東京オリンピック・エンブレムに係る盗作疑惑については、これをデザインした佐野研二郎に相次いで盗作疑惑が噴出したため、「佐野クロ説」が有力視しされてきた。管見の限りだが、日本人弁護士の数人が、佐野の著作権侵害を断言している。
佐野を追い込んだのはマスメディアではなくネットだった
本件は、▽その火付け役がネットユーザーであったこと(マスメディアは当初、オリンピック主管当局及び広告代理店に配慮して疑惑報道を控えた)、▽当事者(佐野)が、この期に及んでもシラを切り続けていること――の2点において、あの「STAP細胞」問題に酷似している。
佐野を厳しく追い込んだのは、マスメディアではなく、ネットユーザーだった。彼らが佐野の複数の過去作品における盗作を実証した。「STAP細胞」においても、小保方の不正を発見し、関連する情報を集約し、疑惑を追及したのはネットユーザーだった。
佐野の盗作「実績」は、いまのところ、①サントリーのキャンペーンのトートバッグにおける複数のデザインの盗作、②ローリングストーンズの公式Tシャツの盗作(ピレリ・ラグレーンのアルバムのジャケット裏の写真を反転)、③東山動植物園のシンボルマークの盗作(コスタリカ国立博物館のそれと酷似)――の3件が固いところだが、ほかにも何件か盗作を窺わせるような作品がある。
盗作をクライアントに納品した広告代理店の責任
佐野が盗作に及んだ情報ソースとして、写真共有SNSのピンタレストが浮上している。つまり、佐野はピンタレストに投稿された世界中のデザインソースをそのままコピーペーストするかあるいはアレンジして、自分のデザインとして広告代理店に納品し、代理店はクライアントからその代金を収納し、代理店手数料をピンはねしたうえで佐野にデザイン料を支払っていたことになる。浅学な筆者は佐野が高名なデザイナーであることを騒動が始まって初めて知ったのだが、それにしてもあくどい商法だ。佐野及び佐野を起用した大手広告代理店は詐欺にも等しい行為を働いていた。高名なデザイナーと大手広告代理店が共謀して高いデザイン料金を大企業からせしめていた。
マスメディアに散見される佐野への援護射撃
さて、この件に関する議論については混乱もある。佐野の盗作疑惑を和らげようとする間接的援護射撃だ。
(一)「デザインが悪い」説
代表的なものが、「佐野のデザインが凡庸でつまらない」という「デザインが悪い説」。この見解はマスメディアでは主流になっている。その特徴は言うまでもなく、佐野の盗作については追及せず、「デザインが悪いから引っ込めろ」と、佐野のデザイン能力及びこれを採用した組織委に対して強硬姿勢を見せる。一見すると筋が通っているかのようだが、盗作については触れない。つまり、盗作容認を代表する見解だ。
(二)偶然説
二番目は「偶然説」。“デザインというのは、デザイナーがこれまで見てきたものが頭に入っていて、それが盗作を意図しなくても自然に出てしまうことがある”だから本件も“著作権侵害に当たらない”という見解。もしくは、“単純な、たとえばアルファベット2文字程度の組合せならば、類似のものが出てきて当然”という見解。これらに共通すのは、“真似する意図がなかった場合、類似のものが出てきても真似された側は文句を言えない”という論理になる。つまり、盗作(と自ら言わない限り)すべてOKの暴論だ。
この暴論が通るならば、著作権保護は無意味化される。真似する意図がなかったと強弁すれば、模倣、二番煎じ、三番煎じ・・・がすべて許されることになる。もちろん偶然の一致がないことはない。人間のデザイン感覚は既存のあらゆる情報に規定されているから、その結果として、類似、近似のデザインが作成されることを否定しない。その場合どう処理したらいいのかと言えば、先のものを優先すべきなのだ。つまり、既にあるものに優先権が与えられるということ。本件の場合は、佐野が偶然ベルギーの劇場に近似したデザインを起こしたと仮定するならば、後発の佐野は、ベルギーのデザインの存在を知ったところで、自作を取下げればよかった。ただそれだけの話だ。
ところが佐野はこともあろうに類似を否定し、似ていないし、デザインに係るロジカル、哲学、発想が異なると強弁した。この問題をこじらせた発端だ。
