2013年2月17日日曜日

IOCの世俗性を評価する――レスリング、五輪競技除外問題

国際オリンピック委員会(IOC)は12日、スイス・ローザンヌで開いた理事会で、昨夏のロンドン五輪で実施した26競技のうち、レスリングを除外することを決めた。レスリングは次回2016年リオデジャネイロ五輪(ブラジル)では実施されるが、東京都が招致を目指す20年五輪からは行われない公算が大きくなった。

IOCは、夏季五輪の26の「中核競技」を、20年五輪から25に減らす方針を決めていた。中核競技から外れると、IOCが五輪活性化のために進める実施競技入れ替えの対象となる。 20年五輪では25の中核競技に加え、ゴルフと7人制ラグビーも実施される。IOCは5月の理事会で、さらに追加する候補として、野球・ソフトボール、空手、スカッシュなどにレスリングを加えた8競技を検討し、いくつかに絞る。9月の総会で、このうちの1競技を実際に採用するかどうかを決めるが、今回外れたレスリングがすぐに復活する可能性は低い。 レスリングは、近代五輪最初の大会だった1896年アテネ五輪から男子が実施されている伝統ある競技。2004年のアテネ五輪から採用された女子では、55キロ級の吉田沙保里、63キロ級の伊調馨の両選手(ともにALSOK)がロンドン五輪で3連覇を達成するなど日本がメダルを量産してきた。

〈中核競技〉 2007年のIOC総会で導入が決まった制度で、選ばれた競技は組織の腐敗などがない限りは除外されず、優先的に五輪で実施される。実施競技の上限は28。中核競技以外にも、大会ごとの追加枠で採用される「その他の競技」がある。(朝日新聞)

日本人の驚き

レスリングが五輪競技から除外される可能性が高まったという報道は、日本中に驚きを与えた。日本・本家の柔道の不振をよそに、レスリングは「日本のお家芸」と呼ばれてきた。優秀な成績をおさめてきた吉田沙保里が、国民栄誉賞を得たくらいだ。日本が金メダルを期待できる競技が五輪から外れるとは――という驚きが一つ。そして二つ目の驚きは、レスリングという競技は古代ギリシアに起源をもつ五輪の原点にも等しいもの――という確信の崩壊だ。

IOCの「怪しさ」

そもそものところ、五輪の競技種目を決定するIOCという団体の正体がわからない。手っ取り早く言えば、五輪を運営するIOCそのものの実態が日本人には見えていない。会長がいて理事がいて、各国の代表がいて・・・という当たり前の組織のようではあるが、会長、理事の選出方法にも透明性がない。筆者からみれば、西欧の貴族気取りの名士の集まりのようだ。彼らは己の名誉欲と金銭欲を、IOCを舞台にして満たしているようにさえ見える。そんな「偏見」を抱くのは筆者だけではないようで、今回のレスリング除外については、旧ソ連圏・東欧、イスラム圏からも抗議の声が上がったという。五輪のレスリングでは、西欧各国によるメダル獲得は少なく、反対に旧ソ連圏、東欧、イスラムのそれが多いという。日本もその仲間だ。

報道によると、IOCが五輪競技の採用を決定する条件はいくつかの事項の調査結果によるという。チケットの売上枚数、インターネットのアクセス数、TVの視聴率などがあるらしい。レスリングはルールがわかりにくく、世界的なレベルではTV視聴率も低く、また、若者からの支持もないという。古代オリンピックの象徴的競技であるレスリングは、IOCが実施した調査結果からすると、マイナーな競技になりつつあるというわけだ。換言すれば、レスリングの五輪除外には合理的根拠があるということになる。五輪に係る伝統的価値や象徴的価値は意に介さないというわけだ。

頭と四肢――西欧の身体思想

さて、はなはだ回り道的なアプローチであるものの、西欧の視点からスポーツとは何かを問うことも悪いことではなかろう。スポーツの原基は、身体の概念を探ることに代替できる。E・H・カントーロヴィッチ著の『王の二つの身体』によれば、団体は人間の身体に譬えられる。神秘体、有機体の思想だ。そこでは、キリストが頭(かしら)であって、教会は四肢(からだ)に当たる。その概念は王権に昇華し、王が頭であって、国(臣民)は四肢となる。いずれの場合でも、頭(かしら)と四肢(からだ)の間には明確な優劣の序列があり、四肢は頭に劣後する。

一方、日本人の身体に関する考え方はどうなのだろうか。いま、そのことについて明記した書物が思い浮かばないものの、たとえば、「心技体の充実」という言葉が象徴するように、心と体は対等な関係にあるような気がする。この言葉は、日本人が大好きな言葉の一つだ。日本人には、心もしくは頭(かしら)を上位として、四肢を貶めるような考え方はないような気がする。

さらに、「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」の諺から類推すると、火を涼しく感じる四肢のほうが心頭(かしら)よりも上位にあるかのようなイメージを感じる。 つまり、日本人にとっては、スポーツは頭と四肢が一体化した表現であり、頭(精神)と四肢(肉体)が共振する聖なるものとして尊ばれる。一方、西欧では、スポーツは四肢の躍動であり、頭(かしら)とは分離されたものと位置づけられる。だから、スポーツが占める位置は、エンターテインメント以上ではない。

