@Yanaka
2013年2月17日日曜日
IOCの世俗性を評価する――レスリング、五輪競技除外問題
国際オリンピック委員会(IOC)は12日、スイス・ローザンヌで開いた理事会で、昨夏のロンドン五輪で実施した26競技のうち、レスリングを除外することを決めた。レスリングは次回2016年リオデジャネイロ五輪(ブラジル)では実施されるが、東京都が招致を目指す20年五輪からは行われない公算が大きくなった。
IOCは、夏季五輪の26の「中核競技」を、20年五輪から25に減らす方針を決めていた。中核競技から外れると、IOCが五輪活性化のために進める実施競技入れ替えの対象となる。 20年五輪では25の中核競技に加え、ゴルフと7人制ラグビーも実施される。IOCは5月の理事会で、さらに追加する候補として、野球・ソフトボール、空手、スカッシュなどにレスリングを加えた8競技を検討し、いくつかに絞る。9月の総会で、このうちの1競技を実際に採用するかどうかを決めるが、今回外れたレスリングがすぐに復活する可能性は低い。 レスリングは、近代五輪最初の大会だった1896年アテネ五輪から男子が実施されている伝統ある競技。2004年のアテネ五輪から採用された女子では、55キロ級の吉田沙保里、63キロ級の伊調馨の両選手(ともにALSOK)がロンドン五輪で3連覇を達成するなど日本がメダルを量産してきた。
〈中核競技〉 2007年のIOC総会で導入が決まった制度で、選ばれた競技は組織の腐敗などがない限りは除外されず、優先的に五輪で実施される。実施競技の上限は28。中核競技以外にも、大会ごとの追加枠で採用される「その他の競技」がある。(朝日新聞)
日本人の驚き
レスリングが五輪競技から除外される可能性が高まったという報道は、日本中に驚きを与えた。日本・本家の柔道の不振をよそに、レスリングは「日本のお家芸」と呼ばれてきた。優秀な成績をおさめてきた吉田沙保里が、国民栄誉賞を得たくらいだ。日本が金メダルを期待できる競技が五輪から外れるとは――という驚きが一つ。そして二つ目の驚きは、レスリングという競技は古代ギリシアに起源をもつ五輪の原点にも等しいもの――という確信の崩壊だ。
IOCの「怪しさ」
そもそものところ、五輪の競技種目を決定するIOCという団体の正体がわからない。手っ取り早く言えば、五輪を運営するIOCそのものの実態が日本人には見えていない。会長がいて理事がいて、各国の代表がいて・・・という当たり前の組織のようではあるが、会長、理事の選出方法にも透明性がない。筆者からみれば、西欧の貴族気取りの名士の集まりのようだ。彼らは己の名誉欲と金銭欲を、IOCを舞台にして満たしているようにさえ見える。そんな「偏見」を抱くのは筆者だけではないようで、今回のレスリング除外については、旧ソ連圏・東欧、イスラム圏からも抗議の声が上がったという。五輪のレスリングでは、西欧各国によるメダル獲得は少なく、反対に旧ソ連圏、東欧、イスラムのそれが多いという。日本もその仲間だ。
報道によると、IOCが五輪競技の採用を決定する条件はいくつかの事項の調査結果によるという。チケットの売上枚数、インターネットのアクセス数、TVの視聴率などがあるらしい。レスリングはルールがわかりにくく、世界的なレベルではTV視聴率も低く、また、若者からの支持もないという。古代オリンピックの象徴的競技であるレスリングは、IOCが実施した調査結果からすると、マイナーな競技になりつつあるというわけだ。換言すれば、レスリングの五輪除外には合理的根拠があるということになる。五輪に係る伝統的価値や象徴的価値は意に介さないというわけだ。
頭と四肢――西欧の身体思想
さて、はなはだ回り道的なアプローチであるものの、西欧の視点からスポーツとは何かを問うことも悪いことではなかろう。スポーツの原基は、身体の概念を探ることに代替できる。E・H・カントーロヴィッチ著の『王の二つの身体』によれば、団体は人間の身体に譬えられる。神秘体、有機体の思想だ。そこでは、キリストが頭(かしら)であって、教会は四肢(からだ)に当たる。その概念は王権に昇華し、王が頭であって、国(臣民)は四肢となる。いずれの場合でも、頭(かしら)と四肢(からだ)の間には明確な優劣の序列があり、四肢は頭に劣後する。
一方、日本人の身体に関する考え方はどうなのだろうか。いま、そのことについて明記した書物が思い浮かばないものの、たとえば、「心技体の充実」という言葉が象徴するように、心と体は対等な関係にあるような気がする。この言葉は、日本人が大好きな言葉の一つだ。日本人には、心もしくは頭(かしら)を上位として、四肢を貶めるような考え方はないような気がする。