デザインは外形(形、色)であって、その創作過程や考え方が云々されるものではない。たとえば、ある者が、Aを(先が尖っているから)上昇を示す形象とイメージした――と主張したとしよう。また別の者は、Aをものごとの始まり(アルファベットの最初の文字だから)をイメージしたと主張したとしよう。両者のAに関する考え方は全く異なるが、もちろん結果は同じでAはAだ。両者の考え方や発想は異なっていても、結果としてのデザインは同一なのだ。本件の場合は、ベルギーの劇場のシンボルマークがA、佐野の東京オリンピック・エンブレムはĀ程度。これを盗作と言う。盗作と言われないためには、佐野は後発として先人をリスペクトし、自己の作品にとどめ、公的に使用することを控えればよかった。それをしなかったのは、佐野が盗作したからだ。オリンピック組織委員、IOCという権威を利用して、ベルギー側を力でねじ伏せようと図った疑いがもたれる。
(三)佐野の「人格者説」
三番目の見解は、“佐野さんは盗作するようなデザイナーではない”というもの。佐野に盗作の事実が次々と発覚するに及んでまったく、通用しなくなったが、当初はこの説がまことしやかに囁かれた。この見解の是非については、論ずるまでもないので割愛する。
(四)審査委員責任論
四番目は、“コンペで佐野のデザインを採用した審査委員が悪い”という「審査委員責任論」。前出の(一)に近い。このたびの疑惑問題を発端にして、佐野と審査委員諸氏の相関図が作成された。それによると、審査委員と参加デザイナーがもちまわりでデザイン賞を獲得している実態が暴露された。オリンピック・エンブレムのコンペにもその構造が貫かれているという。いわば、日本のデザイン業界の癒着構造があからさまに暴露されたのである。
確かにそのとおりで、このたびの盗作疑惑には、選んだ側に咎が及ばないというわけにはいかない。盗作も問題だが、デザイン業界内部の閉じられた関係、すなわち仲間内の誉め合いについては、大いなる議論を必要とする。そこにはデザイン界における重鎮の権威化があり、有力とされるデザイナーの創作力の劣化があり、PCを駆使したコピペ問題がある。業界的には、大手広告代理店~有力デザイナーの系列化が進み、デザイナーの権威性、名前で商売を円滑に進めようとする広告代理店の営業姿勢(魂胆)が見え隠れする。
佐野の盗作疑惑に問題を絞りこめ
ただし、「審査委員責任論」は筆者からみれば、盗作問題の副次的効果、副次的産物のように思える。たとえて言うならば、本丸落城を目の前にしながら、まわりの雑魚を追い回すようなもの。雑魚にかまけて、追い詰めた大将を逃しかねない。つまり、本丸である佐野を落とせば、デザイン業界の腐敗(構造)も寄生虫も一掃できる。問題を佐野の盗作疑惑に絞り込み、引き続き、佐野が働いた盗作のサンプルを示し、かつ、佐野のまわり(職場=事務所)が盗作を常套的に行う環境であったことを示し、併せて、佐野がベルギーの劇場のシンボルマークを知り得る環境にあったことを示すことで、佐野の盗作=著作権侵害を実証する方向性が肝要だ。その方向性と事実の積み重ねが、佐野のオリンピック・エンブレムの盗作に係る状況証拠となり得る。それこそが、佐野の盗作を断罪する正義の遂行となる。
ベルギーの裁判所がどのような判断を示すかわからない。佐野に盗作の意図があったと、裁判所は判断しないかもしれない。だが、佐野の著作権侵害を裁判所が認めなかったとしても、ネットユーザーがこれまで行ってきた疑惑解明のための努力は無駄ではない。
2015年8月21日金曜日
2015年8月11日火曜日
東京五輪公式エンブレム盗作の根拠
2020年東京五輪の公式エンブレムが、ベルギーの劇場のロゴの盗作であると、ベルギーのデザイナーから抗議が出された。JOC、大会組織委員会などは「問題ない」との見解を示したものの、劇場ロゴのデザイナー側は使用停止を求め、強硬な姿勢を取っている。このことを受け、制作者のアートディレクター、佐野研二郎(43)は、会見を開き、盗作を否定した。
佐野の会見のポイントは以下のとおり。
