2018年8月3日金曜日

サッカー日本代表、鎖国状態に突入ー森保監督でいいのか

近年、サッカー日本代表におけるW杯終了後の最大の関心事の一つといえば、代表監督をだれにするかであったが、2018年はすんなり決まった。森保一だ。

森保は便利屋か?

森保の近年のキャリアを見てみよう。2017年、2020年東京オリンピックを目指す五輪代表監督に就任。ところが本年4月、ハリルホジッチ当時日本代表監督の電撃解任と西野朗の代表監督就任を受けて、急遽、日本代表コーチとして新体制に入閣。もちろん、五輪代表監督を兼任したままだ。ロシア大会では西野代表監督を補佐して、日本の16強進出に貢献したといわれている。そしてこのたび、五輪代表監督及び日本代表監督を兼任して次回W杯に向けて日本代表を指揮するという。

前出のように、森保は五輪代表監督のまま、ロシアW杯日本代表コーチに就任し、W杯終了後には、当時代表監督の西野の後任として昇格している。このような人事は国家公務員のそれにそっくりではないが似ている。事務方トップの事務次官がA代表監督、五輪代表監督はその下の官房長、総括審議官か。

なぜ森保なのかがわからない

このたびの代表監督人事の特徴は、①A代表監督と五輪代表監督を兼任すること、②W杯終了後にして日本人監督の就任は今回が初めてであること――の2点。①については、2002年日韓W杯監督のトルシエに次いで2人目。トルシエの場合は、W杯が自国開催のため予選免除、森保の場合は、五輪が自国開催で予選免除。日本サッカー協会(JFA)が人件費を節約したという見方も可能だし、予選免除であるから、若く才能のある選手をA代表に抜擢しやすいという利点が認められる。自国開催=予選免除の場合に両代表の監督を兼任することは、それなりの合理性がある。

とはいえ、なぜ森保なのか――その積極的理由がはっきりしない。JFAの説明を聞いても釈然としない。メディア報道によると、これまでのW杯優勝国はいずれも自国監督だというデータがあるという。だから、日本も日本人監督でいこうと。これはいかにももっともらしい理由のように聞こえる。

「W杯優勝=自国監督」理論がいまの実力の日本に当てはまるのか

2018ロシア大会のフランス(デシャン)、2014ブラジル大会のドイツ(レーヴ)、2010南アフリカ大会のスペイン(デル・ボスケ)、2006ドイツ大会のイタリア(リッピ)、2002日韓大会のブラジル(スコラリ)…と調べればそのことは一目瞭然なのだが、筆者には納得できない。なぜならば、日本のサッカーがW杯で優勝するレベルにあるのかという問題意識が筆者にはあるからだ。日本がフランス、ブラジル、ドイツ、スペインと同等のレベルにあるのかと。

日本のサッカーを強くするために必要なのが日本人監督なのかという観点からすれば、W杯優勝国=自国監督という論理に納得することはできない。自国開催以外で日本がベスト16を果たしたのは岡田と西野といずれも日本人監督だという見方もあろうが、データが少なすぎる。日本のW杯出場と代表監督をふり返ると、1998フランス大会(岡田監督)=予選敗退、2002日韓大会(トルシエ監督/フランス)=ベスト16、2006ドイツ大会(ジーコ/ブラジル)=予選敗退、2010南アフリカ(岡田)=ベスト16、2014ブラジル大会(ザッケローニ/イタリア)=予選敗退、2018ロシア大会(西野)=ベスト16)と、わずか6回出場にすぎないなかで、自国監督にてベスト16入りをはたしたのが岡田と西野の2回。監督の国籍とベスト16入りの関係を云々するデータとしては少なすぎる。「日本人監督=ベスト16」と確言するデータにはならない。

日本人監督だから「日本らしいサッカー」はあまりに短絡的

ロシア大会日本16入りを受けて強く張り出した世論の一つが、「日本(人)らしいサッカー」という言説。これもいかにももっともらしいのだが、「日本人らしいサッカー」を最初に提唱したのは、ボスニアヘルツェゴビナ人のイビチャ・オシムだったことはよく知られている。いまJFA及びその御用メディアが口にする「日本らしいサッカー」というのは、外国人によってもたらされたという事実。このことは、日本人監督だから「日本らしいサッカー」が可能となるわけではないことの傍証になろう。

JFAは近年、オフト(オランダ)→ファルカン(ブラジル)→トルシエ(フランス)→ジーコ(ブラジル)→オシム(ボスニアヘルツェゴビナ)→ザッケローニ(イタリア)→アギーレ(メキシコ)→ハリルホジッチ(ボスニアヘルツェゴビナ)と、監督探しの世界旅行をしてきた。ところがここにきて日本人監督を就任させたのはなぜなのか。筆者は、JFA内部の特殊な事情だと推測している。

