本書の副題「反乱・主体化・階級闘争」から連想されるような、マルクス革命論の再解釈ではなく、主に「1968年革命」以降、ヨーロッパにおいて花開いたポストモダニズムの共産主義思想に係る論考によって構成されている。
著者(市田良彦)はフランスにおいて、「マルチチュード」という思想誌の編集委員を務めていたとのこと。雑誌名“マルチチュード”とはいうまでもなく、ポストモダンの共産主義者の代表格、アントニオ・ネグリが提唱した革命主体の名称であり、同名の書物もある。著者(市田良彦)はネグリには強い影響を受けているようで、本書にはネグリ論が数本おさめられている。
ところで、マルクス主義を通過した者であるならば、本題にある〈存在〉と〈政治〉という言葉から、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』の以下のような言説を連想するのではないか。
意識(Bewusstsein)とは決して意識的存在(das bewusste Sein)以外のものではありえず、そして人間の存在とはかれらの現実的な生活過程である。(P32)
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意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する。(P33)
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意識ははじめからすでに一つの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるあるほかない。(P38)
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もし幾百万のプロレタリアがかれらの生活関係に決して満足を感じないならば、またもしかれらの『存在』(Sein)がかれらの〔・・・〕現実において、そして実践的唯物論者すなわち共産主義者にとって大切なのは、現存する世界を革命し、既成の事物を攻撃し変更することである。(P59)〔岩波文庫版〕
復習の意味で、マルクスのこれらの言説をとりあえず頭に入れておこう。さて、存在論的政治とはなんなのか――本書の帯にも書き抜かれている「まえがき」から引用する。
存在論的政治。すなわち、我々の生のあり方全般を深く拘束すると同時に、種別的にひとつの政治であることを手放さない政治。それは、生そのものを哲学的に考察すればことさら主題化しなくてすむ政治ではない。問題はつまり、文化や文明や経済や歴史、その他なんらかの人間的事象に置き換えれば「本質」を見極めることのできる「現象」ではない。もちろん、政治はいつでも表層的なものだ。・・・存在論的政治とは、現在の私にとって、この表層と深層が分岐する地点において生じる問題の名前にほかならない。それは、存在論的に「深い」次元が決定するような政治のあり方を指すわけではないのである。(P1~2)(略)存在論的政治は、積極的に日和見主義なのである。実践的には何も決定されていない、という原理から出発して、決定の方向を「世界」――生であれ経済であれ構造であれ――に対しそのつど問おうとする。どれだけ持続するのか分からない「世界の今」の傾向に寄り添おうとする。方向-傾向の特殊な「形態」を、表層と深層のあいだ、分岐点そのものに取らせる「歴史」を見ようとする。下部からの決定力が政治に特定の枠のなかにとどまらせることを許さないから、存在論的政治は固有の歴史をもつのだ。本書はこの歴史のなかにあるかぎりでの現在――主として1968年にはじまる――についても語ろうとするだろう。政治について「本質」から「歴史」へと視点を移動させ、「歴史」的分岐点を表層と深層のあいだに見定め、そこに「実践」を定位させることもまた、存在論的政治は求めている。(P4)(略)存在論的政治は、万人の救済と転生を信じる一個の狂気である。(P6)
著者(市田良彦)の立場は明確である。「フォイエルバッハは宗教的本質を人間的本質に解消させる。しかし人間的本質はなにも個々の個人に内在する抽象体ではない。その現実においてそれは社会的諸関係の総和(ensemble)である」(前掲書/P237)、「哲学者たちは世界をいろいろに解釈してきたにすぎない。たいせつなのはそれを変更することである。」(同/P238)。
存在論的政治とは――下部が上部を決定するという「決定論」を排したうえでだが――マルクスの言葉を言い換えたようなもののように感じる。