佐野の説明は説明になっていない。デザインのオリジナル性は、創作過程、創作方法、創作意図、デザイナーの哲学、精神性の説明で証明されるものではない。あくまでも、図案、図式等の最終形態(=作品)が似ているか似ていないか、見る者に誤認を与えるか与えないか――に尽きる。
商業デザインの場合、商標権登録により、先にデザインした側の権利が保護される。今回の場合、ベルギー側が商標権登録を行っていないようなので、商標権侵害の争いではなく、著作権の争いになる。著作権は、作品のオリジナル性の保護であるが、商標権登録という照合すべき客観的基準がないため、“シロ・クロ”の判定が難しい。著作権侵害を訴える側が、侵害したとする相手に盗用の事実性があったことを証明しなければならないからだ。今回の場合だと、佐野がベルギーのデザインを盗んだ事実性を証明する証拠を、ベルギー側が提出しなければならない。
本件の場合は、佐野に盗用の意図があったことは、容易に証明できる。その根拠の一つは、佐野自身が先の会見において、“ベルギーの劇場のロゴについては「TとLの組み合わせだと思う」とした上で、「こちらはTと円で、デザインに対する考え方が違う」と強調したこと。さらに決定的なのは、「アルファベットを主軸にすると、どうしても類似するものは出てくるが、テーマが違う」と力説した”ことに求められる。
佐野の発言は、結果として類似する可能性を予期しながら、テーマがちがえば類似は許される――という認識をもっていることを自ら認めたことになる。換言すれば、佐野は酷似する可能性を承知しながら、テーマ性の差異をもって著作権侵害を免れるという認識をもっていたことを図らずも吐露したわけである。
第二点目は、盗作したとされる側に、過去、他作品をしばしば盗作していた事実が認められるか否かに求められる。それが証明できれば、今回も盗作したと見做される可能性が高くなる。本件の場合、佐野がしばしば盗作をしていた事実はネット上の資料で確認できる。これだけでも、佐野が東京オリンピック・エンブレムを盗作したと見做されるのではないか。
この係争の結果について、弁護士・裁判官でもない筆者が断言できるはずもないが、作品が似てしまった以上、後発の者は先人をリスペクトすべきである。佐野に盗作の意志がよしんばなかったとしても、先人の創造性を尊重して、後発の自作を引っ込めることが筋である。そうでなければ、常套的に日本の意匠をパクる某国を日本が非難することができなくなる。日本もパクるじゃないかと――
なによりも、似ているものを似ていないと強弁する佐野の姿勢が筆者には理解できない。考え方が違えば、類似・模倣作品が横行してもいいのか。デザインは外見で情報・事物等を弁別することが第一の機能であり使命なのではないのか。そんなことは、デザイン創作のイロハのイ、当たり前ではないのか。創作においては、なによりもオリジナルが尊重されるべきではないのか。盗作を疑われるのは、なによりも、オリジナルが(先に)存在しているからではないのか。
会見において、「似ているものを似ていない」と強弁する佐野は、「ないものをある」と強弁し続けた、「STAP細胞」の小保方晴子の姿に、それこそ酷似しているではないか。
佐野の会見のポイントは以下のとおり。
- 東京の「T」を模した五輪エンブレムの図案を作るにあたり、「ディド」と「ボドニ」と呼ばれるフォント(書体)を参考にしたこと。
- 「力強さと繊細さが両立している書体で、このニュアンスを生かせないかと発想が始まった」とし、これに1964年東京大会のエンブレムをイメージさせる大きな円を組み合わせたのが、今回のデザインだとしたこと。
- ベルギーの劇場のロゴについては「TとLの組み合わせだと思う」とした上で、「こちらはTと円で、デザインに対する考え方が違う」と強調したこと。
- 「アルファベットを主軸にすると、どうしても類似するものは出てくるが、テーマが違う」と力説したこと。
- エンブレムを構成する丸や四角などの図形を組み合わせると、AからZまでのアルファベットや数字が表現できることを公表し、五輪関連グッズなどへの応用性の高さをアピールし、海外作品については全く知らないとしたこと。
- 「制作時に参考にしたことはありません」と断言したこと。