さらに、「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」の諺から類推すると、火を涼しく感じる四肢のほうが心頭(かしら)よりも上位にあるかのようなイメージを感じる。 つまり、日本人にとっては、スポーツは頭と四肢が一体化した表現であり、頭(精神)と四肢(肉体)が共振する聖なるものとして尊ばれる。一方、西欧では、スポーツは四肢の躍動であり、頭(かしら)とは分離されたものと位置づけられる。だから、スポーツが占める位置は、エンターテインメント以上ではない。
ここで博学な人々からは「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という名言をもって、筆者の立論に異議を唱えられることだろう。だが、この異議には、『Wikipedia』を参考にして、反証しておこう。
以下、『Wikipedia』からの引用である。
ここで明確なように、頭よりも四肢の優位を喧伝してきたのは、西欧では異端のナチズムであり、平和よりも相手を殺戮することを優先する軍隊であり、その思想をそっくり持ち込んだ、日本の体育会系団体等だ。
IOCの世俗性は評価できる
前出のとおり、IOCという団体には怪しさが漂う。報道では、五輪競技として「生き残る」ためには、IOCに対するロビー活動が必要だという。ロビー活動とは、言い換えれば、不正のことだ。それは、公式・正式な議場における代議員の審議を経て決定される正当な結論を、ロビーという非公式な場で覆す行為にほかならない。そこでは、賄賂等の受け渡しという利益誘導が潜んでいておかしくない。直接の金銭の受け渡しはなくとも、政界、財界、宗教界等の権力者の恫喝や便利供与も代議員にあっておかしくない。IOCにはそれが必要だという。ますます、怪しいではない。
だが、そういう政治性が物事の決定には必要なことのほうが現実なのかもしれない。IOCは怪しいが、しかし、少なくとも、世俗的だ。IOCは、五輪競技の決定を、マーケッティング的な手法に求め、しかも、ロビー活動の影響という現実的要素に委ねている。
このたびの「レスリング外し」から明確なように、IOCは古代ギリシアのオリンピアの祭典という神話・伝説に立脚しない。一方、事実上、ナチス政府が開催した五輪ベルリン大会は、五輪というイベントを通じて、「アーリア民族=ドイツ人」の力の誇示という疑似的な宗教性が潤色されていた。「民族の祭典」とは、そういうことだ。
いまのIOCは、五輪=スポーツをナチスのような宗教性・民族主義・排外主義から分断しようと努めている。そういう意味で、筆者はIOCに好感をもつ。日本人は、金メダルが取れる種目を失おうとしていることで、いろいろな想像をめぐらしているが、それはたぶん、見当違いだ。イスラム圏からの抗議もおそらく、見当違いだ。
IOCは非政治的傾向を強めつつあり、非宗教的であり、脱民族主義的であり、脱国家主義的であり、それは商業主義に帰着する。けっこうなことではないか。五輪=スポーツを政治利用したナチスに比べれば、彼らのほうがましであり、これからも商業主義を求めてほしいものだ。
IOCは、五輪=スポーツをエンターテインメントとして理解し、その高度化に向けて努力している。これを機に、日本人は、スポーツはあくまでも世俗的であらねばならないことを改めて認識し直す必要がある。
IOCは、夏季五輪の26の「中核競技」を、20年五輪から25に減らす方針を決めていた。中核競技から外れると、IOCが五輪活性化のために進める実施競技入れ替えの対象となる。 20年五輪では25の中核競技に加え、ゴルフと7人制ラグビーも実施される。IOCは5月の理事会で、さらに追加する候補として、野球・ソフトボール、空手、スカッシュなどにレスリングを加えた8競技を検討し、いくつかに絞る。9月の総会で、このうちの1競技を実際に採用するかどうかを決めるが、今回外れたレスリングがすぐに復活する可能性は低い。 レスリングは、近代五輪最初の大会だった1896年アテネ五輪から男子が実施されている伝統ある競技。2004年のアテネ五輪から採用された女子では、55キロ級の吉田沙保里、63キロ級の伊調馨の両選手(ともにALSOK)がロンドン五輪で3連覇を達成するなど日本がメダルを量産してきた。
〈中核競技〉 2007年のIOC総会で導入が決まった制度で、選ばれた競技は組織の腐敗などがない限りは除外されず、優先的に五輪で実施される。実施競技の上限は28。中核競技以外にも、大会ごとの追加枠で採用される「その他の競技」がある。(朝日新聞)
