2012年10月19日金曜日

橋下vs朝日 その抗争の核心

このたび突如勃発した橋下大阪市長(以下、肩書略)と『週刊朝日』の抗争については、幾つかの重要な問題が複層的に内在しているのでまずもって、それを整理しておこう。問題点は次のとおりである。

(一)なぜ、橋下が『週刊朝日』に噛みついたのか

(二)『週刊朝日』の記事による橋下攻撃は正当か

(三)マスコミ報道では洗い出せない橋下の本質について

以下、それぞれについて論じる。

なぜ、橋下は朝日に噛みついたのか

橋下が『週刊朝日』の記事にこの時期、噛みついた理由は、橋下が率いる日本維新の会の凋落傾向に歯止めをかけるためである。というのも、このたび『週刊朝日』が報じた内容は、大筋において、橋下自身が自らの演説で触れていたりして、すでに本人が認めているものであり、しかも、他の週刊誌、ネット等が報道したものばかりだからである。目新しい情報はない。

もちろん、『週刊朝日』の表現(見出し、レイアウトデザイン等を含めた)はどぎついものがあり、インパクトがなくはない。橋下批判としては、内容・表現においてきわめて品がない。橋下も品がないが、『週刊朝日』はそれよりも下劣である。そうであっても、報道の内容(情報の質)においては、橋下が許容できない範囲ではなかった。にもかかわらず、彼が大声でこの週刊誌に噛みついたのは、相手が「文春」や「新潮」ではなく、「朝日」であったからである。これ幸いとばかり、橋下は「朝日」に噛みついた。彼一流のパフォーマンスである。

橋下の手法は、既存政党、公務員、大手組合、大学教授・左翼等知識人、大手メディア(なかんずく『朝日新聞』)、大企業といった既存の権威を罵倒し批判することで、下積みの庶民の支持を獲得するというもの。この手法は、ナチス(ヒトラー)と同一である。ヒトラーも、知識人・労働組合(共産主義者・社会民主主義者)、大新聞、金融業者等を激しく攻撃し、それらを「ユダヤ人」という幻想に集約して大衆をまとめあげた。橋下も同じように、「朝日」という「高級ブランド」を相手にそれを攻撃し、大衆の支持を得ようとしている。

橋下にとってこのたびの『週刊朝日』のどぎつい橋下攻撃は、支持率低下からの反撃の好材料にほかならなかった。このことで、売上の心もとない『週刊朝日』の販売冊数が上がり、併せて、橋下=維新の会の支持率が上がれば、被害者はいないどころか、双方に益が出るというもの。

『週刊朝日』の報道の正当性

このたびの『週刊朝日』に限らず、『週刊文春』等が行ってきた橋下批判の手法は誤りであるばかりか、やってはいけないことである。橋下の父親や親族が同和系暴力団であった等のその出自に触れることで彼を攻撃することは、ましてや、DNAを持ち出すこと等は、橋下が批判したとおり、血脈主義、人種決定論と変わりない。大雑把に言えば、父親・親族に殺人犯がいれば、その子供は殺人犯になる――という論理に近い。「DNA」が人格を決定するという論理に科学的根拠がない。

そればかりではない。現行のマスメディアのルールでは、同和地区を特定するような記述は行わないのが一般的である。『週刊朝日』はそのルールにも反している。朝日側が謝罪文を出したそうだが、朝日新聞出版及び100%出資の朝日新聞の役員・社員は糾弾されてしかるべきであり、彼らには厳しい同和教育が必要である。

橋下の本質

このたびの『週刊朝日』に限らず、大新聞系、大手出版社系を問わず、複数の週刊誌が依拠している橋下批判の方法論は、彼の出自を表に出すことで彼の「危険性」を強調しようとするもの。暴力団、同和、両親の離婚、アウトサイダーに属する親族たち・・・と。

しかし、橋下というのは、以前、当該コラム(7.22)にて橋下を批判したところでも明らかにしたように、そうした劣悪な環境を自身が克服したところに根拠を置いているのであって、それを隠そうとするところにあるのではない。どころか、彼の出自の複雑さ、暗さを「売り」にしているのである。

橋下は、その劣悪な環境(母子家庭、貧困、同和地区、犯罪歴をもつ親族)を克服して今日の地位に登り詰め、更に上(総理大臣)を目指そうというのである。ならば、彼の出自が暗くおどろおどろしく、かつ、複雑極まりなく、犯罪や暴力団や同和の影がちらつけばちらつくほど、その暗部が深ければ深いほど、しかもそのことを大手メディアが報道すればするほど、大衆はそこにロマンを抱き、ロマン主義的英雄像を浮き彫りにするのである。

橋下による自身の「売り込み戦略」とは、貧困や犯罪に彩られた複雑な出自を伴いつつ、それを乗り越えて法律という正義を操る者=弁護士(※法律が正義か弁護士が正義を操るかは議論の余地があるが)になり、さらに政治家を目指し、成功しつつある――という自画像を大衆に安売りすることにある。

彼を支持する層は、いまの日本の社会・経済情勢において疎外された(=下層に甘んじ、もちろん、弁護士や政治家になれなかった)人々が主流であり、橋下が敵視する管理者(既存政党、公務員、大手組合=正規社員、大手メディア、学者・知識人・・・)に対してとる攻撃的姿勢、品のない罵詈雑言に拍手を送る者にほかならない。橋下の支持層は、管理者=エスタブリッシュメントと相反する人々である。彼らにとって橋下は、エスタブリッシュメントを出自としない“俺たちの仲間”なのである。

だから、再三述べるとおり、これまで、『週刊文春』等の大手出版社系週刊誌が行ってきた彼の“恵まれない境遇”を暴く「橋下批判」は、橋下の応援歌にすぎなかった。

このたびの『週刊朝日』も同様であるが、ただ一点異なっているのは、前出のとおり、彼の見かけ上の「天敵」である“朝日ブランド”が仕掛けてくれた「橋下」批判であり、賞味期限切れの彼と維新の会にとっては、朝日の仕掛けこそがビッグチャンスの到来だったのである。橋下がこの機を逃すはずがない。

シンプルにいえば、橋下の出自に基づいた批判はよろしくない。朝日も文春も新潮も含め、この手の批判はやめたほうがいい。だからといって、橋下の政治手法については断固として批判・批評を緩めてはならない。彼は危険な思想をもった政治家であることに変わりないからである。