佐野の説明は説明になっていない。デザインのオリジナル性は、創作過程、創作方法、創作意図、デザイナーの哲学、精神性の説明で証明されるものではない。あくまでも、図案、図式等の最終形態(=作品)が似ているか似ていないか、見る者に誤認を与えるか与えないか――に尽きる。
商業デザインの場合、商標権登録により、先にデザインした側の権利が保護される。今回の場合、ベルギー側が商標権登録を行っていないようなので、商標権侵害の争いではなく、著作権の争いになる。著作権は、作品のオリジナル性の保護であるが、商標権登録という照合すべき客観的基準がないため、“シロ・クロ”の判定が難しい。著作権侵害を訴える側が、侵害したとする相手に盗用の事実性があったことを証明しなければならないからだ。今回の場合だと、佐野がベルギーのデザインを盗んだ事実性を証明する証拠を、ベルギー側が提出しなければならない。
本件の場合は、佐野に盗用の意図があったことは、容易に証明できる。その根拠の一つは、佐野自身が先の会見において、“ベルギーの劇場のロゴについては「TとLの組み合わせだと思う」とした上で、「こちらはTと円で、デザインに対する考え方が違う」と強調したこと。さらに決定的なのは、「アルファベットを主軸にすると、どうしても類似するものは出てくるが、テーマが違う」と力説した”ことに求められる。
佐野の発言は、結果として類似する可能性を予期しながら、テーマがちがえば類似は許される――という認識をもっていることを自ら認めたことになる。換言すれば、佐野は酷似する可能性を承知しながら、テーマ性の差異をもって著作権侵害を免れるという認識をもっていたことを図らずも吐露したわけである。
第二点目は、盗作したとされる側に、過去、他作品をしばしば盗作していた事実が認められるか否かに求められる。それが証明できれば、今回も盗作したと見做される可能性が高くなる。本件の場合、佐野がしばしば盗作をしていた事実はネット上の資料で確認できる。これだけでも、佐野が東京オリンピック・エンブレムを盗作したと見做されるのではないか。
この係争の結果について、弁護士・裁判官でもない筆者が断言できるはずもないが、作品が似てしまった以上、後発の者は先人をリスペクトすべきである。佐野に盗作の意志がよしんばなかったとしても、先人の創造性を尊重して、後発の自作を引っ込めることが筋である。そうでなければ、常套的に日本の意匠をパクる某国を日本が非難することができなくなる。日本もパクるじゃないかと――
なによりも、似ているものを似ていないと強弁する佐野の姿勢が筆者には理解できない。考え方が違えば、類似・模倣作品が横行してもいいのか。デザインは外見で情報・事物等を弁別することが第一の機能であり使命なのではないのか。そんなことは、デザイン創作のイロハのイ、当たり前ではないのか。創作においては、なによりもオリジナルが尊重されるべきではないのか。盗作を疑われるのは、なによりも、オリジナルが(先に)存在しているからではないのか。
会見において、「似ているものを似ていない」と強弁する佐野は、「ないものをある」と強弁し続けた、「STAP細胞」の小保方晴子の姿に、それこそ酷似しているではないか。
2015年8月10日月曜日
『奥浩平 青春の墓標』
●レッド・アーカイヴズ刊行会〔編集〕●社会評論社 ●2300円+税
本書第1部、『「青春の墓標」ある学生活動家の愛と死/奥浩平〔著〕』(以下、「遺稿集」と略記)については、筆者にとって再読に当たる。高校生のころ、2学年先に大学に入っていた兄の書棚にクロカン(黒田寛一)の著作物と並んでいた同書を手にした記憶がある。文芸春秋から1965年10月に刊行されたらしい。本書は、第2部に「奥浩平を読む」という時代考証的な内容を追加した構成になっている。
当時の若者に強い影響を与えた“青春の書”
高校時代の筆者は、遺稿集をほとんど理解していなかった。だが、奥浩平が都立高校生だったという筆者との共通点があり、親近感を感じたものだった。その一方で、高校時代から政治運動(60年安保闘争)に積極的に参加した奥浩平には違和感もあった。当時、筆者の高校にも、社研に巣食う反戦高協等の高校生活動家がいたが、筆者は毛嫌いしていた。
