2012年7月22日日曜日

メッキが剥げた大阪市長の政治姿勢

橋下大阪市長の不倫報道が週刊誌にあって一時大騒ぎになった。だが、数日経った今やすっかりこの話題は沈静化し、何事もなかったかのようだ。筆者は不倫報道に興味はないが、橋下大阪市長の思想及び政治手法には興味がある。なぜならば、筆者は橋下市長が好きではないから。とにかく、あやしいし、あぶない。まず、その理由から述べる。

筆者はこの人物に実際会ったことはない。その言動について資料等を詳しくあたったこともない。マスメディアの報道の断片を通じてのそれを知っている程度。もちろん、不倫報道の週刊誌を読んでいない。だから、以下の評価は、筆者の憶測・推測の域を出ない。

筆者の知る限り、橋下大阪市長の評価としては、新自由主義者、合理主義者というのが一般的ではないか。たとえば、大阪市の財政立て直しにあたって、かなり思い切った合理化を断行しようとしていると。彼が目指すのは、どちらかといえば「小さな政府」であり、自助の精神を第一とし、かつ、規制緩和、市場に信をおくもののように感じられる。

市財政の再建策の一環として、伝統芸能、伝統文化に係る諸団体に対する助成の削減・中止がある。たとえば、上方文化を代表する文楽や浄瑠璃もそこに含まれる。助成を取りやめる理由は、それらが自ら延命できないこと、あるいは自ら延命しようとしないことだ、と説明しているように思う。彼に言わせれば、どんなに芸術的価値や歴史的価値があっても、文化の市場、すなわち、エンターテインメント市場に淘汰されたものは、助成するわけにはいかない、というわけだ。この説明は、アダムスミスのいう市場における「神の手」を代弁するように思える。換言すれば、市場において生き残ったものとは、淘汰を経たもの、すなわち、「良きもの」「正しきもの」「優れたもの」だということになる。

一方、その反対に市場性を欠いたもの、売れないもの、市場競争に敗れたものとは、すなわち、「悪しきもの」「必要とされないもの」「劣ったもの」「駆逐されたもの」ということになる。

さて、かかる言説は、新自由主義、市場原理主義とは似て非なるもので、19世紀末から20世紀初頭に世界的に流行した、ダーウィニズム(=「進化論」)である。「進化論」を大雑把に言えば、環境に適合した生物だけが現存する、すなわち、環境に適合し「進化」したものが現存する(=生物なのだ)という思想だ。加えて、自然界、とりわけ動物界においては、優性なオス(=強者)のみが生殖に与れるという法則が貫徹していて、そこから、人間社会も強者・指導者が劣性の者を支配することが望ましいという優生思想・独裁思想に転化していく。

20世紀初頭にドイツで勢いを得たナチズムがその典型であり、加えて、ロシア革命以降に世界を席巻した俗的唯物史観におけるプロレタリア革命の絶対性の思想(スターリニズム)だった。前者は文字どおり、優生思想、アーリア人(ゲルマン人)至上主義を旗印にしてユダヤ人虐殺を行い、世界征服を試みたし、後者においては、歴史はブルジョアジー支配からプロレタリア支配に「進化する」という歴史観に基づき、共産党反対派の粛清や強制収容所による強権国家群をつくりあげた。挙句、両者は20世紀中に消滅した。

橋下市長の「暗さ」は、ダーウィニズムがもつ「暗さ」である。競争による勝者と敗者の二分は、死臭を伴うものだから。

彼が引きずる死臭は、彼の半生から来るものなのではないだろうか。橋下市長は、複雑な家族関係と貧困等の環境下に生をえたといわれている。だが、彼は青年期に劣悪な環境を克服し、一流大学合格、最難関の国家試験といわれる司法試験合格といった成功を得た。さらに、TVタレントとして名声を得、それを利用して、大阪府知事、大阪市長、維新の会代表・・・と、政治家として大成した。そのことにおいて、自らを環境の淘汰を潜り抜けた者――「進化した者」――と、自己規定したのではないか。

また、彼が進化論者である以上、不倫問題の発覚は、今後の政治状況において女性票の減少という痛手であはあるものの、優生なオスの証明という次元では勲章なのだと自負しているように思える。不倫問題に係る橋下市長の記者会見をTV映像で見た限りでは、女性票の減少という政治的マイナス面と、進化論における強者(優生)の証明というプラス面が入り混じった、複雑な表情を浮かべていた。もちろん、「心からの反省」などはしていない。

