2018年8月15日水曜日

『東大闘争の語り―社会運動の予示と戦略』

●小杉亮子〔著〕 ●新曜社 ●3900円+税

いま(2018)からおよそ半世紀前、世界同時的に“異議申し立て”運動がわきあがった。米国、西ドイツ、フランス、イタリア等の学生運動の活発化、中国には紅衛兵の登場…そして日本においても、学生を中心とした若者が反体制運動を展開した。こうした動きは今日、その中心年をとって、“1968”(の思想、のムーブメント…)と呼ばれている。

語り(聞き書き)を基盤とした東大闘争の検証

本書は、当時、国民的関心を集めた東大闘争を日本における“1968”の象徴的事例として取り上げ、その詳細な検証を通じて、“1968”を読み解く試みである。“1968”についての論考、なかんずく東大闘争に係るそれは本書が初めてではない。なかで、本書でしばしば引用されている『1968』(小熊英二著)がよく知られている。同書が当時のビラ、報道資料、大学及び全共闘により刊行された記録等の二次的試料から東大闘争を論じているに反し、本書は闘争参加者44名にインタビューを試み、時代の証人として、彼らの語りを論考の基礎として加えているところに前掲書との違いがある。その44名の内訳は、東大全共闘を構成した二派(新左翼党派、ノンセクトラジカル)、そして、民主青年同盟(日本共産党学生組織。以下「民青」と略記)系、さらに当時ノンポリと呼ばれた一般学生に及んでいる。そのことにより、東大闘争=全共闘運動という既成イメージは打破され、東大闘争の多様性が明らかにされている。

ふたつの観点

本書の観点は以下のように明示されている。
以下の2点に着目することによって、1960年代の学生運動の内在的理解をめざしたいと考えている。第一に、1960年代の学生たちは、当時の社会運動セクター全般の動向と軌を一にして、社会運動のありかたをめぐる葛藤を抱えていた点である。第二に、この葛藤を前に、1960年代学生運動参加者たちは予示的政治と戦略的政治という異なる運動原理のいずれかを志向することになり、1960年代学生運動は両者の対立と共存としてとらえられる点である。(P17)
(一)1960年代学生運動の葛藤

第1点目の1960年代学生運動の葛藤とは、当時における共産主義運動の分裂及び混迷と別言できる。60年安保闘争の過程で日本の左翼陣営、とりわけ学生組織は二つに分裂した。学生運動の主導権は主流派と呼ばれる共産主義者同盟(ブント)が掌握し、主流派は日本共産党、日本社会党を、資本主義の延命に手を貸す――真の階級闘争に敵対する――反革命勢力と規定した。彼らは国会突入等の強行的運動を展開したが、警察権力、マスメディア及び日本共産党等の反暴力キャンペーンによって排除され、安保闘争も左翼総体の敗北に終わった。

60年安保闘争敗北による停滞のなか、新旧左翼が対立したままの状況を脱したのが、1967年、新左翼学生組織三派=ブント、革命的共産主義者同盟(以下「革共同」と略記)中核派、社会主義青年同盟解放派(以下社青同解放派)による第一次羽田闘争の開始だった。しかし、一見、新左翼学生運動が新たな展開を見せたように報道されたが、全国の大学における左翼運動の実態としては、60年安保闘争時の対立構造、すなわち旧左翼=日本共産党=民青⇔新左翼=ブント、各共同中核派・革マル派、社青同等の対立が内在したままだったばかりか、民青の学園支配が圧倒的だった。本書が東大闘争のアクター(主役)の一人として、新左翼と対立する民青を登場させたことは、東大闘争の検証において当然であり、必然といえる。日本共産党は、党勢維持と民青の拠点校・東京大学をあらゆる手段を講じて新左翼から守りとおしたのである。

(二)反スターリニズム――学生運動の葛藤の核心

本書が社会学者(小杉亮子)の手になるため、学生運動の葛藤の核心部分に係る記述が皆無であるという難点を有している。学生運動が新旧左翼の対立を内在させていた素因はいうまでもなく、スターリニズム(ソ連型社会主義)を容認するか否かにあった。日本の左翼陣営では、反スターリニズムの立場に基づき、日本トロツキスト連盟が結成(1957)され、すみやかに革命的共産主義者同盟(革共同)に移行している。同セクトが“1968”における新左翼学生運動の中心的勢力である中核派と革マル派を形成する。

反スターリン主義を取り上げることは、それを突き詰めるならば、政治運動、共産主義運動のイデオロギー的側面にとどまらず、人間の存在に係る自由の問題に行き着くゆえに重要である。

