団]と誤読される心配も否めなかった。ドイツのエコロジー運動を歴史的かつ総括的に見直す必要を感じた。そのことが、今回本書を取り上げた動機の1つである。

70年代から1980年の「緑の人びと」の党結成に至るまでのさまざまな社会運動の発生は、多くの人びとにとってはやはり思いがけないものであったが、ともかく歴史家にとってはそれほど理解しにくいわけではない。19世紀から20世紀に至るドイツの産業化の過程を長い目で観察してみると、近代産業社会は幾度となく深刻な危機を迎え、そのあとに個々の社会運動を包括する「一連の抗議の環」ができることがわかるからだ。(P214)  
一般的には、1970年代に旧西ドイツで始まった[緑派の運動]は、それまで猛威を振るった極左マルクス主義革命運動の挫折の代替として新しく開始されたもののように思われて不思議はない。だが、といよりも、ドイツが近代産業社会を発展させようとしていたその黎明期に、すでに同じようなムーブメントが見いだせる――というのが本書の主意である。

さて、前出の『現代社会のカルト運動』の<第5章第2節:エコロジー社会主義と「血と大地」との間、産業社会主義の危機に対する反動の自然宗教>を思い出していただきたい。本書が19世紀末から20世紀に至るドイツの情況のなかに今日のエコロジー運動の始原を見出そうとする方法は、前掲書と一致する。19世紀から20世紀初頭のドイツの情況を振り返るということは、前掲書の方法と同様、今日の、エコロジー運動、ニューエイジ運動、カルト運動等を考えるうえで誠に重要な思想上の遡及行為にほかならない。そのため、少し長くなるが、本書から引用、要約をしていく。
 
●19世紀末から20世紀に至るドイツの情況 

ドイツが農業国から工業国へと変容する過程を、本書から以下要約する。
ドイツ帝国創設時(1871年)の総人口は4100万、1890年にはそれが4900万に膨らみ、さらに、1910年には6500万にまで増大した。1871年に大都市に住んでいたのはドイツの総人口の4.8%にすぎなかったが、1910年には21.3%に達した。それと並行して人口2千以下の小さな町村には、1871年にはまだ人口の63.9%が住んでいたが、1910年にはわずか40%にすぎなくなった。そのことが意味するのは、はなはだしい国内人口移動である。田園が都市に席を譲って過疎化していった。1907年には大都市ベルリンの人口のうちそこで生まれ育った者は40.5%にすぎず、残りは移住してきた者だった。移住によるベルリンの人口の増加は1881年から1890年の間にその頂点に達した。 

●ブルジョアの側から開始された自然保護運動
1871年にビスマルクによって創設されたドイツ第二帝国時代に特有な現象の1つは、一方でブルジョアジーが激しい勢いで突き進んでゆく産業化の担い手となるが、他方ではしかしまもなく教養ブルジョア的中産階級の中に急進的な反近代主義的潮流が生じ、それが資本主義的進歩の力に頑強に抵抗したという事実である。1890年から1910年の間にドイツが最終的に農業国から工業国へと変化したまさにその時代に、――自然や郷土についての新しい意識のうちに表現を得て――工業化過程に文化がなじんでゆく過程の中に障害が発生したのである。(P10)
産業化と「農村離脱」と都市化から結果として生じたのは、1900年頃のほとんど爆発的な大都市離脱という精神的、また現実的な反動だった。・・・「民族」と「郷土」、つまり「ロマン主義的」な解釈の色を帯びた歴史的伝統的な風景とその社会秩序が、きわめて貴重な価値として発見される。(P11~12)
今日のエコロジー運動に結びつくような自然、郷土、民族…といった伝統的価値の見直しが、当時、それを破壊する産業化の担い手だったブルジョアの側から起こったという逆説をまず、おさえておこう。
こうして、アスファルトの代わりに・・・「土地に根付いた」手工業の優良品が、そして大都会の人間の混合には人種的な純粋さゆえに堕落していない田舎の人びとが対置される。彼らは近代の物質主義と自由主義によって軟弱にされていないために家柄と宗教を堅く守り、大都会の工業文明の代わりにしきたりと職人気質に体現される「変わることのない」前工業的文化をはぐくんでいるとされる。・・・「農業ロマン主義」と「大都会敵視」は徹頭徹尾アンビバレントなものである—一方でそれは「血と土」の前ファシズム的神話を形成しているが、他方ではそれは大気や水域の汚染、土地の投機、悲惨な住宅状況といったものにおいて、また地域の景観を破壊する団地アパート、工業や交通施設の建造物といったものに明白になるような、都市化過程の経済上、公衆衛生上また美学上のぞっとするような帰結を、的確に表現しているのである。不安にかられた医師たちも都市化と結びついた性病の増加を指摘する。彼らはまた住民の「性病による全面的汚染」をも想像するが、彼らによればそれは大都市に端を発し、民族的・人種的衰退の根源となるのである。文明化(Zivilisation)と「梅毒化(Syphilisation)」は同一のものとなり、大都会は、不安を呼び起こす乱交の進展が今にも個々人を呑み込まんとする、あの聖書の「大いなる娼婦バビロン」のイメージと一つに溶け合う。(P12~13)
このような状況のなかから生じたブルジョア層における自然回帰の表れが、雑誌『田園』(1893年刊行)『郷土』(1900年刊行)であり、「郷土年鑑」「郷土博物館」「郷土の夕べ」である。また、1890年には、ベルリン近郊フリードリヒスハーゲン区において、ボヘミアンが出現する。1893年にはオラーニエンブルクの近くに「菜食主義・果樹栽培村・エデン」が設立される。1900年には、マジョーレ湖畔アスコーナ近郊のヴェリタ山への入植が開始される。そればかりではない。ヘルマン・ムテージウスのような建築家がイギリスを手本として広めた「田園別荘」運動や、ヘルマン・リーツが同じくイギリスを手本にした「田園教育舎」が創設される。
 なお、勝手な推測をするならば、大都会の性病の蔓延に対する恐怖と嫌悪が、後年におけるナチスのアーリア人種至上主義、ユダヤ人排斥・民族浄化の暴挙に結びついた理由の1つだったかもしれない。
新たに求められる万有(コスモス)との関係のための世界観的な枠組を形作っているのは次のようなものである。すなわち自らの父祖エルンスト・ヘッケル(その著書『有機体の一般形態学』〈ベルリン1866年〉においてエコロジー概念を創り出した人物)の機械的な世界像を世界精神の至福にまで高めるブルーノ・ヴィレとヴィルヘルム・ベルシェという人物たち(「ジョルダーノ・ブルーノ連盟」ベルリン1901年)の汎神論的一元論、またそこから成長してゆく神智学、さらにルードルフ・シュタイナーなる人物の、自然と超越性を結び付ける統一的な「精神研究」としての人智学である。(P14~15)
さらに、都会脱出の運動は、たとえば、土地改革運動、公営競技用屋内プールを産み出す身体文化運動、「ワンダーフォーゲル」、「ドイツ田園都市協会」、『芸術の番人』という機関誌によって「土地から成長した文化」の担い手としての「郷土芸術」運動の発言者となる「デューラー連盟」といった形で、多様な生活及び文化改革の連盟や運動の中で組織され始め、第一世界大戦に至るまではますます広範に普及していき、反アルコール、菜食主義、服装改革、性改革、裸体主義、自然療法、自然食等の運動と一緒になって、ネットワークを形成していくことになる。しかし――
第二帝国のブルジョア的な反近代主義を概観すると、一方で「血と土」という決まり文句がそれにとって本質を構成する要素となってはいるが、他方ではこの決まり文句にはさらに詳しい規定が必要だということが明らかになる。「血」はゲルマン主義と民族的思考のどんな形式をも象徴することができた。これらは人種的差別的ないし社会ダーウィニズム的な考え方と結びつく可能性を持ってはいたが、しかし必ず結びつくとも限らなかった。「土」は多くの人々にとって美的カテゴリーであり、故郷を喪失して根無し草になることへの不安と心情的に結び付いていた。(P19~21)
冒頭、今日のエコロジー運動とナチズムの「血と土」のイデオロギーが同根であるとする性急な結論を保留した意図はここにある。「血と土」の意味するものを、もう少し厳密に、検証しなければいけない。

