2021年3月7日日曜日

『世紀末ウィーンのユダヤ人 1867-1938』

 ●S.ベラー〔著〕 ●刀水書房  ●4700円+税

筆者がウィーン(のユダヤ人ではなく)という都市に惹かれたきっかけは、2019年、世界がコロナ禍に見舞われる前、観光旅行で5日間滞在したことからだった。小規模かつ公共交通網が整備されていて移動が楽、耽美的バロック建築と分離派の前衛建築等が混在し、かつ、これでもかというくらいの美術品を満載した豪華な美術館が林立するウィーンは、極東アジアの旅行者を魅了するに十分だった。ハプスブルク帝国の底力を見せつけられたような気がしたものだ。

〝世紀末″という妖しくも魅力的な表現

分離派という言葉から世紀末芸術という概念が導き出され、さらに、文学、心理学、医学、自然科学、経済学、音楽、哲学・・・における新しい潮流がウィーンから始まったことを知る。現代はこの街から始まったともいえる。そして、その牽引役の多くがユダヤ人もしくはユダヤ系の人々なのであった(※ユダヤ人をルーツにもつ者、及び、ユダヤ教からキリスト教等に改宗した者をも含め、本書にならい以降、「ユダヤ人」と表記する)。

筆者がとても不思議に感じたことがあった。グスタフ・クリムトに代表される美術界とオットー・ヴァーグナーに代表される建築界――どちらもが分離派の重要領域にもかかわらず――ユダヤ系アーチストがほとんどいないという事実だ。心理学のジークムント・フロイト、哲学のエトムント・フッサール、文学のフーゴ・フォン・ホーフマンスタール、音楽のアルノルト・シェーンベルクといった誰もが知る偉人たちが世紀末ウィーンを舞台に才能を発揮したのにもかかわらず、なぜ、視覚芸術において、ユダヤ人は活躍しなかったのか。このような素朴な疑問が、筆者の本書を読む契機となった。なお、このことの回答は後述する。

定量的(第一部)と定性的(第二部)アプローチ

本書の構成は、世紀末ウィーンにおいてユダヤ人が文化の中心を担ったという事実を、さまざまなデータを駆使して定量的に証明する第一部と、ユダヤ文化人の生い立ち、作品、さらにユダヤ教の特性及び教義的変容などの背景を探りつつ、定性的に世紀末ウィーンの文化が主にユダヤ人によって担われたという結論を導き出す第二部で構成されている。また、前出のとおり、分離派に代表される視覚芸術においてユダヤ人が活躍した事実は概ね認められないし、ウィーン学派と呼ばれる経済学の分野でもユダヤ人学者は見当たらないわけであり、世紀末ウィーンすべての文化活動がユダヤ人のみによって担われたという結論ではない。

ハプスブルク帝国のユダヤ人の暮らしぶり

世紀末ウィーンの文化を担ったユダヤ人はウィーンを出自とした者がいないわけではないが、多くはハプスブルク帝国内の各所から移住してきた者をルーツとするか、移り住んで活動した者であった。そのユダヤ人は、世紀末前、都市ではゲット(ゲットーともいう)、田舎ではシュテットルと呼ばれる居住地内に隔離されて暮らしていた。ユダヤ教徒は、毎朝、子供のころからタルムード(口伝律法)を強制的に読み込まされ、戒律に従う信仰中心の生活をしていた。また、彼らは職業をはじめとする諸々の差別を余儀なくされていたため、子供に高度な教育を受けさせることに躊躇いを示さなかった。

ユダヤ教の変容――敬虔主義から啓蒙主義へ

ヨーロッパに啓蒙主義が台頭する前のユダヤ人は、超正統派ユダヤ教運動であるハシディズム(敬虔主義)の強い影響下にあったため、ユダヤ人はキリスト教社会と厳しく一線を画していた。また、ハプスブルク帝国は反宗教改革の旗頭であり、カトリック教徒中心の社会が堅持されていたため、ユダヤ人差別はほかのヨーロッパの都市と同じように存在していた。