とは言え、読後から大学入学時まで、セイシュンノボヒョウ、オクコウヘイ、ナカハラモトコ、マルガクドウ、チュウカクハ、カクマルハ・・・といった固有名詞があたかも符牒のように記憶に留まり、内部で固化していったことを覚えている。そしてその反動のごとく、〈奥浩平〉と〈中原素子〉という一対の男女の存在だけはゆらゆらと幻想のように内部に漂い続けていた。
結局のところ、同書は、高校生だった筆者に、“大学に入ったらオクコウヘイのようになってもいいのかな”という漠然とした感覚を与えたことは確かである。換言すれば、大学に入ったら「学生活動家」になる――という漠然とした選択肢を植え付けたことになる。遺稿集は筆者を含めた奥浩平の死後の世代に対し、多大な影響を与えたことだけは間違いない。
再読後の感想――気恥ずかしさが第一に
再読し始めた時、不思議な感覚が筆者を捉えた。その第一は気恥ずかしさ。とっくの昔に廃棄したはずの自分の日記を読み返しているかのようないやな感覚である。
第二は驚き。遺稿集の中に初期マルクス(『経済学=哲学草稿』『ドイツ・イデオロギー』等)に係る論文やアジビラ等のボリュームが意外に多いこと。60年代、初期マルクスの再評価が世界中で起こったのだが、奥浩平はその時代にリアルタイムで立ち会いつつ、思想形成をしていたのだ。初読では、論文・アジビラについては、高校生で浅学の筆者の理解を超えていたため、読み飛ばしていたのだろう。
第三は、奥浩平と中原素子の関係が明確になったこと。初読のときの最大の疑問は、実際のところ中原素子は奥浩平のことをどう思っていたのかということだった。遺稿集はもちろん、奥浩平の一方的な(中原素子への)思いしか収録されていないし、管見の限りだが、刊行後に中原素子が奥浩平について発言していないはず。
奥は中原にとって、高校時代のただの友達
遺稿集に綴られた奥浩平の中原素子への思いだけを読む限りでは、高校時代から恋愛関係にあった2人であったが、奥浩平は横浜市大入学後革共同中核派に属し、中原素子は早稲田大学入学後、革マル派に属す。両派がイデオロギー的に対立し、暴力的に対峙するに及び、あたかも2人はロミオとジュリエットのごとく引き裂かれた、という悲恋物語が成立する余地はまだあったのである。つまり、奥浩平の自殺は、イデオロギー的対立により恋人との恋愛関係を清算せざるを得なくなり、苦悩の挙句自殺したのではないかと。
ところが、本書第2部「奥浩平を読む」に収録された、同時代人座談会「奧浩平の今」において、奥浩平と中原素子の2人をよく知る川口顕という人物が、奥と中原の関係について次のように証言している。
奧浩平と中原素子の関係を邪推するなら以下のとおりである。二人は高校時代(~1962)、互いに好意を感じ合う友人関係にあった。卒業後、中原素子は早大一文に進学(1962)し、奥は浪人(同年)する。このころの男女は成熟度に差異があり、女性の方が早熟である場合が多い。
奥浩平より1年早く大学に入った中原素子は、文字通り「高校時代」を卒業し、新しい世界に足を踏み入れていった。進歩的な中原素子がマルクス主義学生同盟山本派(=革マル派)のシンパになるのは必然であるが、同盟員になるほどではなかった。そのころ、早大一文は革マル派の暴力的な一元的支配下にあったからである。ただし、高校卒業後1年目ということで、二人は高校時代の延長で交際を続けてもいた。
1963年4月~、中原素子に一年遅れて大学(横浜市大)に進学した奥浩平は学生運動家として活動を始め、マル学同中核派に加盟する。この年の7月、マル学同の決定的分裂を象徴する、「7.2早大事件」が起きる。それまでも対立を内包していたマル学同だったが、この日、早稲田大学構内において、マル学同全国委員会(中核派)・社学同・社青同解放派の三派とマル学同山本派(革マル派)との間で暴力的闘争を展開するに至る。この事件を契機に、二人の関係は急激に冷え始めたように遺稿集からはうかがえる。