●自然保護運動における美的価値
・・・(土地問題に対する)美的批判が最も容易に社会批判に転換したのも「土」の問題においてだった。「土地問題」はまさに反産業主義が反資本主義に転化する決定的な要点と見なされなければならない――といってしかしそれが必然的に社会主義的解決に行き着くというわけではないのだが。・・・第一世界大戦によってひき起こされた大都会住民の食糧難が「買い出し」において現実の姿となったとき、この反近代主義の経済的観念が脚光を浴び、他ならぬこの問題における父親の世代の無力に対して痛烈な批判が向けられた。(P21)
ビスマルクの土地政策も、ワイマール共和国成立前から成立後の社会民主党の土地政策も、田舎の人びとを大都会へと追い立てて都市の新住民を増大させることにかわりなかった。大戦後、人びとは土地問題について、結局、ナチズムに期待するようになる。当時の人びとが理想とする社会像は、ローマ法を廃し、ドイツ法を導入することをめぐるものだったが、そのドイツ法とは土地を共有財産となし、ただ個別の利用のためにのみ個々の家族に委託するという古代ゲルマンの考え方を再現するものだった。このような反資本主義的土地理論はその根をすでに第一次大戦前に醸成されていたようだ。
民族主義的伝統の内部には人種的・反ユダヤ主義的な土地改革の変種が存在しており、それはテーオドール・シュタムやオトマール・ペーター、テーオドール・フリッチュといった人々によって主張されていた。しかし社会保守的な目標から社会改革的な目標への移行が全くなめらかに行われたのは他ならぬ土地問題においてだったことが明らかになる――その納得のゆく例の一つは、アメリカの反都会主義者で土地税制の改革者であるヘンリー・ジョージの理論の受容であって、彼はオイゲン・デューリングには反ユダヤ主義的に変形されつつ受け継がれたが、同様にベネディクト・フリートレンダーにはきわめて自由主義的な変形を受けて受容されたのだった。(P24~25)
●ワイマール時代の起こった大転換――反近代主義から近代産業主義の肯定へ
近代主義批判の方向が、・・・近代の産業世界の原則的な肯定へと重要な一歩を初めて踏み出したのはワイマール時代のことだった・・・(P27)
ワイマール時代になると、大戦の敗北とインフレ時代のドイツ経済崩壊によって、国民経済における産業の意味が強く思い起こされるようになる。「きわめて困難な経済的苦境が全ヨーロッパに重くのしかかっている。いったい・・・今日でもまだ郷土保護というような“ロマンチック”な事柄のための余地が存在するだろうか――それは世間知らずの夢想家の道楽でありお遊びではないのか。すべては経済の必要の、つまり経済再建の必要の下位に置かれ、必要とあれば犠牲に供されなければならないのではないか。今日郷土保護と国民経済の間には橋渡しできない対立と矛盾が存在するのではないか。」(カール・ヨハネス・フックス/ドイツ博物館)といった具合だ。

そして、ワイマール時代、経済とエコロジーの間の調停は、美的な面でなされた。前出のとおり、土は「美的なカテゴリー」でもあったのだ。具体的には、「郷土的な建築様式」の確立である。ワイマール時代のブルジョア的エコロジストたちの理想は、保守的な価値観念と結び合わされながら発展を続ける国家的産業経済だった。そして、郷土保護もこの時代には、工業技術に対して肯定的な立場をとるようになっていた。

郷土保護と産業の協力の推進役は、帝政時代から自然保護機関や産業界のリーダーを務めていた、パウル・シュルツェ=ナウムブルク(ドイツ郷土保護連盟幹部)、ヴェルナー・リントナー(ドイツ郷土保護連盟役員)、オスカー・フォン・ミラー(技術と科学の傑作を集めたドイツ博物館の創設者)、コンラート・マートショス(ドイツ技術協会会長)、フリードリヒ・ハスラー(ドイツ技術協会技術部門長)、ヴァルター・シェーニヒェン(国家天然記念物保存局長官)らであった。リントナーは米国流の合理的工場生産に反対し、近代的・工業的に建てられた現代の日常建築でも「有機的に郷土像に適応させ」「郷土の本質に併合する」ことが可能だと信じていた。

●ナチズムの戦争経済に吸収された産業主義

1933年以後、彼らはナチズムの側の人種主義的な血と土のイデオロギーの中に自分たちの居場所を見つけていくことになる。「伝統と発展が敵対的な矛盾ではなく、有機的な統一体とならねばならないということ」(リントナー)――有機的という言葉が呪文のように繰り返されていた。しかし、現実には、彼らはナチス政権に裏切られていく。
・・・たとえばヴァルター・シェーニヒェンがナチス政権に期待したような、土地と結びついた民族共同体の枠内における自然保護の再評価は、戦争経済へと方向づけられた産業主義のためにほとんど何の効果もあげぬままに終わり、自然保護は(郷土保護も同様に)単にイデオロギー的に利用されたにすぎなかったということがすぐに露呈した。・・・実際にはナチズムはロマンチックで保存を旨とする自然保護の終局をもたらしただけでなく、不可欠な天然資源を保護しようという理性的な考慮をも無視したのだった。(P42)
ブルジョア的・保守的エコロジストたちは、実際には技術万能主義的な意味での進歩の信奉者へと変化していた。そして、ワイマール共和国崩壊後、ナチスのイデオロギーに取り込まれ利用されつつ、戦争のための産業主義遂行の前に沈黙を強いられたのであった。