こうしたユダヤ人社会に変革を齎したのがハスカラ運動の台頭であった。この運動は17世紀末から18世紀にヨーロッパで台頭した啓蒙主義に呼応したもの。マスキリームと呼ばれるハスカラ運動の指導者たちは啓蒙主義と共闘して新しい自然科学を学ぶことを若いユダヤ教徒に奨励した。その背後には、ハスカラの思想は、ユダヤ教の本質は「神の啓示により人間に与えられた法」すなわち理性にもとづく自然科学的宗教意識(神=合理的なロゴス)とするものであるという認識があったことによる。ユダヤ人は自分たちのみが啓蒙の思想の担い手だと気づくこととなった。ユダヤ教の律法を普遍主義の精神にもとづいた理性の法だと考えた。ハスカラの延長線上には、人類の未来は啓蒙思想の勝利ではなく、ユダヤ教精神の勝利にかかっているという認識を生むようにもなった。このようなユダヤ教の変容が、ハプスブルク帝国内、とりわけ、その首都であるウィーンのユダヤ人に、新しい伝統として形成されるようになっていった。

ユダヤ人の理想はドイツ啓蒙主義だった

その当時のハプスブルク帝国内ユダヤ人の理想は、ドイツの啓蒙思想であった。彼らは積極的にドイツ語とドイツ文化を摂取し、シラー、ベートーベン、カント、ゲーテ、レッシングを手本としつつ、正義、自由主義、進歩を理想とし、個人の自由、意思の自律性、定言的命法を尊重した。彼らは国際的視野に立ち、民族よりも個人の人格が優先すると信じた。また、彼らのなかには、同化を目的として改宗を試みる際、カトリック国家であるハプスブルク帝国にありながら、ユダヤ教から、北ドイツで盛んなプロテスタントに改宗する者も少なくなかった。そしてもうひとつ特記すべきは、ハプスブルク帝国ヨーゼフ二世(在位1765-1790)が採用した、ユダヤ人寛容政策である。彼は啓蒙思想の影響を受けながら、絶対主義の君主でもあろうとした啓蒙専制君主の代表的人物といわれている。

ユダヤ人がウィーン文化の担い手になり得た要因は、①ユダヤ教徒の家庭では、幼い子供のころから難解なタルムードを精読する習慣が義務づけられていたこと、②ユダヤ人が迫害、職業差別といった境遇を経験する中で、子供の教育を重視せざるを得なかったこと、③ユダヤ教がハシディズム(敬虔主義)からハスカラ運動により、啓蒙主義(とりわけドイツ啓蒙思想)へと接近したこと、④啓蒙絶対君主、ヨーゼフ二世がユダヤ人寛容政策をとったこと――にまとめられる。なお、冒頭、ウィーンのユダヤ人が視覚芸術で才能を発揮しなかったのは、ユダヤ教が偶像崇拝を厳しく禁ずる宗教であるところから、数理的・科学的分野への進路のほうが選択しやすかった可能性を推測できる。

啓蒙主義の後退と感覚重視の哲学の台頭

本書では、ウィーンのユダヤ人が辿った悲劇的運命にもふれている。前出の通り、彼らはドイツ啓蒙思想を理想としてそれを学び、個人、自由を尊重する社会の実現を、そして、ウィーンのユダヤ人はドイツ人に同化することを夢見た。ところが、ドイツ、オーストリアというドイツ語圏で起こったドイツ革命(1848年)は西のプロイセン、東のハプスブルク(ウィーン)の両帝国で失敗に終わり、併せて大ドイツ主義(ドイツ、オーストリア統一/アンシュルス)も失敗に終わる。政治の季節の終焉だ。1873年、ウィーンの株式市場が崩壊すると、ウィーンには、虚無と自由主義への失望感が覆うようになる。思想界では反合理主義が支持され、総合的知性、全体性、感覚重視を重んずる、民族(フォルツ)のイデオロギー(ニーチェの『悲劇の誕生』、ショーペンハウアーの意思の克服、ヴァーグナーの総合芸術)がもてはやされるようになる。民族・国民社会の統一が主たる潮流となって、ウィーンには、反ユダヤ主義が強く台頭し始める。オーストリアの反ユダヤ主義は、過激なものではなかったが、ハプスブルク帝国はカトリック国家としてのこの国の性格をどんな手段を用いてでも維持しようと望んでいたため、ユダヤ人は、上級官僚、軍隊、外交官などの職につくことができなかった。

オーストリアにおける反ユダヤ主義

1885年、オーストリアとヴァチカンが「コンコルダート(政教条約)」を締結する。「コンコルダート」とは、最初期には、聖職叙任の権利を教会と国家が争った叙任権闘争の解決策として結ばれたもので、皇帝は聖職叙任権を放棄し、教皇は司教の選出に皇帝が列席することを認めるという内容だった。その後、フランス革命(18世紀)を経て19世紀になり、近代国家が成立していく中、国家が教会の立場を認めるかわりに教会を国家の制限の下に置こうとする傾向の強いものとなった。国家が教会をコントロールすることが明確になったため、ユダヤ人はカトリック社会でより多くのマイナスを被るようになった。

