2015年8月21日金曜日

汚れたエンブレム

東京オリンピック・エンブレムに係る盗作疑惑については、これをデザインした佐野研二郎に相次いで盗作疑惑が噴出したため、「佐野クロ説」が有力視しされてきた。管見の限りだが、日本人弁護士の数人が、佐野の著作権侵害を断言している。

佐野を追い込んだのはマスメディアではなくネットだった

本件は、▽その火付け役がネットユーザーであったこと(マスメディアは当初、オリンピック主管当局及び広告代理店に配慮して疑惑報道を控えた)、▽当事者(佐野)が、この期に及んでもシラを切り続けていること――の2点において、あの「STAP細胞」問題に酷似している。

佐野を厳しく追い込んだのは、マスメディアではなく、ネットユーザーだった。彼らが佐野の複数の過去作品における盗作を実証した。「STAP細胞」においても、小保方の不正を発見し、関連する情報を集約し、疑惑を追及したのはネットユーザーだった。

佐野の盗作「実績」は、いまのところ、①サントリーのキャンペーンのトートバッグにおける複数のデザインの盗作、②ローリングストーンズの公式Tシャツの盗作(ピレリ・ラグレーンのアルバムのジャケット裏の写真を反転)、③東山動植物園のシンボルマークの盗作(コスタリカ国立博物館のそれと酷似)――の3件が固いところだが、ほかにも何件か盗作を窺わせるような作品がある。

盗作をクライアントに納品した広告代理店の責任

佐野が盗作に及んだ情報ソースとして、写真共有SNSのピンタレストが浮上している。つまり、佐野はピンタレストに投稿された世界中のデザインソースをそのままコピーペーストするかあるいはアレンジして、自分のデザインとして広告代理店に納品し、代理店はクライアントからその代金を収納し、代理店手数料をピンはねしたうえで佐野にデザイン料を支払っていたことになる。浅学な筆者は佐野が高名なデザイナーであることを騒動が始まって初めて知ったのだが、それにしてもあくどい商法だ。佐野及び佐野を起用した大手広告代理店は詐欺にも等しい行為を働いていた。高名なデザイナーと大手広告代理店が共謀して高いデザイン料金を大企業からせしめていた。

マスメディアに散見される佐野への援護射撃

さて、この件に関する議論については混乱もある。佐野の盗作疑惑を和らげようとする間接的援護射撃だ。

(一)「デザインが悪い」説

代表的なものが、「佐野のデザインが凡庸でつまらない」という「デザインが悪い説」。この見解はマスメディアでは主流になっている。その特徴は言うまでもなく、佐野の盗作については追及せず、「デザインが悪いから引っ込めろ」と、佐野のデザイン能力及びこれを採用した組織委に対して強硬姿勢を見せる。一見すると筋が通っているかのようだが、盗作については触れない。つまり、盗作容認を代表する見解だ。

(二)偶然説

二番目は「偶然説」。“デザインというのは、デザイナーがこれまで見てきたものが頭に入っていて、それが盗作を意図しなくても自然に出てしまうことがある”だから本件も“著作権侵害に当たらない”という見解。もしくは、“単純な、たとえばアルファベット2文字程度の組合せならば、類似のものが出てきて当然”という見解。これらに共通すのは、“真似する意図がなかった場合、類似のものが出てきても真似された側は文句を言えない”という論理になる。つまり、盗作(と自ら言わない限り)すべてOKの暴論だ。

この暴論が通るならば、著作権保護は無意味化される。真似する意図がなかったと強弁すれば、模倣、二番煎じ、三番煎じ・・・がすべて許されることになる。もちろん偶然の一致がないことはない。人間のデザイン感覚は既存のあらゆる情報に規定されているから、その結果として、類似、近似のデザインが作成されることを否定しない。その場合どう処理したらいいのかと言えば、先のものを優先すべきなのだ。つまり、既にあるものに優先権が与えられるということ。本件の場合は、佐野が偶然ベルギーの劇場に近似したデザインを起こしたと仮定するならば、後発の佐野は、ベルギーのデザインの存在を知ったところで、自作を取下げればよかった。ただそれだけの話だ。