●労働運動における“成長・進歩主義”
産業的成長と進歩というのがこの党(=ドイツ社会民主党)のすでに創立の時からのお気に入りの文句だったが、それはこの党が工業時代の子であって、その時代の生産的なエネルギーを資本主義後の社会にまで持ち込もうと努めていたからである。(P48)
技術と進歩へのドイツの労働運動の無批判な信頼は、もちろんマルクスの片手落ちによるというよりは、むしろ歴史に転用された通俗化されたダーウィニズムを受け入れたことによってもたらされたものである。労働者たちは、ただ単に資本主義というものが日々の生存競争によって規定されているという彼らの生活経験が、ダーウィニズムにおいて確認されているのを見ただけではなかった。彼らがそこから読み取ったものは、最後には自然法則的な必然性によって待望の社会主義社会へと人類を導き、進化の道を登ってゆくだろう歴史過程に対する希望だった。ダーウィニズムが労働者の新しい宗教となったのだが、それは自然科学理論として、旧来の宗教的迷信やまたそれを擁護する政治上および社会上の保守的な諸力比べて著しく勝っているように思われた。さらにまた当時の考え方によれば自然科学と工業的技術は互いに分かちがたく結合していたのである。
そこからの演繹――知は力をも意味するという――を通じて、大衆向けの自然科学的な雑誌や教育施設が繁栄することになった。・・・だが、自然は魂のない研究対象にとどまらず、ドイツ自然科学の伝統においては内面的高揚の誘因でもあった。そもそもこの頃は労働者階級においても新ロマン主義的な自然宗教と冷静な自然科学認識とが独特な混合状態にあるのである。そして労働者たちによく読まれたヴィルヘルム・ベルシェの著書においては、生物学と生活改善、および一種の有機的一元論(これはドイツ一元論創設の父祖エルンスト・ヘッケルの実証主義と唯物主義を通り越してドイツ・ロマン派の有機的自然哲学にまでさかのぼっている)が溶け合い、その時代にきわめて典型的な世界観的集合体を形づくっている。ベルシェのベストセラー『自然における愛の生活』の中ではダーウィンの理論の暗い側面に楽天的な世界観が取って代わる。淘汰の原則を主張する社会ダーウィニストたちが言うように、生存競争が自然を規定するのではなく、「愛」が規定しているのである。そこで読者(=労働者)は、世界推移の進化の歩みに見られる不公平と苦痛がつかの間の現象にすぎず、より良き未来に対する政治的信念が間違いではないことを読みとって、自らを慰めることができた。(P49~50)
ベルシェは、独特な反都会主義を提示した。都会が苦痛に満ちた資本主義的世界を代表するのに対し、野外の広々とした自然は、労働者にとって、社会主義のあけぼのの到来を予感するものとしたのである。ベルシェはシュレーバー菜園(都市住民が郊外に持つ家庭菜園。推奨者であるドイツの医師D・G・Mシュレーバーの名にちなむ)や労働者旅行という文化を称賛した。また、後にオーストリアの首相、連邦大統領となったカール・レンナーにより、労働者による「自然友の会」の運動が展開されるに至った。
当時の労働者が、個の内面において自然をロマン主義的に、また、有機的一元論的にとらえていた傾向は否定できないものの、しかし、当時のプロレタリアの自然観を、自然との友愛、反都会主義、自然ロマン主義的傾向に還元できわけではない。自然を技術や工業に対する労働者の敵意のしるしとして解釈できるようなものでもない。プロレタリアの雑誌に発表されたオーストリアのシュトゥーバハ発電所についての考察を見ると、この発電所は「現代の労働の、そして現代の人間精神の創造のみごとな作品」であるとほめそやしていることがわかる。プロレタリアは、電気――あらゆる自然力のうちの最強のもの――を、社会主義に道を開くブルジョア社会の爆破薬と見なしていた。すなわち、教養ブルジョア階級の文明批判が主張した反産業的で工業技術を敵視する反近代主義は、労働運動の中では受け入れられる見込みがなかった。
(労働者にとっては、)大規模な工業技術による自然力の利用は、まだ矛盾なく自然保護と調和させることができると思われていた。・・・歴史上の社会主義労働運動は、一方でこの自然開発の持つ自然破壊的な影響には辛抱強く目をつぶっていたのだが、それは・・・この運動が労働者の中に工業技術による自然の統治者を見、そしてこの工業技術がいつか生産の進歩を通じて労働者自身の宿命をも耐え得るものにすることができると考えられていたからである。(P66)
ブルジョアの側の反近代主義者はワイマール時代を境に、技術万能主義的な意味での進歩の信奉者へと変化していた。また、プロレタリアの側は、個々には当時の反近代主義の影響を受けつつも、労働運動としては、むしろ産業主義・進歩主義への信奉こそが、社会主義社会実現に不可避だとして、そのことによる自然破壊には目をつぶっていた。では、現代におけるドイツのエコロジー運動のルーツは、19世紀末から20世紀に至るドイツの産業化の過程からは見出すことができないものなのであろうか。

●生態平和(エコパクス)という概念
私たちは、進歩的・プロレタリア的な解放の要求と、進歩の力学に対する教養ブルジョア的・保守的な抵抗の姿勢との間の対立という手頃な公式が、説得力に乏しいということを示すことができた。・・・これらの歴史上の推進力では、「緑の」運動を産み出すには弱すぎたのだ・・・もっと奥行のある目標を持ち、新しい人間と新しい世界のビジョンを実際に内容に持つような、歴史的な力が必要だった。それゆえ私たちは今日の「緑の」運動の投錨地を「生態平和(エコパクス)」、つまり人間と自然との平和の状態、という誓約の中に見出せると思う。(P67)
冒頭で示したとおり、前回BOOKS(当コラム)で取り上げた『現代社会のカルト運動』は、ドイツの19世紀末から20世紀に至る産業社会主義の危機が形成したエコロジー運動の中心勢力を反動的自然宗教集団に絞り込んで求める傾向を指摘しておいた。そのことは、1970年後半から勢力を強めた[緑の党]が反動的自然宗教集団を母体とした運動であるかのような誤解を招きやすい。[緑の党]は、そのようなカルト集団を内包していたことは事実だが、ドイツのエコロジー運動のルーツを歴史的に厳密に検証すると、反動的自然宗教というよりも、本題ともなっている生態平和(エコパクス)と、国家統治を否定するアナーキズムにその祖形が求められる。

たとえば、[緑の党]の連邦綱領(1980年)の外交分野は、「暴力のない政治」「平和政策」であり、自然分野では、自然な生活空間の保存による生物学的に健全な環境の維持ないし復元、および動植物の種類のこれ以上の絶滅の阻止を意味しているとされる。それらを体現した先駆者たちについて、本書は詳しく紹介しているのだが、彼らは、日本ではほとんど知られていない。

●生態平和主義の先駆者――グスト・グレーザー

[緑の党]らが1979年、「アスコーナ――ヴェリタ山」の博覧会と結びつけて開催した「オールタナティヴな人びととの祭典」では、そこでオールタナティヴに生きた、最初に社会的ドロップアウトであるアルトゥール・グスタフ(「グスト」)・グレーザーをしのんだものだった。