オーストリアの政治に大きな影響を与えることになった最初の反ユダヤ主義運動は、ゲオルグ・リッター・フォン・シェーネラーと急進派学生グループに率いられたドイツ民族主義者のそれであった。この運動は、文化的反ユダヤ主義の潮流に端を発している。文化的反ユダヤ主義とはグラッテナウアーが理論化したもので、ユダヤ人を現実としてではなく、抽象的イメージとしてとらえるという特色がある。たとえば、ユダヤ人はドイツ人が嫌いで憎んでいたものすべてを代表しており「心理学的特質」としてのユダヤ性に重きが置かれていた。資本主義や合理主義は「ユダヤ的」とされ、演劇や思想書の中に戯画化されたユダヤ人が描かれ、それを非ユダヤ人が嘲笑する作品が人気を博した。

だが、この文化的反ユダヤ主義はドイツ民族主義学生同盟のような大きな影響力をもつ組織の内部で、しだいに人種主義的反ユダヤ主義にとってかわられるようになる。これら学生組織が反ユダヤ主義に転じたきっかけは、1875年におこなわれたテオドール・ビルロートの不運な演説だとされる。1877年には、「異民族に占領されつつある大学」を救うため、ユダヤ人メンバーを組織から除名するようになっていた。1881年に発表されたオイゲン・デューリングの『人種的、倫理的および文化的問題としての「ユダヤ人問題」』は、人種的反ユダヤ主義に理論的支柱を与えた。リンツ綱領(1885)を経て、1896年、悪名高い「ヴァイトホーフェン決議」が、すべてのユダヤ人は卑しい生まれであるから、ドイツ人と同等に扱われることはできないと宣言した。これにより、かつてドイツとの同化を夢見たユダヤ人はドイツ民族運動から完全に追放されるようになった。オーストリアにおける人種的反ユダヤ主義の台頭は、ユダヤ人の同化願望を打ち砕くとともに、その社会そのものを変質させ。破壊しつつあったことを明らかにしている。

キリスト教社会党の反ユダヤ主義(ウィーンの反ユダヤ主義)

ウィーンでは、人種的反ユダヤ主義はそれほど強い勢力とはならなかった。それはウィーン独特の反ユダヤ主義運動であるキリスト教社会主義が、大きな成功をおさめていたからだ。同党の成功の主因は、選挙民のあいだに充満していた社会的・経済的不公平感をユダヤ人にぶつけたことによる。同党の指導者、カール・ルエガーとその支持者たちは、反ユダヤ主義はウィーンにおけるさまざまな民族からなる市民がユダヤ人に対する反感で一致できると考えた。それはほかのどんな政治イデオロギーにもない利点があった。もともとのウィーン市民、「元チェコ人」「元ルテニア人」「元ポーランド人」「元ハンガリー人」のウィーン市民が反ユダヤ主義感情で一致できると。しかも同党は、かつての自由主義、民主派、ドイツ民族主義者、教権党、職人層のリーダーといった、異種分子の寄り合い所帯。反ユダヤ主義は、これら党内の多様な支持者を結び付けられる唯一の共通項であった。キリスト教社会党の選挙における勝利は、反ユダヤ主義によるものであったが、このような同党の基盤の曖昧さが、ウィーンの反ユダヤ主義をそれほど過激なものとはしなかったわけだ。しかし、同党の勝利により、社会における諸矛盾――経済的不平等、犯罪などを含め、自分たちの敵はすべてユダヤ人につながっていると選挙民に信じさせる結果となった。自由主義勢力に対して、「彼らはユダヤ人に奉仕する勢力だ」と攻撃を加え、自陣を有利に導くこともできた。こうした策略が自由主義を後退させ、社会を分断し、ますます自由主義者を孤立させていった。こうしたなか、同化の道を閉ざされたユダヤ人に、シオニズムと社会主義という、二つの希望が芽生えたことは注目すべきだろう。

ブルジョア政治の参加を拒否されたユダヤ人は、自分たちと同じようにアウトサイダーである労働者と同盟したのである。衰退した自由主義に代わって、社会主義の政治理論はユダヤ人に、自分たちが他の人々と同等に扱われることが可能になるという最後の希望を与えた。(P240)

ところが、ユダヤ人をみまった人類史的悲劇は20世紀、オーストリアの片田舎、ブラウナウから画家を目指してウィーンにやってきた男によって引き起こされる。