日本人の驚き
レスリングが五輪競技から除外される可能性が高まったという報道は、日本中に驚きを与えた。日本・本家の柔道の不振をよそに、レスリングは「日本のお家芸」と呼ばれてきた。優秀な成績をおさめてきた吉田沙保里が、国民栄誉賞を得たくらいだ。日本が金メダルを期待できる競技が五輪から外れるとは――という驚きが一つ。そして二つ目の驚きは、レスリングという競技は古代ギリシアに起源をもつ五輪の原点にも等しいもの――という確信の崩壊だ。
IOCの「怪しさ」
そもそものところ、五輪の競技種目を決定するIOCという団体の正体がわからない。手っ取り早く言えば、五輪を運営するIOCそのものの実態が日本人には見えていない。会長がいて理事がいて、各国の代表がいて・・・という当たり前の組織のようではあるが、会長、理事の選出方法にも透明性がない。筆者からみれば、西欧の貴族気取りの名士の集まりのようだ。彼らは己の名誉欲と金銭欲を、IOCを舞台にして満たしているようにさえ見える。そんな「偏見」を抱くのは筆者だけではないようで、今回のレスリング除外については、旧ソ連圏・東欧、イスラム圏からも抗議の声が上がったという。五輪のレスリングでは、西欧各国によるメダル獲得は少なく、反対に旧ソ連圏、東欧、イスラムのそれが多いという。日本もその仲間だ。
報道によると、IOCが五輪競技の採用を決定する条件はいくつかの事項の調査結果によるという。チケットの売上枚数、インターネットのアクセス数、TVの視聴率などがあるらしい。レスリングはルールがわかりにくく、世界的なレベルではTV視聴率も低く、また、若者からの支持もないという。古代オリンピックの象徴的競技であるレスリングは、IOCが実施した調査結果からすると、マイナーな競技になりつつあるというわけだ。換言すれば、レスリングの五輪除外には合理的根拠があるということになる。五輪に係る伝統的価値や象徴的価値は意に介さないというわけだ。
頭と四肢――西欧の身体思想
さて、はなはだ回り道的なアプローチであるものの、西欧の視点からスポーツとは何かを問うことも悪いことではなかろう。スポーツの原基は、身体の概念を探ることに代替できる。E・H・カントーロヴィッチ著の『王の二つの身体』によれば、団体は人間の身体に譬えられる。神秘体、有機体の思想だ。そこでは、キリストが頭(かしら)であって、教会は四肢(からだ)に当たる。その概念は王権に昇華し、王が頭であって、国(臣民)は四肢となる。いずれの場合でも、頭(かしら)と四肢(からだ)の間には明確な優劣の序列があり、四肢は頭に劣後する。
一方、日本人の身体に関する考え方はどうなのだろうか。いま、そのことについて明記した書物が思い浮かばないものの、たとえば、「心技体の充実」という言葉が象徴するように、心と体は対等な関係にあるような気がする。この言葉は、日本人が大好きな言葉の一つだ。日本人には、心もしくは頭(かしら)を上位として、四肢を貶めるような考え方はないような気がする。
さらに、「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」の諺から類推すると、火を涼しく感じる四肢のほうが心頭(かしら)よりも上位にあるかのようなイメージを感じる。 つまり、日本人にとっては、スポーツは頭と四肢が一体化した表現であり、頭(精神)と四肢(肉体)が共振する聖なるものとして尊ばれる。一方、西欧では、スポーツは四肢の躍動であり、頭(かしら)とは分離されたものと位置づけられる。だから、スポーツが占める位置は、エンターテインメント以上ではない。
ここで博学な人々からは「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という名言をもって、筆者の立論に異議を唱えられることだろう。だが、この異議には、『Wikipedia』を参考にして、反証しておこう。
以下、『Wikipedia』からの引用である。
orandum est, ut sit mens sana in corpore sano――この一節は、古代ローマ時代の風刺詩人、弁護士である、デキムス・ユニウス・ユウェナリス(Decimus Junius Juvenalis)が『風刺詩集』第10編第356行に残したものとしてよく知られている。・・・英訳は(A sound mind in a sound body) と訳され、「身体が健全ならば精神も自ずと健全になる」という意味の慣用句として定着している。しかし、これは本来誤用であり、ユウェナリスの主張とは全く違うものである。 そもそも『風刺詩集』第10編は、幸福を得るため多くの人が神に祈るであろう事柄(富・地位・才能・栄光・長寿・美貌)を一つ一つ挙げ、いずれも身の破滅に繋がるので願い事はするべきではないと戒めている詩である。