しかし、中原素子が奥浩平を「拒絶」しはじめたのが、マル学同の分裂・対立というイデオロギー的契機に求められるのかというと、どうもそうではないらしい。大学2年生の中原には奥浩平の高校時代と変わらぬ子供じみた態度、思考回路、言動に不満を覚えた可能性がある。観念的には、すなわち、マルクス関連の読書量の増大化に応じて、難解な哲学的、革命的言語を獲得した奥浩平ではあったが、それだけで中原素子(女性)が奥浩平(男性)になびくとは限らない。中原素子は奥浩平の幼さに辟易し、男として見切ったのではないか。奥浩平は中原素子の変節を、「早大事件」を契機とした、中原素子が革マル派に入れあげた結果だと勘違いしたのではないか。
奧浩平――革命的ロマン主義者の系譜
奥浩平はなぜ自殺したのか。このことに本書は貴重なヒントを与えてくれる。奥浩平の自殺について、前掲の座談会の出席者で奥浩平の学生運動の同志だった斉藤政明が次のように述べている。
奥の自殺と〈母〉の不在
最後に、筆者が「発見」した奥浩平の短い生涯を貫く最重要のテーマとして、「母の不在」の問題を挙げておく。この「発見」は筆者のオリジナルではなく、本書第2部に収録されている、『幻想の奥浩平(川口顕〔著〕)』で指摘されているもの。川口の「奥浩平論」は、奥を知るうえでかなり重要だと思われるので、相当の分量になるが書き抜いておく。
(注1)大浦圭子:
1960年に自殺した目黒区立第六中学校の下級生。圭子は美術の特異な才能に恵まれた早熟な少女だったという。圭子の死後、奥浩平はクリスチャンであるその母親としばしば、対話及び文通をした。奥浩平は圭子の死を契機として、教会に通い始めたという。
(注2)紳平氏:
本書第1部、『「青春の墓標」ある学生活動家の愛と死/奥浩平〔著〕』(以下、「遺稿集」と略記)については、筆者にとって再読に当たる。高校生のころ、2学年先に大学に入っていた兄の書棚にクロカン(黒田寛一)の著作物と並んでいた同書を手にした記憶がある。文芸春秋から1965年10月に刊行されたらしい。本書は、第2部に「奥浩平を読む」という時代考証的な内容を追加した構成になっている。
当時の若者に強い影響を与えた“青春の書”
高校時代の筆者は、遺稿集をほとんど理解していなかった。だが、奥浩平が都立高校生だったという筆者との共通点があり、親近感を感じたものだった。その一方で、高校時代から政治運動(60年安保闘争)に積極的に参加した奥浩平には違和感もあった。当時、筆者の高校にも、社研に巣食う反戦高協等の高校生活動家がいたが、筆者は毛嫌いしていた。
とは言え、読後から大学入学時まで、セイシュンノボヒョウ、オクコウヘイ、ナカハラモトコ、マルガクドウ、チュウカクハ、カクマルハ・・・といった固有名詞があたかも符牒のように記憶に留まり、内部で固化していったことを覚えている。そしてその反動のごとく、〈奥浩平〉と〈中原素子〉という一対の男女の存在だけはゆらゆらと幻想のように内部に漂い続けていた。
結局のところ、同書は、高校生だった筆者に、“大学に入ったらオクコウヘイのようになってもいいのかな”という漠然とした感覚を与えたことは確かである。換言すれば、大学に入ったら「学生活動家」になる――という漠然とした選択肢を植え付けたことになる。遺稿集は筆者を含めた奥浩平の死後の世代に対し、多大な影響を与えたことだけは間違いない。
再読後の感想――気恥ずかしさが第一に
再読し始めた時、不思議な感覚が筆者を捉えた。その第一は気恥ずかしさ。とっくの昔に廃棄したはずの自分の日記を読み返しているかのようないやな感覚である。
第二は驚き。遺稿集の中に初期マルクス(『経済学=哲学草稿』『ドイツ・イデオロギー』等)に係る論文やアジビラ等のボリュームが意外に多いこと。60年代、初期マルクスの再評価が世界中で起こったのだが、奥浩平はその時代にリアルタイムで立ち会いつつ、思想形成をしていたのだ。初読では、論文・アジビラについては、高校生で浅学の筆者の理解を超えていたため、読み飛ばしていたのだろう。
第三は、奥浩平と中原素子の関係が明確になったこと。初読のときの最大の疑問は、実際のところ中原素子は奥浩平のことをどう思っていたのかということだった。遺稿集はもちろん、奥浩平の一方的な(中原素子への)思いしか収録されていないし、管見の限りだが、刊行後に中原素子が奥浩平について発言していないはず。
奥は中原にとって、高校時代のただの友達