1956年、欧州ではハンガリー動乱へのソ連軍の弾圧があった。同年、フルシチョフの「スターリン批判」が公表されたものの、現実のソ連においては、粛清、言論弾圧、強制収容所、密告制度等が人民に対する抑圧手段として機能していた。1968年には「プラハの春(チェコスロバキアにおける反ソ運動)」に対し、ソ連軍が戦車を進軍させて弾圧をはかった。この事実は、ソ連型社会主義に対する失望と幻滅を増進させ、左翼知識人に衝撃を与えた。やがて、「反スターリニズム」は当時の国際共産主義運動の共通言語に昇華した。

前出の日本における反スターリニズム運動の開始は、世界的潮流となってきた反ソ連、反スターリニズムに同調した現象であり、1960年代中葉から1970年初頭において、それが新旧左翼を分かつ最大の争点となっていた。

(三)反スターリニズムと“1968”

“1968”のムーブメントは、学生運動に限定されるものではない。ヒッピーに代表されるコミューン運動、スピリチュアル運動、ニューエイジ運動、そして、プロテストフォークソング、ロック、ハプニング、ニューシネマなどの登場に代表されるサブカルチャーを含めた文化総体に及ぶものだった。

そのとき、学生大衆に強く意識されたのが、反管理社会、すなわち自由を希求する心的ムーブメントだった。であるから、東大闘争において(もちろん全国の学園闘争においても)、反スターリニズムを標榜する新左翼のほうが、旧左翼=民青よりも、活動家及びそのシンパのみならず、ノンポリ学生からも支持されたのである。

彼らは、フォークソングやロックを支持するように日本共産党と敵対する新左翼を支持した。彼らの心情の裏側には、前出のソ連における粛清、言論弾圧、強制収容所、密告制度といった自由を抑圧するスターリニズム及びそれと等価の資本主義国家装置への反感、嫌悪が内在していた。東大闘争(すなわち1968)を考証するに、反スターリニズムの視点なくして論じられない。本書の視点における最大の、そして致命的な欠陥は、反スターリニズムに係る記述がすっぽり欠落している点にある。

さはさりながら、そうした学生大衆の心情を内包した新左翼学生運動は、その心情ゆえに、運動の後退、敗北、組織的壊滅を余儀なくされるに至った。このことについては後述する。

(四)予示的政治と戦略的政治という異なる運動原理

予示的政治とは耳慣れない言葉である。著者(小杉亮子)は、1960年代学生運動について、「予示的政治と戦略的政治という、社会運動をつくり動かしていくさいに見られるふたつの普遍的な運動原理の対立と共存としてとらえるものである(P21)」と明示している。以下、著者(小杉亮子)によるその定義を書き抜く。
予示的政治(prefigurative politics)は、1990年代以降の反グローバル文化運動の理論的根拠とされ、注目を集めてきた。(略)予示的政治では、社会運動の実践そのもののなかで、運動が望ましいと考える社会のありかたを示すような関係性や組織形態、合意形成の方途を具現化し、維持することがめざされる。そこでは、運動がその手段となるような、いずれ到達する理想や目的は前提とされない。望ましいとされるのは、目的に向けた合理的かつ効率的な行為ではなく、参加者がみな尊重される合意形成過程をへて決定された行為の遂行である。仲間や同志との関係性やこのとき・この場での行為そのものが変革を構成していると考えられるため、結果として、国家をはじめとするマクロ的な権力にたいする挑戦という性格よりも、ひととひととの関係や共同体のありかた、文化といった、相対的にミクロな次元に見いだされる社会内権力への挑戦という性格を強くもつことになる。(P21~22)
その反対となる戦略的政治とは――
各々の社会運動はそれぞれが掲げる理想の社会を構成する論理=ロゴスに到達するための手段」(略)だと考える限り、「今ここで運動にかかわっている人の『生』のあり方そのものはカッコに入れられてしまう」(略)ことであった。(略)(戦略的政治の)具体的な例としては社会主義運動やマルクス主義運動が考えられるだろう。
(略)
戦略的政治ではマクロな社会変革がめざされ、かつ社会運動における行為は道具的なもののとして位置づけられる。予示的政治は、戦略的政治を批判するもので、社会運動における行為はそれそのものが変革を構成する自己充足的なものとしてとらえるために、よりミクロな次元での変化や創造に重要性を見出す。
(略)
結論を先取りすれば、筆者(小杉亮子)は、1960年代学生運動の過程をとおして参加者は、マルクス主義学生運動という戦略的政治志向の色濃い運動の参加者たちと、それを批判し、異なった方向の学生運動を形成しようと、すなわち予示的政治を自然と志向することになった参加者たちとに分岐していったと考えている。そして、予示的政治と戦略的政治の対立が参加者間の深刻な対立というかたちをとったことによって、1960年代学生運動参加者は予示的政治・戦略的政治いずれかへと、その志向を純化させていくことになった。(P22-23)
東大闘争における予示的政治志向と戦略的政治志向の実態