ユウェナリスはこの詩の中で、もし祈るとすれば「健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである」(It is to be prayed that the mind be sound in a sound body) と語っており、これが大本の出典である。 以上の背景から、単に「健やかな身体と健やかな魂を願うべき」、つまり願い事には慎ましく心身の健康だけを祈るべきだという意味で紹介されることがあるが、それも厳密には誤りである。健全な精神については数行に渡って詳細に記述されており、ユウェナリスがローマ市民に対し誘惑に打ち克つ勇敢な精神を強く求めていたことが窺える。
その後しばらくは本来の正しい意味で使われていたが、近世になって世界規模の大戦が始まると状況は一変する。ナチス・ドイツを始めとする各国はスローガンとして「健全なる精神は健全なる身体に」を掲げ、さも身体を鍛えることによってのみ健全な精神が得られるかのような言葉へ恣意的に改竄し、軍国主義を推し進めた。
その結果、本来の意味は忘れ去られ、戦後教育などでも誤った意味で広まることとなった。このような誤用に基づいたスローガンは現在でも世界各国の軍隊やスポーツ業界を始めとする体育会系分野において深く根付いている。
現在は冷戦も終わり軍国主義を掲げる必要がなくなったことや、解釈によっては身体障害者への差別用語にもなりかねないことから、多くの国では身体と精神の密接な関係とバランスを表す言葉として使われている。
ここで明確なように、頭よりも四肢の優位を喧伝してきたのは、西欧では異端のナチズムであり、平和よりも相手を殺戮することを優先する軍隊であり、その思想をそっくり持ち込んだ、日本の体育会系団体等だ。
IOCの世俗性は評価できる
前出のとおり、IOCという団体には怪しさが漂う。報道では、五輪競技として「生き残る」ためには、IOCに対するロビー活動が必要だという。ロビー活動とは、言い換えれば、不正のことだ。それは、公式・正式な議場における代議員の審議を経て決定される正当な結論を、ロビーという非公式な場で覆す行為にほかならない。そこでは、賄賂等の受け渡しという利益誘導が潜んでいておかしくない。直接の金銭の受け渡しはなくとも、政界、財界、宗教界等の権力者の恫喝や便利供与も代議員にあっておかしくない。IOCにはそれが必要だという。ますます、怪しいではない。
だが、そういう政治性が物事の決定には必要なことのほうが現実なのかもしれない。IOCは怪しいが、しかし、少なくとも、世俗的だ。IOCは、五輪競技の決定を、マーケッティング的な手法に求め、しかも、ロビー活動の影響という現実的要素に委ねている。
このたびの「レスリング外し」から明確なように、IOCは古代ギリシアのオリンピアの祭典という神話・伝説に立脚しない。一方、事実上、ナチス政府が開催した五輪ベルリン大会は、五輪というイベントを通じて、「アーリア民族=ドイツ人」の力の誇示という疑似的な宗教性が潤色されていた。「民族の祭典」とは、そういうことだ。
いまのIOCは、五輪=スポーツをナチスのような宗教性・民族主義・排外主義から分断しようと努めている。そういう意味で、筆者はIOCに好感をもつ。日本人は、金メダルが取れる種目を失おうとしていることで、いろいろな想像をめぐらしているが、それはたぶん、見当違いだ。イスラム圏からの抗議もおそらく、見当違いだ。
IOCは非政治的傾向を強めつつあり、非宗教的であり、脱民族主義的であり、脱国家主義的であり、それは商業主義に帰着する。けっこうなことではないか。五輪=スポーツを政治利用したナチスに比べれば、彼らのほうがましであり、これからも商業主義を求めてほしいものだ。
IOCは、五輪=スポーツをエンターテインメントとして理解し、その高度化に向けて努力している。これを機に、日本人は、スポーツはあくまでも世俗的であらねばならないことを改めて認識し直す必要がある。
2013年2月13日水曜日
桜宮高校、生徒自殺問題に進展
大阪市立桜宮高校生徒が運動部顧問から暴力を受け自殺した問題について、事態が動いた。その動きをまとめると以下のとおりになる。