外国人監督の系譜

そこで、外国人指導者と日本サッカーの関係について、Wikipediaを参考にしつつ、改めてふり返ってみよう。日本サッカー界が海外の指導者を求めたのはいまから半世紀以上前に遡る。

(一)デットマール・クラマー(西ドイツ、1960-1964)

代表監督ではないが、日本サッカー界に最初に貢献した外国人として、デトマール・クラマーの名前を忘れるわけにはいかない。彼は西ドイツのいくつかのクラブでプレーしていたがケガのため引退。以降、指導者の道を選んだようだ。

1960年、クラマーは1964年東京オリンピックを控えたサッカー日本代表を指導するため、その代行監督として招聘された。日本サッカー協会は代表強化のために外国人監督を招くことを検討しており、成田十次郎の仲介や会長である野津謙の決断で実現した人選だった。当時会長だった野津は、無名のクラマーを日本のコーチに招聘することについて周囲から猛反発を受けたが、クラマーの適性を見抜き、反対を押し切ってクラマーを招聘し、結果、日本サッカーの大躍進に貢献した。

なお仲介者の成田十次郎は、東京教育大学体育学部卒業(蹴球部所属)。在学中の1953年に関東大学サッカーリーグ戦で優勝、1954年に日本代表候補。東京大学大学院博士課程満期退学後、1960年にドイツ体育大学ケルン に留学する際、日本サッカー協会から戦後日本のサッカー復興のためのコーチ探しを依頼され、ドイツ国内のクラブチームから、当時ドイツでも日本でも無名であったクラマーを発掘した。1968年に東京教育大学の監督に就任し、関東大学サッカーリーグ戦で優勝。また、1969年から1972年まで読売サッカークラブの監督も兼任した。

成田が発掘したクラマーは日本サッカーの強化に尽力し、東京五輪では強豪アルゼンチンを撃破、その4年後のメキシコ大会で彼の教え子たちで構成された日本代表が銅メダルに輝いたことはよく知られている。また、そのときの監督は長沼健監督で後にJFA会長に就任した。なお、クラマーの通訳だった岡野俊一郎も長沼の後にJFA会長に就任している。

(二)ハンス・オフト(オランダ、1992-1993)


「ドーハの悲劇」のときの日本代表監督として知らない人はいない。彼は1976年にオランダユース代表(ユースサッカー育成プログラム担当)コーチに就任。その間、勝澤要(清水東高校)率いる日本高校選抜がヨーロッパ遠征をした際に紹介され日本チームの世話をしたという。

1982年杉山隆一に招かれ当時日本サッカーリーグ (JSL) 2部のヤマハ発動機(現・ジュビロ磐田)の2ヶ月間の短期コーチとしてオファーされ就任、1部昇格および天皇杯優勝に貢献。1984年に今西和男に招かれJSL2部のマツダSC(現・サンフレッチェ広島)コーチに就任。2年目の1985年にJSL1部昇格に導くと1987年には監督に就任し天皇杯決勝へ導いた。その後はオランダへ帰国し、FCユトレヒトのマネージング・ディレクターを務めていたが、1992年、外国人として初の日本代表監督に就任した。

(二)パウロ・ロベルト・ファルカン(ブラジル、1994)

ファルカンは現役時代から名選手として活躍し、引退後はブラジル代表監督にも就任した。

1994年にオフトの後任として日本代表監督に就任したものの、成績不振と指導方法への疑問から、代表戦2試合で更迭された。なお、ファルカンの招聘には、セルジオ越後の助力があったとされる。当時のJFA会長は長沼健であった。

(三)フィリップ・トルシエ(フランス、1998-2002)

1998年、初めてW杯出場(フランス大会)を果たした日本代表。その次の自国開催のW杯監督に就任したのがトルシエであった。当時のJFA会長は岡野俊一郎、代表監督選びの実務は、JFA技術部門の長であった大仁邦彌。

トルシエ就任の経緯は、ワールドカップ以後の続投を要請していた岡田武史前監督の辞任を受け、アーセン・ベンゲルに監督就任を依頼するもアーセナルFCと既に契約していることを理由に断られる。大仁によれば、その後協会は直接フランスサッカー協会と交渉し、ちょうどスケジュールの空いていたトルシエを紹介されたという。日本サッカー協会はベンゲルに彼の能力や人物像などについて相談しつつ、トルシエと契約を結ぶことに決定した。

岡野俊一郎によれば、ベンゲルに一度断られたあと、『2002年W杯の日本代表監督は貴方しかいない』と手紙を出したが再度断られ、技術委員会がベンゲルの推薦したトルシエにしたいというので、“ベンゲルの推薦なら”ということで、トルシエに決めたという。

トルシエはアフリカ各国の代表監督を歴任していて、いわばサッカー発展途上国の代表監督を専門職とするような指導者。そのかわり、彼のような者がビッグ・クラブの監督に就任することはない。

(四)ジーコ(ブラジル、2002-2006)