遺稿集に綴られた奥浩平の中原素子への思いだけを読む限りでは、高校時代から恋愛関係にあった2人であったが、奥浩平は横浜市大入学後革共同中核派に属し、中原素子は早稲田大学入学後、革マル派に属す。両派がイデオロギー的に対立し、暴力的に対峙するに及び、あたかも2人はロミオとジュリエットのごとく引き裂かれた、という悲恋物語が成立する余地はまだあったのである。つまり、奥浩平の自殺は、イデオロギー的対立により恋人との恋愛関係を清算せざるを得なくなり、苦悩の挙句自殺したのではないかと。
ところが、本書第2部「奥浩平を読む」に収録された、同時代人座談会「奧浩平の今」において、奥浩平と中原素子の2人をよく知る川口顕という人物が、奥と中原の関係について次のように証言している。
・・・『幻想の奥浩平』(川口顕別稿)で書いたけど、中原素子はまったく恋心も、恋愛感情も、そういう対象としてすら奥のことを見てなかったんですよ。単に青山高校の社研の仲間というそれだけの付き合いで、まあ手ぐらい握らせたことはあるかもしれないけど、恋人としての、キスをしたこともたぶん無いだろうし、ましてセックスは無いわけですね。恋人関係を成立させるものは彼女の方にまったくないですよ。(P367)この証言を信じる限り、奥浩平にとっての中原素子はそれこそ幻想であり、2人の悲恋は、実際には成立していないことになる。遺稿集に頻繁に現れる〈中原素子〉という存在は、極論すれば奥浩平の創造であり想像のようなのだ。
奧浩平と中原素子の関係を邪推するなら以下のとおりである。二人は高校時代(~1962)、互いに好意を感じ合う友人関係にあった。卒業後、中原素子は早大一文に進学(1962)し、奥は浪人(同年)する。このころの男女は成熟度に差異があり、女性の方が早熟である場合が多い。
奥浩平より1年早く大学に入った中原素子は、文字通り「高校時代」を卒業し、新しい世界に足を踏み入れていった。進歩的な中原素子がマルクス主義学生同盟山本派(=革マル派)のシンパになるのは必然であるが、同盟員になるほどではなかった。そのころ、早大一文は革マル派の暴力的な一元的支配下にあったからである。ただし、高校卒業後1年目ということで、二人は高校時代の延長で交際を続けてもいた。
1963年4月~、中原素子に一年遅れて大学(横浜市大)に進学した奥浩平は学生運動家として活動を始め、マル学同中核派に加盟する。この年の7月、マル学同の決定的分裂を象徴する、「7.2早大事件」が起きる。それまでも対立を内包していたマル学同だったが、この日、早稲田大学構内において、マル学同全国委員会(中核派)・社学同・社青同解放派の三派とマル学同山本派(革マル派)との間で暴力的闘争を展開するに至る。この事件を契機に、二人の関係は急激に冷え始めたように遺稿集からはうかがえる。
しかし、中原素子が奥浩平を「拒絶」しはじめたのが、マル学同の分裂・対立というイデオロギー的契機に求められるのかというと、どうもそうではないらしい。大学2年生の中原には奥浩平の高校時代と変わらぬ子供じみた態度、思考回路、言動に不満を覚えた可能性がある。観念的には、すなわち、マルクス関連の読書量の増大化に応じて、難解な哲学的、革命的言語を獲得した奥浩平ではあったが、それだけで中原素子(女性)が奥浩平(男性)になびくとは限らない。中原素子は奥浩平の幼さに辟易し、男として見切ったのではないか。奥浩平は中原素子の変節を、「早大事件」を契機とした、中原素子が革マル派に入れあげた結果だと勘違いしたのではないか。
奧浩平――革命的ロマン主義者の系譜
奥浩平はなぜ自殺したのか。このことに本書は貴重なヒントを与えてくれる。奥浩平の自殺について、前掲の座談会の出席者で奥浩平の学生運動の同志だった斉藤政明が次のように述べている。
・・・奧浩平には死にたいということがずうーとあって・・・例えばの話ですけど、・・・原口統三の『二十歳のエチュード』だとか藤村操の『巌頭之感』に感じた死への思い、高校時代に読んで、そういう思いというのが奥君にもあったのかなあ、と。(P364)奧浩平が『チボー家のジャック』『人知れず微笑まん』を愛読していたことも遺稿集から認められる。前者の小説の主人公、ジャック・チボーは、第一次世界大戦に反対するため、死を覚悟して飛行機に乗って反戦ビラを捲き、撃ち落とされる。この死に方は自死である。また、後者は、60年安保闘争において官憲により虐殺された樺美智子の遺稿集である。原口統三、藤村操、樺美智子、そしてフィックションではあるがジャック・チボー・・・彼らは「革命的ロマンチスト」の系列に属す。革命的というのは、マルクス主義者であることだけを意味しない。その列に奥浩平を加えることに筆者は違和を感じない。