(1)この問題を調査する外部監察チームは、「顧問の行為は『暴力』で、男子生徒を自殺に追い込んだ要因の1つ」と認める報告書を、大阪市教育委員会に提出した。
(2)報告を受けた同市教育委員会は12日、この顧問の処分を協議し、懲戒免職にする方針を固めた。
(3)市教育委員会は12日、桜宮高校の改革担当顧問を新たに設置し、前全日本女子バレーボール代表監督・柳本晶一さん(61)を迎えることを決定した。市教委は、柳本さんがかつての体罰指導から指導方法を変え、低迷していた全日本女子チームを2度のオリンピックに導いた実績から顧問就任を依頼したという。
筆者は、この問題に係る橋下徹大阪市長(以下、肩書等略)の方針を支持してきた。先の入試中止措置については内容が折衷的で気に入らなかったが、外部監察チームの報告及び顧問の処分並びに改革担当顧問の設置等の措置については満足している。もちろん、これらの措置は市教育委員会の名の下に行われてきたものだが、橋下が圧力をかけなければ、教育委員会はここまで動かなかったはずだ。
なによりなのは、生徒の自殺が、顧問の暴力によるものであることが調査結果により明らかになったことだ。生徒の死をかけた告発が功を奏したことになる。そして、そのことが、日本のスポーツ界にはびこっていた暴力を根絶する方向に社会を動かしていった。そのことがなかったならば、女子柔道トップチームにおける暴力問題も明るみには出てこなかっただろう。
残された課題は、処分された顧問が法によって裁かれるか否かであろう。筆者の希望は、もちろん、警察・検察・司法が顧問の暴力を法の下に裁くことだ。そうなれば、自殺した生徒の魂も浮かばれるであろうし、残された遺族の気持ちも少しは楽になるのではないか。
逆に気になったのは、市教育委員会が桜宮高校の入試を中止したときに生起した、「橋下批判」の嵐であった。筆者は、繰り返しになるが、橋下の政治姿勢を容認するものではない。「維新の会」も支持しない。だが、個別この桜宮高校生徒自殺事件に関しては、橋下が大阪市教育委員会にかけた圧力は正解であった。こういう高校を廃校にすることは間違っていない。
そればかりではない。生徒が顧問に「殺された」に等しい教育環境(=桜宮高校)に新入生を迎え入れるべきではない(入試中止)。そんなことに、議論の余地がないはずだ。にもかかわらず、そういう当たり前の措置を大阪市教育委員会は積極的にはとろとしなかった。そして、マスコミ、同校在校生の一部、同校保護者の一部等は、事態の深刻さを自覚しようとしないばかりか、入試強行(連続性)を訴えた。
加えて、反橋下陣営は、〔入試中止=受験生が可哀そう〕という、訳のわからない感情論で同校改革の流れを阻止しようとした。橋下を「暴君」と評した言論人もいたという。彼らは、橋下はこの事件を売名行為として利用としている、と批判したそうだが、まったく見当違いだ。反橋下陣営が、「入試中止」を政治的に利用しようとしたのだ。
桜宮高校に内在している暴力は、日本のスポーツ界全体に内在している悪しき暴力主義以外のなにものでもない。それは、「伝統」「根性」「精神力」「愛の鞭」「指導」という美辞麗句に名を変えて、スポーツをする若者を苦しめ続けてきたのだ。だから、橋下は、桜宮高校を潰そうとした。橋下は積極的に“悪しき日本”と対峙しようとした。そういう意味で、橋下の政治的センスは鋭い。凡庸な、名ばかり「改革派」ならば、そこまではしない。だから、橋下は油断ならない存在なのだ。
(1)この問題を調査する外部監察チームは、「顧問の行為は『暴力』で、男子生徒を自殺に追い込んだ要因の1つ」と認める報告書を、大阪市教育委員会に提出した。
(2)報告を受けた同市教育委員会は12日、この顧問の処分を協議し、懲戒免職にする方針を固めた。
(3)市教育委員会は12日、桜宮高校の改革担当顧問を新たに設置し、前全日本女子バレーボール代表監督・柳本晶一さん(61)を迎えることを決定した。市教委は、柳本さんがかつての体罰指導から指導方法を変え、低迷していた全日本女子チームを2度のオリンピックに導いた実績から顧問就任を依頼したという。
筆者は、この問題に係る橋下徹大阪市長(以下、肩書等略)の方針を支持してきた。先の入試中止措置については内容が折衷的で気に入らなかったが、外部監察チームの報告及び顧問の処分並びに改革担当顧問の設置等の措置については満足している。もちろん、これらの措置は市教育委員会の名の下に行われてきたものだが、橋下が圧力をかけなければ、教育委員会はここまで動かなかったはずだ。