グスト・グレーザーは、ヨーロッパにおいてマハトマ・ガンジーに対応する人物と目されている。彼は兵役を拒否し、帝国主義に反対し、無政府主義者たちと行動を共にし、ミュンヒェンレーテ(評議会)共和国の間、「心の共産主義」を宣べ伝えた。彼のスローガンは「無所有」であった。半ズボンの上に山羊の毛皮で作ったチュニックコートをはおり、長い髪をヘアバンドで束ね羊飼いの杖を持ち、スイスとドイツを歩き回った。彼の残した教訓詩として、『友よ、ふるさとへ帰れ』が、そしてその別稿に『人間よ、ふるさとには大地が必要だ』がある。その容姿とメッセージは、1960年代に米国に現れた「ヒッピー」を彷彿とさせる。

●生態平和の完成者――クリスチャン・ヴァーグナー

クリスチャン・ヴァーグナーのメッセージ(「愛の生活」)は、「生けるものの権利の承認と、そこから生じる尊重といたわり」だった。とりわけ森と草花は彼にとって神的なものの直接の反映であり、徹底的な動物保護が彼の戒律であった。

ヴァーグナーにおいてついに生態平和の完全な次元が明らかになる。彼の『新しい信仰』の問い第67はこのようなものである。
「新しい福音の旗じるしの下にある平和の国の建設について汝は何を知っているか。答え:動物の世界も彼らの救世主を待っている。いやそれどころか植物の世界も含めて自然の全てが待っているのだ。――そうとも、見たまえ、あこがれに満ち震えながら彼らはすでに数千年前から救世主を、自分たちの自然の権利を完全に承認し、また皆の完全な承認をとりつけてくれることができるような救済者を、待ちこがれているのだ。――しかしいつその者は来るのだろうか。――そしてどの先覚者が彼のヨハネなのだろうか。――問うなかれ。我も汝も、そしてこの者もあの者も、完全な人間なら誰にでもその使命があり、この崇高で神聖な使命に従わない者には、それに対して責任と罪がある。――そして汝にも我にも、また誰にでも次の警告が向けられているのだ。
汝らが彼らの自由を説かぬ限り、
汝らは己の使命から解放されず、
汝らが彼らの自由を全世界に告げた時、
はじめて汝らは自身の内の罪を完全に浄められる。」

ヴァーグナーにおいては2つの伝統の系列が合流し、そしてそれらが彼を生態平和の雄弁な予言者とならしめている。彼は一方においてロマン派と彼らによって導入された「ドイツ的魂の黙示録」(ハンス・ウルス・フォン・バルタザール)の後継者である。他方において彼の内には土着の敬虔主義が過激な形で出現しているのだが、それによれば、黙示録的・千年至福説的な期待の中で「剣が鋤べらと」(ミカ書第4章第3節)なり、狼が子羊のとなりで平和に草をはむ(イザヤ書第11章第6~7節)神の国、平和の国が、この世に存在可能なものととらえられるのである。ヴァーグナーによって明確になることは、生態平和の観念が結局宗教的な次元を持っており、ここで所与の国家および社会の秩序を超越する無政府主義的な地上の平和の国の輪郭が構想されているということである。(P77~78)
●生態平和とは何か

長々とヴァーグナーに係る記述を本書から引用した理由は、そこに[緑の党]の政治運動の出発点であり終着点が明らかになるからだ。本書の著者(ウルリヒ・リンゼ)はこう結論付ける。
・・・今日までの「緑の」政治を見るならば、それは単にロマンチックな感傷癖や後ろ向きの反近代主義、あるいは――逆に――工業技術や産業による環境危機や破壊に対する純粋に実際的な反作用といったものをはるかに越えるものなのである。この運動がその動的な力を引き出しているのは、むしろ、今でも世俗化された形で生き続けている、地上における神の国の出現に向けた黙示録的・革命的な歴史の転換の可能性への信仰からなのだ。・・・この形式はドイツのオールタナティヴな社会運動の「アングラ」の中で伝承されてきた。政治的、経済的、ないしエコロジー的な危機の時代には、それは希望の結晶点となることができるのである。(P78~79)
このような“黙示録的・革命的な歴史の転換の可能性への信仰”の危険性も著者(リンゼ)は指摘する。
 もちろんこの新しい世界への信仰の疑わしい側面もまたはっきりしている。その背後にひそんでいるのは、なんといっても世界は不完全なものなのだから、それと講和を結ぶことは拒絶しよう、とする姿勢である。あらゆる妥協に対する敵意、言葉を換えて言えば「緑の」根本主義(※近年では「原理主義」と訳される場合が多い。)がその帰結とならざるをえない。現実性の転換を目指すそのような現実拒否が困難であることは、あらゆる生きものの一致団結した共同体としてのエコロジー的な平和な国が今日この場でいったいどのような形で具体化できるかという、歴史的には同じくすでに数世紀前から議論されてきた問題においてとりわけ明確になる。(P79)
●幻影の農村コミューン

このような批判に対して[緑の党]が用意した回答は、「エコ村」の建設であった(ジンデルフィンゲン選挙綱領/1983年)。しかしそれは幻影である。時に現実かと見まがうほど色濃くなることがあるにしても幻影に変わりはない。だが、農村コミューンは、政治的、経済的な、エコロジー的な、また精神的な危機の時代には、繰り返し、具体的な希望となる。[緑の党]が改めてコミューンに思い至ったということは偶然ではなく、必然であった。

●エマオ運動――コミューンの宗教的脈絡

前出のジンデルフィンゲン選挙綱領において、[緑の党]が構想した「コミューン社会」の現実モデルはエマオ運動に求められる。エマオ運動の理念は第二次世界大戦後フランスで生まれた。1945年~1951年までフランス国会唯一の無党派議員だったピエール師が1949年に浮浪者や出獄者、絶望した人びとと一緒になってセーヌ=サン=ドニ県のヌイイ=プレザンス近郊にくず拾いの共同体を作り、そしてこれを聖書にあるパレスチナの地エマオにちなんで名づけたもの。それはかの地においてもかつて絶望した人びとがイエスによって新たな希望を見出した(ルカ伝福音書第24章第13節~35節)からであった。この名前は団結と非官僚的援助の象徴として付けられている。今日ではこのエマオ運動は、独立した諸集団から成り立ち、公益に奉仕する諸結社で組織されている。同団体の申告によれば、20を超える国々に150を超えるエマオ集団が存在するという。ドイツのエマオ運動の本部はライン川下流カンプ=リントフォルトのダクス山上にある。彼らの経済的基盤をなすのは、消費社会においてごみとして捨てられる日用品や廃物の収集と転売である。