著者(小杉亮子)の区別に従って、東大闘争の主体を分類すれば、予示的政治志向者=東大全共闘を構成したノンセクトラジカル派及び全共闘シンパ学生(全共闘を心情的に支持したノンポリ学生を含む)となり、戦略的政治志向者=新左翼各党派及びそれとイデオロギー的に対立した日本共産党(民青)となる。

ところで東大闘争を激化させた主因は、学生・院生等の処分とそれに係る不明瞭な大学側の処置にあった。さらに全学的に闘争を拡大させたのが、反対派学生を弾圧するために大学当局が行った最初の機動隊導入にあった。大学当局とりわけ教授会は、処分及びその抗議行動に対する措置に無能ぶりを晒したため、全学的に反大学機運が盛り上がった。学術的に高名な教授たちの実際の姿は、政治的にも事務的処理にも無能で、そのくせ官僚的、権威主義的な俗物だった。彼らの専門バカぶりが全学生規模で明らかになってしまった。こうした大学当局に学生が反発した背景には、前出のとおり、ソ連型社会主義=スターリニズムに対する反感、粛清、言論弾圧、強制収容所を伴った権威主義体制への嫌悪があった。進歩的文化人教授(会)=スターリニスト=権威主義、官僚主義、保守的文化人教授(会)=資本家の手先、国家主義(機動隊導入)であり、どちらも自由の抑圧者であった。

東大全共闘の前身・全闘連と予示的政治

東大闘争の火付け役であり、いっとき闘争を牽引した集団が医学部インターンや各学部の助手、院生といった研究者であったことは、東大闘争が日大闘争に代表される全国的学園闘争とを分かつポイントである。彼らはアカデミズムに内在する権威主義と階層秩序に隷属する自らの地位の向上と解放を闘争の発端とし、学問とは何か、大学とは何か、研究者の倫理とは何かを問うた。彼らは東大闘争をつうじて解放大学、自主講座等を開講し、権威主義的アカデミズムに対する異議申し立てを実践した。彼らの運動は著者(小杉亮子)の先の分類に従えば、無自覚であるが、予示的政治の実践者であった。

党派が介入する前の東大闘争の本源は、1966年に理学部で結成された、べ反戦(東大ベトナム反戦会議)に求められるという。筆者はこの組織名を知らなかった。後に運動の中心的役割を担った東大全闘連のうちの4人がベ反戦のメンバーだったという。
べ反戦は、1966年9月に東大理学部・工学部・経済学部の大学院生と助手が中心になって結成された東大ベトナム反戦会議を指す。メンバーには、のちに東大全共闘代表になる山本義隆、新聞研究所研究性の所美都子などがいた。東大べ反戦の運動論にはとくに所美都子が大きな思想的影響を与えたという。山本義隆は次のように書いている。
「運動のなかでの個人と組織の関係を考えつづけていた彼女の到達した地点が、運動の組織論として上下の関係があるのではなく反戦の意思を持った個人の集まりが横に繋がっていくというものであり、その彼女の組織論に共鳴して私たちは集まっていました。組織による強制もなければ統制もなく、引き回しや代行主義もなく、一人ひとりが自分たちの責任で闘い、立ち上がった諸個人が闘いのなかで横断的に連帯を求めてゆくというもので、その後、東大闘争で実現をめざした組織論のハシリのようなものでした」本書第4章の注19(P129)
Wikipedeia――所美都子(ところ みつこ、1939年1月3日 - 1968年1月27日)は、日本の女性学者・新左翼活動家。東京都出身。トマノミミエの筆名も持つ。
お茶の水女子大学大学院・大阪大学大学院に学ぶ。在学中から学生運動に入る。1960年の羽田ロビー闘争などに参加。1966年、東京大学ベトナム反戦会議立ち上げに参画。1968年、膠原病にかかり死亡した。
〔主な論文〕
「予想される組織に寄せて」『思想の科学』
「女はどうありたいか」『思想の科学』