大阪人に限らず、日本人の大方の倫理観では、浮気や不倫は男の勲章だという気分がないわけではない。やんちゃを許容する気分も大いにある。だから、今回の不倫報道は、彼の政治生命にかかわる致命傷にはならない、という評価が一般的だ。もちろん、前出のとおり、女性票は若干減ることはあっても、増えることはあるまいが、そもそも、彼の不倫を嫌悪する層は、彼の支持者ではない。彼を支持するのは、「決められない政治」に苛立ち、たとえば、小泉元首相や石原東京都知事のような、「強い」指導者を待望する層なのだから。

だが、この先、橋下市長の勢いに翳りがないのかというと、そうではないと筆者は思う。たとえば、橋下市長は、市役所の職員にタトゥーに関する調査を実施したことがあった。また、学校では、教師に起立しての国歌斉唱を強制した。交通局の不祥事にも強い姿勢で臨んだ。彼が率いる政治集団「維新の会」の教育政策は保守的な「家族」を重要視するものだったような気がする。それは、「健全な父」の存在が前提であり、「不倫する父」の姿は想定されていなかったように思う。これらは、橋下市長の道徳心、倫理観を反映したものだという仮想において、日本の「健全な市民」の支持を得たのではないか。

さて、不倫というのは、筆者がどう考えるかは別として、一般には道徳上、倫理上、許されないこととされている。不倫市長がタトゥーをどうこう言えるのか、不倫市長が教育問題に口を出せるのか、交通局の不祥事など、女房を裏切ることに比べればかわいいものだ、という対抗的意見に橋下市長は反論できない。そもそも道徳・倫理を梃にした橋下流は、自らの不道徳、不倫(理)によって、梃そのものを外してしまった。そうである以上、彼の大阪市役所改革がうまくいく可能性は少ない。

そればかりではない。橋下市長は、不倫問題に関する記者の質問に対して、「家庭内のことですから」の一言ですべからくかわしていた。であるのならば、市長から仕事ぶりを問われた組合や職員は、「課内、部内、局内、職場内・・・のことですから」の一言でかわすことが許される。役所のことよりも、お前の家庭を立て直せ、不倫のお前だけには言われたくないぜ、という声に橋下市長は反論できない。大阪市役所のガバナンスは崩壊する。

橋下市長の政治手法は、橋下という個人の倫理観・道徳観を強弁することで、多くの支持を獲得する構造になっている。彼が攻撃対象としたのは、「公務員(=税金で食わせてもらっている者)のくせに、仕事中に政治活動をしている職員組合」であり、「国の教育に携わりながら、国歌を歌わない教師」であり、「客を呼べない、税金を無駄遣いする、文化人、文化団体」であり、「くわえタバコで勤務する交通局の職員」等々であった。そうした「無駄遣い」、「税金泥棒」「怠け者」に対する彼の攻撃的姿勢は、補助金等とはまったく無縁の自営業者や、企業内の厳しいリストラを生き抜いているサラリーマンには、胸のすくものだった。それは、無駄づかい、税金どろぼう、忠誠心の欠如という不道徳者に対する、倫理的・道徳的攻撃だった。

しかし、いままで攻撃にさらされてきた側からすれば、今回の市長の不倫報道により、「お前だけには、言われたくない」という対抗的姿勢が有効となる。さらに、一方、これまで、橋下市長の道徳的・倫理的攻撃を是としてきた支持層からは、攻撃の大義、すなわち「攻撃者の資格」を疑問視されることとなった。

政治家橋下が立案する政策等は、みんなの党や小泉構造改革と大差はない。せいぜいのところ、官僚叩きのポーズであり、「無駄」の排除であり、市場原理主義、新自由主義の盲信である。大衆もマスメディアも、維新の会の諸施策の検証より橋下のキャラクター、与太的姿勢に喝采を浴びせた。不毛である。不倫報道も輪をかけて不毛である。だが、不倫報道が橋下の政治姿勢、政治手法、集票方法のメッキを剥いだことは注目してよい。大衆とマスメディアが、そこに気づかなければ、どうしようもない、ただのゴシップ週刊誌ネタで終わってしまう。