なによりなのは、生徒の自殺が、顧問の暴力によるものであることが調査結果により明らかになったことだ。生徒の死をかけた告発が功を奏したことになる。そして、そのことが、日本のスポーツ界にはびこっていた暴力を根絶する方向に社会を動かしていった。そのことがなかったならば、女子柔道トップチームにおける暴力問題も明るみには出てこなかっただろう。
残された課題は、処分された顧問が法によって裁かれるか否かであろう。筆者の希望は、もちろん、警察・検察・司法が顧問の暴力を法の下に裁くことだ。そうなれば、自殺した生徒の魂も浮かばれるであろうし、残された遺族の気持ちも少しは楽になるのではないか。
逆に気になったのは、市教育委員会が桜宮高校の入試を中止したときに生起した、「橋下批判」の嵐であった。筆者は、繰り返しになるが、橋下の政治姿勢を容認するものではない。「維新の会」も支持しない。だが、個別この桜宮高校生徒自殺事件に関しては、橋下が大阪市教育委員会にかけた圧力は正解であった。こういう高校を廃校にすることは間違っていない。
そればかりではない。生徒が顧問に「殺された」に等しい教育環境(=桜宮高校)に新入生を迎え入れるべきではない(入試中止)。そんなことに、議論の余地がないはずだ。にもかかわらず、そういう当たり前の措置を大阪市教育委員会は積極的にはとろとしなかった。そして、マスコミ、同校在校生の一部、同校保護者の一部等は、事態の深刻さを自覚しようとしないばかりか、入試強行(連続性)を訴えた。
加えて、反橋下陣営は、〔入試中止=受験生が可哀そう〕という、訳のわからない感情論で同校改革の流れを阻止しようとした。橋下を「暴君」と評した言論人もいたという。彼らは、橋下はこの事件を売名行為として利用としている、と批判したそうだが、まったく見当違いだ。反橋下陣営が、「入試中止」を政治的に利用しようとしたのだ。
桜宮高校に内在している暴力は、日本のスポーツ界全体に内在している悪しき暴力主義以外のなにものでもない。それは、「伝統」「根性」「精神力」「愛の鞭」「指導」という美辞麗句に名を変えて、スポーツをする若者を苦しめ続けてきたのだ。だから、橋下は、桜宮高校を潰そうとした。橋下は積極的に“悪しき日本”と対峙しようとした。そういう意味で、橋下の政治的センスは鋭い。凡庸な、名ばかり「改革派」ならば、そこまではしない。だから、橋下は油断ならない存在なのだ。
2013年2月12日火曜日
東京・五輪招致に反対する
先般、アート系のイベントに行ったとき、入場受付カウンターにこのバッチが無料で配布されていた。
東京にオリンピックを、というのが国民の総意のように報道されているが、そうは思えない。
東日本大地震並みの大地震再来に対する不安、収束できない福島原発事故の影響、そしてなによりも、3.11被災地の復興もままならない。
打つべき手の優先順位が狂っている。
そんな気がする。
2013年2月10日日曜日
2013年2月6日水曜日
2013年2月1日金曜日
五輪東京誘致を撤回せよ――相次ぐスポーツ不祥事の発覚
ロンドン五輪代表を含むトップ選手15人から暴力行為とパワーハラスメントを告発された柔道女子日本代表の園田隆二監督(39)が1日、全日本柔道連盟(全柔連)に進退伺を提出した。このことで、日本のトップチームにも暴力が横行していることが明らかになった。というよりも、マスメディアを含む関係者はすでにこのことを認識していたのだと推測する。知っていても、書かない、言わない、問題にしない、というのが日本のスポーツ関連メディア業界の際立った特徴である。
自殺者を出した大阪市立桜宮高校をはじめとする高校の運動部、柔道五輪金メダリストの内柴正人による、セクハラ犯罪を筆頭とする大学の体育会、そして、このたびの柔道日本代表チームというトップカテゴリーに至るまで、日本のスポーツ界は「指導者」による暴行、パワハラ、セクハラ、が横溢しているではないか。
先に当コラムで書いた通り、日本のスポーツ界を犯罪天国にしてしまったのは、指導能力をもたない者が「指導者」となったことによる。指導能力よりも選手としての実績がものを言い、指導理論よりも精神論と根性論が先行している。そのため、日本のスポーツ界では「指導者」がもっとも安易な指導方法として暴力を用いることになってしまった。
日本のスポーツ界においては、監督・コーチ(以下、「指導者」という。)と選手の関係をいえば圧倒的に前者が優位にある。選手が独立した事業主として指導者と接するプロ契約選手以外の場合(日本ではアマチュアスポーツと言われるのだが。)には、そのことがきわめて顕著となる。
