2012年10月21日日曜日

佐野眞一よ、沈黙せずに橋下に反撃せよ

橋下徹大阪市長(以下、肩書省略)は、朝日新聞出版が『週刊朝日』で連載を開始した「ハシシタ 奴の本性」の打ち切りを発表したことについて、19日夜、ツイッターに「これでノーサイド」と投稿した。これにて、橋下vs朝日の抗争は、橋下の全面勝利で終息した。

あっという間の事態終息である。拍子抜け、朝日側の覚悟の無さが情けない。橋下に対し、手段を問わず追い込むつもりなら、もっと書けと言いたくなる。こんな根性なしの週刊誌・『週刊朝日』は廃刊がふさわしい。所詮は親会社朝日新聞の子会社、新聞社の余剰人材の受け入れ先に過ぎないことが露呈した。

橋下と「朝日」の抗争は表面上終息したのだが、問題は残されている。連載の主筆であるノンフィクション作家の佐野眞一の立場である。佐野の作家としての評価はこの場では論じない。それはともかくとして、この連載を進めるに当たり、取材、表現の方向性を決めたのが佐野である可能性が高い。少なくとも佐野は、橋下側からの反論、同和問題について発生する紛争については覚悟していたはずである。覚悟のうえの取材と連載だったはずである。もちろん、連載のタイトルや「DNA」等の表現は週刊誌の編集者が考えたのであろうが、橋下の家系、親族を洗い出し、その周辺情報を取材し、そのことをもって橋下の政治手法を批判するという連載のコンセプトは、そのことが正しいかどうかは別として、佐野が主導した可能性が高い。ならば、作家・佐野眞一は沈黙してはならない。連載の主筆として、橋下の攻撃に反撃する義務がある。

「ノンフィクション」といえども、それはあくまでも虚構であり、創作である。現存する著名人の実名を使用しながら、そこに作家が想像やイメージを加えることにより、実像以上の人間性・人間力・ドラマ性を描くことで小説として成立する。この連載が“ハシシタ”として開始されたのは、そのことにより、読む側に小説=虚構性を暗示したとも考えられる。

この手の作品で有名なのが、『三島由紀夫-剣と寒紅』(福島次郎[著])ではないか。本題がしめす通り、この作品は三島由紀夫を実名にした小説で、作者の福島は自称“三島の恋人”である。福島は作品内に三島との同性愛の交情シーンを赤裸々に描いている。そのことで、三島の家族から抗議を受けた。福島が三島の「恋人」だったのかどうかは詳らかではない。がともかく、そのことは三島の研究者に譲るとして、この手の小説が世に刊行されることは珍しいことではない。

また、次元は異なるが、中上健二は自らの出自を路地(同和地区)として明らかにして、小説を書き続けた。そのことが彼の作品に翳りを与え、読む側にロマン主義的インパクトを与えたことも否定できない。 しかしながら、虚構性を全面的に出した小説という形式ならば、換言すれば、佐野が橋下を素材にした小説を書くのならば、『週刊朝日』という媒体の連載という形式は適当ではない。週刊誌は新聞に準ずるメディアであり、こうしたメディアの場合、小説は「新聞小説」「週刊誌小説」として記事とは明確に分離されて扱われるのが既存のルールであるからである。このたびの『週刊朝日』の連載は小説扱いではなく、情報として、NEWSとして、もしくは政治的キャンペーンとして扱われているのである。

朝日に完全勝利した橋下は、前出のとおり、ツイッターに勝利宣言(ノーダイド)し、自らが率いる維新の会の全国遊説に出かけて行った。結局のところ、「朝日」の“ハシシタネガティブキャンペーン”は、先の当コラムに書いたように、これまた、橋下応援歌で終わってしまった。橋下の朝日に対する完全勝利は、橋下及び維新の会の政策の良否とは関わりなく、その支持率を上げることだろう。橋下及び維新の会の台頭を危惧する筆者としては誠に残念な結果である。