映画ファンならば、フランス映画『ミックマック(Micmacs à tire-larigot)/監督ジャン=ピエール・ジュネ/日本公開2010年』で、軍需産業に単身抗議してはねつけられ、絶望した主人公バジルを助け、彼とともに軍需産業のトップをやっつけたのが廃品収集転売集団であったことを思い出すだろう。映画で異才を放つ彼らが、エマオ集団の者であったことはまず間違いない。
コミューンはドイツの歴史においては常に物質的生活の基点以上のものだった――そしてしばしば経済的には疑わしい成功しか収めなかった。それはむしろ聖なる場所、宗教的なトポスだったのだ。それが人を引きつけたのは、ただ単に世界に常に存在する悪しき状態へのあらゆる批判をそこで具象化することが可能だったからというばかりではなく、それによってまた新しい時代が現実に始まるという期待が信憑性のあるものになったからだった。(P83)
[緑の党]は1983年のジンデルフィンゲン選挙綱領の発出から84年になってもまだ、コミューン的生活実践を通じた産業主義および資本主義からの脱出と「もう一つの生活への参加」を達成しようと試みた。そのことは、ドイツにおけるサブカルチャアの伝統の驚くべき連続性を見せつけている。
それは原始キリスト教的・共産主義的な愛の共同体を実現しようと試みた急進的な敬虔主義に始まり、ロマン派におけるオールタナティヴな集団的生活実践を経て、1900年と1920年頃のコミューンの実験にまで及んでいたのである。1984年には「緑の人びと」の内部に「連邦研究共同体・コミューン運動」が作られ・・・カンプ=リントフォルトのエマオ運動本部を元にして企画準備された最初の「コミューン運動」が、1984年6月ハイルブロン近郊シュテッテンフェルス城で催された。(P84)
いずれにしても、生態平和運動の黙示録的・千年至福説的な活力は、産業化の過程の中で抑制されることなく、逆に、今日に至るまでますます大きな意義を獲得し続けていると言える。

●ワイマール時代の急進的なエコ社会主義――グスタフ・ランダウアーの入植運動

環境危機の解決を資本主義の克服に求めるグループが、今日の「緑派」に存在している。いわゆる「エコ社会主義」である。ドイツにおけるエコ社会主義運動はやはり、19世紀末から20世紀に至ってドイツで盛んであった無政府主義運動を先駆者として認めることができる。もちろん、当時の彼らの運動は傍流であり細流であったが、今日まで影響を与え続けている。その中心人物がグスタフ・ランダウアーにほかならない。

彼(ランダウアー)は1908年の「社会主義同盟」において、無政府主義的な工業労働者に向かってではなく、工業社会には否定的で、そこに組み入れられていない知識人と手工業者に向かって、新ロマン主義的な無政府主義を通して訴えた。ドイツ自然哲学とヴィルヘルム・ベルシェのエロス的な一元論の伝統の中にある自らの「神秘的」な自然理解についてのランダウアーの理論的発言は、彼のユートピア的・民族的な共同体理解と直接に関連している。それによって彼は、とりわけピョートル・クロポトキンによって文学的に準備された「社会主義的入植」を新ロマン主義的かつ反近代的に変形してゆく。
ランダウアーはプルードンを引き合いに出しながら、窮乏化が最も進んだ時にはじめて大衆にとって社会主義への機運が熟する、というマルクスの歴史観に反対した。彼はむしろ、社会主義がいかなる社会、いかなる時代にも可能だ、というプルードンの立場を共にしていた。それゆえ社会主義の紀元年を待つべきではなく、すでに今こそ社会主義の着手を企てるべきだ、彼は言う。その際彼にとって社会主義的な未来の共同体を先取りするひな形となるのは農村コミューンだった。(P89)
とはいえ、本書によるとランダウアーは実際のエコ入植によるコミューン建設に失敗したらしい。
ランダウアー個人は入植活動と平和活動の統合に失敗したとはいえ、彼が高く評価したレフ・トルストイ伯爵の作品を通じての理論的媒介は存在していたのである。もしランダウアーが田園入植地を建設していたとするならば、それはクロポトキンの精神ばかりでなく、トルストイの精神にも負うところ大きいものとなっただろう。というのもトルストイは世紀の変わり目頃には無政府主義・平和主義的な、またキリスト教・無政府主義的な入植の、最も重要な霊感の源泉となっていたからである。・・・・・・土と入植――それはドイツの過激な保守的右翼から無政府主義的左翼に至るまでが使用した反近代主義的、反産業的、反資本主義的な救済の公式だったが、特にランダウアーに由来する無政府主義においては、農村コミューンというものに、新ロマン主義の遺産に由来する自然信仰的な内容に加えて反軍国主義的なメッセージが込められ、そのようにして生態平和の教義にふさわしい器となったのだった。(P92~93)
第一世界大戦が終わった時、ドイツでは飢餓や失業、また心の空虚さや「郷土」への憧憬が原因となって、多数の、たいていはブルジョア的な青少年運動に分類しうる範囲では、平和的・建設的な社会主義というランダウアーの理念が影響を及ぼしていた。たとえば、無政府主義・宗教的なランダウアーの崇拝者エバーハルト・アルノルトは彼の入植地ザンネルツ――ドイツで唯一のトルストイ主義コミューン――と、後には「同胞農園」で、原始キリスト教的な愛の共産主義を復活させようとした。また無政府主義者ハインリッヒ・フォーゲラーは、自らの入植地バルケンホフで「愛の共産主義」を誓った。
ここでは田園入植が愛の原理の上に築かれるという平和な共同体の原型となる。しばしば呼び起こされる美徳は、ピョートル・クロポトキンがダーウィンの「生存競争」に対置した「相互扶助」の原則である。それゆえ、ヴェルヘルム・ペルシュの『自然における愛の生活』を熱狂的に賛美したランダウアーが、またクロポトキンの『動物および人間の世界における相互扶助』をドイツ語に翻訳・・・したということは偶然ではない。倫理的な愛の掟は、いわばこの「相互扶助」によってその自然科学上の正当性の証明を見出したのである。そのことによって自然と人類――後者は自然の一部として――を貫く力が見出された。この力は人間どうしの間の平和への、そしてまた人間と自然との平和への、希望をかきたてることができた。「相互扶助」が全てを貫いて支配していることへの楽天的な信念によって、はじめて生態平和を旗じるしとする社会主義の企てがそもそも実行可能なオールタナティヴとして登場することができたのである。(P93~94)
●オールタナティヴなエコ無政府主義――パウル・ロビーン

パウル・ロビーンについては日本ではまったくと言っていいほど知られていない。ロビーンについて端的に言えるのは、ドイツのエコロジー運動では行動や生活を実際に行うことが綱領上の要求に含まれており、この要求が実現されることが運動の正当性の証明となるという中で、もっともその正当性を発揮したドイツにおける最初の「緑の人」であったということだろう。

彼の生い立ち等の詳細は本書にて確認していただきたいのだが、1882年に東ポンメルンに生まれたが、私生児だったと推測されている。悲惨な少年時代をすごしたのち、いくつかの仕事を経験して船員となり、アメリカ合衆国、メキシコなど中央アメリカを訪れた。やがて水兵となり、ヘレロ人の蜂起(ドイツ領南西アフリカ/1904~1907年)に参戦した経験を持っている。第一次世界大戦中、彼は政治意識に目覚め、カール・リープクネヒト(スパルタカス団及びドイツ共産党の創設者)の心酔者となるが、無政府主義者との接触を通じて、孤独な心情的革命家、反乱者としての道を選ぶようになった。