ここで博学な人々からは「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という名言をもって、筆者の立論に異議を唱えられることだろう。だが、この異議には、『Wikipedia』を参考にして、反証しておこう。

以下、『Wikipedia』からの引用である。
orandum est, ut sit mens sana in corpore sano――この一節は、古代ローマ時代の風刺詩人、弁護士である、デキムス・ユニウス・ユウェナリス(Decimus Junius Juvenalis)が『風刺詩集』第10編第356行に残したものとしてよく知られている。・・・英訳は(A sound mind in a sound body) と訳され、「身体が健全ならば精神も自ずと健全になる」という意味の慣用句として定着している。しかし、これは本来誤用であり、ユウェナリスの主張とは全く違うものである。 そもそも『風刺詩集』第10編は、幸福を得るため多くの人が神に祈るであろう事柄(富・地位・才能・栄光・長寿・美貌)を一つ一つ挙げ、いずれも身の破滅に繋がるので願い事はするべきではないと戒めている詩である。
ユウェナリスはこの詩の中で、もし祈るとすれば「健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである」(It is to be prayed that the mind be sound in a sound body) と語っており、これが大本の出典である。 以上の背景から、単に「健やかな身体と健やかな魂を願うべき」、つまり願い事には慎ましく心身の健康だけを祈るべきだという意味で紹介されることがあるが、それも厳密には誤りである。健全な精神については数行に渡って詳細に記述されており、ユウェナリスがローマ市民に対し誘惑に打ち克つ勇敢な精神を強く求めていたことが窺える。
 その後しばらくは本来の正しい意味で使われていたが、近世になって世界規模の大戦が始まると状況は一変する。ナチス・ドイツを始めとする各国はスローガンとして「健全なる精神は健全なる身体に」を掲げ、さも身体を鍛えることによってのみ健全な精神が得られるかのような言葉へ恣意的に改竄し、軍国主義を推し進めた。
その結果、本来の意味は忘れ去られ、戦後教育などでも誤った意味で広まることとなった。このような誤用に基づいたスローガンは現在でも世界各国の軍隊やスポーツ業界を始めとする体育会系分野において深く根付いている。
現在は冷戦も終わり軍国主義を掲げる必要がなくなったことや、解釈によっては身体障害者への差別用語にもなりかねないことから、多くの国では身体と精神の密接な関係とバランスを表す言葉として使われている。

ここで明確なように、頭よりも四肢の優位を喧伝してきたのは、西欧では異端のナチズムであり、平和よりも相手を殺戮することを優先する軍隊であり、その思想をそっくり持ち込んだ、日本の体育会系団体等だ。

IOCの世俗性は評価できる

前出のとおり、IOCという団体には怪しさが漂う。報道では、五輪競技として「生き残る」ためには、IOCに対するロビー活動が必要だという。ロビー活動とは、言い換えれば、不正のことだ。それは、公式・正式な議場における代議員の審議を経て決定される正当な結論を、ロビーという非公式な場で覆す行為にほかならない。そこでは、賄賂等の受け渡しという利益誘導が潜んでいておかしくない。直接の金銭の受け渡しはなくとも、政界、財界、宗教界等の権力者の恫喝や便利供与も代議員にあっておかしくない。IOCにはそれが必要だという。ますます、怪しいではない。

だが、そういう政治性が物事の決定には必要なことのほうが現実なのかもしれない。IOCは怪しいが、しかし、少なくとも、世俗的だ。IOCは、五輪競技の決定を、マーケッティング的な手法に求め、しかも、ロビー活動の影響という現実的要素に委ねている。

このたびの「レスリング外し」から明確なように、IOCは古代ギリシアのオリンピアの祭典という神話・伝説に立脚しない。一方、事実上、ナチス政府が開催した五輪ベルリン大会は、五輪というイベントを通じて、「アーリア民族=ドイツ人」の力の誇示という疑似的な宗教性が潤色されていた。「民族の祭典」とは、そういうことだ。

いまのIOCは、五輪=スポーツをナチスのような宗教性・民族主義・排外主義から分断しようと努めている。そういう意味で、筆者はIOCに好感をもつ。日本人は、金メダルが取れる種目を失おうとしていることで、いろいろな想像をめぐらしているが、それはたぶん、見当違いだ。イスラム圏からの抗議もおそらく、見当違いだ。

IOCは非政治的傾向を強めつつあり、非宗教的であり、脱民族主義的であり、脱国家主義的であり、それは商業主義に帰着する。けっこうなことではないか。五輪=スポーツを政治利用したナチスに比べれば、彼らのほうがましであり、これからも商業主義を求めてほしいものだ。

IOCは、五輪=スポーツをエンターテインメントとして理解し、その高度化に向けて努力している。これを機に、日本人は、スポーツはあくまでも世俗的であらねばならないことを改めて認識し直す必要がある。