2007年3月18日日曜日

『マルチチュード』上下

●アントニオ・ネグリ マイケル・ハート〔著〕 ●NHKブックス ●各1260円

本書は、ネグリ=ハートの3部作『帝国』『マルチチュード』『革命(仮題)』の2作目に当たる。筆者は不覚にも1作目の『帝国』を後から購入したため、順番がおかしくなってしまった。それはともかくとして、久々に本格的な反権力・反米国・反資本主義の書に出会って新鮮な気分だった。

マルチチュードとは何か――本書を手にしたとき、だれもがそう思うに違いない。本書を通読することによりその答えが得られるのだが、イメージを伝える訳語としては、「多数性」という言葉が適当だろう。本書でそうルビがふってあった。マルチチュードは、プロレタリアート、人民、大衆、マス、国民とは異なっている。

本書によると、冷戦後、米国の単独行動主義による世界支配が完成した。その情況とは、国民国家同士による従来の「戦争」は姿を消し、「9.11」以降の「テロとの戦い」という、ボーダレスな内戦状態がグローバルに恒常化され、戦時体制により、民主主義は危機に瀕している。

また、グローバルな新自由主義経済が猛威をふるい、世界の富は北米、欧州、東アジアの一部に偏在し、南の多くの民は飢餓に苦しんでいる。19世紀に誕生した産業労働者(フォーディズム社会)は、20世紀後半から21世紀初頭にかけて労働の主役の座を下り、以降、情動的産業に従事する者(オフィスワーカー、デザイナー、サービス部門労働者等)がその主役となった(ポスト・フォーディズム社会)。つまり、19世紀的な産業労働者であるプロレタリアを率いる党が革命の主体となることはあり得ない。

こうした情況において、マルチチュードが、私的所有に根ざした新自由主義経済(資本主義)を排し、〔共〕に基づく経済の価値に従い、性、国家、言語、宗教等々の差異を前提としてゆるやかなネットワークを形成し結集(するとともに離散)し、多数者のための正政治を実現しようではないか――というのが本書のきわめて大雑把な論旨だろう。著者は、9.11以降の情況について次のように記している。
民主主義の新しい可能性は戦争という障害に直面している・・・現在の世界は全般化された永続的かつグローバルな内戦によって特徴づけられ、この絶え間ない暴力の脅威が民主主義の実現を効果的に阻んでいる。永続的な戦争状態が民主主義を無期限に差し止めているだけでなく、民主主義を推進する新しい圧力や民主主義の可能性の存在が、主権権力の側から戦争という応酬を受けているのだ。戦争は民主主義を封じ込めるメカニズムとして機能している。主権関係の均衡が崩れるにともない、あらゆる非民主的な力がその基盤として戦争と暴力を必要とするようになった。こうして近代の政治と戦争の関係は逆転したのである。戦争はもはや政治権力が限定された事例において自由に使える手段ではなく、戦争そのものが政治システムの基礎を規定するものとなりつつある。戦争が支配の形態となりつつある。(下巻P.238~P.239)
(2007/03/18)