Wikipedeia にあるとおり、所は1968年1月に逝去している。命日は東大安田講堂攻防戦のおよそ1年前に当たる。

東大闘争参加者の分解過程と新左翼運動の衰退

東大闘争は、闘争末期から終期において、前出のとおり、戦略的政治的志向者と予示的政治のそれとに分解した。前者は全共闘の旗をすて、新左翼各党派の旗のもと、70年安保闘争を戦って敗北した。後者の一部の者は、東大闘争の分岐点であった1969年1月の安田講堂攻防戦後も学園闘争を継続しつつ、自らが専門とする社会問題に対して異議申し立てを党派と係わりなく継続した。

1970年以降、連合赤軍事件及び新左翼内部の内ゲバ闘争の激化を契機として、新左翼各党派に結集した活動家、穏健なノンセクトラジカル派及び新左翼シンパの学生大衆は“1968”のムーブメントから離脱し、新秩序派として生活過程に埋没した。

“1968”以降の世界

東大闘争(1968)が切り開いた地平とは――本書からは、予示的政治の担い手が実際に登場し、戦略的政治が陥った、イデオロギーにとらわれたヒエラルカルでリゴリスティックな政治が後退した状況をつくりだしたことだ、と読める。しかし、“1968以降”についてはもう少し厳密な検証が必要だろう。たとえば、スラヴォイ・ジジェクは『ポストモダニズムの共産主義(ちくま新書)』において、それを以下のとおり批判する。
(ポストモダン資本主義への)イデオロギーの移行は、1960年代の反乱(68年パリの5月革命からドイツの学生運動、アメリカのヒッピーに至るまで)の反動として起きた。60年代の抗議運動は、資本主義に対して、お決まりの社会・経済的搾取批判に新たな文明的な批判をつけ加えていた。日常生活における疎外、消費の商業化、「仮面をかぶって生きる」ことを強いられ、性的その他の抑圧にさらされた大衆社会のいかがわしさ、などだ。
資本主義の新たな精神は、こうした1968年の平等主義かつ反ヒエラルキー的な文言を昂然と復活させ、法人資本主義と〈現実に存在する社会主義〉の両者に共通する抑圧的な社会組織というものに対して、勝利をおさめるリバタリアンの反乱として出現した。この新たな自由至上主義精神の典型例は、マイクロソフト社のビル・ゲイツやベン&ジュリー・アイスクリームの創業者たちといった、くだけた服装の「クール」な資本家に見ることができる。・・・(略)・・・1960年代の性の解放を生き延びたものは、寛容な快楽主義だった。それは超自我の庇護のもとに成り立つ支配的なイデオロギーにたやすく組み込まれていった。・・・(略)・・・今日の「非抑圧的」な快楽主義…の超自我性は、許された享楽がいかんせん義務的な享楽に転ずることにある。こうした純粋に自閉的な享楽(ドラッグその他の恍惚感をもたらす手立てによる)への欲求は、まさしく政治的な瞬間に生じた。すなわち、1968年の解放を目指した一連の動きの潜在力が、枯渇したときだ。
この1970年代半ばの時期に、残された唯一の道は、直接的で粗暴な「行為への移行」――〈現実界〉へおしやられることだった。・・・(そして、)おもに3つの形態がとられた。まず、過激な形での性的な享楽の探求、それから、左派の政治的テロリズム(ドイツ赤軍派、イタリアの赤い旅団など)。大衆が資本主義のイデオロギーの泥沼にどっぷりつかった時代には、もはや権威あるイデオロギー批判も有効ではなく、生の〈現実界〉の直接的暴力、つまり、「直接行動」に訴えるよりほかに大衆を目覚めさせる手段はないと考え、そこに賭けた。そして、最後に、精神的経験の〈現実界〉への志向(東洋の神秘主義)。これら三つに共通していたのは、直接〈現実界〉に触れる具体的な社会・政治的企てからの逃避だった。(前掲書P99~103)   
つまり、“1968”は「ポストモダン」資本主義の出現の露払いにすぎなかったと。併せてジジェクは、「1968年の抗議行動とは、資本主義の三本柱(とされたもの)に対する闘争だった」と規定する。三本柱とは、①工場、②学校、③家庭、である。しかし、この各領域はのちに脱工業化型へ変容を遂げた。工場は外注化され、ポストフォーディズム的な非階層・双方向型共同作業に改編されている。学校は、公的義務教育に代わって私的でフレキシブルな終身教育が増え、伝統的な家庭に代わって多様な性的関係が生じている。