ところが佐野はこともあろうに類似を否定し、似ていないし、デザインに係るロジカル、哲学、発想が異なると強弁した。この問題をこじらせた発端だ。

デザインは外形(形、色)であって、その創作過程や考え方が云々されるものではない。たとえば、ある者が、Aを(先が尖っているから)上昇を示す形象とイメージした――と主張したとしよう。また別の者は、Aをものごとの始まり(アルファベットの最初の文字だから)をイメージしたと主張したとしよう。両者のAに関する考え方は全く異なるが、もちろん結果は同じでAはAだ。両者の考え方や発想は異なっていても、結果としてのデザインは同一なのだ。本件の場合は、ベルギーの劇場のシンボルマークがA、佐野の東京オリンピック・エンブレムはĀ程度。これを盗作と言う。盗作と言われないためには、佐野は後発として先人をリスペクトし、自己の作品にとどめ、公的に使用することを控えればよかった。それをしなかったのは、佐野が盗作したからだ。オリンピック組織委員、IOCという権威を利用して、ベルギー側を力でねじ伏せようと図った疑いがもたれる。

(三)佐野の「人格者説」

三番目の見解は、“佐野さんは盗作するようなデザイナーではない”というもの。佐野に盗作の事実が次々と発覚するに及んでまったく、通用しなくなったが、当初はこの説がまことしやかに囁かれた。この見解の是非については、論ずるまでもないので割愛する。

(四)審査委員責任論

四番目は、“コンペで佐野のデザインを採用した審査委員が悪い”という「審査委員責任論」。前出の(一)に近い。このたびの疑惑問題を発端にして、佐野と審査委員諸氏の相関図が作成された。それによると、審査委員と参加デザイナーがもちまわりでデザイン賞を獲得している実態が暴露された。オリンピック・エンブレムのコンペにもその構造が貫かれているという。いわば、日本のデザイン業界の癒着構造があからさまに暴露されたのである。

確かにそのとおりで、このたびの盗作疑惑には、選んだ側に咎が及ばないというわけにはいかない。盗作も問題だが、デザイン業界内部の閉じられた関係、すなわち仲間内の誉め合いについては、大いなる議論を必要とする。そこにはデザイン界における重鎮の権威化があり、有力とされるデザイナーの創作力の劣化があり、PCを駆使したコピペ問題がある。業界的には、大手広告代理店~有力デザイナーの系列化が進み、デザイナーの権威性、名前で商売を円滑に進めようとする広告代理店の営業姿勢(魂胆)が見え隠れする。



佐野の盗作疑惑に問題を絞りこめ

ただし、「審査委員責任論」は筆者からみれば、盗作問題の副次的効果、副次的産物のように思える。たとえて言うならば、本丸落城を目の前にしながら、まわりの雑魚を追い回すようなもの。雑魚にかまけて、追い詰めた大将を逃しかねない。つまり、本丸である佐野を落とせば、デザイン業界の腐敗(構造)も寄生虫も一掃できる。問題を佐野の盗作疑惑に絞り込み、引き続き、佐野が働いた盗作のサンプルを示し、かつ、佐野のまわり(職場=事務所)が盗作を常套的に行う環境であったことを示し、併せて、佐野がベルギーの劇場のシンボルマークを知り得る環境にあったことを示すことで、佐野の盗作=著作権侵害を実証する方向性が肝要だ。その方向性と事実の積み重ねが、佐野のオリンピック・エンブレムの盗作に係る状況証拠となり得る。それこそが、佐野の盗作を断罪する正義の遂行となる。

ベルギーの裁判所がどのような判断を示すかわからない。佐野に盗作の意図があったと、裁判所は判断しないかもしれない。だが、佐野の著作権侵害を裁判所が認めなかったとしても、ネットユーザーがこれまで行ってきた疑惑解明のための努力は無駄ではない。