奥の自殺と〈母〉の不在
最後に、筆者が「発見」した奥浩平の短い生涯を貫く最重要のテーマとして、「母の不在」の問題を挙げておく。この「発見」は筆者のオリジナルではなく、本書第2部に収録されている、『幻想の奥浩平(川口顕〔著〕)』で指摘されているもの。川口の「奥浩平論」は、奥を知るうえでかなり重要だと思われるので、相当の分量になるが書き抜いておく。
そのままで一冊の本になるようなノートが奥浩平の遺書であった。母や父にも、同志たちにも言い残した言葉はない。60年から65年までの苦悩と苦闘が凝縮したノート。それが遺書である。そう思って「遺稿集」の書き出しを見ると「大浦圭子(注1)の母への手紙」には次のような「決意」が書かれている。「圭子さんの自殺を正しいと考えた時、僕はもっと以前に死んでいるべきだと思いました。もっと以前に死ぬべきだったとのにこれまで生きてきたからには一刻も早く死ぬべきだと思いました」川口顕の見立てについて、あれこれ付言する必要はなかろう。同時に巷間言われるように、中原素子が奧浩平にとって、不在の母の代替だったという仮説も成り立つかもしれない。いずれにしても、奧浩平の〈自死〉と〈母〉の不在とは、けして無関係なものでない。
(略)
奧浩平はそれから5年間生きた。そして、ノート=遺書のとおり自死を決行した。長い遺書の冒頭に、あたかも判決文のように「主文」があったのである。
しかし、「もっと以前に死ぬべきであった」とは何のことだろうか。最期の5年間を第二の人生とすれば、第一の人生に何があったのだろうか。ノートに書かれていない「もっと以前に」とは何であろう。饒舌な奥浩平がノートに書かなかったことがネガポジのように反転しながら、背後にある「死ぬべき」理由をさし示しているように、私には思えた。
(略)
奥のノート・・・は遺書であると同時に、「報告書」、「最良の息子」として生き抜いたレポートではないかと感じた。では、誰に読んでもらうために?
その答えは紳平氏(注2)の「まえがきにかえて」「あとがき」にある、と私は思った。
母との9歳からの別離、11年をへて家族の和解と合流の時をむかえて、浩平は母の郷里を訪ねた。東京から帰ってきての浩平は「ほとんど反応らしきものを見せようとせず……内心の衝撃を表さなかった」「よほどつらい気持ちを抱いたからだろう」。
私はここに二度目の決定的な、回復不能な「失恋」が隠されていると思う。しかし、母への思慕の情を募らせながら、「遺書」は恨みを残していない。「報告書」でありながら「どれだけ努力して美しくいきられるか」「どれだけ強くいきられるか」をやりきった浩平をみてください、やりきった浩平をほめてください、という悲歌が鳴り響いているように思うのだ。(P383~385)
(注1)大浦圭子:
1960年に自殺した目黒区立第六中学校の下級生。圭子は美術の特異な才能に恵まれた早熟な少女だったという。圭子の死後、奥浩平はクリスチャンであるその母親としばしば、対話及び文通をした。奥浩平は圭子の死を契機として、教会に通い始めたという。
(注2)紳平氏:
浩平の長兄(奥紳平)で遺稿集の企画・編集を行った。
浩平には父母、姉と紳平を含めて2人の兄がいた。戦時中、埼玉の山村に疎開。戦後東京に引上げたが、浩平の父母は別居。姉と次兄と共に母の実家(茨城県那珂湊市)にて暮らすも、父母の正式離婚により、兄2人とともに父に引取られ東京で暮らす。その後、母が戻り一家団欒の生活が再開されるも、短期間のうちに破綻。浩平は父と二人暮らしをすることになる。奥浩平の短い人生に、母親の不在、再会、不在という複雑な家庭環境が影響を及ぼした可能性は否定できない。
2015年8月3日月曜日
誕生日(千駄木・トラットリアNOBI)
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