彼は革命家であると同時に、自然観察者として優れ、独学の鳥類学者でもあった。第一世界大戦後に公務員として自然博物館にも勤務した。ところが敗戦国ドイツの再軍備化が開始されると同時に、彼が愛し、かつ自然観察のフィールドであった荒野=野鳥観察地域が軍事訓練や射撃の場となったことに抗議して、反軍国主義、動物愛護、生活改善の運動に身を投ずるようになった。結局彼は無政府主義者、反軍国主義者として、ワイマール無政府主義労働運動に接近することとなった。
ロビーンは、今日ならば「急進的エコ社会主義者」と呼ばれるような存在であった。そして、従来の自然保護に対する彼の批判は、ただ単にそれが自然保護のための産業資本主義の基本的制約付けをなおざりにしたことだけでなく、その国粋的狭隘にも向けられていた。・・・・・・・・・ロビーンは、労働運動が政治的には国際主義を掲げてはいても、この運動自体が都市化された産業資本主義に属するものであるがゆえに、革命的自然保護思想からは、およそ考えられる限りかけ離れていることも見過ごしてはいなかった。(P127~128)
反近代主義を唱える「ロマン主義的個人主義者」のロビーンは、ブルジョア側の産業資本主義の推進にはもちろんのこと、当時のドイツのプロレタリア革命運動が進歩に対して楽観的であることを見越しており、二つの主たる潮流から分離していた。
・・・主義に忠実なすべての無政府主義者やサンジカリストと同様に、無論ロビーンもソヴィエトの党派性、及び国家的独裁と、それを支持する赤軍を敵視していた。・・・・・・このような状況下にあって、彼にとっての「緑」の政治の唯一の手段とは、反抗的無政府主義であると思われた。そして彼が夢見たのは、自然科学を――ただし「それは自然科学が国家的妄想で毒されていない場合に限られるが」――自然科学と近い立場にあり、無党派で、種を(反軍国主義によって・・・)保とうとするがゆえに革命的で、しかも支配欲を持たない社会主義」と結合させることだった。(P129)
ロビーンが目指したのは、自然と結びついている無政府主義者やサンジカリストの一派との統一行動による、入植による「自然革命」と「農業革命」であった。だが、ブルジョア側からも、プロレタリアの側からも孤立したロビーンが実現できたものといえば、1922年に建てた「メンネ自然監視所」という名称の、学術観察基地であり入植行動の政治的目的と結びついた小屋にすぎなかった。これはシュテッティーンとアルトダム間の幅5キロのオーダー川河口地帯にあるメンネ島に建てられたことから、そう呼ばれたものだ。もちろん、彼が築いた「自然監視所」は成功をおさめることはなかったが、1945年末、暴徒と化したロシア人によって彼の伴侶とともども撲殺されるまで、20年以上も持ちこたえたのであった。

ロビーンは、プロレタリアの側からは、悲劇的英雄主義者、社会の進行を誤解した裸のネアンデルタール人、ユートピア主義者、ラッダイト(機械攻撃主義者)、禁欲主義者、ロビンソン的人間嫌い、技術と文明から離反し、野蛮と未開状態に後戻りしようとする反革命者等の批判を浴びた。
当時互いに反目しあっていた彼ら(※ロビーンの側とプロレタリアの側)がそれぞれ取った立場は、エコノミーとエコロジーの間の分裂を考えるうえで、現在に至るまでその今日性を失っていない。・・・ロビーンは、明らかにたいていの場合プロレタリアの消費志向型の考えへの批判によって労働者階級の無政府主義者を挑発し、これに対して「欲望の放棄」をつきつけた。同様に、過激な文明敵視にまで高まるほどに、ロビーンが進歩信仰を主義として批判したことも、彼らの拒絶にあった。人間をも含むすべての動植物の種の生存権を求めるロビーンの自然科学に裏打ちされた主張は、禁欲的かつ産業敵視のその性質のゆえに、無政府主義者からも激しい非難を浴びた。(P147)
一方のプロレタリアの側は、前出のとおり、ロビーンを機械攻撃者、ユートピア主義者、あるいは、歴史的分析能力を欠き、「自然の反逆」に確固たる立脚点を持つ「形而上学者」として攻撃した。

●ロビーンによるユダヤ人非難

ロビーンはプロレタリア大衆から孤立しただけではなかった。彼は次第にユダヤ人を産業資本と同列視し、ユダヤ人とは「大部分が、闇ブローカー、投機家、スパイ、腐敗したハイエナどもの集まりだ。」、また、ユダヤ人らを「法律によって保護される必要のない存在として取り扱い、片づけなくてはならない。」と非難し始めた。

さらに労働党が彼の「農業革命」「自然革命」に無関心で、「都市革命」を行おうとしているのは、労働党内のインテリユダヤ人のせいであるとした。ロビーンは「(労働党のインテリユダヤ人たちは)根無し草であり、もはや自然の大地を知らず、麦畑や黒い土への憧れもない・・・人民議会にまで至る多くの機関を備えた石の砂漠である都市の奴隷になりさがることなく、平和な自給生活を送る自然人民共同体のかわりに(大都市という)バベルの塔を造ろうとしている。」そして、(ユダヤ人)はまさしく恥ずべき「文化革命」に賛成しているが、「すべての革命の最終目標は、土、空気、光を獲得することであり、毒やガスに満ちた気狂いじみた産業化からの解放、すなわち自然革命でしかありえないのだ。」また、ユダヤ人は「たくましく物を作る人々」にではなく、がめつく金を貯める人びとに属しているがゆえに、労働者の敵でもあると書いている。

このようなロビーンのユダヤ人非難は、各方面から反論を呼んでしまった。たとえば、ロビーンがそれまで唯一彼の政治的見解を発表することができた『自由なる労働者』というサンジカリストの機関誌からも締め出された。これをもって、無政府主義と「自然革命」の協力段階は終わりを迎えた。ロビーンの「自然革命」と共闘を組んだ無政府主義者を含む社会主義系労働組織との「緑と赤の同盟」は破たんした。

●ロビーンが残したエコロジーの思想史への最も重要な功績
ロビーンの生態平和構想のうち、エコロジーの思想史への最も重要な貢献として、彼があらゆる植物や動物の生存権を認め、人間中心の世界観から離反したこと、ただしその際に、人間から遁走する破壊静観主義に屈することはなかった、という点が挙げられる。・・・・・・ロビーンは、産業文明によって引き起こされた自然破壊や人間の危機を見抜き、自らを文明の敵と告白するだけの覚悟があった。彼がすでに、1929年に、油による海洋汚染、森林汚染、原子爆弾によって迫りつつある世界の没落を――これは、核の冬に関する今日の科学的知識から予想されうる生態破壊と人類破壊を最初に予見したものだが――指摘した事実は、未来への不安のはなはだしい強調が、なにも社会運動に始まったことではないことを示すものである。(P158)
●ガンジー行動の人びと

