2014年2月7日金曜日

佐村河内守は詐欺罪、身体障害者福祉法違反だ

聴力を失った作曲家として知られ、「現代のベートーベン」とも呼ばれる佐村河内守の楽曲が、実は別の人物が作曲したものだったことが明らかになった。この件を便宜上「佐村河内ゴーストライター事件」と称しておこう。それを受けて、当のゴーストライター(桐朋学園大非常勤講師・新垣隆)が会見を開き、これまでの佐村河内との関係を明らかにした。

佐村河内の聴力は健常者と変わらない

会見で新垣は概ね以下のことがらを告発した。

  • 佐村河内はこれまで聴力を失いながらも全ての曲を自身が作曲したとしてきたが、18年前から佐村河内が新垣に楽曲の構成やイメージを伝え、実際の作曲は、新垣が行っていたこと
  • 佐村河内は聴力障害者だとされてきたが新垣は、彼の聴力は健常者と変わらないこと
  • 新垣は代作の報酬としていくばくかの金銭を佐村河内から受け取っていたこと
佐村河内の代表曲というのは、広島の被爆者への鎮魂の曲「交響曲第一番 HIROSHIMA」や、ソチオリンピックで男子フィギュアスケートの高橋大輔選手が競技に使用する予定の楽曲「ヴァイオリンのためのソナチネ」などがあるというが、この手の楽曲にまるで興味のない筆者はこれらの曲を聴いたことがない。そもそも佐村河内の存在すら知らなかった。たとえ知っていたとしても筆者はこの手の楽曲を評価する力量がないから、佐村河内の音楽家としての実力を云々することはできなかっただろうが。

身障者手帳不正取得は身体障害者福祉法違反の罪

佐村河内側は代理人(弁護士)をたて、すでにゴーストライターの存在を認めており、佐村河内が実際に作曲をしていないことを認め、謝罪をしている。ところが、新垣の会見を受けた佐村河内の代理人(弁護士)は、「(代理人自身が)佐村河内の身体障害者手帳を実際に見ている」と反論したというが、佐村河内の体調不良を理由として、本人が会見を開く予定はないとしている。

筆者が興味をもったのは、佐村河内が身障者手帳を取得し、自らを聴覚障害者としていたことだ。佐村河内の聴力については手帳をもっているという客観的事実からいえば、いまの段階では佐村河内のほうが正しいのだが、彼と接触していた新垣が健常者と変わらないと証言している以上、佐村河内が不正に手帳を取得した可能性の方が高い。なぜならば、新垣が会見で嘘を言う理由がないからだ。新垣は自分がゴーストライターであることを認め、真実を明らかにしようとして公の場に登壇した。そこで重ねて虚偽の発言をする理由が見つからない。新垣が佐村河内と接触したままを偽りなく会見の場で明らかにした、と考えたほうが自然だろう。

よって筆者は、佐村河内が不正に手帳を取得したもの推測する。手帳の不正取得は、身体障害者福祉法違反の罪に問われ、六月以下の懲役または20万円以下の罰金が科される。佐村河内の代理人は、佐村河内が手帳をもっているかどうかではなく、彼が聴覚障害者なのかそうでないのかを、明らかにすべきではないか。

TVに出演したヤメ検弁護士さんによると、佐村河内が問われる罪は、刑事における詐欺罪、民事における諸々の損害賠償責任であるという。さらに、身障者手帳の不正取得による身体障害者福祉法違反も問われるべきだろう。

ハンディキャップを装うことの大罪

さはさりながら、なんと醜い事件だろうか。被爆二世、聴力障害というハンディキャップを装い、それを売り物にしたペテン師・佐村河内守――実際は、自身が作曲する能力を持たないうえに、聴力障害を装って身障者手帳を不正取得した疑いすらある。この事件はうやむやにすべきではない。あのホリエモンが塀の中に収監されたのだから、佐村河内も自身の犯した罪を悔い改めるまで、きちんと勤めを果たしてほしいものだ。

家族はなぜ、不正を糺さなかったのか

次なる疑問は、佐村河内のペテンを周囲が見抜けなかったのかどうか――まず家族の存在。彼の最も身近にいる家族が佐村河内の不正を糺すべきではなかったか。

第二に彼が所属するプロダクション及び音楽業界関係者。佐村河内が聴力障害なのかどうか、音楽家としての実力はどうなのか。告発者によると、ピアノの技術は初心者レベル、楽譜も書けない者を「現代のベートーベン」と崇めた(というか売り出そうと考えた)のは、所属するプロダクションとレコード会社ではなかったのか。

第三にマスメディア業界。NHKTVは佐村河内の特集番組を制作・放映したという(筆者はその番組を見ていないのだが)。取材した担当ディレクターが佐村河内の音楽的力量及び聴覚障害の程度について、疑問を感じなかったのか。NHKは、取材対象を把握せず、はなから「現代のベートーベン」という物語をつくりたいと考え、思い通りの絵がとれたことをもって自己満足したのではないか。NHKは対象の実相についての検証を怠り、製作側の先入観を満たした映像を垂れ流したのではないか。TV業界に限らず、日本のメディア業者はレッテルを貼ることに熱心で、対象の実相に迫ることを怠る場合が多い。この件も、芸能プロ、音楽業界及びメディア業界が共作した偽装事件である可能性が高い。

本件は犯罪としての立件が望ましい

この事件が明らかになってもなお、「良ければだれがつくろうと関係ないじゃないか」――と、不正を見逃そうとする俗論がメディアにおいて支配的だ。おそらく、佐村河内と共犯関係にあるTV業界が意図的に流しているに違いない。

音楽的価値というのは相対的なものだ。音程の外れた歌手の楽曲のほうが、レコードがよく売れた、という話も音楽業界にはあるらしい。ところで一般に、身障者の作品には同情的な購買意欲が働く。パラリンピックという競技大会がある。身障者が陸上競技や水泳等の競技を行うのだが、その記録はもちろん健常者のものには劣るが、この大会の参加者に対しては、健常者以上の敬意が払われる。健常者の記録には劣るとはいえ、健常者以上の驚きと称賛が集まる。そのことはきわめて自然なことだ。

だから、佐村河内が聴力障害者でありながら作曲をしたという前提に対して、消費者は尊敬・敬意・驚きの感情を付加して、彼の作品を評価した。このことは、消費者が愚かなのではない。だから、佐村河内が聴力障害者でなかったことや、ゴーストライターの作であったことが明らかになった時点で、彼に裏切られたと感じることは当然のことだ。また、そう感ずることが身障者を貶めることにはならないし、健常者の“上から目線”でもなんでもない。

繰り返すが、今日、音楽に限らず、商品(作品)の価値は相対的なものだ。その商品(作品)を良しとする根拠・基準は見出しにくい。時代背景もあるし、このたびのように生産者(アーチスト)の属性に左右される場合もある。評論家、鑑定者といった専門家の評価に大衆が左右されることも少なくない。広告宣伝の力も無視できない。

それだけに、商品(作品)を提供する側には、偽装・不正・虚偽を防止するための規制や法体系が構築されていなければならないのだが、日本の場合、サプリメント商品に係る表示違反事件や外食産業の偽装表示事件にみられるように、規制はきわめて不備なままで、無法状態に近い。いわば提供者のなすがままに近い。消費者は守られていないのだ。

本件の場合、商品(作品)の提供者/制作者側の虚偽・不正が誰の目からも明らかになってきている。よって、商品(作品)提供者の非を法的に追求し、提供者の罪を厳しく問う必要がある。謝罪で済まされる問題ではない。

(文中敬称略)