日本のアマチュアスポーツは、建前上、教育の一環となっているから、必ずしも運動能力ばかりが選手の優劣を決めるとは限らない。品行・言動、キャプテンシー、練習への取り組み姿勢・・・が勘案され、指導者はレギュラーを決める。スポーツをするために高校・大学に入った生徒・学生にとって、レギュラーか控えかは、最も重要な決定事項である。
たとえば、あのバカ騒ぎで有名な甲子園大会の場合、ベンチ入りとそれ以外とでは、待遇、評価、世間の目において、天と地ほどの差がある。さらに、控えとレギュラーとでも同様の開きがある。野球をするために野球強豪校に入学した高校生にとっては、甲子園大会に行けるかどうかは重大問題であり、さらに甲子園で実際にプレーするか否かは、将来にかかわる。それを決めるのが「指導者」であり、「指導者」しか決められない。だから、選手にとって「指導者」は絶対的存在となってしまう。「指導者」の権力の源泉はそこにある。だから部員たちは「指導者」がふりかざす不条理な暴力に屈せざるを得ない。「指導者」に異議を唱えれば、その部員の居場所はない。野球ができなくなった野球特待生は必然的に転校、退学を余儀なくされる。
高校経営者も野球が強ければ、その方法は問わない。甲子園大会に導く「指導者」に全幅の信頼をおく。保護者、地域社会、メディアも同じ考え方にある。だから、高校野球部員に不祥事が多発しても、その根源を暴こうとしない。「強ければそれでいい」のである。
下は野球のリトルリーグ、上は日本代表トップチームに至るまで、「体罰」「しごき」「暴行」「セクハラ」「パワハラ」がまかりとおっているのが日本のスポーツ界の現状である。こうした実態を直視するならば、日本のスポーツ界は以下の決断をすべきであろう。
(1)石原~猪瀬が引っ張る五輪東京誘致運動の即刻撤回
(2)指導者ライセンス制度の創設
(3)すべてのスポーツ団体を対象とした実態調査の実施
(4)暴力指導者永久追放
(5)体罰、暴力、パワハラ、セクハラのあったスポーツ団体の解散
(6)トップアスリートによる暴力追放啓蒙活動の実施
(1)については、日本が世界的スポーツの祭典を開催する資格のないことをとにかく、いま自覚する契機とするためである。この期に及んで、日本のスポーツ界が美しいとは言えまい。青少年の範とするとも言えまい。五輪で浮かれることよりも、その汚れを落とすことをいま最優先とすべきなのである。
(2)については、霞が関の権益とならないよう、民間主導によるライセンス制度が望ましい。スポーツを科学する学部・学科・研究機関の設置も急がれる。
(3)~(5)は一体の事業で、調査による実態解明から処分に至る過程である。処分の結果として、日本のスポーツ界が一時停滞、弱体化しても仕方がない。
(6)については、今日、元読売ジャイアンツの桑田真澄氏の「体罰不要論」の発言が際立っているが、桑田氏だけでなく、トップアスリートのすべてが、反暴力キャンペーンに参加してもらいたい。
日本のスポーツ界は歪んでいる。高校生の課外活動であるスポーツが完全にエンターテインメントの有力コンテンツに成長したことから、そのことは始まっている。このことは何度も繰り返し書いた。勝利至上主義のメダルの表裏にあるスポーツ美談、裏話、アマチュアリズムを含めて、スポーツがメディアによってもてはやされ、歪められ、次第にその本来性を喪失している。高校生の課外活動がプロスポーツよりも高い付加価値がつけられ、消費されていく。そのことによる内部の腐敗の深化には目をつぶり、隠ぺいする。やがてその歪みが、強い地震のような衝撃となって社会内に噴出する。スポーツ高校生の自殺、パワハラ、セクハラ、暴力の恒常化である。何度も繰り返すが、この歪みは、無知な「指導者」、社会の勝利至上主義の共謀により、メディアによるエンターテインメント化によって増幅されているのである。この連鎖を断ち切ることができなければ、いずれ日本のスポーツ業界は滅びるにちがいない、いや、一度、滅びたほうがいい。
自殺者を出した大阪市立桜宮高校をはじめとする高校の運動部、柔道五輪金メダリストの内柴正人による、セクハラ犯罪を筆頭とする大学の体育会、そして、このたびの柔道日本代表チームというトップカテゴリーに至るまで、日本のスポーツ界は「指導者」による暴行、パワハラ、セクハラ、が横溢しているではないか。
先に当コラムで書いた通り、日本のスポーツ界を犯罪天国にしてしまったのは、指導能力をもたない者が「指導者」となったことによる。指導能力よりも選手としての実績がものを言い、指導理論よりも精神論と根性論が先行している。そのため、日本のスポーツ界では「指導者」がもっとも安易な指導方法として暴力を用いることになってしまった。