(1)ヨーロッパにおけるガンジー主義の受容

ガンジーというと日本では、アジア太平洋戦争敗北後、戦勝国米国によって導入された戦後民主主義の受容と並行し、非暴力・無抵抗主義の人、インド独立の父として、敗戦国、民主化日本が手本とすべき「平和主義者」「戦後民主主義」の鏡として受け入れられてきたように思われる。では、ヨーロッパではどうだったのか――
「暴力なき抵抗」と、エコロジーに適合した「緩やかな」テクノロジーを提唱したマハトマ・ガンジーは、おそらく近代生態平和運動で最も感銘を与える人物であろう。(P159)
ドイツのガンジー主義者は、ガンジーについて、▽ガンジーという事件は、国家的でも愛国的でもなく、したがって「人類の事件」であり、▽人間らしさ有する無政府主義革命の知らせであり、▽ガンジーは、ヨーロッパ、ドイツを支配する、ブルジョアジーの反共的な革命不安と、政治的権力革命の共産主義理念を越えた、「新しき人類の創造主」として革命的である――と絶賛していた。

フランスではロマン・ロランという中心人物がガンジー運動を進めていた一方、ドイツでは自発的にガンジー運動が進められていたという。ドイツでは前出のグスト・グレーザーの先駆のあと、ワイマール時代のドイツのオールタナティヴ運動のうちに根を下ろし、1929年から1933年の世界経済危機の時代にガンジー運動は頂点に達した。この時代は世界経済危機の時代であり、第一世界大戦後のインフレ時代と同様、救済の渇望と飢餓が産業批判と自救行為へと人びとを向かわせた。
・・・ガンジーの立場は、イギリスにおける産業批判と生活改善主義の伝統から生まれたものであり、そのことによって、ガンジーの教説とヨーロッパのオールタナティヴな潮流との間に、原則的一致が存在していることも見逃せない。それゆえ、・・・ハンブルクの「ガンジー行動」の人びとにみられるような、ドイツにおける生態平和の古典的伝統の代表者たちが、ガンジーのなかに一人の指導者を見出したのは決して偶然ではない。なんといってもガンジーは、平和を目指す反産業主義の生きた手本だったのである。つまるところガンジーは、やはり貧困こそ、体制安定に向かわせようとする経済の強制からの解放を可能にするがゆえに、ほかならぬこの世界危機こそ、彼の理念がヨーロッパにより強固な地盤を獲得しうるチャンスであるとも思っていた。だから、ハンブルクのガンジー派の人びとが職業を放棄したのにしても、ガンジーその人がそのような行為のある種の正統化となり得たのである。(P161~162)
(2)代表的なガンジー主義者たち

この時代のガンジー主義者についても、日本ではほとんど知られていない。彼らはハンブルクを活動の中心においた。その中の一人、ヴィリー・アッカ-マンはプロレタリア出身で、雑誌の挿絵用銅版画係で看板屋であった。また、ヘルベルト・フィッシャーは元高校見習い教員、ヴェルナー・アイネッケは国民経済学の放浪学生である。彼らガンジー主義者は、ぼろをまとい、ひげと髪を長く伸ばし、路上生活をしながら、ときに「半獣人間アラバス」を演じたりもした(アッカ-マン)。

プロレタリア出身のアッカ-マンであったが、“無政府主義と「インフレ聖者たち」が、彼に大衆を克服する術を教えたのであった(P164)”という。アイネッケは、偉大なる「インフレ聖者」ルー・ホイサーの後継者である。「インフレ聖者」というのは、ワイマール時代、富裕層の援助で過激な宗教思想、無政府主義等を説く講演会等で生計をたてていた放浪自由人のこと。いずれにしても、彼らはホイサーに代表される、「インフレ聖者たち」の影響にあり、「インフレ聖者たち」が行っていた威圧行動が彼らを特徴づけていたという意味で、「ガンジー主義」もドイツ的現象だと言える。

1925年頃、インフレの危機が去り、ワイマール共和国が安定していく中で、ガンジー主義者を含めた「インフレ聖者たち」の活動は岐路に立たされた。彼らは路上生活から締め出され、新たな活動領域を探さなければならなくなった。そこでアッカ-マンは、フィッシャーとエマオ運動と同じように廃品収集業で生計を立てるようになり、そこから「転回点共同体」を結成した。この共同体の目指すところは、反文明、自由、都市インディアンを目指すものであった。彼らの綱領の要旨は以下のとおりである。
「われわれは新しい民族、新たに生成しつつある種族、新しき人種――野生人――一種のインディアンである・・・シュペングラーが没落を予言したとき、こんなことは予想もしていなかった!ローマはゲルマン人によって滅び、いかなる文明も押し寄せて血の雨を降らせる野蛮人から逃れることはできなかった。このような運命が西洋にふりかかるのは、せいぜいのところ東方民族によってでしかできないとでもいうのか!しかし、ヨーロッパは、そのアスファルトの真ん中から――原始林が出現するのかもしれないことに対する覚悟はできていない、――目下のところこれは比喩ではあるけれども、さていつまでただ比喩にのみ留まっていることか。」(P173)
彼らは投げ捨てられていたいろいろな箱で、ハンブルクのはずれにあるシュレーバー菜園の敷地に小屋を建て、それをペンキで塗った。そこで彼らは野菜やパン用小麦を栽培した。また彼らは、障害物競争のようなスポーツに興じた。彼らの宣言は続く――「われわれ転回点の仲間は、生がわれわれに日々新たに強いることのために、われわれの全生命を賭けている・・・われわれは、われわれ自身、及びいつでも来たいと思う多くの人びとのために、まったく無の状態から、経済的に束縛されていない生き方とより偉大なるものへ向かうための基礎を築いたのである・・・。」(P175~176)、「生とは行動である。生は行動から生じる。」(P176)、「未来が俺にとって何の関わりがるあるというんだ。俺は、今、ここで、この瞬間に生きていたいんだ!それは自己主義なんかではなく、あらゆる動植物と同じ全く普通の生き方なのだ。」(P176)。
こうして、グスト・グレーザー、トルストイ(その著『われわれの時代の奴隷制』は、1930年に大量に売れている)、ガンジーといった文学や自伝に描かれた模範像に、新たな生命が吹き込まれたのである。(P176)
彼らは、当時の政治的現実自体から判断して、このような生の哲学が正しいということを確信したのである。1929年以降、「転回点共同体」の少数メンバーは、ワイマール共和国だけではなく、共産主義やナチズム、いやいかなる国家政策や党政策さえ敵視するようになり、そのかわりに自力救済の思想を主張した。彼らのガンジー運動によって初めて、自力救済の左翼形態が目に見えるようになった。すなわち、「織機と鋤による革命」である。これにいちばん近いグループは、ドイツ無政府主義者たちであった。

