●村上春樹〔著〕 ●新潮社 ●各1800円
凡庸な長編
退屈な凡作である。本書における状況設定、登場人物のキャラクター、比喩表現等々は、作者(村上春樹)がこれまで使い続けてきたものの焼き直しのように思える。思いつきで展開するストーリー、奔放といえば聞こえはいいが、支離滅裂なイメージの連鎖。そしてワープ。イデア、メタファーが実体化され、彼らがトリックスターとして、物語を進展させていくさまにうんざりする。
音楽業界では、創作に行き詰って解散を決めたロックバンドが、解散直前にベスト盤とか、レベルの低い未発表曲を集めてアルバムを出すことがある。筆者の本書読後の感想としては、“そんなアルバム”を聴いた後の虚無感とかわりない。しかも、“そんなアルバム”の二枚組なのだから、虚無感も二倍に増幅されたのである。
実感と乖離した設定
本書の発売を聞いたとき、まずもっていやな予感がした。筆者のまわりには、「村上ファン」であることを廃業した者がたくさんいる。「もういい加減にしてくれ」「読むだけカネと時間の無駄」といった声が渦巻いている。そんななか、迷った挙句の購入である。私には、「村上ファン」を廃業した人々に、今度の新作の評価を伝える義務がある。私が「つまらなかったよ」と彼らに一言いってあげれば、廃業者たちは、「そらみろ、オレのいったとおりだろう」と安心して喜ぶのである。そんなふうに自己合理化を図り、本書を購入した次第である。
さてこんどは、手元に本書があるにもかかわらず、読むべきか読まざるべきか迷った。けっきょくのところ、いやいやともいえる心境の中、読み始めるに至った。この“迷い”がどこからくるのかといえば、おそらく本題からであろう。“騎士団”というのは、日本にない組織名称である。西欧史に多少興味のある人ならば、「マルタ騎士団」「テンプル騎士団」くらいの名前は知っているかもしれない。中世、十字軍の時代、巡礼者の保護を目的に創設された武装キリスト教徒の集団である。しかし、“騎士団長”となると、まったくその名前が浮かんでこない。
本題の放つ印象から、本書は筆者にとって、距離をもった存在であることが直観された。もちろんそのことは、ひとえに筆者の西欧的教養のなさに起因する。その思いは、読み始めてすぐ(第1部・P101)、“騎士団長殺し”が、モーツアルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』のワン・シーンであることが明かされることにより、さらに深刻度を増した。「騎士団(長)」「オペラ」「ドン・ジョバンニ」と並べられることにより、筆者と本書との距離は、より遠ざかっていった。本書のこのあたりは、筆者にとって、通行の難所に設けられた関所のようだった。追い返されるような拒絶感――読み進めることの困難さとでもいっておこう。
「南京事件」の挿入はきわめて不自然
「思いつき」の実例を挙げておこう。主人公「私」は36才(第1部・P27)。そして、この物語の重要なカギとなる絵画作品(=「騎士団長殺し」)を描いた画家・雨田具彦は92才(第1部・P65)。具彦の息子で主人公「私」の親友である政彦は、「私」より2才年上(第1部・P26)だから38才という設定である。そうすると、政彦は雨田具彦が54才の時に誕生したことになる。このようなことは、世間になくはないが、かなり稀なケースである。政彦は親友である「私」に、自分が年取ったときの父の子であることを告白する方が自然であるが、そのようなくだりはない。
なぜ、かくも不自然な世代設定をしたのかといえば、作者(村上春樹)が「アンシュルツ」と「南京虐殺」を物語に挿入したかったからだろう。ナチズム及び日本軍国主義という20世紀の暗い歴史に対し、作者自身が異を唱える立場だということを明確にしたかったのだろう。日本の一部メディアは、村上春樹の「政治的姿勢」を評価していた。作者(村上春樹)の受け狙いか。
「アンシュルツ」については、物語の展開上、動かしがたい歴史的事象であり、前提である。その結果、主人公「私」をはじめとする登場人物の年齢に一般的でない不自然さが生じてしまった。前出のとおり、雨田具彦が高齢で子をもうけたことを無視して、物語はあたかもそれが普通のことのように、進められた。そうしなければ、この物語における人間関係、すなわち全体が成り立たなくなる。だから世代的齟齬を無視せざるを得なくなった。なお後者については、その余波ともいえるもので、まるで取ってつけたような挿入の仕方で、不自然さしか感じない。
家族とはなにか
本書の主題を筆者なりに推察すれば、〈家族〉に行き着くのだと思う。
- 「私」-「ユズ」は夫婦であったが、別れた(後に復縁するのであるが)関係で、これが物語の出発点になっている。
- 「私」-「コミ(チ)」は兄と妹の関係であったが、「コミ」は「私」が12才のときに年若くして死んでしまう。そして、「コミ」の生まれ変わりが「秋川まりえ」である。
- 前出の「雨田具彦」-「政彦」は父と子の関係であり、父の派生として「具彦」の弟(すなわち政彦のおじ)「継彦」が「南京事件」のショックで、若干20才で自殺したことになっている。
- 「免色渉」-「秋川まりえ」は父と娘の関係を象徴するが、実際は父-娘であるかはわからないままだ。
大文字の「母」
「秋川まりえ」の母は「まりえ」が幼いときに死んでいて、「まりえ」は「おば」の「秋川笙子」に育てられている。「まりえ」の本当の母は、かつて免色と深い関係にあったが結婚はしていない。そして、免色は「まりえ」を自分の子だと確信している。免色と笙子はやがて結婚することになる。
「ユズ」は「私」と別れた後、「ハンサムな男」と交際し妊娠するが、「ユズ」は身ごもった子の父親が「ハンサムな男」であることを頑なに否定する。では誰の子なのか。
この物語は、「私」と「ユズ」がよりを戻し、「私」が「ユズ」が身ごもった子供を引き取り、新たな「家族」を形成することで終わる。
このように、登場人物の関係を大雑把に見たとき、そこに「母」の不在に気づく。物語中、主人公「私」の母の話はまるで出てこないし、「まりえ」の母の具体的姿は語られない。「まりえ」の母代わりの「笙子」にも、母の面影は消去されていて、成り行きとして「まりえ」を育てているようにしか描かれない。登場人物の不可解で勝って極まりない行動(欲望)は、隠された大文字の母という他者の欲望なのだろうか。
描かれない女性の実存
作者(村上春樹)が理想とするかのような女性像は、この物語に限らず、胸の小さな中学生くらいの少女である。本書では、妹の「コミ」であり、その再来である「秋川まりえ」である。
その一方で、成熟した女性となると、主人公「私」のセックス相手となる「人妻」へと一気に飛躍する。その女性像は、浮気、不倫、噂話…に特化された、きわめて陳腐で定型化された「人妻」となる。あたかもそれは、昭和のピンク映画のごとくで、〈人妻=浮気、性欲、噂好き〉という類型的かつ差別的となる。物語中、そのような役割しか与えられないままなのである。
作者(村上春樹)はなぜ、女性の実存を描かないのだろうか。