トルシエの後を受け、Jリーグのクラブの一つである鹿島を強豪にした実績を買われてジーコが代表監督に就任した。日本史上最強といわれた代表チームを率いたジーコだったが、ドイツ大会ではグループリーグ最下位で敗退。当時のJFA会長は川淵三郎(2002-2008)であった。

(五)イビチャ・オシム(2006-2007)

ジーコジャパンの惨敗を受けて、W杯南アフリカ大会を目指して日本代表監督に就任したのがオシム。旧ユーゴスラビアで選手・監督として大きな実績を上げた彼が日本のJリーグのクラブであるジェフ千葉監督に就任(2003)した。以降、千葉は大躍進を遂げた。オシムの指導理念とサッカーを語る言葉の力に日本のサッカーファンは多くを学んだものの、任期中に病に倒れ辞任。

Jリーグ初代チェアマンだった川淵、JFA会長の任期中、Jリーグのクラブに関係する外国人指導者を代表監督に選んだのは、偶然ではなかろう。

(六)ザッケローニ(2010-2014)~アギーレ(2014~2015)~ハリルホジッチ(2015-2018)

2009年以降、JFAにおいて外国人代表監督を探す職にあったのは、原博美(専務理事)~霜田正浩のラインだった。霜田は海外のサッカー界と幅広いパイプを持っていて、原は霜田をブレーンとしてJFAに引き入れ技術委員長にした。W杯ブラジル大会を目指してザッケローニを招聘できたのも霜田の手腕だったといわれている。ザックジャパンは、ブラジル大会直前に主力選手の一人がW杯「優勝」を宣言。日本中から期待されたものの一次リーグで敗退。実績は伴わなかった。

ブラジル大会終了後、ロシア大会に向け、原~霜田ラインによってハビエル・アギーレ(メキシコ)が日本代表監督に就任したが、八百長疑惑等で契約解除となり、その後任にハリルホジッチが代表監督に就任した。

2016年、JFA内の状況は一変する。原と田嶋幸三がJFA会長の座を争い、原が負けた。田嶋の政敵の原は新会長の田嶋によって降格人事を申し渡され、JFAからJリーグに転出した。霜田も同時にJFAから去った。そして、前出のとおり、原~霜田ラインで招聘したハリルホジッチは、W杯ロシア大会直前に田嶋により電撃解任されたことは記憶に新しい。ハリルホジッチは自身の解任理由の不透明性をめぐってJFAを提訴。いまなお裁判は継続している。

海外指導者招聘の陰にキーマンあり

こうして振り返ると、クラマーから始まったJFAの海外指導者招聘の経緯の陰には、キーマンともいうべき人物の存在が確認できる。クラマーを発掘した成田十次郎とクラマーの手腕を見抜いた野津謙(当時)JFA会長、オフトとオランダで親交を結んだ勝澤要とオフトを日本リーグに呼んだ杉山隆一、ファルカンと接触したセルジオ越後、ベンゲルと直接交渉をした岡野俊一郎(当時)会長。(結果、ベンゲルの招聘は叶わずトルシエになったが)。

その後、前出のとおり、川淵体制になってジーコ、オシムとJリーグクラブの監督経験者が二代続いたものの、原~霜田のラインの形成により、ザッケローニ、アギーレ、ハリルホジッチが日本に呼ばれている。

海外指導者とのパイプが途切れた田嶋JFA


田嶋がJFA会長に就任してからは海外にパイプをもつ人材は協会内から消えた。いまのJFAには、霜田に代わるべき海外通の人材がいない。田嶋自身にも現在の彼のブレーンにも、外国人代表監督候補を探して契約する手腕はない。霜田の後任の技術委員長は西野。そして、西野がロシア大会代表監督に就任した後釜には、海外のサッカー界と無縁の関塚隆が就任している。

JFA会長の田嶋及びその周辺は、海外サッカー界と没交渉のままロシア大会を終え、日本代表監督候補を探さなければならなかった。そこでJFA執行部が苦肉の策として編み出したのが、「代表は日本人監督」という論理。

鎖国・暗黒時代・ガラパゴス化した田嶋JFA

日本代表はもはや、暗黒時代に突入した。Jリーグがイニエスタやトーレスといった世界的名選手の加入で盛り上がりを取り戻している反面、JFAはその真逆の鎖国状態にはまった。Jリーグのサポーターがイニエスタやトーレスを支持するのは、彼らのサッカー技術・センス・姿勢に日本人選手にない、より上位のレベルのそれを認めるからであり、ビッグネームだからではない。

そのことは、次のように別言できる。サッカー先進国に選手として進出した日本人はいまでは数え切れないが、監督として進出した日本人はいないと。その実績がすべてを物語っている。森保の代表監督就任を批判したサッカーコメンテーターは、“日本サッカーのガラパゴス化の進行”と称したが、筆者もその見解に同意する。