また、「転回点共同体」を奮い立たせたのは西洋帝国主義ではなく、世界経済危機の時代における国家と党の無能さであった。ガンジーと同様――ランダウアーもそうであったが――彼らはすべての幸福が、手工業を基礎とする村落文明への回帰から生まれると期待していた。無政府主義の伝統がそうであるように、彼らもこの活動を妨げるものは、大衆を奴隷状態に留めおき、彼らの受動的立場を利用する国家指導者や政党であると見なした。彼らは、ガンジーが目標とするのは、“国家の繁栄は、百万長者の数がいかに多いかによってではなく、その国の貧しい者の数がいかに少ないかによって決定される。”という言葉であることを人びとに示した。そして、労働者を納得させるための模範行動として、一軒の家を共同体として手に入れ、靴職人や無公害パンを作るパン屋の周囲に拡大していこうとした。また、彼らは、クヴィックボルン近郊のホルム湿地を開墾した。

彼らは古臭い階級闘争のスローガンを否定した。「ハンストやバリケード戦、内乱によって貧窮している人民のために何かがなされるのではない!」(P180)というわけである。そして、自らが看板書き、機織り職人、農夫、印刷屋として働いたことのあるヘルベルト・フィッシャー(元高校見習い教師)が模範とされた。大切なのは、仕事と生産物に対して、新しい関係を見出すことである。「文明に必要なのは、なかんずく、人間たちが自分たちを取り囲んでいる事物に対し、親密で個人的で細やかな感情を持つことである。これが可能となるのは、これらの事物が大量に、愛情もなしに機械によって生産されることではなく、芸術家の手仕事のなかで、一つ一つ個性をもって創造される場合にのみ限られる。」(『織機と鋤による革命』第3号)

彼らが目指したのは、妥協なき反資本主義、都市の拒絶、機械に対する敵対心であり、その一方で、来たるべき村落文明の核となる自分の土地、自分の入植地があり、「機械の愚かさ」の拒否である。彼らの思想を端的に示す機械攻撃主義(ラッディズム)の一文は次のようにある。
「今、生は冷淡である。われわれは再び暖かさがほしい。生は抽象的になってしまったが、われわれはそれを具体的にしたい。間接性を直接性で、組織を有機的なもので、再び置き換えたい。人間どうしの関係、人間の自然に対する関係、人間の手によって創造され、個人を反映する環境の人間の関係に基づいて・・・、世界経済ではなく、多くの定住しない人びとによる自由で解放された村落経済を作りたい。愛にあふれ、戯れながら、・・・素人的に、芸術的に、・・・時間を全く気にすることなく・・・必要な事物はみな個性的な形を取って生まれてくる・・・労働が創造、すなわち遊戯であり、幸福であり、生の形成あるところでは、労働の軽減や短縮など必要ではないのだ。」(P183)
1931年、アッカ-マンは再び放浪を開始した。彼に従ったのは妻、2人の子供、ヘルベルト・フィッシャー、放浪仲間のベルンハルト・アイベン、ヴェルナー・アイネッケである。彼らの目標はガンジー行動への扇動であった。アッカ-マンらは髭を長く伸ばし、「ランゴバルト人(古代ゲルマン民族の1部族)のオーケストラ」と銘打って民謡やさすらいの歌を歌ったり奏でたりしながら、彼らの考えを広めていった。

1931年末、彼らはティディッシュの近くに土地を見つけ、入植地とした。しかし、1932年から33年にかけて、ナチスの政権獲得が近づくにつれて、入植者集団も分裂した。アッカ-マンは入植地に残り、自分をゲルマン人の長、一種のオーディン崇拝者であると称した。結局、ガンジー信奉者であり、非暴力主義者であったアッカ-マンはナチス国家によって徴兵され、陸軍狙撃隊の兵役につくこととなったが、大戦争を生き抜き、1985年6月に死去した。
ドイツの歴史における生態平和とアナーキーのイデオロギー上かつ実践上の結合は妥協を許さないものだったので、このような左翼の反進歩的路線は・・・近代文明によって人間に迫りつつある危機を、容赦なく暴いてみせた。さらに、産業化の過程において引き起こされる美的、エコロジー的貧困化が、左翼の論ずべき課題ともなりうることを初めて指摘し、それによって、歴史的労働運動がこの問題を排除するのを是正せんと試みたのであった。そして、そのエコロジーに対する敏感さによって、またアッカ-マンやロビーンのような個人単位の恐れを知らぬ先駆者らによる生を賭した試みに裏打ちされて、盲目的な進歩への楽観主義に対し、測り知れぬほど大きな警告を発したのである。したがって、「自然革命的」反進歩主義者らがその生涯を捧げた活動もまた、生態平和とアナーキーという彼らのビジョン(すなわち自己規定)によって、将来の進歩に大きな視野を提供しうるのである。(P198~199)
●おわりに

ドイツのエコロジー運動の歴史を本書によって振り返ることによって、今日の[緑派]につながる大潮流を確認することができた。それは一見すると非妥協的、ドンキホーテ的な個人単位の夢想家の群のようにも見えるが、ワイマール時代の前後、発展しつつある資本主義の矛盾を止揚しようとする、思想的運動の1つであったことがわかる。

冒頭に掲げた問題意識――『現代社会のカルト運動』の記述が、ドイツのエコロジー運動、とりわけ、[緑の党]がカルト宗教、ナチズムを本流とするかのような断言を相対化し、複合的に再構成しようとする目的はとにかく、達成できた。しかしながら、本書に登場するオールタナティヴな「自然革命的」反進歩主義者らのビジョン(すなわち自己規定)が、「生態平和とアナーキー」という概念に凝縮されすぎた点が新たな不満として残ってしまうことも事実である。

彼らを規定したものが、ドイツの急速な産業化がもたらした諸矛盾を解決しようとする純粋な心情からであっただろう。そして、その解決の手がかりとして、ベルシュ、ダーウィン、ヘッケル、クロポトキン、バクーニン、トルストイ、ガンジーらの思想を援用し、かつ、当時のアナーキズムやサンジカリズムの思想と同調しつつ、非妥協的エコロジー運動を展開したことは了解できる。だが、ロビーンが結局のところ反ユダヤ主義者になってしまったことや、アッカ-マンが自らをランゴバルト人と、また、ゲルマンの長――オーディン崇拝者だ、と自称したという記述は、やはり大いに気になるのである。

本書は、この時代のオールタナティヴなエコロジー運動家が、民族主義・人種主義、そしてその基底にあるアーリア人至上主義、ゲルマンの自然宗教信仰にどのくらいの距離をもっていたのかについて触れていない。また、彼らがユダヤ=キリスト教をどう考えていたのかについてもそうである。彼らの運動とゲルマン異教の関係は伏せられたままである。もしかしたら、その部分に係る記述を、敢えて意図的に回避したのではないかとも思えてしまう。
  1. 本書は1986年(26年前)に上梓されたもの。
  2. 当時ドイツは、東(ドイツ民主共和国)と西(ドイツ連邦共和国)に分離していた。東西ドイツの統合は1990年。
  3. 1970年代に旧西ドイツで始まった環境保護運動の推進グループDie Grünenは、日本では「緑の党」と呼ばれるが、本書では「緑の人びと」と原語に忠実に訳されている。