2012年7月24日火曜日

「いじめ」ではなく犯罪だと認識せよ

「いじめ問題」をかくも深刻化させた要因はいくつかあろう。だが、最大の要因と思われるのは、文科省、教育委員会、学校、マスメディアが、「いじめ」を特定のカテゴリーとしてしまったことだ。「いじめ」の責任を、学校(その管理責任者である校長)におしつけたばかりか、学校長に対するマイナス評価としてしまったことだ。

すでに報道にあるとおり、「いじめ」問題解決のための現行の制度では、「いじめ」等の問題が発覚した場合、教育委員会及び学校が第三者調査委員会をたちあげ、調査が終わった段階で、調査結果を公表しなければならない。

ところが、おかしなことに、管理責任を問われる側(すなわち教育委員会及び学校)が、委員会組成の実質上の事務局となっている。つまり、裁かれる側が裁判を主催するようなもの。当然、教育委員会及び学校は、自らに責任が及ばないよう、調査委員会を骨抜きにする。教育委員会及び学校は、調査結果において自らの管理責任が明確になった場合、訴訟により賠償責任を負う可能性が高いからだ。

しかし、そのような事態に至るのはレア・ケースで、学校の現場では、軽微な案件であっても「いじめ」が表面化しないよう、つまり、調査委員会の立ち上げまでに至らぬよう、「いじめ」はすべからく存在しないとする、隠ぺい工作に走ることになってしまった。前出のとおり、隠ぺいすることで、学校管理者はマイナスの評価を回避しようとする。

つまり、学校の現場では「いじめ」があっても“ないことと”にし、よしんば、「いじめ」が発覚してしまった場合でも、教育委員会と学校が共謀して第三者委員会を骨抜きにし、「いじめ」の実態を明らかにさせないよう工作する。自らに責任が及ばないよう、蓋をしているのが実態なのだ。

その結果なにが起きるのかといえば、学校内外は「いじめ放題」「いじめられ放題」の無法地帯となり、「いじめる側」に一切処罰が及ばず、「いじめられる側」は被害を受け続けることになる。その挙句、「いじめられる側」に自殺者が出ても、自殺と「いじめ」の間の直接的因果関係が証明されにくいことをいいことに、「いじめる側」は司法によって守られるという最悪の結果を招いてしまったのだ。

「いじめ問題」はきわめてシンプルである。それを「いじめ」という特定の域に特殊化するから複雑になるのであって、暴行、恐喝、脅迫等の犯罪が生徒間に発生していれば、被害者は被害届を出し、警察当局が加害者を未成年犯罪者として検挙すればいいだけの話だ。学校の現場に警察が入るのはどうのこうという者もいるようだが、報道で知る限りでは、深刻な「いじめ」などあり得ないのであって、どれもみな犯罪なのである。

犯罪発生に管理責任はない(場合が多い)。たとえば、職場内で殺人事件が発生しても、職場の管理者が管理責任を問われることはほとんどの場合、ない。学校内で犯罪が発生しているのに、学校(長)の管理責任を問うことが誤りなのだ。もちろん、学校が「いじめ」と呼ばれる犯罪を自らの手で解決できるのなら、警察の力は借りなくてもいい。だが、学校はこれまでのところ、無力であった。深刻な「いじめ」が発生していた学校に、解決能力はなかった。

もちろん、隠ぺい体質が「いじめ」の発覚を妨げたということもできる。だが、それを「いじめ」だと特定化するからややこしくなるのであって、犯罪だと考えれば見過ごすこともできないだろうし、発覚したことにより管理責任を問われることもない。

自殺者が出ているということは、それがいかに深刻な問題であるかを知る必要がある。少年少女を自殺に追い込むような行為が「いじめ」なのか犯罪なのかを問うてほしい。明らかに後者だろう。学校現場が犯罪を放置し、犯罪者を守っているのならば、それこそ、教師こそが犯罪者ではないか。

では、なぜ、小学校、中学校で暴行、脅迫、恐喝等の犯罪が少なからず横行しているのか。その回答も簡単なことで、加害者が逮捕されないからである。だれも犯罪を止めないのだから、加害者の犯罪の度合いが拡大するのは当然である。「いじめ」は、最初軽微な暴行や脅しで始まる場合が多いと聞く。ところが、それを止める教師、保護者等が現れないのを見て、加害者は被害者に対し、高額な金品の要求や、度を越した虐待等へと犯罪行為をエスカレートさせていく。それもまた自然のことだ。結果、被害者が耐え切れず・・・というわけだ。

学校が被害者を守らないのであれば、自衛するケースも出ている。子供に格闘技を習わせるという親も少なくない。自衛手段として格闘技にとどまっているうちはいいが、武装に発展することもある。目には目を、力には力を、というわけだ。そのような対抗思想が解決策になるかは大いに疑問である。まず学校現場に必要なのは、犯罪者を野放しにしないことだ。