日本のスポーツ界においては、監督・コーチ(以下、「指導者」という。)と選手の関係をいえば圧倒的に前者が優位にある。選手が独立した事業主として指導者と接するプロ契約選手以外の場合(日本ではアマチュアスポーツと言われるのだが。)には、そのことがきわめて顕著となる。
日本のアマチュアスポーツは、建前上、教育の一環となっているから、必ずしも運動能力ばかりが選手の優劣を決めるとは限らない。品行・言動、キャプテンシー、練習への取り組み姿勢・・・が勘案され、指導者はレギュラーを決める。スポーツをするために高校・大学に入った生徒・学生にとって、レギュラーか控えかは、最も重要な決定事項である。
たとえば、あのバカ騒ぎで有名な甲子園大会の場合、ベンチ入りとそれ以外とでは、待遇、評価、世間の目において、天と地ほどの差がある。さらに、控えとレギュラーとでも同様の開きがある。野球をするために野球強豪校に入学した高校生にとっては、甲子園大会に行けるかどうかは重大問題であり、さらに甲子園で実際にプレーするか否かは、将来にかかわる。それを決めるのが「指導者」であり、「指導者」しか決められない。だから、選手にとって「指導者」は絶対的存在となってしまう。「指導者」の権力の源泉はそこにある。だから部員たちは「指導者」がふりかざす不条理な暴力に屈せざるを得ない。「指導者」に異議を唱えれば、その部員の居場所はない。野球ができなくなった野球特待生は必然的に転校、退学を余儀なくされる。
高校経営者も野球が強ければ、その方法は問わない。甲子園大会に導く「指導者」に全幅の信頼をおく。保護者、地域社会、メディアも同じ考え方にある。だから、高校野球部員に不祥事が多発しても、その根源を暴こうとしない。「強ければそれでいい」のである。
下は野球のリトルリーグ、上は日本代表トップチームに至るまで、「体罰」「しごき」「暴行」「セクハラ」「パワハラ」がまかりとおっているのが日本のスポーツ界の現状である。こうした実態を直視するならば、日本のスポーツ界は以下の決断をすべきであろう。
(1)石原~猪瀬が引っ張る五輪東京誘致運動の即刻撤回
(2)指導者ライセンス制度の創設
(3)すべてのスポーツ団体を対象とした実態調査の実施
(4)暴力指導者永久追放
(5)体罰、暴力、パワハラ、セクハラのあったスポーツ団体の解散
(6)トップアスリートによる暴力追放啓蒙活動の実施
(1)については、日本が世界的スポーツの祭典を開催する資格のないことをとにかく、いま自覚する契機とするためである。この期に及んで、日本のスポーツ界が美しいとは言えまい。青少年の範とするとも言えまい。五輪で浮かれることよりも、その汚れを落とすことをいま最優先とすべきなのである。
(2)については、霞が関の権益とならないよう、民間主導によるライセンス制度が望ましい。スポーツを科学する学部・学科・研究機関の設置も急がれる。
(3)~(5)は一体の事業で、調査による実態解明から処分に至る過程である。処分の結果として、日本のスポーツ界が一時停滞、弱体化しても仕方がない。
(6)については、今日、元読売ジャイアンツの桑田真澄氏の「体罰不要論」の発言が際立っているが、桑田氏だけでなく、トップアスリートのすべてが、反暴力キャンペーンに参加してもらいたい。
日本のスポーツ界は歪んでいる。高校生の課外活動であるスポーツが完全にエンターテインメントの有力コンテンツに成長したことから、そのことは始まっている。このことは何度も繰り返し書いた。勝利至上主義のメダルの表裏にあるスポーツ美談、裏話、アマチュアリズムを含めて、スポーツがメディアによってもてはやされ、歪められ、次第にその本来性を喪失している。高校生の課外活動がプロスポーツよりも高い付加価値がつけられ、消費されていく。そのことによる内部の腐敗の深化には目をつぶり、隠ぺいする。やがてその歪みが、強い地震のような衝撃となって社会内に噴出する。スポーツ高校生の自殺、パワハラ、セクハラ、暴力の恒常化である。何度も繰り返すが、この歪みは、無知な「指導者」、社会の勝利至上主義の共謀により、メディアによるエンターテインメント化によって増幅されているのである。この連鎖を断ち切ることができなければ、いずれ日本のスポーツ業界は滅びるにちがいない、いや、一度、滅びたほうがいい。
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