1968年に抗議行動を起こした新左派は、(日本の新左翼の場合は政治的に敗北したが、欧米においては、)まさに勝利の瞬間に敗北した。目前の敵は倒したものの、いっそう直接的な資本主義支配の新しい形態が出現したのである。「ポストモダン」資本主義においては市場が新たな範囲に、教育から刑務所、法と秩序などの国家の特権とされた領域にまで侵食した。社会関係を直接に生産すると称揚される「非物質的労働」(教育、セラピーなど)が、商品経済の内部で意味を持つことを忘れてはならない。これまで対象外とされていた新しい領域が商品化されつつある。日本の場合も同様に、新左翼の思想的傾向の多くが、新たなシステムや消費トレンドに包摂されていった。

そのことを踏まえ、ジジェクは、マルクスの一連の概念の大幅な修正を試みる。マルクスは「一般知性」(知識と社会協働)の社会的側面を無視したので、「一般知性」自体が私有化される可能性まで予見できなかったのだ。この枠組みのなかでは古典的マルクス理論でいう搾取はもはや存在しえないから、直接の法的措置という非経済的手段によって搾取がおこなわれていることになる。
(ポストインダストリアル資本主義では、)搾取はレント(超過利潤)の形をとる。ポストインダストリアル資本主義は「生成する超過利潤」に特徴づけられる(カルロ・ヴェルチュローネ)という。つまり、市場で「自然」発生しない条件を課すための直接権限=超過利潤を引き出す法的条件が必要になる。ここに「ポストモダン」資本主義の根本的「矛盾」がある。理論上は規制緩和や、「反国家」、ノマド的、脱領土化を志向しながらも、「生成する超過利潤」を引き出すという重要な傾向は、国家の役割が強化されることを示唆し、国家の統制機能はこれまで以上にあまねく行きわたっている。活発な脱領土化と、ますます権威主義化していく国家や法的機関の介入と共存が、依存しあっている。
したがって、現代の歴史的変化の地平に見えるものとは、個人的な自由主義と享楽主義が複雑に張り巡らされた国家規制のメカニズムと共存する(そして支えあう)社会である。現代の国家は、消滅するどころか、力を強めている。富の創出に「一般知性」(知識と社会協働)が果たす役割が重く、富の形式が「生産に要した直接労働の時間とつりあわなく」なってきたら、その結果は、マルクスが予期していた資本主義の自己解体ではなく、労働力の搾取によって生じる利潤から、この「一般知性」を私有化して盗みとる超過利潤への漸進的・相対的な変化である。(同P238~239)
そして、ジジェクは、現代の先進国に出現した、「三つの主な階級」について説明する。生産過程の三要素――①知的計画とマーケティング、②物的生産、③物的資源の供給――は独自性を強め、各領域に分かれつつある。

この分離が社会に影響した結果、現代の先進国に、(一)知的労働者、(二)昔ながらの手工業者、(三)社会からの追放者(失業者、スラムなど公共空間の空隙の住人)を形成したという。そして、(一)は普遍者に相当し、開放的な享楽主義とリベラルな多文化主義を、(二)は特殊性に相当し、ポピュリズム的原理主義を、そして、(三)は追放者として、より過激で特異なイデオロギー、をそれぞれ、もつに至るという。

そして、三分割プロセスの結果として、社会生活が、三分派の集結する公共空間が、ゆるやかに完全に解体されていく。この喪失を補完するのが各派の「アイデンティティ」政治である。集団の利益を代弁する政治は、各派ごとに特殊な形態をとる。それは、(一)知的労働者の多文化アイデンティティ政治、(二)労働者階級の退行性のポピュリズム的原理主義、(三)追放者の違法すれすれのグループ(犯罪組織、宗教セクトなど)、である。これらの共通するのは、失われた普遍的な公共空間の代わりに、特殊なアイデンティティをよりどころとしていることだ。

党を超える政治組織は可能か否か

長々とジジェクを引用したが本書に戻ろう。社会運動が、戦略的政治志向から予示的政治志向に移行すれば蘇生する、と考えるのは早計である。予示的政治志向が社会運動に新たな生命を吹き込むかについては、それが党支配を免れる運動組織を構築する契機となり得るか、という視点に立つ限りではないか。

歴史上、党支配の巨大にして完璧とも思えた体制がソ連であった。そのソ連が解体し冷戦は終わったが、党支配のシステム(体制)は、米国、日本、イギリス、ロシア、中国…すべての国家において共通している。EU加盟国においても、党の政治から自由ではない。その人類的弊害に自覚はあるものの、そこからの出口を人類はいまだ見出せていない。